白蝋館の殺人

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それは、2月の受験シーズンが終わって校内がホッと一息ついている頃のことだった。全国有数の強豪チームである海南大附属高校男子バスケットボール部は遠征を兼ねた冬合宿の時期で、2学年体制で人数も少ない部員たちは早朝からマイクロバスで学校を出発した。

寒い時期だが、比較的温暖な湘南地区を出てさらに寒い地域への遠征であり、今年の冬合宿の宿は温泉があるらしいと噂になっていた。実際、宿泊予定の施設は有名な温泉地の目と鼻の先であり、部員たちの期待は高まる。大浴場の温泉で体を温めると翌日に疲れも残りにくい。

だが、そんな一行を見送って学校に残った部員が2名。部長の牧とマネージャーのだ。

というのも、現在2年生である牧は高校に入学したときから大学のスカウトを受けるような優秀な選手であり、前年の8月と12月の大会を経て、年明けには推薦入学が内定したばかりだった。その都合で学校に残らねばならなくなってしまい、マネージャーのと共に遅れて出発することになった。

「悪かったな、付き合わせて」
「平気平気。むしろ残った方が楽だったと思う」
「まあな……合宿と遠征が重なるとしんどいよな」

昨年の8月までは先輩にふたりマネージャーがいたので何でも3人で協力して取り組んできたが、ふたりとも引退してしまって、現在はひとり。2学年体制で人数は少ない時期だが、そもそもの海南バスケット部の活動内容がハードなので校外活動におけるマネージャーの負担は大きい。牧はちょっと眉を下げての肩の荷物を取り上げた。合宿も兼ねているのでけっこう重い。

「え、ちょ、いいよ、明後日試合なのに」
「このくらいで肩痛めてたら試合でも使い物にならないから大丈夫」
「牧はそういうところ気を遣い過ぎだよ。バスケ部で1番大事な人なのに」
「大袈裟な。力仕事は請け負うからチケットとか頼む。方向音痴だから」
「そんなの初めて聞いたけど」
「オレも初めて知った」

ふたりは海南大附属最寄り駅のホームで冷たい風に頬を染めつつ、鼻で笑った。

牧とは入学して数日、新入部員としてバスケット部の部室で顔を合わせて以来の仲である。ほとんど休みのないバスケット部であるから、この2年間は家族よりも一緒に過ごした時間が長い。なおかつ牧が主将に就任してからはコンビ状態なので特に気楽だ。

無いに等しい休みの時にまで遊んだりするような仲ではなかったけれど、ふたりともオンオフをしっかり切り替えるタイプで、部活の時は真剣そのもの、それが終われば真面目で穏やかなタイプ、というところが共通しているだろうか。

主将と副主将よりも、主将とマネージャーの相性が悪いと周りが疲れる――海南のバスケット部の「あるある」のひとつだそうだ。そういうわけで、今年はちゃんと協力できてるコンビで助かる、と監督は言う。なので監督は自分が引率で先行し、牧のサポートにを置いていった。

マイクロバス移動の監督と部員たちは昼頃には現地に到着の予定だそうだが、牧とは昼頃になってようやく主要駅にたどり着き、スーツ姿の大人たちに紛れて立ち食い蕎麦を食べていた。寒いので温かい蕎麦が嬉しい。

「マネージャーは移動中制服じゃなきゃダメって意味わかんない」
「地元の試合ならジャージでもいいのに、変な決まりだよな」

乗り換えの都合で寒風吹きすさぶホームに15分も立っていたの足は真っ白になっている。湯気の立つ熱々の蕎麦を啜っているが、なかなか足の色が戻らない。

とはいえ校名を掲げたマイクロバスに乗り込んでいるわけではないので、その辺はちょっとばかりルールを破ったところで特に問題にはならない。制服着用のことというルールだが、は私物のジャンパーとニット帽にレッグウォーマーを着込んでいる。

だが、蕎麦で温まってなおの足の白さが戻らないので、指定席に落ち着いた牧は自分のフィールドコートを脱いで膝にかけてやった。牧の体温で温められた裏ボアのコートはなかなかに温かい。

「主将に気を遣われるマネージャーってどうなん……
「移動中なんだからそんなに気にしなくていいのに。ほら、ラテ」
「その上コーヒーまで奢ってもらってどうすんの……
「その割には遠慮しなかったじゃないか」

窓際の席まで譲ってもらったは牧のコートが床に付かないよう靴を脱いで膝を立て、そこに肘を置いて両手で顔を覆っている。テーブルの上にはこれまた淹れたてで熱々のラテ。駅構内を移動中、スタバの前を通り過ぎたがコーヒー飲みたいと言うと、牧が買ってくれた。

「だってまさか牧が買わないとは思わなかったんだもん。また奢り返せばいいかと思って」
「最近コーヒー飲むとちょっと頭痛がするんだよな」
「そういえば視力落ちたって言ってなかった? 目が疲れてるんじゃないの」
「そうかもしれない」

そう言われると途端に目の疲労感を感じる牧は、ジャージのファスナーを少し下ろして足を組むと、ペットボトルのスポドリを膝に置いて目頭を揉んでいる。練習中や試合中は気にならないが、2学期の期末の頃から黒板の文字がちょっと見にくい。

部員たちから「主将とマネージャーが揃って堅物なのでオレたちがダラけて見えるの迷惑」とクレームが出るくらい、牧とは勉強の方も手抜きがないタイプ。手抜きがないと言うか、ちゃんとやっておかないと困るのは自分なので手を抜こうという発想がない。

とはいえ牧とも、何も定期考査で毎回1桁を取るような成績というわけではない。は歴史や古文が苦手だし、牧は語学が苦手だが、努力を惜しまないタイプなので余計に他の部員たちがサボっているように見える。実際サボってるし。

は傍らにねじ込んであるバッグから折り畳んだ紙を数枚出して広げ、牧との間にある肘掛けに寄りかかった。来年度の年間予定表である。先日監督と作成したばかり。

「予定はあんまり変化ないけど、改めてリストにするとマネージャーひとりはキツい」
「特に6・7・8はキツいよな……

牧も肘掛けに寄りかかって頭を寄せる。例年通りならバスケット部は6月から8月の3ヶ月の間に殺人的なスケジュールで練習と学校生活を送りながらインターハイを目指さなければならない。特に県大会から期末、合宿からインターハイ付近のスケジュールが厳しい。欄外に予定が溢れている。

「去年も思ったけど、この壮行会って余計だよな。おじさんの長話ばっかりだし」
「実は去年、先輩と私はそのおじさんにセクハラを」
「えっ、なんで言わなかったんだよ!」

昨年8月で引退してしまった先輩マネージャーふたりは男子と女子ひとりずつ、校外の関係者が参加の集まりになるとと女子の先輩だけが使いっぱしりのような仕事をやらされることが多かった。その現場でふたりは長話のおじさんに肩を何度も撫でられ、「毎日戦っている選手たちのために笑顔を絶やさないように、可愛い女の子の応援は何より力になる」と熱く語りかけられてしまった。牧は仰け反って頭を背もたれに擦り付ける。そんなんばっかりか。

「マジすまん、ほんとコーヒー奢り返さなくていいから」
「なんで牧が謝ってんの。牧はいつも誠実です」
「別に意識してやってるわけじゃない」
「私は恵まれてるよ。みんなといて嫌な思いしたことないもん」

仰け反って呻いていた牧はピタリと止まってため息をつく。確かにそうなのだろうが……

「監督も珍しく穏やかな学年だって言ってたけど……
「あはは、実は先輩たち副主将のこと好きじゃなかったみたいだよ」
「しょうがないよな、別に友達同士の集まりじゃないんだし」

牧との学年はそういう人間関係での揉め事が一度もないまま2年間を過ごしてきたが、それは運が良かったに過ぎない。そもそも海南大附属のバスケット部に入部してくる時点でお遊び感覚の者はいないわけだが、牧の言うように友達同士の集まりではないので、どれだけ協調性を持ってバスケットに挑んでいても軋轢はいつかどこかで生まれる。それを内に秘めてそしらぬふりをしているだけだ。

……嫌な思いしたことないって、ほんとか?」
「えっ、うん、ないよ」
「もしあったら、隠すなよ。オレに対して思っても、隠さないでちゃんと言えよ」
……それは牧もね」
「オレはないよ」

照れくさいのでちょっと茶化してしまおうかとしただったが、牧は即答だった。

「お前に対してはそういうの、一度も思ったことないから」

予定表がかさりと音を立てて、は俯く。ラテからは細い湯気が揺らめいていた。

牧とが堅物真面目の主将とマネージャーコンビになったのには、本人たちの性格以前にも理由があって、それはふたりが1年生の秋頃にまで遡る。

入部当初は確か30人くらいいたはずの同学年の部員たちは続々と脱落していき、秋の国体が終わる頃になると10人にまで減っていた。監督が漏らしたところによると、インターハイが終わっても2桁ならまだいい方、なのだそうで、牧を始めとした特に脱落するわけもない数名は逆に結束が固くなっていた。大量の退部があることは知っていたが、その早さと人数が予想をはるかに上回っていたからだ。

なので無意味に同学年で集まってはコミュニケーションを取り、バスケットと関係ないことで喋ったり、あるいは練習帰りにファストフードに立ち寄ってみたりと、同学年間の「仲間意識」がやけに強かった時期があった。

それ自体は一時的な流行のようなもので、1ヶ月半ほどでまた脱落を出したふたりの学年は途端に「お友達っぽい付き合い」をやめた。そんなことしてる場合じゃない。冬の大会の予選は目の前、期末も目の前、道程は長く、自分たちはまだ1年目。時間は有効に使わねば。

だが、そんな「お友達っぽい付き合い」をみんなでやっている間に、あろうことか牧との間に恋心が芽生えてしまった。この時ふたりはなんの肩書もない1年生だが、将来的に「主将とマネージャーコンビ」になることがほぼ約束されている組み合わせだった。

さらに、当時の部内には2年生の間に確執があって、それが恋愛絡みの揉め事から来たものだったことを知るふたりは自分たちの感情に不安を覚えてしまった。

先輩たちによると、部員と女子マネージャーの恋愛関係は珍しくもないし、禁止もされていないし、あるいは優秀な選手と盲目的な彼女という組み合わせは意欲の問題で有利に働くこともあるので、監督もとやかく言わないし、自由だという。

しかし牧との心には、柔らかで幸せな恋心と一緒にざらついて不安な風が吹いていた。自分たちはまだ1年目、衝動のままに実らせた恋が絶対に破綻しないという保証はない。もし破綻したらはマネージャーを辞めたくなるかもしれない。そうしたら同学年にマネージャーがいなくなってしまう。

じっくり話し合ったりはしなかったけれど、ふたりはお互いが同じことで不安を感じ、手を取り合えば幸せになれると分かっていても手を伸ばせないでいるのを知っていた。目を見ただけで相手の思っていることが分かった。それだけ気持ちが通じ合っていたから、余計に不安になった。

1年生の年末、練習納めが終わった帰り道にふたりは向き合って気持ちを確かめ合った。

「両思いなの分かってるけど、付き合えないって思ってる」それがふたりの「ぴったり同じ気持ち」だった。好きだから付き合えない。毎日をともに過ごして3年間を全うしたいから、この恋心よりも3年間ずっと一緒にいることを選びたいから。

そうしての家の近く、歩道橋の影で1度だけキスをした。

以来、ふたりは勉強にも部活にも絶対手を抜かない選手とマネージャーになった。

ふたりがそんな決断をしたこと、またはふたりの間にそんな密やかな恋があったことを知る者はいない。どちらも誰にも話さなかったからだ。特別親しい友人でも話せなかった。正直に気持ちを話せば後悔に苛まれてしまうかもしれなかったからだ。

それだけじゃない。友人たちが季節ごとのイベントや遊びに夢中になっているのを見るたびに、牧とは湧き上がりそうになる後悔を振り払い続けた。練習を休んで遊びに行くことよりも、ふたりで努力を重ねて勝利を手にしたかったからだ。

けれど、そんな苦しい決断があったせいかどうか、ふたりの相手を思う気持ちはむしろ強くなり、海南大附属史上最高と謳われるほどの選手とマネージャーは強い絆で結ばれたコンビになっていった。もうどんな不安な風もふたりを怯えさせることは出来なかった。

はそれを無言で思い返していた。隣の牧もきっと思い返しているはずだ。

の手の中のカップはすっかり冷えて、ラテはぬるくなっている。牧は何やら試合の動画を見ているようだが、きっと頭には入っていないだろう。

牧が後入りになるから残ってくれ。そう言ったのは監督で、が牧とふたりになりたいがために残留したわけではなかったし、牧がを置いていってくれと頼んだわけでもなかった。けれど不意に蘇った過去にふたりは言葉がなかった。

の傍らには新年度の予定表、ふたりにとって最後の年が始まる。どんな結果を得たとしてもふたりの3年間は終わる。そして1年後の今頃には、学校で顔を合わせることもない。牧は推薦入学が内定しているし、で外部に別の志望校があるからだ。

3年間ずっと一緒のパートナーでいるために自らの恋心を殺した。おかげで、ふたりで3年間を全うするという目標の実現は間違いないと思われる。けれど、こんな風に学校の外でふたりきりだと気持ちが少しだけ揺らぐ。

……牧、向こう、雪がちらついてるみたい」
「そんな予報あったっけ」
「雨かもって予報はあった気がするんだけど」

既に現地に到着している現副主将の高砂からのメッセージには体を起こし、牧に携帯を見せた。高砂が宿の窓から写したと思しき空は重苦しい灰色をしていて、雪の粒がいくつか舞っている。練習用に借りている体育館は徒歩圏内だったはずだが、もしかしたら試合は延期になったりするかも。はそう考えながら、返事を送信する。

私たちはたぶん、夕方頃には到着できると思う。駅からタクシーで向かうね。

車窓から空を見上げると、隙間に薄っすら青が覗く白っぽい曇り空だった。けれど、遠く進行方向の空は暗く、灰色にぼやけていた。雪雲に向かってひた走っているのかもしれない。

「あんまり大雪にならないといいな」
「せめてちゃんとたどり着けるといいんだけど」

の体を後ろから囲うようにして、牧も空を見上げた。

早くみんなと合流しないと、殺したはずの気持ちが蘇ってきてしまうかもしれない――

重く今にも落ちてきそうな灰色の雲に、ふたりはそっとため息をついた。

だが、ふたりのセンチメンタルで静かな旅は現地最寄り駅に到着したところで吹き飛んだ。

「おーい嘘だろ、これちゃんと行けるのかよ」
「てかもし行けなかったらどうしたらいいの、近くにホテルとかないんだけど」

駅に到着したふたりを待っていたのは、はらはらと降り注ぐ牡丹雪。そしてひと気のない閑散とした駅前のロータリー。ビジネスホテルどころかコンビニも交番もない。あるのはシャッターの降りた店舗3軒と不動産屋とタクシー乗り場だけ。感傷に浸ってる場合じゃない。

慌てたふたりはまずは監督に連絡を入れ、話しながらタクシー乗り場に走った。斯々然々そういうわけで合宿所まで急ぎ行きたいのですが!

しかしそこは地元を走るタクシー、既にチェーンははいているし、そういうことなら早く行きましょう、でも安全運転でね。と赤ら顔のドライバーはふたりを快く乗せてくれた。

「こんな風に突然雪が降ってくることって、よくあるんですか?」
「まあこの時期は珍しいことじゃないかな。この様子じゃそんなに積もらないと思いますよ」

ドライバーさんは不安そうな高校生ふたりに気さくに声をかけてくれて、と通話していた監督にも「早く到着できるように近道を行きますからね」と請け負ってくれた。

だが推定「そんなに積もらない」牡丹雪の勢いは衰えず、タクシーのワイパーはひっきりなしに雪を跳ね除けている。ドライバーさんの話に相槌を打つしかないふたりは、また言いようのない不安に肩を落とし始めていた。

本当にちゃんとたどり着けるんだろうか――