白蝋館の殺人

6

朝食の後に菊島さんに訪ねてみたところ、ファックスは2年ほど前に廃棄になり、紙でなければならないものはpdf等を印刷という手段しか取れないとのこと。が課題をデータで送ってもらえないかと相談してみたのだが、そもそも今日は日曜で、全部まとめて送るには時間がかかると言われてしまった。

そんなやり取りをモタモタやっているうちにすぐ昼になってしまい、ふたりはまたダイニングでメイさんたちと食事をしていた。今度は全員揃っていて、朝食よりも騒々しい。

春林夫婦の機嫌は直っていたが、地元産野菜を使ったパスタを蕎麦のようにズルズルと啜り上げていて、メイさんがげんなりしている。さらに朝食を欠席していた同窓会組は二日酔いのようで、食事中だと言うのに音を立ててえずいたりするので、敬さんもため息ばかりだ。

かと思えば厨房の方で大きな音がし、国竹さんと菊島さんがすっ飛んでいったが、後で国竹さんが漏らしたところによると松波さんと梅野さんが言い合いをしていたとかで、なんだかホテル内はじわりじわりとストレスに侵食され始めていた。

昼食後、敬さんがシアタールームで映画を見ようというので、と牧は一度部屋に帰って準備をし、ロビーで敬さんを待っていた。

するとそこに同窓会組が通りかかり、止める志緒さんにも構わず、またふたりに絡み始めた。もう酔ってはいないようだけれど、と牧が年下なので遠慮はいらないと思っているようだ。

「結局一晩同じ部屋で、それで何もなかったって、君、それでも男か?」
「あんたと一緒にしたら可哀想。彼女のこと愛してたら我慢できるよね」
「ちょっと、まだ高校生なんだから……
「中学生が妊娠する時代なんだから、高校生でセックスくらい当たり前だろ」
「えー、あたしは結婚するまで清い体を守りますけどおー」
「どの口が清い体とか、10代の頃に援交で何十万と稼いでたくせに」
「違いますー援交じゃありませんーパパ活ですー」
「同じじゃねえか!」

大惨事だ。と牧は身を寄せ合って誰とも目を合わせないようにしていた。

「まったくこんな雪で、いつ災害に巻き込まれるかわかんないんだから、ヤッといた方がいいよ」
「そうそう、この人みたいに素人童貞のまま雪に埋もれて死にたくないでしょ」
「え、なにお前やっぱり素人童貞だったの!?」
「ち、ちげーよ!」

今度は仲間の1人をからかって大笑いしている。敬さん早く来て!

だが、急に真顔になったひとりが――確か昨夜「東丸」と名乗っていた男が牧の方にぐいっと顔を突き出した。色白で平坦な顔つき、眉が薄くて表情が少ないので真顔だと感情が見えなくて少し怖い。

「高校生なんだから、人生まだまだこれからって思ってない?」
「えっ、どう……でしょうか」
「高校生だってね、死ぬ時は簡単なんだよ」
「なっ――
「オレたちが高校3年生の時、こんな雪の夜に死んだやつがいたんだ。ここから遠くない場所で」

ロビーに響いていた音が一瞬で消えていく。柱時計の振り子の音だけがやけに大きく聞こえる。

「高校卒業した直後だったから、18歳だったな。イケメンで、性格もよくて、成績も良くて、絵に描いたようなリア充だったんだけどね、そんなの大自然の脅威の前にはなーんの役にも立たなくてね、雪の中で死んじゃった。すごくモテるやつだったけど彼女はいなかったし、ありゃ童貞だったね、間違いなく。今頃後悔してるだろうねえ、短い人生、女の体も知らずにおっ死ぬなんてさあ」

ほんの少し触れていただけだった牧の手を、はぎゅっと握り締めた。牧はそれをしっかりと握り返す。言葉になんかしなくても、お互いの考えていることはその触れた手だけで十分伝わった。不愉快極まりない怒りだ。だが、この不快な人物に怒ったところで何も変わらないし、自分たちの怒りが宥まるとも思えなかった。

「しかもリーダーぶってて偉そうなやつだったんだよな」
「なのに女にはキャーキャー言われてな」
「それって……北峰くん、のこと?」

志緒さんがぼそりと口を挟むと、同窓会組4人はうんうんと頷いた。

「そーそー、北峰千紘。お高く止まってるっていうの?」
「志緒はクラス違ったから知らんだろうけど、卒業旅行だったんだよ」
「北峰くんが亡くなったのは後で聞いたけど……そっか、みんなクラス同じだったんだね」
「5月頃だったよな、発見されたの」
「そうそう、雪ん中に埋もれてて見つからなかったんだよな」

はまた牧の手を強く握り締めた。何でこの人たち、ずっとニヤニヤしてるんだろう……

そこにようやく敬さんが戻ってきた。

「おい、またちょっかい出してるのか。志緒、頼むよ」
「ご、ごめんなさい」
「いやいや、そっちこそ何様なんだっつーの」

素早く立ち上がって駆け寄ってきたと牧に頷いて見せると、敬さんはまた低い声を出した。

「お前らよりはマトモな大人だよ。てか、これが最後だからな。またこの子たちにちょっかい出したら吹雪だろうがなんだろうが、ここから追い出すからな。迷惑行為がしたいなら外でやれ」

敬さんの迫力のある声に同窓会組は返事に詰まり、志緒さんはまたペコペコと頭を下げている。だが同窓会組4人に反省の色は見えないし、と牧はふたりだけでウロウロするのはやめようと考えていた。どうあがいても自分たちは「子供」になってしまうから。

人生まだまだこれから。そうとしか考えられない子供だったから。

シアタールームで敬さんが見せてくれたのは、笑って泣ける実話ベースの「クール・ランニング」だった。ふたりが運動部なので選んでくれたのかもしれない。少々古い作品だが、は終わる頃には感涙で鼻を鳴らしていた。

「敬さんありがとう……さっきまでめちゃくちゃ怒ってたけど忘れました……
「困ったもんだな、さっさとお帰り願いたいけど雪も風もおさまらない」

敬さんがシアタールームに誘ったのは、と牧、それから柴さんと島さんだけ。メイさんは昼寝をすると言って部屋に戻り、国竹さんたちはプレイルームを掃除中。

「でもマジでこの缶詰が続くとしたら、あの同窓会組と夫婦もの、手に余りますね」
「部屋に閉じ込めて鍵かけておければいいんだけどなあ」
「一応予報では明日には雪は止むらしいけど、さてすぐに帰れるかどうかな」

映画は面白かったが、敬さんと柴さん島さんはまた腕組みだ。

が今朝確認した予報でも、明日の早朝には晴れるというが、見渡す限り既にこんもりと積もっているし、これでは車も電車も動かない。なので少なくともあと2日ほどはホテルから出られないのかもしれない。改めては肩を落とした。合宿どころか家にも戻れないじゃないか。

夕食にはまだかかるが、もう1本映画を見るには少し時間が足りないので、またそれぞれ部屋に戻った。窓の外は変わらず。合宿所からも特に連絡は入っていないので、向こうも変化なしということだろう。

「牧、ストレス感じてる?」
「うーん、春林夫婦とか同窓会組を見てると腹が立つけど、それを離れれば。どうした、つらいか?」
「ううん、そうじゃなくて、ストレスで大人がおかしくなるってことは、考えてなかったから」

牧はため息をつきつつ、の肩をそっと支えてベッドに並んで腰掛けた。

「大人がストレスで荒れるのなんて、オレたち監督の不機嫌くらいしか知らないもんな」
「監督の方がまだマシだよ、家に帰れば関わらなくて済むんだもん」
「敬さんたちがいてくれるからまだいいけど、出来るだけ部屋で過ごした方がいいかもな」

大人たちのストレスのとばっちりを受けるくらいなら、どれだけ退屈でも部屋でふたりでいた方が気持ちを穏やかに保っていられるような気がした。一応テレビはあるし、携帯もあるし、今日を乗り越えれば明日はデータで課題を送ってもらえるかもしれないし。

だが、17時を過ぎ、窓の外が暗くなり始めた頃に、メイさんがやってきた。

「ドレス貸すって言ったじゃない。紳一くん、お姫様借りるわよ」
「えっ、それ本気だったんですか!?」
「そうよ、バッグも貸してあげるから貴重品だけ持っていらっしゃい」
「で、でも私、牧もジャージだし」
「紳一くんは敬のところ行ってきてね。じゃ、ディナーで会いましょ!」

慌てふためくがメイさんに連行されていくのを牧はポカンと見送っていた。

「非常時に物事を楽しむ余裕、といえばいいかな。イライラしても雪は止まない」
「それはそうなんですけど……

メイさんの指示に従って敬さんの部屋を訪れた牧は時間が余るのでコーヒーのご相伴に預かっていた。

「さっきこのコーヒーを頼んだ時に隼人に聞いたら同窓会組はバーにこもってたらしい」
「昼からお酒ですか」
「菊島さんは断りたかったらしいんだけど、元々ランチタイムはアルコールOKなんだよな」

なのでその分を要求された菊島さんはランチコースにセット出来るワインとシャンパンを出す羽目になったそうだ。それ以上は頑として取り合わなかったらしいが、ひとまず同窓会組は既に2瓶開けている、ということになる。

……失礼な言い方になったらすみません。オレたち、ああいう大人に慣れてなくて」
「そりゃ仕方ないよ。普段は勉強と部活を頑張ってるんだろう? 知らなくていいことだ」
「だけどここから出られる見込みがないもので」
「日常の有り難みを感じる……とはいかないよな、17歳だもんなあ」

敬さんはにこやかにカップを傾けていたが、牧は顔を振った。そんなこともないです。

「自分たちの日常がどれだけ平穏なものだったか、というのは痛感してます」

バスケットボールはスポーツで競技だが、試合に挑む心構えは「戦い」であるとずっと思っていた。けれど、その戦いはルールという絶対的な秩序と束縛によりコントロールされた世界でしかなかった。ルールで守られた聖域を犯すものがあれば排除される、そういう安全地帯だった。

「自分は今主将なので、普段なら仲間たちの上というか、トップにいるのが普通だったんですけど、こうしてとふたり突然見知らぬ場所に放り込まれてしまったら、てんで子供なんだなと、当たり前のことなんですけど、改めて思ってしまって」

しかし現在白蝋館の中にいる誰よりも牧は身長が高く、体つきも大きかった。だというのに年齢や立場は「子供」でしかなくて、無遠慮なストレスや悪ふざけに毅然と立ち向かっていいのかどうか、判断に迷うことも多かった。後輩のように怒鳴れば済む世界ではない。

……ちゃんを守りたいもんな」
……今はオレしか、いないので」

これまでも何かというと助けてくれている敬さんだが、改めて牧の肩を掴むとゆったりと微笑んだ。

「その心意気は立派だけど、君がピリピリしてるとちゃんも不安になる。そういうのは言葉にしなくても伝わるもんだし、君がストレスを感じる方がよくない。だからこそ、余裕、なんだよ」

なんだか上手く丸め込まれたような気がしないでもない牧だったが、自分が余裕をなくせばは余計に不安を感じるというのは理解できる。ひとまず凍える心配のない場所にいて安全は保たれているのだし、それを素直に受け取るべきかもしれないと思った。

というわけで牧も敬さんに着替えさせられた。敬さんが心配していたシャツのボタンは閉まったけれど、ジャケットが無理だった。「君ほんとに17歳!? なにこの胸筋!」と胸を揉まれた。

運動部体育会系男社会でずっと過ごしてきた牧でも胸を揉み揉みされたのは初めてで、なんだか大切なものを失ってしまったような気がしていたが、敬さんに連れられてラウンジまで降りたところで息を呑んだ。荘厳なシャンデリアの下にが佇んでいたからだ。

「これはこれは、こんなお姫様が隠れていたとはね」
「紳一くん、そんなところで固まってないでエスコートして」

メイさんに肩を抱かれたは深い赤のロングフレアワンピースに身を包み、ゆるやかに髪をまとめ、アクセサリーも付け、柔らかな白いニットのカーディガンを羽織っていた。うっすら化粧もしているようだ。敬さんに背を押された牧は戸惑いながらもの前に進み出る。

「こ、こんなの、恥ずかしいんだけど、メイさんが」
「そんなこと……その、きれいだよ」

敬さんが踵を蹴ってくるのでぼそぼそと言った牧だったが、は限界を超えてしまい、両手で顔を覆って俯いた。ついさっきまでジャージとスニーカーの高校生だったのに、あれよあれよという間にドレスとスーツでシャンデリアの下だ。

するとそこに国竹さんが通りかかり、歓声を上げた。

「わあ、ちゃん素敵! これメイさんのドレスよね?」
「いいでしょ。プレイルームで遊ぶならドレスアップもいいかと思って」
「それなんですけど、プレイルーム、おふたりにもお願いしたいことが」
「何よ、どうしたの」
「実はその、さっき松波さんが……いえ松波さんは悪くないんですけど」

恥ずかしいけれどお互いから目をそらせない牧とから少し離れた場所で国竹さんは珍しく眉を下げてため息をついた。バーで酒を飲んでいた同窓会組と松波さんが喧嘩になったというのだ。

「喧嘩と言っても殴り合いだったとかそういうわけじゃないんですけど、言い合いになってしまって」
「ほんとにどうしたもんかな。あの夫婦ものといい、どうしてこうトラブルを起こしたがるんだか」
「時間的に梅野さんも出せる料理には限りがあるって怒ってて、そっちとも」
「隼人は確かに愛想悪いけど、それだけじゃないか。まったく梅さん、大人げない」
「敬さん、あの東丸って人、気をつけててくださいませんか」

これにはボーッと見つめ合っていた牧とも驚いて国竹さんに近寄ってきた。昼食後の一件があるので、国竹さんがそんなことを言い出すなんて、やっぱりあの人本気でやばいのでは。

「どういうことだ。東丸ってリーダー格の白っぽい顔した男だよな」
「菊島さんや松波さんに絡んだり、梅野さんにも突っかかったり、必ず彼が先導してるんです」
「あとの3人は従ってるだけってこと?」
「女性の方は悪ノリ感覚のような感じで、志緒さんが止めようとしてましたけど」
「無理よ、志緒ひとりでそんなの抑えられるわけない」

国竹さんは同窓会組の行儀の悪さを「ホテルから出られないストレスなのでは」と考えたようだが、敬さんは首をひねる。メイさんも腕組みでため息。

「しかしこれ以上トラブルが起きるようなら、部屋から出ないでもらうことになるな」
「そんなこと強制出来るんですか?」
「さあね。でもやるしかない」

敬さんの表情は飄々としているけれど、声は低く真剣だった。

「隼人にはあとでオレも声をかけておくよ。美晴ちゃんも無理すんなよ」
「そうね。ひとまずディナーよ、せっかくドレスアップしたんだし」

国竹さんも心配そうな顔をしたままだったけれど、敬さんとメイさんはとにかく動じない。一瞬で気持ちを切り替えて牧とをダイニングへと促したが、ふたりも国竹さんのように拭いきれない不安を尻尾のように引きずっていた。

こんな時も自分たちの中の「子供」を強く感じた。特に敬さんなんかに比べると、自分たちや国竹さんはまだ若者のうちだ。不安がつきまとう現状に翻弄されてしまうし、顔に出るし、一瞬で切り替えられない。けれど敬さんとメイさんは早くも本日のワインについてああだこうだと楽しそうに喋っている。

大人になるってこういうことなんだろうか。自分たちも敬さんくらいの年齢になったら不測の事態にも動じずに余裕を持って対処できるようになるんだろうか。菊島さんみたいに四六時中オロオロしてるような大人もいるけれど、一体この自分の中の「子供」はいつ消えるのだろうか。

子供なのか青年なのかよくわからないけれど、今自分が感じている気持ち、考え方、欲求、それらは誰にも蹂躙されることなく大事に守っていきたかった。大人だからとか、何歳だからとか、そんな理由で手放したり押し込めたりするのは絶対に嫌だ。

だけど本当に今のままの気持ちを守って生きていけるものなんだろうか。

17歳の心のまま生きていってはいけないのだろうか。

もう17歳、好き嫌いも主義も持っている。「自分」はもう持っている。

そのままの自分では、だめなのだろうか。

ちょっと大人びた装いの相棒を直視出来ない気恥ずかしさに心が疼く。殺したはずの気持ちが蘇って来そうで怖い。雪に閉ざされた非日常の世界が現実を侵食してふたりの日常を覆い隠し始めている。3年生のインターハイ、悲願の優勝以上に大事なものなんかない。それがふたりの決断だったはずなのに。

どうしてだろう、固い決意のはずだったのに、隣で黙っている相棒にもっと触れたいと思う自分を止めたくなかった。手に触れて、お互いのことしか目に入らないくらいの距離で見つめ合っていたい。

そういう自分でいては、だめなのだろうか――