白蝋館の殺人

10

1時半になろうかという頃、しびれを切らした春林氏が突然立ち上がった。

「じゃあもういいだろう、全員犯人で全員無罪なんだ、ここに集まってる必要はない」
「あのねえ、さっき言ったでしょう、全員で全員の監視を――
「あーっ、もう君らのような非常識な人間と喋るのはたくさんだ! 失礼する」

柴さんがぼそりと「非常識はあんただろ」と言い、島さんとメイさんがつい吹き出した。しかし誰も彼を止めないので菊島さんが焦りだした。だから全員で監視するんじゃないんですか。

「いいよ菊島さん、ほっときな。オレたちだけでも集まって――
「いや、オレも戻るわ。意味ねえし。ほのか、行こうぜ」

敬さんを遮って最上が立ち上がると、葛西も短く息を吐いて後を追った。下谷は声をかけてもらえないのでオロオロしていたが、ふたりがさっさと階段を登っていくので結局そのまま居残った。かと思えば大あくびの梅野さんも部屋に戻ると言い出した。

「梅さん、そんな身勝手なこと言うんじゃないよ」
「ここで集まってても部屋で寝てても同じですよ。それぞれちゃんと鍵をかけておけばいい」
「それはそうだけど」
「ここで集まってても疑心暗鬼になるだけ。自分の身は自分で守るべきです。じゃ、お先に」

敬さんはそれ以上何も言わないし止めないので、オロオロしていた菊島さんは肩を落としてため息をついた。梅野さんの言うことも一理あるが、それでいいんだろうか。すると今度は島さんが声を潜めて本当に外部の人間の可能性はないのかと言い出した。

「隠れられる場所があるとすれば、1階と2階の倉庫だけど……
「3階はどうなんですか?」
「この白蝋館を建てたオレの曾祖父さんの私室なんかは入れないようになってるしなあ」

敬さんによれば3階にはその曾祖父の寝室兼書斎、防音室、使用人室があるそうだが、廊下に鉄格子が嵌められていて侵入は不可能。鉄格子の鍵は東京の敬さんの自宅のデスクの中。同様に3階には図書室と美術室があるが、そちらも施錠されていて潜伏は出来ない。それは2階のシアタールームもプレイルームも同じで、基本的には施錠されていて入れない場所だ。なので隠れられる部屋というものが存在しない。

「しかもそういう部屋とか倉庫は使ってないときは暖房を落としてるはずだし、床が絨毯敷きってわけでもないし。長時間潜伏なんて、寝袋を持ち込んでたとしても無理だ。紳一くんの言うように206号室から外を確認したけど、血の海以外はまっさらな積雪しかなかった」

白蝋館は敬さんの先代が大規模なリノベーションを行ってホテルに改装したものだが、元はと言えば個人が身内や友人を集めて静養や休暇を過ごしたりするための、いわば「別荘」でしかなかった。なので地下室や隠し部屋のようなものもないし、館内は隅から隅までホテル施設として使用されている。

なおかつこの積雪と強風は外部からの侵入説を頭ごなしに否定できる程度にはひどいものだ。どこからか殺人鬼が現れて快楽殺人を犯した……というのはどうにも説得力に欠ける。

「ねえあれは? 小さいエレベーター、厨房にあるんでしょ」
「壊れてる。リフト部分なんか錆びついて動かないし、登ったところで出られない」

思いついて聞いてみたメイさんも大きく息を吐く。白蝋館の厨房と3階の元使用人室には配膳用の小型昇降機であるダムウェーターがあるが、それも数十年前の代物で故障しているし、通電もしていないし、そこを登ったとしても館内に出られないのは変わらない。

「てことは……ホテルの裏側の雪原に足跡を残さずに侵入するとしたら、もしかして屋根から3階を経由して下りてくる方法しか、ありませんか?」

牧が言うと、敬さんは深く頷いた。それこそ無理がある。そんな方法で侵入してきたならバルコニーや室内にもっと雪が残っていたはずだし、掃き出し窓を解錠出来たのなら内側から割る必要がない。さらに白蝋館の構造上、2階から3階へと戻ろうにも掴める場所がない。

「忍者みたいにロープ引っ掛けて10秒くらいで登るとか、そんな芸当でもない限り不可能だよ」
……外部も望み薄なんですね」

それはそれで内部犯行説を強調するのでは肩を落とした。するとまた島さんが手を挙げた。

「彼が殺された――殺されたと断定しますが、理由ってなんだったんでしょう」
「まあそうねえ、私たちすっかりあの人のことは迷惑極まりない客だと思っていたけど……
「でもだからって殺します? あの人を殺しても誰も得しないと思うんですよ」

確かに……と全員が腕を組んだり頬杖をついたりしつつ頷いた。東丸はずっと「迷惑な人」でしかなかったが、だからといって殺してしまっては犯人にとっては損なことしか残らない。というわけで彼のことを以前から知る志緒さんに視線が向いた。全員下谷のことは忘れている模様。

「私も高校卒業以来なので、彼が大人になってからどんな人物だったのかは……
「高校時代からああいうトラブルメーカーな感じだったんですか?」
「ええと、親しくなかったから記憶が怪しいけど、あんな風じゃなかったと思います」
「えっ?」

島さんの声がちょっと裏返り、全員身を乗り出した。元々ああいう人じゃないの?

「というか正直、高校時代の記憶があるのってほのちゃ……葛西さんだけなんです。共通の友人がいたから。下谷くんと同じクラスだったことはあるけど、喋ったことなかったもんね?」

ああそういえば、という顔が一斉に自分の方に向いたので下谷はまた身じろぎを繰り返している。志緒さんはゆったりしたジャンパーの前を掻き合せると肩をすくめて首を傾げた。

「だからそれだけ東丸くんは目立たない人だったはずです。私もここで再会したときは顔はなんとなく記憶にあるなって思った程度だったし、東丸くん自身との接点はないと思います」

というわけで今度は下谷に視線が向いた。

「ぼぼぼ僕は別に、あの、3年生のときに同じクラスで、だけど親友ってわけじゃなかったですし」
「ていうかそもそもあんたたち4人てどういう関係なのよ」
「僕はたまに呼ばれて来るだけなので、3人は普段から会ってたのかもしれないですけど」
「でも一緒に旅行しようって思うような関係なんでしょ、何も知らないの?」
「あの、その……僕にはあんまり込み入った話は、しないので……

隠してないで吐け、という声色で詰め寄ったメイさんだったが、下谷の言葉に首を引っ込めた。それはそれは……。だがそれを見た下谷はここぞとばかりに背筋を伸ばして腰を浮かせた。

「あの、ていうか僕、部屋がないんですけど、どうすればいいんですか」

そういえば。敬さんと菊島さんが顔を見合わせる。葛西と最上が203号室にいるのはいいとして、206号室を閉鎖し通報した以上は以降誰も足を踏み入れるわけにはいかない。というかおそらく下谷の所持品は206号室に置きっぱなしだが、それも諦めるしかない。携帯電話など貴重品は風呂に向かうときに持ち出していたそうなので、そのあたりは問題なし。

「べ、別に僕は犯人じゃないので何を調べられても、困りません、けど、それまでは部屋とか、服とか、なんかそういうのは、用意していただかないと困ります。寒いし、そろそろ寝たいんですけど」

常におどおどしていて弱々しい印象の下谷だが、なかなかどうして言っていることは居丈高だ。敬さんの目つきが厳しくなる。するとロビーに来てからやたらと饒舌な島さんが頬杖のままぼそりと呟いた。

「さっきから思ってたんだけど……君ら友達が死んだっていうのに、よく平気だね」

その言葉に下谷は勢いよく立ち上がり、他の人々は悪寒を感じたように身を縮めた。ロビーは暖房のおかげで暖かいが、静寂が空気を冷やしたような錯覚を覚える。

「へっ、平気じゃ、ないですけど!? ていうか部屋、どうすればいいんですか!」

下谷の顔が真っ赤になってきたので、敬さんが手を挙げて菊島さんを促す。実際新たに部屋を用意することは出来ないので、菊島さんが使用中の仮眠室を譲り渡すことになった。ロビーのすぐそばなので、下谷は案内されると駆け足で飛び込み、すぐに鍵をかけてしまった。

この仮眠室は窓がひとつあるだけの部屋でトイレもない。普段なら深夜でもフロントにはスタッフがいるので、夜勤のスタッフは事務所内にあるトイレや浴室を使うのだが、現在は施錠している。さてそんな事情を説明する間もなく下谷は引きこもってしまった。もし催したとしたら彼が使っていた2階の共同の浴室にあるトイレを使うしかないわけだが、敬さんはじめスタッフの誰ももう構う気がない。

「しかし島くんの言うように、一緒に旅行に来る仲の友人が死んだってのにあれは……
「葛西さんと最上さんもそうですけど、何か隠してる感じがするんですよね」
「どういうこと?」
「全員の言い分が正しいなら、という前提はつきますけど」

島さんは足を組み腕を組み、視線を落とした。

「結局同窓会組の『旅行の目的』は不明なまま。下谷さんの言う『自分は呼ばれただけ、他の3人はよく会ってたかもしれない』も、だとしたら下谷さんを混ぜた理由はなんなのか。もし3人がよく会っていたなら突然割れて葛西さんと最上さんがくっついたのは何故だったのか、それも下谷さんは知ってるはずだと思うんですよ。だけど彼は自分が仲間外れなんだという理由で話そうとしない」

途端に同窓会組が気色悪く感じてきたはぶるりと体を震わせ、牧に身を寄せた。そんなの「友達」でもなんでもないって気がするけど、大人ってそういう関係の人とでもこんな閉鎖的な場所に旅行に来ちゃうものなのかな……

すると今度はメイさんが人差し指を顎に引っ掛けて首を傾げた。ストールがシャラリと音を立てる。

「あの子たちの中で揉めて事件が起こってしまったっていうなら別に私たちはそれでいいと思うんだけど、だからって結局犯行が難しいという点では同じなのよね。例えあの3人が東丸に殺意を抱いたとして、何もここで殺す必要はないし、他にチャンスはいくらでもあるし」

考え込むメイさんに敬さんが突然音を立てて吹き出した。どうしたいきなり。

「なによ」
「すまん、ミステリ書いてても探偵にはなれないんだなと思って」
「失礼な! 私がひとりで書いてるわけじゃないのよ!」
…………ミステリ?」

怪訝そうな顔で口を出した柴さんにメイさんは苦笑い、敬さんが代わって説明をした。なんとメイさん、文筆業と言っていたけれど、実際はテレビドラマの脚本家だった。筆名は秋名メイではなく、それを聞いた全員が名前を知っていた。ロビーがどよめく。

「嘘でしょ、ドラマ見たことあります……
「でも私が1から10まで考えて書いてるわけじゃないのよ。会議で決めることも多いんだから」
「いいんですかこんなところで足止め食らってて」
「ぶっちゃけ行き詰まってここに逃亡してきたと思ったらこれよ。怒られっぱなし」

志緒さんが驚愕の表情で口元に手を当て、身を引いてメイさんを凝視している。部活で忙しくてテレビを見ている時間が少ない牧とですら知っているドラマを手掛けていて、敬さんやスタッフを除いた全員が途端に近寄りがたさを感じてきた。

「でも本当にこういう状況密室殺人とかに心当たりないんですか」
「最近そういうクラシカルなミステリって流行らないのよ。日本人はトリックより人情噺なの」
「人情噺……じゃあ同窓会組の関係性とか推理できないですか」
「だから私は脚本書いてるだけでプロファイラーじゃないんだってば!」

メイさんはシャラシャラ音を立ててストールを体に巻き付けると、隣りに座っている志緒さんの手を取って包み込む。文句は言いつつも請われると断れない性格のようだ。

「確かにあの下谷って子が知ってることを全部話してるとは思わないけど、でもあの子が仲間外れにされてるってのは真実だと思う。もし東丸が私たちの想像通りの人物なら、あんな風におどおどして気弱なタイプは大好物だったでしょうね。上手に飼い慣らしてたんじゃないかしら」

それは想像に難くない。牧やでさえ理解するのは容易だ。東丸は牧のような実力とカリスマ性を持ち合わせたリーダーに向く人物とは思えなかったが、それでも同窓会組ではリーダー格になっていた。志緒さんの証言と合わせて「目立たないがゆえに小さな集団でトップに立ちたがる」というありがちな人物像は簡単に浮かび上がってくる。

「だとするとあの最上って子は面白くないんじゃないのかしら。東丸がいなくなった途端まあよく喋ること。なぜか自分たちのリーダー格におさまってる東丸をあんまり良く思ってなかったのかもしれないわよね。それはおそらく、葛西って子も、さっきの下谷って子も同じなんじゃないかしら」

そして隣の志緒さんに「どう?」と問いかけた。志緒さんは小さく頷く。

「ここ数日、一緒に飲んだり食事をしただけなんですけど、今メイさんが言ったことは分かります。最上くんは東丸くんに対するツッコミっていうのかな、そういうのを欠かさない人だったし、東丸くんはすぐ葛西さんをいじるから彼女もふざけ半分不愉快半分みたいなところ、あったと思います。下谷くんもそう。いつもいじられキャラだけど、それを喜んではいなかった」

同窓会組の内部はあまり仲良しこよしというわけではないようだ。志緒さんは続ける。

「旅行の目的も詳しくは聞いてないです。そういう話題にならなかったから。共通点が少ないので高校時代の話も先生のこととか、有名な同級生のこととか、そういう話ばかりで、あの4人が普段どういう付き合いをしていたのかってことは私にも……

東丸は何か事情を抱えるには充分な疑惑を持てる人物ではあるようだが、少なくとも今の段階ではただの困った客であり、動機の点から言えば身近な友人3人が1番怪しいけれど、かといって実際にどう手を下したかということは見当もつかない。

八方塞がりで全員がまた黙ってしまうと、がおずおずと手を挙げた。

「あの……推理とかじゃないんですけど、さっき島さんが言ってたみたいに、こんな状況で人を殺しちゃうってどういうことなんでしょうか。自分が困るだけだし、もし、その、このホテルの中に犯人がいるなら隠れてるのも怖いと思うし、どうしても嫌いな人だったとしても、そういうことを考えて思いとどまったり、出来ないものなんでしょうか」

の単純な疑問だった。他人に対して腹の底からこみ上げてくるような怒りや憎しみを感じたことがないわけじゃない。けれどこんな閉鎖的な状況で殺害を決行してしまうだけの衝動が理解できない。こんなやつ生かしておけないと思ってしまうような、人をそんな極限にまで追い詰めてしまうものなど想像がつかない。

ちゃんは……若いわね。それに、純粋で誠実」

メイさんは優しい微笑みでを見つめて言った。

ちゃんの言う通り。普通は耐えきれないほどの憎しみを抱えていたとしても思いとどまる。こんなやつ殺しても自分が苦しんで損をするだけ、そう思って実行には移さないものよ。だけど、どこかで『スイッチ』が入るのよ、人って」

牧とがちらりと周囲に目をやると、大人たちは全員納得に俯いている。スイッチって、大人ならそれがなんなのかわかるの? 大人なのにそんな勢いに飲まれちゃうの? 子供の方が自分を抑制できない生き物なんじゃないの……

「計画殺人と衝動殺人は殺意の在不在なんかで区別されることが多いと思うけど、個人的には大差ないと思うのよね。計画殺人はスイッチが入ったまま計画を進めた、衝動殺人はスイッチが入った瞬間に行動を起こした、それだけの違いなんじゃないかって。誰かをこれ以上生かしておけないと思ったのが遅いか早いかだけで、やっぱりどっちも何かのきっかけに背中を押されてしまって後戻りできなかったんだと思うわよ。だからこそ…………それを引き止める何かがあったらと」

大人たちはうんうんと頷いていて、高校生ふたりはまたちょっとだけ居心地が悪くなった。だからそれを自分ひとりでなんとか出来るのが大人なんじゃないの。それじゃあまるで、子供の方が理性的みたいじゃないか。そんなの顔色を読んだか、メイさんの向こうの志緒さんも優しく微笑みかける。

「大人って、そんなに立派なものでもないよ」
「ふふん、ほんとよねえ。私この2日で何回説教されたかわかんないし」
「メイさんも敬さんも正体偽ってましたしね」
「メイさんはバーの高い酒ガブガブ飲むし」
「メイさんいつになっても全館禁煙って覚えてくれないし」
「私ばっかりじゃないの!」

柴さんと松波さんと国竹さんのツッコミでやっとロビーには笑い声が戻った。状況は依然笑い事ではないのだが、様々なことを語り尽くしてやっと緊張が解れてきたのかもしれない。

牧がちらりと大時計を見ると2時30分になろうかという頃だった。こんな荒天だが明け方頃にには晴れる予報で、この時期の日の出は6時くらい。その30分前くらいには雲がなければ空は白み始める。こうして話していればあと3時間くらいなんとかなりそうな気がしてくる。

それに、と体をぴったり寄り添わせているのもリラックス出来ている理由なのではと思った。もう誰もふたりをからかったりしない。の息遣い、身じろぎ、体温、かすかに立ち上る香り、それら全てが今にも消滅しそうな日常と日常の自分自身を繋ぎ止めている気がした。

雪でホテルに閉じ込められて殺人事件が起きても、がいればオレは自分を見失わずにいられる。

普段部活で一緒のときですらは欠かすことの出来ない仲間であり相棒のような存在だが、改めて「がそばにいてくれること」の意味に触れた牧は少しだけ体が暖かくなった。が隣にいるということ、それこそがメイさんの言う「後戻りできない自分を引き止める何か」なのではないか。

もし万が一自分が取り返しのつかない衝動に流されそうになっても、がいれば――

談笑する大人たちを眺めながら、牧はそっとに頭を寄せた――その瞬間、2階から女性の金切り声が響いてきた。ロビーにいた全員が大階段を見上げる。声は悲鳴、そして「助けて」と言っていた。