白蝋館の殺人

7

国竹さんが心配した通り、ディナーでもまた同窓会組はトラブルを起こした。

性懲りもせずドレスアップしたにちょっかいを出そうとしたので、敬さんがにべもなくあしらった。それが気に入らない東丸は既に酒が入っていたので大きな声を出した。そこに嫌味ったらしい苦言をぶつけたのが春林夫婦の夫の方。そこでまずはちょっと揉めた。

で、止めに入らないわけにもいかない菊島さんと松波さんとも揉めた。東丸は菊島さんはあまり目に入っていない様子で、以後も何かというと松波さんに絡み、その上同様に酒が入っている仲間たちはそれを止めるでもなく、楽しそうに煽り立てる始末。

ここまで来るとさしもの志緒さんも酔っ払いとは距離を置きたくなったのか、ひとりで食事を摂るとすぐに部屋に戻ってしまった。

「志緒、顔色が悪かったな」
「そりゃあの惨状じゃしょうがないわよ。自分の部屋に逃げるのが一番安全だし」

今朝の春林夫婦のように、白蝋館では朝昼晩の食事はインルームで取ることも可能だそうで、本気で静養したくて宿泊しに来た客の中には毎食インルームという人も珍しくないのだという。

「かといって全員が部屋で……となるとスタッフが可哀想なんだよな」
「雪に閉じ込められてここから出られないという点ではスタッフの方も同じですよね……

敬さんによれば、白蝋館のスタッフは他にもう3名いて、こんな悪天候でもない限りは夜勤を除いて通勤だし、よほど特殊な団体客などであればスタッフを派遣してもらって増員することもあるという。今回はたまたま積雪の予想が大外れ、4人だけが残され、夜勤は間に合わなかったということらしい。

「最近はコスプレ撮影会の団体がよく来るらしいね」
「そりゃそうでしょうね、こんな洋館」
「そういう時は宿泊しない人も多いらしくて、スタッフ4人じゃ足りんよなあ」

繁忙期でなければ白蝋館は貸し切りも可能で、なおかつ普段宿泊客には開放していない3階の図書室と美術室も借り受けることが出来る。なのでシェフの梅野さんを入れてもスタッフが4人だけ、というのは本当に最低限の人数のようだ。しかもその責任者が頼りないと来ている。

美味しいディナーとドレスアップで気分を上げよう! というつもりだったメイさんですら少し疲れた顔をしていたが、準備ができたと言うので牧とはプレイルームに連れて行かれた。中は間接照明が灯るだけの暗い部屋で、少し埃っぽい匂いがしていた。

「ほんとにカジノみたい」
「映画の中にいるみたいだな」
「牧はあんまり違和感ないね」
「どういう意味だよ」

非日常も振り切れると逆に落ち着いてくるのか、牧はニヤニヤ顔のの頬をつまんで引っ張った。

プレイルームには、ビリヤード台のほか、ルーレット、ブラックジャック、ポーカー、バカラ、クラップスのテーブルが並び、バーカウンターの傍らの壁にはダーツの的が掛かっている。そして敬さんの言っていた通り、小さなステージがある。

「こういうのって、成人してないのにやってもいいんですか……?」
「実際に金を賭けなきゃただのゲームだからね。ビリヤード、やったことあるか?」

大人の社交場としか言いようのない雰囲気に緊張していたは、敬さんにそう問われるとぶんぶんと顔を振った。ビリヤードどころかルーレットもやったことないし、カードゲームなんてババ抜きとかウノとかそんなのしかやったことないです。

「じゃあブラックジャックやってみようか。美晴ちゃん、ディーラー頼んでいいか」
「いいんですか、高校生に悪い遊びを教えて」
「カードゲームくらい大丈夫だよ。メンタルの鍛錬にもなる」

プレイルームにやってきたのは他に柴さんと島さんで、一応菊島さんも控えていたけれど、同窓会組も春林夫婦もいないので何もすることがなかった。牧とは敬さんと国竹さんの手ほどきでブラックジャックに挑戦、ノンアルコールのカクテルのグラスが煌めくテーブルの上のカードを見ていると、自分が高校生なのだということも忘れそうだった。

「勝負には慣れてると思ってたんですけど……案外緊張しますね」
「何度やってもバーストが心臓に悪い……
「そのスリルが忘れられなくてギャンブルにハマる人が多いのよ」

ゲームに興じているうちに牧とはすっかりドレスアップしたお互いが気にならなくなり、喋っては笑い、笑っては手や肩に触れたりして、自分たちが恋心を押し殺してまでバスケットに邁進してきたこれまでの日々すらぼんやりとした幻のように感じてきた。

ディーラーは国竹さん、隣には敬さんと島さん、背中にメイさんと柴さん、上品な音楽と艶めく灯り、唇に甘いカクテルはノンアルコールなのに酔ったような錯覚を覚える。出会って24時間くらいしか経っていない他人に囲まれているけれど、今だったらこの場でキスをしても恥ずかしくないのかもしれないとさえ思えてくる。

全ての日常が剥ぎ取られたこの空間は、ギャンブルのスリルなんかよりよっぽど蠱惑的だった。

そんなふたりの夢見心地をブチ壊したのは、菊島さんの「ヒエッ」という素っ頓狂な声だった。どうしたのかと敬さんが声をかけると、彼は携帯を手にまたオロオロしながら国竹さんを呼び寄せ、そのまま部屋を出ていった。

……嫌な予感しかしないな」
「どっちですかね。同窓会と、春林さんと」
「春林夫婦はシアタールームを借りてるはずだから、同窓会じゃないかな」

島さんのゆったりとした声に牧と敬さんは遠慮せずにため息をついた。国竹さんと菊島さんがプレイルームにいたということは、おそらく松波さんと梅野さんがバーで同窓会組を面倒見ていたということになるだろう。東丸はやけに松波さんに絡むし、想定内の結果ではある。

「松波さんがプレイルーム担当じゃダメだったんですか」
「今日のスタッフの中でカクテル作れるのは隼人しかいないんだよ」
「このカクテルは?」
「それはまあ、混ぜるだけのジュースみたいなものだから美晴ちゃんでも」

は手にしていたカクテルグラスを覗き込む。そう言われるとフルーツが刺さってるだけの色付き炭酸飲料のような気がしてくる。夢が覚めるのは早い。

「つまみが柿ピーだけでいいなら梅さんもいらないけど、ダメだったんだろうな」
「梅さん今の時間帯は片付けと明日の仕込みで忙しいはずよ。機嫌悪かったでしょうね」
「じゃなんで菊島さんはここにいたんですか。そっち行かなきゃダメじゃん!」

柴さんのツッコミに全員が笑っていると、その菊島さんが肩を落としたまま戻ってきた。その後ろには同窓会組。さらに後ろからは大きなトレイを両手に持った国竹さんと松波さんが続いている。

……まあ、菊島さんになんとかしろって方が無理かもしれないわね」
「あれでも一応客だからプレイルームに入るなとも言えないし」

だがこれ以上絡まれるのも阻止したい大人たちと牧はを囲い込み、敬さんによるブラックジャックの特別ルールを拝聴していた。スプリットだのダブルダウンだのインシュランスだの、内容はまったく頭に入ってこないが、同窓会組がひとまずダーツに夢中になっているのをちらちらと見てはこっちに来るなと念じていた。

しかし幸いにも白蝋館ではバーを除いて酒類の提供は22時までとなっており、なおかつ本来の予約では同窓会組はチェックアウト済であり、春林夫婦同様「もしゴネるようなら超過の宿泊費は取らなくていい」とオーナーから言い渡されているので、場合によっては特例の「無料で泊まらせてもらっている客」ということになる。金払ってるお客様だぞ神様だぞと言える状況ではない。

そのため珍しく菊島さんが張り切って声を上げ、22時で各施設を閉めます、と宣言した。当然同窓会組は文句を言ったけれど、特別にお部屋にお酒をお持ちします、という菊島さんの申し出に飛びついてくれた。その準備のために国竹さんと松波さんは厨房へすっ飛んでいき、その間に牧とは敬さんに促されてバーに連れ込まれた。菊島さん22時で全部閉めるって言ってなかった?

「部屋に閉じ込めちゃえばこっちのもんよねえ」
「出てきませんか?」
「大丈夫、手は打ってあるし、菊島さんがサービスすれば気付きもしないよ」

やけに自信たっぷりのメイさんと敬さんはバーカウンターの中から勝手に酒を取り出して飲み始めた。いくら常連でもそれはいいのだろうか……と気まずかった牧と、そして柴さん島さんだったが、しばらくすると国竹さんと松波さんがやってきて、バーを中から施錠してしまった。

「お疲れ、美晴ちゃん。隼人も災難だったな」
「困ったお客様は別に珍しいことではないけど、ここから出られないと思うとしんどいですね」
「メイさん、飲むのはいいけどそれヘネシーですよ。しかもパラディ」
「そんなに飲んでないでしょ、ていうかちゃんと計上しといてよ」

白蝋館ビギナーである牧と、柴さん島さんは砕けた様子の4人を目だけで追っていた。このホテルって常連になるとそういう感じなんですか……

「メイさんたちはちょっと特別かな。長いから」
「志緒さんは呼ばなくていいんですか?」
「あの子もよく来るけど普段はあんまり絡まないもの」

言いながらメイさんは国竹さんと松波さんにも酒を出している。バーカウンターの奥が厨房と繋がっているようで、敬さんはそこから侵入してつまみをくすねてきた。梅野さんは怒らないんだろうか。

「敬さんが犯人なら嫌な顔するくらいで済むと思います」
「菊島さんのせいにしといてくれよ」
「その方が面倒」

相変わらず人相が悪い松波さんはグラスの中の赤茶色い液体をぐいっと飲み干した。

「というか菊島さん大丈夫か」
「本人が言い出したんですから、いいんじゃないですか」
「どういうことですか? 話が見えないんですけど」

なんの説明もないのでしびれを切らした柴さんが割って入ると、敬さんが全員の見える位置に座り、足を組み、身を乗り出して低い声を出した。

「天気予報では明日の明け方には風も雪も止んで晴れるらしいんだが、昨日もそんなこと言ってたような気がするし、もしまだここから出られないとしたら、オレたちはもっと密に連携を取るべきなんじゃないかと思ってね」

牧は一応頷いてみたが、それは菊島さんが決めることなのでは……と考えたのが顔に出たようだ。

「見ての通り菊島さんは頼りにならんし、梅さんもおそらく協力はしないと思う。特に梅さんは自分の仕事以外のことはきっぱり断るタイプだし、無理に仲間に入れようとしてもこっちが不快な思いをするだけだから、好きにさせておいた方がいいと思う。だからこのメンバーなんだよ。志緒は友達を優先したいかもしれんし、まずはこの8人だ」

そこで改めて国竹さん松波さんを交えてホテルとしての白蝋館の状況やら、この軟禁状態が続いた場合に想定される事態やらの説明があり、そこでまた同窓会組や春林夫婦がトラブルを起こしたらどう助け合っていくか、ということがじっくり話し合われた。

あるいはトラブルの際、極端に危険な状況に陥ってしまったら未成年である牧とはどのように行動し誰に従うのか、またこのふたりを面倒見るのは誰なのかということも取り決められた――が、現在白蝋館に閉じ込められている17人の中で一番大きな体を持つ牧は居心地が悪そうだ。

「そりゃあその胸板は大いに頼もしいし、菊島さんよりよっぽど戦力になるはずだけど、それでも保護されなきゃならんのが未成年なんだよ。心苦しいかもしれないけど、むしろここを出られることになった時に、我々がどこかから叱られなくて済むように協力してくれると助かる」

なのでひとまず牧とは何か緊急事態が発生した場合は速やかに国竹さんと合流すること、柴さんと島さんもそれに協力してほしいというお達しが出た。なるほどビギナーは全員国竹さんの指示に従いまとまって待機、ということだろうか。

話がまとまるとまずは全員で連絡先を交換し合い、大人たちはまた乾杯し、プレイルームでブラックジャックに夢中になってしまった牧とは軽食をもらい、そのまま談笑していた。

寝る前に腹が鳴り出す心配がなくなってホッとしていた牧は、隣のがカウンターの方を凝視しているのでその視線の先を追った。カウンターの中で高級そうな酒の瓶を手にしているメイさんを国竹さんと松波さんが囲んでいる。

「どうかしたか?」
「国竹さんってさ、松波さんのこと好きなんじゃないのかな」
「へっ?」

の真剣な眼差しに牧の声が裏返る。いきなりだな。

「今朝もすごく褒めてたし、松波さんのこといつも気遣ってる」
「そう……なのかな、オレはよくわからん」
「対戦相手の腹を読むのは得意なのに」

というより牧は、改めて周囲の人々を「大人」と認識してしまったら、その腹のうちがまったく信用ならない気がしたのだ。現在白蝋館に閉じ込められている17人のうち、ここにいる6人と志緒さんは比較的安全という気がする。もしと離れなければならなくなったら、その中の誰かでなければ預けられないと思う。けれど、7人の大人たちの誰もがしれっと重大なことを隠しているのではという疑心暗鬼もつきまとう。対戦相手の目の一瞬の揺らぎを読む方が間違いがない。

「大人の、しかも女性の胸のうちが読めるほど大人じゃないよ」
「大人じゃなければ読める?」
……そうだな、今がちょっとくらいなら酒飲んでもいいかなって思ってる、とか」
「ちょっ、思ってないからそんなこと! ていうかお酒は飲んだことあります」
「知ってるよ。納会でグラス間違えてスパークリングワイン一気飲みしたのはついこの間」
「おいしかったです」

言いながらふたりはいつしか手を繋いでいた。繋いだ手は薄暗いバーの影の中、大人たちからは隠されていて見えない。非日常に非日常が積み重なって、ふたりの日常を繋ぎ止める理性は既に限界ギリギリ。手を繋いでも酒を飲んでも別にいいんじゃないのそのくらい……というぼんやりとした衝動が全身を覆っている。酔ってもいないのに足元がフワフワしていて、ちょっと気持ちいい。

だが、ロビーの大時計が23時を知らせると、何かあった時に泥酔していては困るから大人しく部屋に帰ろうと敬さんが言い出した。全員でバーを片付け、静かに廊下に出る。館内は静まり返っていて、不思議と薄暗く見えた。相変わらず外は雪が舞っていて、正面玄関脇の窓にはうず高く積もった雪が押し寄せてきていた。

「でも、敬さんみたいな人がいてよかったね」
「大人たちが全員菊島さんとか春林夫婦みたいな人だったら、部屋から出なかっただろうな」

ぞろぞろと部屋に戻る列の後ろの方にいた牧とは小声でそんなことを言っていた。すると斜め後ろから島さんがにゅっと首を伸ばしてきた。牧よりは小柄だが、から見れば島さんも背の高い大人で、なおかつ所作が柔らかで全体的にきれいな男の人という印象を受ける。ので、は少したじろいだ。島さんは話し方も優しいのでちょっとかっこいい。

「でも……敬さんて、ただの客って感じがしない」
「そうですね……スタッフの方たちとやけに親しいし」
「それが悪いこととは限らないけど、彼は何か大事なことを隠してる気がしてならないんだよね」

島さんの話し方は穏やかだし、敬さんのことを疑っているという様子でもなかったけれど、つい牧は「島さんも何か隠してたりするんですか?」と言ってしまった。敬さんを庇いたいというより、極論を言えばこの白蝋館の中で信用できるのはただひとりだし、なんなら国竹さんだって100パーセントは信じられないからだ。

すると島さんはゆったりと、けれどちょっといたずらっぽく微笑んだ。

「それはもう。たくさんの秘密を隠してるよ」

言いながら歩き去る島さんの後ろ姿に、ふたりはまた手を繋いだ。この状況を、初めて怖いと思った。

部屋に戻ると現実が一気に襲いかかってきた。合宿のつもりでまとめてきた荷物、ハンガーラックにかかる制服、ベッドの上に畳んで置いてあるジャージ。

だが、その傍らにいる牧とはドレスアップしていて、牧など普段リーゼント風にまとめ上げている髪が下りていてさらりと揺れている。のドレスは薄暗い部屋でも落ち着いた赤で、まとめ髪から溢れる幾筋かの髪がきらりと光る。

「島さん、私たちのことからかってたのかな」
「それならいいけど、疑心暗鬼になってるのかもな。敬さんが何か隠してるってのはわかるし」
「えっ、そうなの? いつから気付いてた?」
「いやそうじゃなくて、島さんがそう思いたくなるのはわかる、って話」

ニットカーディガンを脱ぎ、イヤリングやネックレスを外すに背を向けた牧はネクタイを引き抜く。普段制服で毎日締めているのとは感触が違って息苦しかった。

「それに、敬さんが何かを隠してたとして、国竹さんたちはそれを知ってると思う」
「私もあれはちょっと変だなって思ってたんだよね。常連さんてあんなに親しくなるかな?」
「オレたちが思ってるよりもこの『白蝋館』てのはホテルじゃないのかもしれないな」

そんな牧の言葉には手を止め、ネックレスのなくなった首筋を両手で撫でた。現在の宿泊客の中でリピーターは敬さんとメイさんと志緒さんだけだが、彼らが想像以上に「スタッフ側」だったとしたら、自分たちの知らない事情によって結びつきのある人々が増えることになる。

スタッフと常連さんたち、具体的な数字で言えば、7人。そこが何かを秘匿した集団だったとして、それでも白蝋館に初めて訪れるゲストの方が多いけれど、悲しいかなそちらは問題のある人物の方が多い。せめて信用出来そうなのは柴さんと島さんしか残らないということになる。

島さんが抱く敬さんへの疑惑の正体如何によっては、味方の数がこれだけ減ってしまうのか。はそんな結論に背筋を震わせた。敬さんたちが頼りになる大人に見えたからつい親しくしてしまったけれど、早計だったのでは――

、大丈夫か」
……うん。もし常連さんとスタッフが何かの仲間だったら、味方がすごく減るなって、思って」

味方が減る。その言葉は牧の脳内で一瞬のうちに「敵が増える」という言葉に変換された。牧も考えていたことなだけに、自身の安全よりも「この少ない味方でを守りきれるだろうか」という不安が先に立つ。勢い、牧は喉元で手のひらを重ね合わせていたを抱き寄せた。

「今までもそうしてきたけど、離れないように、しよう」

一瞬体を強張らせただったが、やがて牧の開いたシャツの隙間に額を寄せて抱きついた。どうあがいても「子供」である自分たちはこうして身を寄せ合うことくらいしか出来ない。それしか不安を取り除く方法もない。柴さんと島さんだって完全に信頼できる味方であるとは言い切れない。

「大丈夫、だよね」
……ああ、きっと大丈夫。みんなのところに帰れるよ」

みんな。その言葉は余計に自分たちが孤立していることを実感させた。夢見心地の時間は覚め、現実の世界にふたりきり。それはロマンチックさの欠片もなくて、バーで疼いていた心は冷たさを感じてきた。相手に触れたいのは愛しく思うからではなくて、不安が恐怖に変わりそうだからだ。

けれどそんな現実は拒否したかった。いらない。こんな現実はいらない。

不安や恐怖よりも、全身にいっぱいの恋心の方がいい。牧はの頬に指を滑らせた。

いつか歩道橋の影でした、たった一度のキス。あの頃に戻りたかった。

……牧」
……あの頃も今も、オレの気持ちは、変わってない」

は頬にある牧の指に手を重ねると、恥ずかしそうに微笑んだ。

「私も。何も変わって、ない。あの時のままだよ」

そうして静かにふたりの唇が重なろうとした、その時。

静寂の白蝋館に男性の悲鳴が響き渡った。