白蝋館の殺人

13

敬さんの判断により、志緒さんは207号室に監禁することになった。予報通り風は止み、雪も降っていないけれど、春林氏のように窓から飛び出ても雪に埋もれて動けなくなるだけなので、逃亡の恐れはないと判断された。

メイさんは自害の心配をしていたのだが、志緒さん本人が「しませんよ、そんなもったいないこと」と言うのでひとまず何も取り上げない。

疲れてウトウトしていた菊島さんは敬さんに呼び出されて事情を聞かされると、とうとう顔をくしゃくしゃにして泣き出した。だが、めそめそと鼻を鳴らしながら「どうしてうちでやるんですか」と言うばかりなので、メイさんのような悲しみの涙ではなかった様子。

「菊島さんだって人のこと言えないんだけどね」
「えっ、どういう……
「もちろん殺人ではないけど、菊島さんはオレの東京の自宅に入ってきた空き巣」

さらっと言う敬さんに牧とは苦笑いだ。空き巣って……

「でもオレいたんだよね。もう10年以上前の話でオレもまだ若かったし、捕まえて締め上げたらリストラされて仕事がなくてやむなく、ってキーキー喚くから、そんならここで働けって。実際静養のつもりもあるけど、定期的に来て様子を見る必要もあるからよく来るんだよ」

色々どうでもよくなってしまったのか、敬さんはペラペラとよく喋る。

「梅野もそうだ。知り合いのホテルのキッチンで喧嘩沙汰でクビになるやつがいるっていうから、ここに放り込んだ。実際名門ホテル勤務の腕のいいシェフだったし、それを当時の半分の給料で雇える。隼人もそう。実家が老舗ホテルなんだけど親とうまく行かなくてね。それで修行の名目で引き取ったんだ。他のスタッフもそんなんばっかりだよ。普通に求人見て面接で入ってきたのは美晴ちゃんくらい」

大いに納得の牧とはうんうんと頷く。というかもう何年か経験を積んだら菊島さんより国竹さんを支配人にした方がいいんじゃないですか。

「あはは、そうなんだよなあ……実際美晴ちゃんが1番働くからなあ……

するとその国竹さんが目を真っ赤にしてやって来た。手にはビニール袋がぶら下がっていて、ペットボトル飲料が何本か入っているらしい。

「敬さん、お水を差し入れるくらいなら、構わないですよね」
「ああ、もちろん。食べ物でもいいよ」
「それじゃ、ここに置いておきますね。ちゃん、お願い」
「はい、わかりました」

明け方のロビーはにわかに慌ただしくなった。敬さんは改めて警察に通報、菊島さんたちは志緒さん監禁の準備をし、メイさんと島さんが他の人々に説明をして回っている。柴さんは門番を買って出てくれて、現在は207号室の前に椅子を置いて座り込んでいる。

国竹さんが届けないのは、犯行を認めた志緒さんが「紳一くんとちゃんとしか話さない」というので、ふたりはこれから差し入れとともに207号室へ行くことになっている。危険はないのかと柴さんが心配していたが、当の志緒さん本人が「心配なら拘束しても構わない」というので、ひとまず椅子の肘掛けに両手を固定することになった。

ちゃん大丈夫かい、無理をすることはないんだよ」
「いえ、無理はしてません。ご本人からお話を聞きたいです。ただ、その……

は言いづらそうに身じろぎをしていたが、牧に背を撫でてもらうと頷いて息を吸い込んだ。

「志緒さんにはもう話したことなんですけど、私やっぱり志緒さんのことを『東丸さんの尊い命を奪った凶悪犯』という風に思えないんです。人の命が尊いことには変わりないんですけど、東丸さんがこういう結果になったことより、敬さんが迷惑を被ったり、メイさんがつらそうに泣いてたり、志緒さんが今日から『殺人犯』になってしまう、そういうことの方が悲しく感じるんです。それって、たぶん間違ってるんだろうなと思うんです。どんな事情があっても人を傷つけてはだめ、例外はなしって思わなきゃいけないって分かってるんですけど……それが自分の中でうまくいかなくて。だから志緒さんと話して、考え直したいんです。大人になってしまう前に」

志緒さんの拘束は柴さんが行い、牧とは彼女の向かいに少し離れて椅子を置いた。柴さんはやはりドアの前で待機しているから何かあればすぐに声をかけろと言って部屋を出た。は国竹さんからの差し入れをテーブルの上に並べると、静かに椅子に腰掛けた。

「志緒さん、手、痛くないですか」
「大丈夫。抜けないけど多少余裕があるから。柴さんいかついけど優しいよね」
……これ、例のカーディガンですか」
「そう。触らない方がいいと思うから、見るだけね」

ベッドの上に広げてある黒のカーディガン、左側の前身頃の下辺りに部分的に光沢がある。返り血が凝固しているのだろう。隣に並べてある白いシャツも同様の位置に赤茶色い染みが点々としている。志緒さんが部屋に入ってジャンパーを脱ぐとこれが出てきたそうだ。

……今回のことって、前から計画してたんですか?」
「まさか。私、みんなに嘘は一切言ってないの。あいつらとは高校卒業以来の再会というのは本当」

カーディガンを覗き込んでいた牧も椅子に腰を戻して膝に拳を置いた。

「いつものように静養で来たらいきなり現れたから、びっくりしたよ。でもほのちゃんしかわからなかったし、東丸と最上なんか初対面みたいなもの。向こうも私のことなんか知らなかったはずだよ。下谷くんも記憶が怪しい感じだったし、誰かと高校時代に何か因縁があったとかじゃないのも本当」

志緒さんは5日前、同窓会組は3日前の到着で、なおかつ同窓会組は到着した日の夜を少し離れた温泉街に観光に行っていたので、志緒さんと顔を合わせたのは牧とが到着する前日のことだったという。しかも同窓会組が前日の酒で起きられずに朝食をキャンセルしたので、昼食の席だった。

「だったら……なんでだったんですか」
「あいつら、部屋で飲んでたでしょう。そこでほのちゃんと最上が東丸に楯突いたらしいのね」
「それは事実なんですね」
「おそらくね。それが面白くない東丸は私を呼び出して一緒に飲もうと思ったらしいの」

それが牧とがバーで敬さんたちとコソコソ話していた頃にあたる。

「それでねえ、こんなことふたりに言いたくはないんだけど、まあもう新学期から高3なんだからいいよね、つまり東丸はね、私を呼び出して飲ませてレイプしようとしてたらしいの。だから下谷くんを追い出して、もしうまくいきそうなら連絡するから、そうしたら私の部屋に行けって命令されてたみたい」

よりも牧の喉がグッと鳴る。というよりはその状況で東丸が志緒さんを呼び出すということの意味を考えるだけで想像がついた。下谷が追い払われていたのだから、一緒に飲むだけではない何かよからぬことを企んでいたのだろうということは想像に難くない。

「私も軽率だった。てっきりみんなで飲んでるんだと思って、でももう時間が遅かったし、断るために顔を出すだけのつもりでいたの。でも部屋にいたのは東丸だけ。なんだか強いお酒……たぶんウィスキーだと思うけど、それをグイグイ押し付けてきて、体をぴったりくっつけて座ってくるし」

既に酔っていた東丸がそんな風に迫ってくると想像しただけで嫌悪感でいっぱいになる。は少し顔を逸して息を吐いた。深呼吸をして気持ちを宥めなければ。

「私が全然飲まないから苛ついたのかも、そのうち体を触ってきて、ほのちゃんたちは別の部屋にいるから泊まっていきなよって言い出した。もちろんそんなの嫌だから私は立ち上がって帰ろうとしたの。そしたら腕を掴まれて窓辺に引っ張り込まれて……だから思いっきり突き飛ばしたの。そしたら窓にヒビが入って、枠が歪んだ」

白蝋館は全体的に古い。部分的には色々現代仕様に作り変えられてはいるが、そもそも建物自体は戦前の代物である。志緒さんの背後にある両開きの腰高窓も古めかしい木枠で、塗装の剥げが味わいとなっているけれど、衝撃には弱そうだ。

……その時にね、あ、こいつ殺そう、私には何も出来ないと思ってたけど今なら殺せるって思って、窓辺のチェストの上に置いてあったアトラス像を掴んで、振りかぶった。みんなが聞いたっていう悲鳴はこの時のもので、泥酔してた東丸はふらついてまともに立てなくて、だから簡単に頭を狙って殴れたの。そのうち窓が全部開いて、頭が割れた感触があったんだよね。そのままあいつは手すりに倒れ込んで動かなくなった。ドアの前にみんなが来てることは分かってたし、菊島さんがマスターキー持ってくるまでの間になんとかしなきゃって思って、ベッドに登って電球を割って、ドアの後ろに潜んでたの。あとは紳一くんの考えた通り」

牧と敬さん、そして柴さんによれば、東丸の遺体は頭部以外に目立つ外傷はなく、前頭部が砕けて中身が露出し、外に飛び出ていたらしい。凶器にも血が付着していたが、志緒さんは何度も何度も殴りつけたらしい。牧の言う「血の海」はそこからの出血によるものだった。

「殺さなくても……逃げられなかったんですか、悲鳴を上げてくれたら聞こえました」
「僕たちだけじゃなくて敬さんも聞こえてました。絶対に助けに行きましたよ」

暴行目的で志緒さんを呼び出し襲ったことはもちろん許されることではない。だが殺さなくてもことは済んだはずだ、とふたりとも考えた。そうすれば東丸を下谷と一緒に206号室に閉じ込めることも出来た。志緒さんは「殺人犯」にならなくて済んだはずだった。

だが志緒さんはこともなげに言った。

「だって、全員殺したくなったんだもん」

喉が渇いたと言うので牧が片手の拘束を外し、水を飲み終わるとまた固定した。

「私ね、高校生の頃に付き合ってた人がいたの。北峰千紘っていう人で、かっこよくて、頭も良くて、運動も得意で、性格も優しくて真面目で、だけど明るくて楽しい人だった。私は静かな方が好きだったし、目立つのも苦手だったし、似てるところなんかなかったんだけど、だからこそ惹かれたのかもしれなくて、私たちは誰にも内緒で2年以上付き合ってた」

何を思い出したのか、が腿に置いていた手をギュッと握りしめる。

ちゃんは覚えてたのね。そう、卒業旅行で死んじゃった北峰くん」
「それって東丸さんたちが言ってた……
「そう。というか、あいつら4人が千紘を殺したの。卒業旅行の雪山で」
「え……!?」

牧とは揃って身を乗り出し、眉をひそめた。殺したってどういう……

「私も知らなかったの。千紘が卒業旅行でスキーに出かけてそのまま行方不明になって、初夏にすっかり雪が溶けてから遺体で発見された。なんで千紘がひとりで雪の中に埋もれてしまったのか、誰もわからなかった。そんな危険なことをする人じゃなかったし、千紘が姿を消したのは夜で、あとはもう寝るだけっていう時だったらしくて。
それが東丸恭介と、葛西ほのかと、最上龍己と、下谷勝の4人のせいだっていうのは、私もつい一昨日知ったの。すっかり仲良くなったと思ったのか、酔っ払ってへらへら笑いながら話し出してね。前から千紘が鬱陶しかったんだって。ほのかは千紘に振られて恨んでた、東丸は高校時代からほのかを自分の女にしたくて、でも彼女は千紘に夢中で言うことを聞かない……逆恨みだね、どっちも。最上と下谷は個人的に思うことはなかったらしいんだけど、千紘みたいな人はムカつくからふたりに便乗したんだって。
千紘は……本当に優しくて、いい人だった。人気者だったけど、それに溺れて傲慢になっていたところなんかひとつもなくて、将来は人の役に立つ仕事がしたい、出来れば困ってる人を助けられるような人間になりたいってよく言ってた。それを知ってたのか、東丸たちは『女の子がひとり帰ってこない、連絡が取れない』って千紘に嘘を吹き込んだらしいの。まだその時は晴れてて、風もなくて、千紘は探さなきゃってコテージを飛び出した。天候は悪化、彼はそのまま帰ってこなかった」

は耐え難いほどの重いものを背負っているかのように、背中を丸めていた。当時の志緒さんたちは18歳、自分たちと1歳くらいしか変わらない。きっと東丸たちは今でも変わらないあの「ノリ」で「悪ふざけ」のつもりで北峰千紘にそんな嘘を吹き込んだんだろう。ほんの冗談だった、悪気はなかった、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった、ただのいたずらで、遊びの延長で、北峰千紘を死なせようなんてつもりはなかった。

それは本当に、「悪意がなかった」んだろうか――

そして私はいつ、志緒さんが東丸を手にかけたことを全否定できるんだろう――

「千紘はそういう、ちょっと出来すぎた人だったけど、でも私とふたりの時は甘えん坊なところもあったし、不貞腐れることもあったし、親と喧嘩することもあったし、そういう意味では珍しくもない高校3年生だった。だけど彼の人生はそこで終わり。ああでも、千紘は女の体を知らないまま死んだ、っていうのは東丸の勝手な憶測だよ。私たちは既に将来を考えてたし、そこはそれなり。充分知ってた。だけど千紘が死んで私の人生も死んだ。進学は決まってたから通ってはいたけど……遺体が見つかるまでも、見つかった後も、それから今の今までもずっと、私の時間は止まったまま」

志緒さんの後ろに見える窓の向こうが薄っすらと明るくなり始めている。雪の白はいよいよ冴えて、志緒さんの輪郭をくっきりと際立たせている。椅子の肘掛けに両手を縛られた彼女はまるで過去に囚われたまま身動きが出来ず、そのまま固まってしまったかのようだった。

皮肉にも、凶器となった像のモチーフであるギリシャ神話に登場するアトラスは、ひとりで天空を支える苦痛に耐えかねて自らを石に変えるよう頼んだとも言われる。だが志緒さんは石になって苦痛を忘れられるどころか、延々とその苦しみの中で生きてきた。

「不思議なの。東丸が動かなくなった時、私の中の時間がちょっと動き出したような気がしたの。千紘の遺体が見つかったって知らされた時に一緒に死んだはずの気持ちが蘇ってきたの。生きたいって気持ち、未来を思う気持ち、希望のような……東丸だけじゃない、ほのかも最上も下谷も全員殺してやるって思ったら、千紘を失って以来感じたことのなかった感情の昂りと高揚感、わくわくするような気持ち、もうずっと感じたことのなかった『楽しみ』を手に入れてしまったの」

確かに東丸を撲殺してしまったことは衝動的な犯行だったかもしれない。偶然が引き起こした事件だ。だが恋人の死の原因を作った4人を全員この手で葬る『楽しみ』を手放したくなかった志緒さんは、電球を割りドアの影に潜んで罰から逃れることを選んだ。

「4人全員を殺したら、その時こそ私の時間は動き出す。千紘とのほんの短い思い出を抱えながらこれからの人生を歩いていけると思った。早く3人を殺して自由に……なりたかった」

は勢いよく顔を上げると、志緒さんの足元に駆け寄って跪き、拘束された両手に手を重ねた。

「それで自由になれるって、本当に思ってたんですか……? 途中でバレずに全員殺すなんて無理だって、志緒さんなら分かったはずです。例え成功しても、志緒さんはまた『楽しみ』を失ってしまうだけじゃないですか。千紘さんの死の責任を問える人がいなくなって、志緒さんの苦しみがどこにもいけなくなるだけじゃないですか……!」

志緒さんはゆったりと微笑み、拘束された手を返しての手を握り締めた。

「もちろんどこかで分かってたと思う。だけど私から千紘を奪ったやつらを痛めつけている時のあの開放感、気持ちよさが勝っちゃった。それを思いとどまる理由は私にはなかった。私から千紘を奪ったやつの息の根を止めて人生を終わらせてやる以上に私を満足させるものはなかった。言ったでしょう、大人なんてそんなに立派なものじゃないって」

そして彼女は不意に天井を仰ぐと、深く息を吸い込み、大きな声を出した。

「いや、大人なわけない。自分でも呆れるくらい、心は18歳で止まったままなの。私は今でも千紘が帰ってくるのを待ってる。スキー楽しかったよ、志緒も来ればよかったのにって言いながら私に抱きついてくるって、そうなって当たり前の未来が来ないことが私の頭では理解できなくて、千紘がどうしても断れなくて卒業旅行に出かけた2日めから私の時間は止まってる。体は毎日歳を重ねていくけれど、私はまだ18歳、いついかなる時でも千紘が帰ってくるのを待ってる。ずっと待ってるのに帰ってこないの」

志緒さんの膝に顔をうずめたは声を殺して嗚咽を漏らしていた。本人が言うように、この苦しみが解き放たれることは永遠にないような気がして。志緒さんが北峰千紘を愛している限り、それは起こり得ないのだと。彼女が北峰千紘を、あるいは他の誰かを愛する時、必ず苦痛が伴う。

それなら心を殺して生きながらに死んでいた方がいいのだろうか。それは生きていると言えるのか。

肩を震わせて泣いているの傍らに膝をついた牧は、の肩を抱いて背中をさすりつつ、天井を見上げたままの志緒さんに向かって問いかけた。

「志緒さん、なぜ僕たちなら話をすると、言ったんですか」
「あなたたちが、高校生だから」
「志緒さんもまだ、18歳だからですか」
「そう。大人に聞かせたい話じゃないから」

啜り上げているを引き剥がし、牧はまた椅子に腰掛ける。

「でも……だから私は諦めたの。紳一くんとちゃんに見破られたのなら、それは千紘が『ここまで』って言ってるんだと思うことにした。逮捕されて刑務所に入ってまた出てくるようなことがあっても、もう誰も殺さないから。千紘を死に追いやった3人はこれからも自由に安全に生きていかれる」

志緒さんはやっと優しげな笑顔を浮かべた。

「紳一くん、ちゃん……今を生きてね。大人はあれこれと自分の後悔を押し付けて偉そうなことを言ってくるけど、大事なのは今目の前にある自分だけの現実を生きること。17歳は17歳の、18歳は18歳の、目の前の時間を生きることが出来なければ、その先に待っているのは私のような末路だから」

窓から広がる夜明けの白々とした光を背に纏う志緒さんはようやく人の形を取り戻したように見えた。にこやかに微笑み、声は優しく、わずかに漏れる吐息ですら清らかで、は背筋を伸ばして彼女をひたと見つめた。

「志緒さん、私、志緒さんのこと、好きです」

をちらりと見てから牧も志緒さんを見つめ、そしてペコリと頭を下げた。

「話してくれて、ありがとうございました」

志緒さんはまたにっこりと笑顔を作ると、言った。

「忘れて」