白蝋館の殺人

12

時間は既に4時を回っていたが、敬さんに連絡を取って起きていることを確認すると、話を聞いてほしいと頼んでみた。すると、まだ眠る気になれなくてメイさん志緒さんと雑談しながらお茶を飲んでいるから、よかったらおいでと返信が返ってきた。

手持ちの服をしっかり着込んだ牧とは部屋を出る前にそっとカーテンの隙間から外を覗いた。まだ空は真っ暗、窓から見える景色は上半分が黒、下半分が白、それだけしか存在しない世界だった。

「風、少し弱くなってきたかな」
「雪はもう降ってないな。空が真っ黒ってことは雲がないのかもしれないし、やっと晴れるのかも」
……帰れるね」
……ああ、一緒に帰ろう」

カーテンを閉じ、静かに部屋を出たふたりは206号室の前を通り過ぎ、208号室をノックした。すぐにドアが開くと、中から温かい空気が漏れ出てくる。部屋の中は目に優しいダウンライトの灯りと少し甘い花の香りで満たされていた。

「どうしたの、怖くなっちゃった?」

メイさんがストールを広げてを迎え入れ、そのまま抱き締めた。

「恋愛相談は厳しいぞ、10代なんて遠い昔の記憶だからな」

敬さんが牧の背を押しつつ、笑った。ふたりは部屋の中に通されると、ベッドの足元に並んで腰掛けた。敬さんは他の部屋にはない大きなひとりがけソファに、メイさんと志緒さんはソファに並んで座っていた。酒を飲んでいるのではと疑っていたが、テーブルの上は本当にお茶だけ。

「すみません、お寛ぎのところ」
「いいんだよ、オレたちだってまだ寝付けなくて喋ってたんだし」
「それでどうしたの、話って」

メイさんが身を乗り出したので、牧は背筋を伸ばして頷く。

「犯人が、わかった気がするんです」

その時の張り詰めた空気をは一生忘れないと思った。緊張と恐怖と胸騒ぎと悲しみ、そしてどういうわけか少しだけ心をくすぐる高揚感。それらが一本の細い糸を伝って体の中に流れ込んでくるような気がした。

お茶のカップを手にしていた敬さんは短く息を吸い込み、声を潜める。

「本人に、確かめたのか」
「いいえ、まだです。だから聞いて頂きたくて」
「証拠は?」
「僕が正しければ、あります。まだ処分できてないと思うので」
「雪は止んだみたいだし、警察が来るまで待てないのか」
「その判断も含めて、相談したいと思ったんです」

敬さんは頷き、カップをテーブルに戻すとソファごと牧との方へ向き直った。

「よし、じゃあ聞かせてくれ。密室の謎が解けたってことだよな?」
「はい。たぶん、これしかないと思うんです」

牧とは立ち上がり、ふたりでバスルームの前に立ち、ドアを開けた。牧が中に入り、一旦ドアを閉め、そしてまた出てくる。開いたドアの影にいたはドアを押さえてその後ろに隠れ潜んだ。

「これなら何とか説明が付きます」
「開いたドアの後ろに隠れてたっていうのか?」
「ちょっと……使い古された手法って感じね」

メイさんは職業柄か懐疑的なようだ。元の場所に戻った牧とはまた並んで腰掛ける。

「マスターキーで部屋に入った時、中は真っ暗でしたし、東丸さんの様子が異様だったから、ドアの影に人がいても気付かなかったと思うんです。事件のショックなのか部屋の明かりをつけるってこともみんな忘れてましたが、もしかしたらライトの電球が割られていたんじゃないでしょうか。僕が踏んだあの薄いガラスみたいなものはそれだったんじゃないかと」

全員が顔を上げると、天井からはレトロな花を模したシーリングライトが下がっていて、かさの中からは白熱球が覗いていた。牧のような高身長でなくても、ベッドの上に立って棒状のもので叩けば充分に破壊できそうな位置にある。

「それに、あの時はみんな遺体の方を見ていました。途中振り返ったのは僕と柴さんだけ」

これは206号室の中に入った人々には共通の記憶である。誰も彼も窓の方を見て呆然としていた。牧と柴さんが振り返ったのも、葛西と最上が乱入してきて暴れたからだ。牧はさらにの無事を確認するためにドアの方を見たが、柴さんは見てもいなかった。敬さんも頷く。

「確かに、オレも部屋に入ってから出るまで、ずっと遺体のそばだった。他には何も」
「そうです。島さんと菊島さんが部屋の中ほどにいて、動いていないはずです」
「私はドアの辺りでずっとそれを見てました。途中移動したのは牧と柴さんだけで間違いないです」

も補足する。特にと国竹さんは部屋に突入した時からドアの付近にいて、敬さんが全員を追い出すまでその場を動かなかった。というより動けなかった。菊島さんなど、葛西と最上が乱入してきてもすぐに反応できずに硬直していたくらいだった。

「じゃあ、犯人は頃合いを見計らってドアの影から出てきた、ってことか?」
「そうなります」
「でもそれだけじゃあ候補は何人もいるよな」
……そうでも、ないんです」

牧は言いづらそうに喉を詰まらせたが、咳払いをして背筋を伸ばした。

「春林さんたちは部屋から出てこなかった。ドアを開けてずっと大きな声を出していましたが、廊下には出てこなかった。下谷さんは風呂の中、梅野さんは眠ってた。その4人を除いて、最後に206号室に現れた人、それが犯人です」

そして牧は右手を上げ、人差し指をまっすぐに正面に向けた。

「志緒さん、あなたです」

はもうずっと志緒さんを見つめていた。彼女は穏やかな、しかし作り物のような無表情で牧の話を聞いていた。身じろぎもせず、呼吸すら忘れたように同じ姿勢。

隣りに座っていたメイさんが思わず身を引いたが、志緒さんは動かない。テーブルの上のカップからほんの僅かな湯気が立ち上っては揺らめいて消えていくだけ。

おそらく全員が黙っていたのはほんの数秒だったはずだが、は何分も経ったように感じていた。寒いのにこめかみにじわりと汗を感じる。やがて志緒さんが口を開くが、唇以外何も動かないように見えた。作り物の、よく出来た精巧なロボットのように。

「どうして、そう思うの?」
「理由はいくつかあります。最後に206号室に入ってきたのがまずひとつ」
「私と国竹さんのあとにメイさん、葛西さん最上さん、それから志緒さんでした」

の補足にメイさんも頷く。着替え途中だった彼女が服を着て206号室にやって来た時、ドアの辺りにはと国竹さんしかおらず、ふたりの後ろから恐々抱きついてきた。

「実は僕は2回後ろを振り返っているんです。1度目はメイさんが来た時。の声が聞こえたのでついそっちを見ました。そしたら葛西さんと最上さんが飛び込んできたんですが、その時志緒さんはまだ来てませんでした。だけど春林さんの怒鳴り声は聞こえてた。次にの方を見た時は、志緒さんが増えてた。春林さんの声も聞こえたまま。室内の様子を把握できてたら、このタイミングで出てくるのがベストです。この場合、下谷さんが206号室にいないことは知っているわけですから」

メイさんがか細い声で「それだけ……?」と呟いた。事実であってほしくないのかもしれない。

「まだあります。その時206号室のドアから、向かいの部屋のドアが見えました。志緒さんの部屋です。僕たちは慌てて飛び出てきたので開けっ放しになっていたのですが、ちゃんとドアが閉まってました。そして、志緒さんはカーディガンを片側しか着ていなかった。僕から見て右側、志緒さんから見たら左側には袖を通していなかった。その状態でメイさんに抱きついていました」

志緒さんは今ジャンパーを着ている。敬さんの指示で全員がロビーに降りた時にはもうジャンパー姿で、以来そのまま。襟元には白いシャツの襟が覗いていて、ボトムは黒のパンツ、靴も黒のスリッポン。カーディガンを中に着込んでいるかどうかはわからない。

「志緒さん、中にカーディガン、着ていますか?」
「ロビーに降りる時にジャンパーに替えたから、着てない」
「なぜ重ね着せずに脱いだんですか? ずっと寒そうにジャンパーをかき合わせてましたよね。それから、に『風邪を引きやすい』と言ったんですよね。なぜ取り替えただけなんですか」

志緒さんが返事をしないので牧は続ける。

「僕は志緒さんが慌てていて、それでカーディガンを片袖しか通していなかったのだと思いましたが、これだけ寒いのにカーディガンが片袖のまま飛び出してきて、だけどドアはしっかり閉めるというのも不自然なんじゃないかと思ったんです。防犯のためにドアはしっかり閉めなくては、と思う余裕があるならもう片方の袖くらい通すのではないかと。つまり、志緒さんはカーディガンを片袖しか着ていなかったんじゃなくて、半分脱ぎかけていたんだと思ったんです。カーディガンには、返り血がついていたんじゃないでしょうか。や国竹さん、メイさんはずっと寒さと恐怖で抱き合ってた。抱きつかれて返り血がついてしまったらその場でバレるから脱いだのではないでしょうか。もし僕が間違っているなら、カーディガンを見せて下さい」

志緒さんの白い手がジャンパーの裾をギュッと掴んでいる。牧の瞬間記憶が異様に正確であることは既に証明されているからか、敬さんもメイさんも口を挟まない。ので今度はが口を開いた。

……まだあるんです。さっき、私は志緒さんとふたりで共同浴場にいました。国竹さんとメイさんが1階のお風呂の準備に行って、菊島さんがお風呂を洗っている間、ふたりで喋ってました。その時に志緒さん、覚えてますか、志緒さん『頭を殴られて血の海』って、言ってた」

の言葉に反応したのは敬さんだった。背もたれに沈めていた体を跳ね上げる。

「ですよね、これは牧と、敬さんと柴さん、そして犯人しか、知らないはずのことですよね」
ちゃんも知らなかったことだよな……?」
「はい。ついさっき知りました。牧が志緒さんなんじゃないかと言うので、気付いたんです」
「血の海だったのは、頭に怪我したからだったの……?」

そう言いながらメイさんはストールがちぎれるんじゃないかと言うほど強くかき合わせた。東丸の遺体に近付いたのはわずかに3人、牧と敬さんと柴さんだけ。彼らは東丸がもう「救命の余地はない」とは言ったけれど、一体どんな理由で致命傷を負っていたのかということは話さなかった。

「後ろからはお尻と足しか見えなかったから……私は……
「手すりに倒れ込んでたし、お腹を傷付けて出血したのかと思いませんでしたか」
「そう、オレも紳一くんに止められるまで体ばかりを見てた」

言いながら敬さんはスマホを取り出し、操作してからメイさんに手渡した。

「一応あの時の様子は撮影したんだ。あれじゃ窓は閉められないし、そしたら凍るだろうから」

メイさんはスマホを覗き込んだがすぐにテーブルの上に置いてしまった。このことは牧も知らなかった。敬さんが「認識を統一する」ために柴さんを呼び戻したのは、柴さんに「夏川敬は遺体に一切手を触れずに撮影だけ行った」という証人になってもらうためだった。

「オレにしてみれば迷惑な話だ。オレが受け継いだものの中でもこの白蝋館は特別なものだったのに、それが殺人事件のあったホテルになるなんて。だからこっちは被害者なんだってことが証明できる証拠が欲しかったんだよ。だから隈なく撮影しておいた」

志緒さんは何も言わない。

「志緒、もし事実なら、凶器には当然君の指紋が残ってる。いずれバレる」
「私は何も触ってないので指紋なんかありませんよ」
「だけどオレは見たし、写真にも残ってる。凶器にははっきりと――
「嘘、布に指紋なんか――

メイさんが両手で顔を覆って体をふたつに折り曲げてしまった。今度こそ志緒さんは知るはずのないことを口にした。

ちゃん、凶器はね、206号室に置いてある置物だったんだよ。アトラス像」
「アトラス?」
「ギリシャ神話の神様とでも言えばいいかな、アトラスが球体を下から支えている」

敬さんはスマホを手繰り寄せるとに手渡した。当丸の遺体の足元に転がっている「凶器」、それはかなり大きな金属製のアトラス像の置物だが、土台はビロードのような布地が貼り付けられている。それがはっきりと撮影されている。アトラスが苦悶の表情で下から支えている球体には、黒ずんだ血液と思しきものがべったりと付着していた。

「おそらく40センチ以上はあるんじゃないか。土台を持って振り回せば充分凶器になる」
「布って本当に指紋が残らないんですか?」
「さあどうだろうね、オレは専門家じゃないからわからないけど」

状態によっては布からも指紋は採取できるが、それを証拠に犯人を追い詰める必要はなさそうだった。志緒さんは短く息を吐くと、ゆったりとソファに背を預けた。

「あとはカーディガンを始末するだけだったのに……
「志緒……どうしてよ……!」
「殺したかったから」
「だって、あんたあんなやつ殺したって、あんたが苦しむだけじゃない……!」

顔を上げたメイさんは両手をギュッと握り締め、目を真っ赤にして涙を流していた。それをちらりと見た志緒さんは表情を変えるでもなく、平然と答えた。

「私、苦しくなんかないです。あいつを殺せてよかった」

メイさんはまた体を半分に折り曲げて嗚咽を漏らした。敬さんも顔を逸してしまったので、志緒さんは牧とをまっすぐに見据えて、ほんの少しだけ柔らかな表情になる。

「他の3人も殺したかった。だからどうしても逃げたかったんだけど……残念」

もう風の音も聞こえなかった。