白蝋館の殺人

8

それは悲鳴というよりは絶叫に近かったし、恐怖に怯えた色をしていて、牧の耳にはすぐ隣の部屋から聞こえたような気がした。ふたりの部屋は左隣が柴さん島さん、右隣が同窓会組の男性3人。どちらも男性だけなので「隣の部屋」から聞こえてきた可能性は高い。

「何だ今の」
「男の人の声だったよね?」

キスどころではなくなってしまったふたりはそのままドアを開いて廊下に顔を出した。すると廊下の一番奥からラフな服装の敬さんの顔が覗いた。彼にも聞こえたらしい。ということは――

「聞こえたか?」
「はい。じゃあここ、でしょうか」

白蝋館の客室ドアは内開きなので、牧は半身を廊下にはみ出させた状態で隣の206号室のドアを指差した。首を傾げていた敬さんだったが、彼が出てきたので牧も206号室のドアの前まで行ってみた。相変わらず外は風が強く、大階段のステンドグラスにぶつかる音が響いているので、もし206号室から音が漏れ出ていても聞こえそうにない。敬さんは静かにドアをノックしてみた。応答なし。

「こんな時間にすまん、ちょっといいか。隣の夏川だけど」

その声が聞こえたのか、ジャージ姿の柴さんと島さんが顔を出した。なのではふたりと一緒に206号室の前まで移動した。敬さんがノックを繰り返しているが反応はない。

「どうしたの?」
「たぶんここ……206号室からだと思うんですけど、なんか悲鳴みたいな声が聞こえて」
「悲鳴? 酔っ払って騒いでるんじゃなくて?」
「すまんが安全確認させてほしい、起きてるか」

敬さんがそう呼びかけた次の瞬間、ガラスが割れるような大きな音が聞こえてきた。

「おい、大丈夫か! 何があった!」
「開けてください!」

ガラスの割れるような大きな音は3度響き渡った。敬さんと牧は大きな声で呼びかけながらドアを叩く。やはり反応はない。すると牧と敬さんの声が聞こえたのか、国竹さんがすっ飛んできた。

「どうしたんですか!?」
「あの、あの、さっき悲鳴が聞こえて、今ガラスの割れる音が」
ちゃん、少し下がって」

牧たちと一緒に柴さんがドアを叩き始めると、中で物騒なことが起こっているかもしれないと考えたのか、島さんがと国竹さんの行く手を遮った。そこに今度は菊島さんが青ざめた顔でやってきた。

「何事ですか!?」
「菊島さん、マスターキー! 206! 大至急!」
「はっ、はいい!」

今来たばかりの菊島さんは敬さんのその言葉にとんぼ返り、ぜいぜい肩で息をしながらも30秒ほどで戻ってきた。またパニックを起こしているのか手が震えている菊島さんからマスターキーをひったくった敬さんがドアに鍵を差し込み、ノブに手をかけると廊下に冷たい風が一気に流れ込んできた。

ということは窓ガラスが割れたのか。敬さんを先頭に牧と柴さんがドアを押し開けて部屋の中に飛び込むと、さらに強く冷たい風が吹き込んできた。部屋の中は真っ暗、「裏側」の客室にしかない観音開きの掃き出し窓は見えず、まるで額縁の中の絵画のように青白い雪景色が見えた。

「裏側」の各部屋の掃き出し窓はしかし、開いても窓の開閉が出来る程度の狭小なバルコニーがあるだけなのだが、そこに人らしき影があった。体を折り曲げて手すりに腹からだらりと倒れ込んでおり、臀部と足しか見えない。

「大丈夫ですか!」
「何があった!」

牧と敬さんと柴さんはその人らしき影に駆け寄って覗き込んだ。だが、返事はない。島さんは部屋の中ほどで止まり、と国竹さんはしっかりと抱き合いながら開いたドアのあたりで固まっていた。あとから入ってきた菊島さんも島さんと同じ位置で止まって呆然としている。

「敬さん柴さん待って下さい、これってもう無理なんじゃ……出血量が」
「これは……無理だな。救急車も呼べないし、頭がこれじゃどうにもならん」
「中身もずいぶん飛び出てるな。敬さん、これもう触らない方が……

窓辺の牧たちは寒さにかじかむ唇で囁き合いながら状況を確認していた。そこに松波さんが飛び込んできたのだが、それに気付いた島さんに止められてやはり呆然としていた。すると今度はシャラシャラしたアクセサリーの音と共にメイさんの声が聞こえてきて、と国竹さんの背中に抱きついてきた。

「何よこれ、どうなってるのよ」
「わ、私たちも、何があったのか……
「悲鳴が、聞こえたんです、それからガラスが割れる音がして」

その声が聞こえたのか、人影を覗き込んでいた牧が体を起こして振り返ったのだが、そこに今度は葛西と最上が飛び込んできて大きな声を上げた。葛西の方が透けそうな薄手のキャミソール姿なので全員ぎょっとしている。

「何よこれ! ちょっと待ってどういうこと!?」
「恭介じゃないのかあれ、何があったんだよ! 勝は!?」
「ダメです、近寄らないでください」
「はあ!? 何言ってんの!? 早く救急車呼んでよ!」

ふたりは止める島さんと松波さんに向かって喚いていたが、廊下の向こうからは春林夫婦の夫の方の怒鳴り声も聞こえる。だが怒鳴るだけでここまでやって来るつもりはないらしい。声が遠いままだ。牧と柴さんが加勢しようと振り返ると、部屋の中ほどに暴れるふたりと止めるふたり、その傍らでは菊島さんがまだ硬直したままだ。支配人何やってんだよ。牧は呆れつつ一歩進み出た。

「ここから先に入らないで下さい」
「何言ってんだクソガキ、離せ、そこどけ!」
「いいから下がって! ていうか騒ぐな!」

つい一緒になって大声を上げた柴さんが敬さんに呼び戻されたので、牧はそれを潮にその場を離れた。ちょうど志緒さんが来たところだったようだが、牧はの元に駆け寄り、すぐに引き寄せてその冷たい体を抱き締めた。志緒さんはカーディガンを片袖しか引っ掛けておらず、派手なストール巻きのメイさんに抱きついている。怖いのと寒いのとで女性陣は全員ガタガタ震えっぱなしだ。

そんな彼女たちを見ているだけで寒気がしてくる。の体も冷え切っている。牧はジャケットを脱いでに着せかけ、また強く抱きしめた。

「牧、どうなってるの」
「もう少し待ってくれ。敬さんが話すと思う」
「どうしよう、怖い」
「大丈夫だよ、ひとりにしてすまん、もう離れないから」
「牧、私たち大丈夫だよね?」
「当たり前だろ。大丈夫、オレたちは関係ない」

もう照れくさいだの自分たちにはインターハイがあるだのなどという普段の感情は頭になかった。は牧の体を力いっぱい抱き締め、彼の胸に顔を押し付けた。牧もしっかり抱き返し、の髪に鼻をうずめて静かに息を吸い込んだ。そうやっての香りを嗅ぐと僅かでも気持ちが落ち着くような気がして。

その傍らでは、やっと動けるようになった菊島さんも一緒になって葛西と最上を廊下に押し出していた。ふたりはまだああだこうだと喚いていたけれど、やがて追い出され、そのあとから志緒さんメイさん国竹さんも部屋を出た。牧はを促してそれを追い、廊下で敬さんを待つ。

遅れることほんの1分ほどで柴さんと敬さんが出てくると、敬さんはドアを閉めてマスターキーで施錠し、大きく息を吸い込んでから振り返った。ずっと窓辺にいたので吹き込む雪で髪や肩が真っ白だ。

「ねえ、どうなってんのよ、恭介は――
「今からここは閉鎖する」
「はあ!?」

島さんと菊島さんに両側から押さえられていた葛西はまた甲高い声を出し、体を揺すって逃れようとした。敬さんはゆったりと手を差し出してそれを止め、辺りを見回してから言った。

「あれは東丸さんで間違いないと思う。おそらく亡くなってる。もう助からない」

国竹さんと志緒さんが息を呑む音が響く。そこへやっと春林夫婦もやって来たが、全員敬さんに注目していて気にもとめなかった。

「オレと紳一くんと柴くんで確認した。万が一完全に亡くなってないのだとしても、この雪で救急搬送出来ない以上、救命処置は取れない状態だった。それに、素人目に見ても事故や自殺じゃない。だから206号室は現場保全のために閉鎖する。警察がここに来られるようになるまで、どんな理由があってもこの部屋には誰も立ち入らないこと」

全員ぽかんとしているので、今度は菊島さんがおずおずと進み出てきた。

「これはですね、当ホテルの、エマージェンシー対応ということになりまして、つまり緊急性の高い非常事態ということでして、わたくし支配人の権限で206号室は今から閉鎖いたしまして、なおかつお客様方には非常事態ということをどうかご理解頂きまして、お客様ご自身の安全のために、スタッフの指示に従ってくださいますようお願い申し上げます」

斜めに傾いた菊島さんに説得力はないが、これは支配人のまっとうな判断であり、さしもの葛西と最上、春林夫婦も反論はしなかった。だが限界だったのだろうか、菊島さんは敬さんに何やら囁いて一歩下がってしまった。

「ひとまずロビーに下りてほしい。そこで話そう」
……いや、ていうかなんであんたが仕切ってんの?」

菊島さんの様子を見ればわかりそうなものだが、最上がそう声を上げると春林夫も大きく頷いた。敬さんは腕を組んでわざとらしくため息をついた。

「少し頭を冷やしてくれないか。今この206号室では、密室殺人が起こったんだぞ」

その言葉に廊下は再度静まり返る。密室殺人――

「言葉は良くないが、状況的にはそうなる。悲鳴が聞こえた時、鍵はかかってた。菊島さんがマスターキーを持ってきて開けた時、中には誰もいなかった。窓は全開だったけど割れる音はその直前だったし、それ以前にこの雪と風の中を外から侵入できるはずはないと思うが」

たまたま事件に遭遇しただけの16人にとって、確かなことがわからない以上、これは現状敬さんの言うように「密室」と言えた。何らかの手段で外側にいながら内側の鍵を閉める方法などがあれば話は別だが、それは素人が勝手に調査していいことでもない。

「だから……こんなこと言いたくはないが、犯人は、この白蝋館の中にいる可能性が高い」

この16人の中に、と言わなかったのは敬さんの慎重な気遣いだ。そんなことを言おうものなら、また誰が暴れないとも限らない。あるいは未だ見知らぬ誰かが館内に潜んでいる可能性もゼロではないかもしれないし、ただ今は全員で集まることが肝要だということが伝わらないとならない。

「だから一旦ロビーに集まろう。隼人、梅さん起こしてきてくれ。同窓会組もひとり足りないんじゃないか。安全を確認したいから悪いけど美晴ちゃんと柴くん頼む。他はそのままロビーに。部屋には羽織るものを取りに戻るくらいにしておいてくれ。鍵を必ずかけること」

葛西と最上、春林夫婦は不服だったようだが、他の全員がすぐに従ったので渋々大階段に向かった。

捜索に出た国竹さんと柴さんは早々に共同の浴室を使用中の下谷を発見、柴さんが後を引き受けたので国竹さんは事務所に駆け込んで館内の暖房の出力を上げ、松波さんの応援に向かった。

松波さんに起こされた梅野さんは案の定すさまじい不機嫌で、スウェットにスリッパのまま大あくびでロビーにやって来た。フロントでは菊島さんと敬さんが通報していて、梅野さんを引っ張り出してきた松波さんと国竹さんは急いでお茶の用意をしてきた。

最後に下谷が大階段を焦って下りてくると、やっと東丸を除く全員が揃った。ひとまず東丸以外に危険な目に遭遇した人物はいない様子だ。いわゆるパジャマ姿なのは梅野さんと春林夫婦のみ。あとは全員私服であり、に至ってはまだドレスのままだった。

菊島さんと敬さんは通報を終えると、カウンターから出てきて階段のあたりに立ち止まった。

「お察しの通り、警察は来られない。事情は説明したけど、現場は閉鎖で全員固まっているようにという指示しか出せないって感じだったな。無理もないが」

そう言う敬さんの背後では、また強い風がステンドグラスを揺らしていた。

「さっき外も見てたが風がかなり強い。雪はだいぶ減ったようだけど、どうだかな」

だがそこで、いっそ睨んでいるような表情の最上が唸るような声を上げた。

「だから、さっきから何なんだよおっさん。なんであんたが仕切ってんだ、って」
「そ、そうだ、そこの支配人は何をしてるんだ」

春林氏も便乗して敬さんに人差し指を突きつけた。敬さんはため息をひとつ。

「オレがこの白蝋館の所有者、オーナーだからだよ」

これにはと志緒さんと柴さん島さんの驚く声が上がった。だがスタッフ全員はもちろん、メイさんも驚かなかった。島さんの読みは遠からずだったようだ。

「菊島さんは支配人だが、オレがいる以上はオレの判断に従ってもらいたい。安全のためだ」
「はあ? あんたが都合よくコントロールしたいからじゃねえのかよ」
「そ、そうだ! こんな物騒な事件が起こるなんて、安全管理はどうなってるんだ!」
「こんな事件、どうやって防げっていうんだよ。迷惑なのはオレも同じだ」

敬さんの正直なところだったのだろう、彼は言いながら階段に腰掛けて髪をかきむしると、国竹さんの差し出すお茶を受け取り、一口含んでからまた話しだした、

「イライラしてるのが何人もいるようだから状況説明をしておく。さっきも言ったように、突然男の悲鳴というか大きな声が聞こえて、それでオレと紳一くんがまず廊下に顔を出した。その時、廊下には誰もいなかった。というか悲鳴が聞こえたのも両隣のオレと紳一くんちゃんだけだったんだろう」

これには柴さんと島さんがうんうんと何度も頷き、自分たちがドアを開けたのは敬さんと牧の声が聞こえたからだったと言い出した。牧との203号室を挟んだ201号室のふたりには、悲鳴は聞こえなかった。すると志緒さんとソファで寄り添っていたメイさんも手を上げた。

「私もそうよ。ちょうど着替えてたところだったの。敬と紳一くんの声の様子がおかしいから……
「そのあと、中からガラスが割れるような音が聞こえてきた」
「僕たちの203号室のドアが開けっ放しだったので、はっきり聞こえたんだと思います」

牧も言い添える。さきほど部屋を施錠する時に気付いたのだが、白蝋館の客室ドアは自重で勝手に閉まるタイプではなく、203号室のドアは半分ほど開いていた。なので余計に窓ガラスが割れた音が廊下に響いたのかもしれない。

「それで大声を出してドアを叩いてたら、美晴ちゃんが来た」
「プレイルームの掃除が終わったので、ロビーにいました。敬さんたちの大声が聞こえたので」
「その後から菊島さんが来た」
「わた、私はフロントの中にいまして、出遅れまして、足がもつれて」
「で、マスターキーを持ってきてもらって、ドアを開けた」

今のところ誰からも異議は出ない。全員、事件発生時の記憶に差異はないらしい。

「そこからのことは、紳一くんと柴くんとオレがまず話そう。部屋は真っ暗、窓ガラスが割れてた」
「雪が吹き込んで、窓辺にはガラスが散らばってました」
「で、手すりに誰かが倒れ込んでる。後ろから見た状態でも男だなっていうのはわかった」
「オレと柴くんはすぐに助け起こそうとしちゃったんだけど、紳一くんが止めてくれてね」
……手すりの下を覗き込んだんです。積もった雪の上は血の海でした」

葛西の喉が鳴る音が響く。牧はを抱きかかえながら咳払いをひとつ。

「血の海でしたが、雪の上はまっさらで足跡もないし、崩れてるところもなかった。すぐにおかしいと思って、敬さんを止めました。東丸さんはピクリとも動かないし、怪我の状態もひどいし、救急車が呼べるわけもないし、触らない方がいいと思って」

止められた敬さんと柴さんも外を覗き込むと、すぐに手を引っ込めた。状況的に救命は不可能、素人の目でもそれは明らかだったし、もしこれが事件なのであれば保全が優先される。

「そんなことを確認してたら、後ろが騒がしいんで紳一くんと柴くんが離れた」
「ちょうど部屋の真ん中あたりで葛西さんと最上さんが島さんと松波さんに止められてて、菊島さんは少し離れた場所にいて、ドアの付近にと国竹さんとメイさんがいました。その時ははまだ志緒さんはいなくて、遠くから春林さんたちの声が聞こえていました」

牧がそう淀みなく言うと、今度は葛西が割って入ってきた。

「待って。待って待って。この子大人っぽいけど高校生だよね? 子供がなにちゃっかり話に混ざってんの? 人ひとり亡くなってるんだよ? 現場の状況丸暗記してますみたいな、ドラマじゃないんだから無責任なこと言われても困るんですけど?」

牧はちらりとの方を見ると、背筋を伸ばしてあたりを一瞥。口を開いた。

「わざわざ説明することもないと思ったので言いませんでしたが、僕はインターハイの優勝をかけて戦うような全国でも屈指のバスケット強豪校の、キャプテンです。既に大学の推薦入学も確定、全日本ジュニアユースの経験もあります。このまま努力を続けていかれれば、日本代表になれると思っています」

ほぼ全員が目を丸くして驚いていたが、葛西はだから何よという顔のままだったので、付け加える。

「僕はコート内の選手がどこで何をしようとしているか、それを一瞬で記憶できます」

牧に抱き寄せられたままのも頷く。

「それを、試合中は常に、です」

やっと意味がわかったらしい葛西はふい、と顔をそらしたが、牧は続けた。

「実証実験をしてもいいですよ。10人くらいなら問題ありません」