白蝋館の殺人

3

「もう少しお待ち下さいね、ディナーが終わり次第作りますからね」

国竹さんがくれた軽食などメイさんたちと喋っている間になくなり、早くも牧の腹は呻り始めていた。ダイニングでは地元の食材を使ったフレンチのコースが振る舞われているらしいのだが、とりあえず牧とは待機である。

様子を見に来てくれた国竹さんが焼き菓子をいくつか恵んでくれたのだが、これも紅茶と一緒にすぐに消えた。はそこそこ落ち着いてきたけれど、牧はまだ腹ペコのままだ。

「みんなはフレンチかあ~。私たちは何になるんだろう」
「なにぶん飛び込みだからなあ。量が多いだけの軽食かもしれない」
「せめて温かいスープとかあればいいんだけど」

お風呂と紅茶で温まったけれど、10センチ以上の雪に見舞われることがほとんどない地域で育っているので想像以上に足元が冷えてくる。これは国竹さんやメイさんに服を借りるべきなのでは……は悩んでいた。

「でも合宿用に荷造りしてきたんだろ?」
「でもこんな大雪は想定してなかった。日中はジャージのつもりだったし」
「まあ、そうなんだよな……
「牧は寒くないの」
「まだ平気」

ふたりは玄関横の窓を覗き込んでみる。外はすっかり暗くなっていて、けれど積もった雪に室内の明かりが反射して青白い世界になっている。しかし勢いの強い牡丹雪は相変わらずで、しかも少し風が出てきたらしい。牡丹雪が舞っている。

またちょっと不安になってしまったふたりを国竹さんが呼びに来たのは19時50分頃のことだった。まだ作っている最中だけど、ディナーを終えた宿泊客が何組かバーに移動したので、席で待てるという。

玄関ホールから伸びる廊下の右側を行くとダイニングとバーがある。ダイニングに通されたふたりは小さく歓声を上げた。ダイニングというよりは、ファンタジーや歴史ものの映画に出てくるような「大広間」に見えたからだ。

巨大な暖炉、臙脂色の絨毯、使い込まれて深い色合いのテーブル、そしてまたシャンデリア。洋服にスニーカーの日本人が食事をしていなければ、舞踏会が始まってもおかしくないような部屋だった。というか宿泊客だけが浮いている。

そこでテーブルについて暫く待つと、「どうせ飛び込みだし」と考えていたふたりの想像を遥かに超える料理が出てきた。お腹空いてるだろうからまとめて出しますね、と国竹さんが運んできてくたれのは、牧やには普通に「豪華フレンチ」に見えた。

「いや私そんなフレンチとか食べ慣れてるわけじゃないから知らないけど」
「オレもよくわからないけどとにかく助かったし、カレーよりこっちの方が絶対美味い」

何しろメインは和牛のフィレステーキだった。しかもけっこう大きい。さらに国竹さんは牧に「ご飯はおかわりできますよ」と言ってくれた。いやもう最初から大盛りでお願いします。

だけでなく待望の温かいスープもあったし、熱々のアップルパイというデザートまでついた。未成年なのでもちろんアルコールはないけれど、その代わり地元産のフルーツ100%のジュースがボトルで来た。なんかもう、全部うまい!

なので全部平らげる頃には牧もも、不安や疲れやストレスをすっかり忘れていた。おかしいな、試合と合宿だったはずなのに豪華フレンチっぽいディナーで満腹だ!

そして満腹になったが国竹さんに服を貸してもらえないかと相談していると、またメイさんが現れた。みんなすっかりバーに移動しているのでふたりも来ないかという。

「でも、僕たちは未成年なので」
「あら、アルコールを飲ませてあげるなんて言ってないわよ」
「私はまだ仕事があるので、みなさんと過ごされてはどうですか?」
「一緒に待ってましょ。アルコール抜きでもカクテルは美味しいわよ」

一応遠慮したふたりだったけれど、部屋に戻っても気まずい時間が待っているだけだ。それに、ダイニング同様バーは暖炉があるそうで、部屋にいるより暖かそうだ。

そして何より「話がついてるので、無料です」だそうなので。

「そりゃあ先生がタクシー会社かなんかと交渉したんだね。遠慮しないで頼んだらいい」

メイさんに連れられてバーに足を踏み入れたふたりは、彼女と面識のある人々の集まるテーブルにつかされた。先程の柴さんと島さん、そして新たに男性がひとり増えていた。ターコイズの飾りがついた帽子を被り、髪は長く、肌は浅黒く無精髭で、メイさんのようなシルバーアクセサリーをたくさん付けた40代くらいの男性で、島さんに「敬さん」と呼ばれていた。

夏川と名乗った敬さんは、牧との事情を聞くと組んだ足に組んだ両手を乗せてゆったりと笑った。メイさんと並ぶと同じ趣味のカップルに見えるが、そうではないらしい。そして敬さんも一人旅。

「こんな趣味性の強いホテルだから、団体客の方が珍しいんだよ。観光地も遠いしね」
「私たちみたいな一人旅か、夫婦かカップル、それがほとんど」

だが、バーの別のテーブルでは団体客が大いに盛り上がっている。がそれをちらりと見たことに気付いたメイさんがくすりと笑う。

「ああいうのは本当に珍しいの。あんな風に笑う志緒は初めて」
「しお?」
「右側に白いニットの子がいるでしょ、あの子も一人旅で毎年来るのよね」
「偶然高校の同級生と一緒になったらしくて……昨日からずっとあんな調子でな」

メイさんに志緒と呼ばれた女性はその高校の同級生だという4人の男女と楽しそうに喋っているが、敬さんは呆れ声だ。確かにうるさい。そして全員顔が真っ赤で、既に大量の酒を飲んでいる模様。

「あとはさっきディナーの時にご夫婦が一組いたね」
「今夜はそれだけじゃないかな。小さいホテルだし、それで満室」

牧と、メイさん、柴さん島さん、敬さん、志緒さん、4人組、そしてご夫婦。全部で8部屋しかないということらしい。個人の持ち物と思えば豪邸だが、ホテルだと思うと小規模だ。

牧とは寒さに凍えていてよく覚えていないけれど、メイさんたちの話によれば、この白蝋館は地上3階建てで、客室は2階。廊下を挟んで向かい合った8部屋で、館の裏側にあたる部屋は少しだけ広く、エキストラベッドの追加が可能。その他に全室大きな違いはないらしい。

「このホテルではその裏側の部屋を取ることが大事なんだよ。表側より眺めがいいんだ」
「敬はそういうけど、私は表側の方が好き。遠くの街の夜景が見えるの」
「今日は雪でなんも見えないけどね!」

柴さんのツッコミで一同は大笑い。彼らの話によると、どうやら牧とはその「裏側」の一室のようだ。と、そんな話が出てきたのでふたりはまた敬さんに「カップルじゃないのに同室で大丈夫か?」と訝しまれた。

「それはそうなんですけど、毎日のように一緒なので、そういう意味では心配ないです」
「君は女の子だからそうかもしれないけど……

敬さんがちらりと牧を見るので、は背筋を伸ばして笑顔を作る。

「大丈夫です。世界で1番信頼できるので」

なりに牧へのあらぬ疑いをフォローしたつもりだった。だが、敬さんは髭の生えたあごを指で撫でつつ、困ったような顔で笑った。

「そうか。紳一くん、気を落とすなよ。君はすごくかっこいいから」

牧も苦笑い、メイさんと柴さんも苦笑い、島さんはポカンとしているに「気にしなくていいよ」と声をかけてくれた。だが意味のわからないはキョロキョロするばかり、若干居たたまれない空気が流れた。ので、メイさんがバーカウンターの中にいるスタッフに声をかけた。国竹さんではなく、なんだか強面で人相のよろしくない男性だ。

「ねえ隼人くん、美晴ちゃんまだ終わらないの」
……と思いますが」
「別に飲ませたくて待ってるわけじゃないのよ。菊島さんに言ってきてくれない」
……かしこまりました」

30代くらいと思しき男性のスタッフはにこりともせずに少しだけ頭を下げると、この世の全てを憎んでいるような顔のままバーを出ていった。

「隼人と美晴ちゃんは忙しいんだから、バーは梅さんがやればいいだろうにな」
「梅さんがそういうことやってくれるような人ならもっとスタッフいるわよ~」

スタッフの内情ともなると、牧とだけでなく、柴さん島さんもよくわからない。

「さっきの男の子が松波隼人、雇われ責任者のおっさんが菊島ええと、なんて言ったっけ、敬」
「下の名前まで覚えてないよ。たぶんカズなんとかだったはずだ」
「まあいいわ、菊島支配人。美晴ちゃんはわかるわよね。あと梅さんてのはシェフのことよ」
「梅野って言って、腕はいいんだけど、ちょっと性格がね」

柴さん島さんはうんうんと頷きながら酒を傾けているが、牧とは内心ちょっと首を傾げていた。いくら常連と言っても、普通こんなにスタッフと親しくなるものなんだろうか。

すると、高校の同窓会テーブルからひときわ大きな笑い声が上がった。は驚いて肩をすくめ、メイさんと敬さんは顔をしかめた。

「あの子たち、ここを駅前の居酒屋かなんかと勘違いしてるんじゃないの」
「まったく、志緒まで大はしゃぎじゃないか。部屋でやられるよりはいいけど」
「そういえばちゃんたちの部屋の並びだったかしら」

だが、さすがにその志緒さんが気付いて場を宥め、立ち上がって近付いてきた。顔が真っ赤なことを除けば、物静かそうな女性に見える。

「ごめんなさい、つい昔話に花が咲いちゃって」
「それはいいけど、もう少し声を落としてくれると嬉しいな」
「みんなかなり飲んでるから、出来るだけ早めに引き上げるようにしますね」

志緒さんはメイさんと敬さんに手を合わせてペコペコと頭を下げると、また戻っていった。が、志緒さんの「注意」はあまり効果がないようで、また大声が上がり始めた。敬さんのため息がテーブルの上の紙ナプキンを揺らす。

だが、そこにさきほど出ていった松波さんと国竹さんが戻ってきた。松波さんは早速同窓会から酒のおかわりを頼まれ、国竹さんはそそくさとに駆け寄ってきた。

「遅くなってごめんなさい、やっぱり何かお貸ししますか?」
「はい、お願いします」
「じゃあ女子だけで行きましょうか。紳一くんはまだここにいていいわよ」

メイさんに手を引かれて立ち上がっただったが、ひとり残されても困る牧は一緒に行こうと腰を浮かせた。だが、その牧の肩を敬さんと柴さんがぐいっと押し戻してしまった。女子3人がキャッキャ言いながらバーを出ていくのを見送った牧の両側から敬さんと柴さんがニュッと顔を出す。

「女の子には女の子にしかわからん事情があるからな」
「紳一くんがいたら出来る話も出来ないだろ」
「そ、そうですね……

牧は両側から慣れない風体の大人の男に詰め寄られてしどろもどろだ。というか柴さんは割と筋肉系、敬さんもすらりとしているが肩幅が大きくてしっかりした体つきをしているので、普段巨体を見慣れている牧でも圧を感じる。

「ていうかちゃん警戒心なさすぎ! いいの紳一くんあれで」
「世界で1番信頼できる、って褒め言葉じゃないよな」
「えっ、えーと、その」
「てかまずほんとにただの友達なの、君ら、マジで」
「えーと」

なんと答えたものやら、牧は頭を掻きっぱなしだ。向かいに座っている島さんはニヤニヤするばかりで助けてくれる気がなさそうだし、どう答えても囃し立てられるのは変わらなそうだ。かといって過去にあったことをベラベラ喋るのも気が進まないし、ここだけの話になりそうもない。

「その……春から3年生でまだ1年残ってて、既に2年間一緒に戦ってきた大事な仲間なので」
「いや、そーいう建前はいいの。紳一くんはちゃんのあれ、いいのかって話だよ」
……はい、いいんです」
「いいのか。それはすごい」
「もしかしてちゃん好みじゃない? そもそも興味ないとか?」

どうにも逃げ切れなくて、牧は自分の頬が熱を帯びてきたことに気付いた。興味がないなんて、そんなことはないけど、出来ればはっきりと自覚したくない感覚なのだ。を守るためにも、自分たちの3年間を守るためにも、そういう感情は厳重に隠しておかなければ。

「建前じゃなくて、本当に大事な仲間、なんです」

それは牧の本音だった。今のバスケット部には欠かすことの出来ない大事な仲間だ。けれど、身を引いてソファに背を沈めた柴さんと敬さんはにんまりと唇を歪めた。

「紳一くん、それって、褒め言葉じゃないけど、わかってる?」

ニヤニヤしているだけだった島さんの言葉に、今度は牧がポカンとする羽目になった。

「生理用品なんかはストックがあるので、もし生理来ちゃったら言ってくださいね」
「紳一くんと同じ部屋が不安だったら私の部屋に来てもいいわよ」

一方こちらはバーを後にした女子組である。菊島支配人は仮眠室と言ったが、スタッフ用の個室が4つあり、スタッフに女性が国竹さんしかいない都合で一室は彼女専用になっており、大量の私物が持ち込まれていた。自宅はたちが降り立った駅の方にあるそうだが、ほとんどの時間をこのホテルで過ごしているので、別棟にでも寮があれば助かるのにと苦笑いをしている。

「ていうか美晴ちゃん、私もこんな雪初めてなんだけど、大丈夫なの」
「それが……予報では明日の夕方くらいにならないと止まないみたいで」
「えっ!?」

助けてくれる大人の女性がいることに安堵していたは、国竹さんの言葉を聞いて甲高い声を上げた。明日には部員たちと合流できると思っていたのに。安心しきっていたの心にざわざわと不安が騒ぎ立てる。それに気付いたか、国竹さんがにっこり笑顔を作る。

「わ、ごめんなさい。でも大丈夫、大雪になることは珍しくないし、備蓄はしっかりしてあるからね」
「美晴ちゃん、洗濯機とか乾燥機とか、借りられるの」
「それも大丈夫です! ランドリー室ありますから、言ってくださいね」
「言ってくださいねって有料でしょ、そういうサービスって」
「こういう時は別です。自分でやってくだされば無料」

とにかく国竹さんは明るくて元気だ。ほんのりと不安を感じているらしいメイさんにも屈託がない。は国竹さんのモコモコ靴下とショール、裏起毛のパーカーとレギンスも借りた。普段なら合宿はジャージと部Tシャツの繰り返しだけで足りてしまうし、紅一点なので部屋はいつもひとり、何なら下着だけで過ごしていても問題がなかった。

……ていうかちゃん、本当に彼とカップルじゃないなら、その、平気?」
「私は怪しいな~って思ってるんだけどねえ」
「メイさん、ここ禁煙」
「んもう、吸えるところがどんどん減っていくじゃない」
「えっ、えーと」

牧に続いてもしどろもどろだ。説明しづらい。

「確かに同じ部屋になったことはないんですけど、大会とかでずっと一緒なのはいつもなので」
「付き合ってもいない男の子と一緒の部屋なんて嫌だな、とか、そういうのはないの」
「紳一くん真面目そうだけど、男の子はわからないものねえ」
「そういう心配は、ないと思います、はい」

それは確実なのでははっきりと否定した。なぜなら、

「もし私の同意なく何かあったとして、それで困るのは自分だし、今まで積み上げてきたものが全部台無しになっちゃうし、監督や他の部員たちにも迷惑かかるので、そういうリスクの高いことはしないと思います。特に今年は……最後の年なので」

結局と牧の最大の共通項はこの「3年生の時にインターハイ優勝」なのだった。これがふたりの目標であり、夢であり、何よりも大事なものだった。それを脅かす一切のことには関わりたくない。だから一応このの「牧は世界一安全」は間違いではない。

「まあそういう事情なら心配ないかな。何かあったらすぐにここに来てね」
「はい、ありがとうございます」
……ねえでもちゃんは紳一くんのことどうなの、男の子として」

男の子として、で締められたので、は思わずむせた。メイさんは色っぽい唇をほんのりニヤつかせている。国竹さんもつられたようで、片手で口元を覆っている。男の子としてと言われてしまっては、事情も何も関係なくなってしまう。

は国竹さんに借りた服をギュッと抱き締め、首を傾げながら唸った。

「ええとその、すごくいい人なので、悪い感情はないんですけど」
「あら~でもいい人って褒め言葉じゃないわよねえ~」
「メイさんその顔やだー」
「だからといって無理に気持ちを押し込めてるとかそういうのもないですし……

メイさんと国竹さんは楽しそうだが、は悩む。あれはふたりの決意の決断だったのだ。無理はしていない。だから突然「男の子として」と言われると悩んでしまう。一度は本心から惚れた相手だけれど、インターハイの優勝のためには今でも特別な関係はいらないと思っている。

悩むにニヤニヤを抑えきれないメイさんは首を突き出す。

「そんな難しい話じゃないわよ、付き合う相手としてアリかナシかって言ったら、くらいの話よ」

何も大人たちはふたりの微妙な関係の詳細を知りたいわけではない、ただ目の前の真面目な高校生の男女が親しげにカップルではないと言い出すので、突っついてみたくなっただけなのだから。は改めてそれに気付くと、腕を緩めて顔を上げた。そりゃ決まってる。

「それで言うなら、アリです」

しっかり蓋をして隠してある心の奥底には牧への強い恋心がある。それは間違いない。

の断言にメイさんと国竹さんは悶えているが、どうだろうか、正直に言ってしまったら重い恋心を抱えているはずの心が、ちょっとだけ軽くなったような気がした。