星屑の軌跡

24

告白

この夏の異常事態が終わらないまま清田家は9月に突入、ほんの短期間の転校生ユリイと学校に通う羽目になったカズサは毎日苦虫を噛み潰したような顔をして登校し、宇宙と彼方の3年保育編入も無事に認められ、幼稚園には清田家の子供が4人在籍することになった。

一方で予定日が来月初旬であるウサコは真ん丸なお腹を抱えて毎日息が上がっていたし、一時はセイラちゃんに制圧されていたウサコ大事モンスターも若干息を吹き返していた。しかし母子ともに順調、モンスターはまだ名前に悩んでいた。

さてこの頃、夏の忙しさに気を取られて皆が気付かなかったことがある。

長年堂々と前に突き出ていた新九郎のビール腹が、いつの間にか消えていたのである。

確かに新九郎は由香里と2度目の結婚式を挙げるためにダイエットをしていたが、全員新九郎の腹など気にしている余裕はなかったので、子供たちが学校と幼稚園に行き始めてちょっとホッとしたら、腹が消えていた。だが、年代的にありがちな「やせ衰えたたるみ」は見えない。

「そりゃそうだよ、ジムでちゃんと指導してもらってたもん」
「いつの間にそんなとこ通ってたんだよ……
「ドレスの由香里をお姫様抱っこしなきゃならんからな」
「それ本気だったのかよ……
「来年フランス旅行行く時は水着も着たいしな」
「それ由香里も水着ってことだよね……?」

両親の2度目の挙式披露宴に関しては何を言ってもツッコミしか出てこない息子たちだったが、嫁たちは全員それを楽しみにしている。ともあれ新九郎はドレス姿の由香里をお姫様抱っこするために減量とともに筋力トレーニングもしており、痩せたけれどガチムチ感はそれほど失われていない。

「そこの三兄弟はほんとに失礼だよね」
「ま、まあ、ご両親のことと思えば、ね?」
「少なくともお兄ちゃんに関しては人のこと言えた腹じゃないと思う」
「あんなに出っ張ってないだろ!」
「でもちょっと緩んできてる。人のこと言うなら自分でも締めればいいのに」

無論ボッコリと出っ張っていた新九郎のビール腹には及ばないが、自宅で延々座って仕事の頼朝の方がたるみ始めてきている。セイラちゃんもガンガン突っ込むし、フォローしてくれるのはウサコだけだ。すると、それを見てニヤニヤしていた尊が急に顔をしかめた。

「ちょっと待って、親父、結婚式っていつやるの?」
「ウサコと赤ちゃんが落ち着いたらの方がいいし、ま、どんなに早くても年明け、春頃じゃないか?」
「それ、ヒゲ、早く剃っておかないと、顔の色、違うんじゃない?」

全員はたと止まる。顔の色。セイラちゃんが慌てて立ち上がり、ヒゲをかき分けてみた。

「尊くんよく気が付いた……ヒゲの下真っ白だわ」
「だよね!? だってヒゲ生やして何年? 30年!? それだけ日に当たってないんだよ!」

完全なる盲点であった。若くして社長になってしまったことで舐められるまいと生やしたヒゲは以来30年に渡り新九郎の顔を覆い続け、なおかつ清田家というのは毛髪がクドい家系なので、それはしっかりと日差しを遮ってきた。

……やばいよな、それ?」
「ヒゲを生やしたままにするか、今から何とかして一色に整えるしか」

かくして新九郎は嫁たちに泣きついてスキンケアにも勤しむことになった――のだが、翌日早速ヒゲを落としてみたところ、信長に似たイケオジが出てきた。エンジュが悲鳴を上げる。

「ごめん、嫁にこんなこと言うのはアレなんだけど、オレほら、学生の頃普通に信長のこと好きでさ、それって見た目も充分に好みだったからっていうのもあってさ」
「わかった、わかってるから落ち着いて、私も信長の顔好きだからよくわかる」
「あれやばない!? やばないっていうかごめん、マジで抱かれたい」
「それだけは勘弁してやって」

信長も10代の頃からずっと髪は長めの人だが、それは新九郎も同じで、ヒゲを落としたせいで顔面が2色に分かれていることを除けば、かきあげてまとめた前髪がはらりと落ちるナイスミドルであった。そしてしっかり筋肉の残る189センチである。エンジュ大興奮。

だが、大興奮はエンジュだけではない。清田家の男の顔が好きなのはもウサコも同じ。

「でもエンジュの言うことわかる……じいじがこんなにかっこいい人だったなんて」
「信長だけが似てるのかと思ったけど、思ったよりお兄ちゃんにも似てるね」
「ねえそれで、あの嫁スキーだよ。あのフェミニストだよ。オレこの家に嫁に来てよかった……
「お前ら、そういう話はオレたちのいないところでやれっつってんだろ」

たちがはしゃいでいたのは普通に夜のリビングである。はしゃぐ嫁ふたりと自称エア嫁に渋い顔をしたのは信長だ。エンジュとウサコはともかく、まではしゃいでるのが癪に障る。だが、は長年の付き合いの中で信長のコントロールもうまくなってきていた。

「だって、信長もあんな風になるのかなって」
「え」
「ヒゲはともかく、あんな風な色気のある大人になってほしいなー」
「へ、へえー、そう」
「楽しみにしてるね!」

隠しきれないニヤニヤ笑いの信長は照れ隠しに缶チューハイを傾けたが、すぐにその缶をじっと見つめた。新九郎のビール飲みとはレベルが違うけれど、これが積もり積もるとあの腹である。沢嶋さんが辞める予定なのでジムも宙ぶらりんになっている。

かくして信長はこれまでの高代謝と運動量にまかせた暴飲暴食を控えるようになった。が、それはまた別の話で、新九郎のヒゲが落ちて騒いだのは清田家の嫁だけではなく、ありとあらゆるお馴染みさんたちも同様で、知り合いの奥さん方が声高に騒ぎ、一時騒然としていた。

だが、本人は自分の顔が原因で騒がれているとは思いもせずにスキンケアに勤しんでいる。ヒゲで隠れていた白い部分は少し焼いて、長年の外仕事で焼けた部分は少しホワイトニング。指先も荒れ放題なのでそれも整えていく。還暦過ぎのじいじだが、ここに来て女子力がうなぎのぼりである。

「式場の予約は取れそう?」
「式場って言っても、内々の席だしね」
「私と信長がやったところは?」
「ちょっと広くない?」

年明けだな、とは言うものの、神奈川沿岸部は結婚式場が大変多く、人気も高い。なので予約は早めに取らねばならない。一応平日でも出来ないことはないので、シーズン中の信長のスケジュールを確認しつつ、由香里はと準備を進めていた。

「最初は2度目の結婚式だなんて……ってバカにしてたんだけど、今けっこうあるらしいのね」
「ゆかりんくらいの年代で初婚とか再婚でお式ってのも珍しくないみたいだし」
「私が結婚した頃なんかそんなの考えられなかったけど、今はほんとに自由なのねえ」
「おばあちゃん笑ってたしね」

そりゃもちろん、偏見に満ちた視線がなくなったわけじゃない。だが、ウェディングドレスの挙式をやっていい年齢・やってはいけない年齢があるわけでなし、あくまでも祝福の場であり、それは誰にでも開かれているものである。は四国に引っ越していったマユを思い出していた。

彼の離婚は成立したが、どうしても自分の中で折り合いがつかず、彼女は人を招かずに夫とふたりだけで挙式した、と写真だけ見せてくれた。ドレスも式もシンプルなものだったが、ふたりの表情があまりにも穏やかで、それだけで充分だと思った。

……ドレスも、色んなのがあるのよね」
「好きなの着たらいいよ。今度は袖が膨らんでないやつ」
「いやーね、こういうのが楽しいのって、年齢関係ないのね。困ったわ」

言いながら由香里は本当に幸せそうに頬を緩めていた。由香里も新九郎の「2度目の挙式」は本気にしていなかった。だが、新九郎は真顔で「いつにする? どこでやる?」と聞いてきた。息子たちのようにちょっと呆れた由香里だったが、自分はもう主婦をやめたのだ、別にいいじゃないかと思えてきた。

……あんたたちも服買いなさいよ。男どもはいいけど、可愛いの選んどきなさいよ」
「赤ちゃんもなんか可愛いの見つけないとね」
「子供3人も産むとは思ってなかったけど、孫が7人とも思ってなかったわね……
「しかもそのうち3人は血縁なし、女は僅かにふたり」
「まったくこの家らしいわよね。結婚したての頃は他人だらけでちょっと怖かったもんだったけど」

親方も健在、家の一切は女将が仕切っていた頃の話だ。そして新九郎の腹は6つに割れていた。

「久しぶりにヒゲのないお義父さんはどう? 懐かしい?」
……ああ、こんな人だったわねそういえば、って思ったけど」

由香里にとってもヒゲのない新九郎は遠い記憶と写真の中にしかいないものだった。その人物像はほとんど変わらないと言うけれど、ヒゲが覆い隠してきたのは、偉くなんかなくていい、嫁と子供と仲良く暮らしたいという新九郎そのものだったかもしれない。

「だけど、昔に比べると、優しい顔で笑うようになったんだなってのが、わかってね。昔も別に意地悪な人じゃなかったけど、もっとこう、ドヤ顔っていうのかしら、ニカッと笑うことが多かった気がするんだけど、今はずいぶんゆったりと笑うようになっちゃって……

はただ相槌を打っていただけだったが、それは由香里との生活が幸せだったからではないんだろうか、と思った。特にこの由香里と新九郎は親方の病気という抗いようのない事情で思い描いていたものとは違う人生を生きてきた。それでも、ふたりはお互いを思いやり慈しみ合ってきた。

そういうのが、「生き様が顔に出る」っていうやつなんだなあ。

はそれに少しだけ憧れを感じ、由香里と同じ年代になった時は信長とこんな夫婦でありたいと思うようになった。まだ遠い日々の向こうの話だが、それは自分の「目的」なのではないか。

この神奈川に戻り、清田の家に暮らすことがの夢だった。それには遠恋に耐え抜いてくれた信長の存在が不可欠だったわけだが、それを措けば、が神奈川に戻るのに最も尽力してくれたのはこの由香里と新九郎だった。このふたりがいなければもっと苦労していたに違いない。

自分が助けてもらったから、今度は自分が誰かの助けになりたい、そう感じられるようになった最初のきっかけは由香里と新九郎だったのではないか。は改めてそう思った。

そんなの気持ちを尊重してくれる信長とふたり、水戸、エンジュや沢嶋さん、ウサコ、僅かでも力は尽くせてきたのではないかと思う。それを続けていきたい。

それに、今は自分がこの家の「女将」であり、この大人数を抱えた船の舵取りをしていかなければならない立場だ。自分で望んだことでもあるし、乗りかかった船なら目的地まで必ず辿り着いてみせたいという意欲は充分にある。5年もの遠恋に耐えきったのだ。どんな試練にも絶対勝ってみせる。

そうだ。私の目的はそれなんだ。17の時から何も変わってない。

この家で暮らし、信長とふたり、生を全うすること。それが私の目的。

はこっそり深呼吸をして背筋を伸ばす。大丈夫、私の中の糸はまっすぐ伸びてる。絡まり合ったりせずに、その目的に向かっている。

「ゆかりん、じいじに惚れ直した?」
……ちょっとね」

由香里は照れくさそうに肩をすくめて笑った。本当に惚れ直していたのだとしても、正直には言わないだろう。それに、正直に言うと新九郎が泣き出すので面倒でもある。

「内々の席って言うけど、どのくらい呼ぶの?」
「うーん、ぶーたちくらいじゃないかしら。四郎さんたちは逆にご迷惑だもの」
「ほんとに家族だけだね」
「いいのよそれで。別に見せびらかしたいわけじゃないんだもの」

とはいえ小山田夫婦を含めると全部で18人。ちょっとしたパーティくらいの規模にはなる。早めに会場を押さえ、その逆にご迷惑になるような四郎さんやお馴染みさんたちはまた自宅での二次会でおもてなしするんだろうな……と考えたはちょっとだけ遠い目をした。

だが、宇宙と彼方を迎え、頼朝とウサコの間に子供が生まれ、そして新九郎と由香里は再び誓いを交わす。良い頃合いの門出ではないかと思った。

「尊は一生結婚しないって言うし、これが最後のチャンスになるかしらね、写真」
……そうだね。次は子供たちが結婚でもしない限り、写真は撮らないだろうね」

現在おばあちゃんが86歳、子供たちの中で1番年長のカズサが7歳、彼が最短18歳で結婚したとしてもあと11年かかる。不可能ではないけれど、おばあちゃんから4世代揃って写真に収まることが出来るのは最後のチャンスかもしれない。は深く頷いた。

「そういえばエンジュと寿里が来た時に私たちだけで写真撮ったけど……あの時はまさか3人目が出来るとは思ってなかったし、ここで5人で撮っておけばいいか、と思ったけど」

それから僅か2年で3人増員である。と由香里の乾いた笑いが通り過ぎる。

「全部で何人? ええと、ぶーたち入れたら18人か。写真屋さんにも言っておかないとね」
「ねえ、昔の写真て式場で集合写真撮ってなかった?」
「そうよ。でも今そういうのやる?」
「いや、写真屋さんに出張してもらったら?」
……ま、いっか! やるか! もう全部やっちゃうか!」

二度目の、そして還暦過ぎの結婚式ということで由香里もずっと遠慮があった。家族のみの席で他人を呼ばないのは逆に迷惑なだけでなく、やはりそれはまだまだ「気恥ずかしいこと」でもあるからだ。誰も眉をひそめないような世界なら何も感じなかっただろうが、生憎笑顔で祝福を寄せてくれる場合の方が少ないくらいだ。

だが、この結婚式で家族写真を撮らねば4世代が勢揃いになる慶事はしばらく発生しそうにない、という良いタイミングが由香里の闘争心に火を付けた。どうせやるならとことんやらないと。中途半端が一番よくない。それではやる意味がない。

「よし、来年の春目指して式場を押さえて、ドレスの準備して、ほんとに結婚式の後に旅行行くわよ」
「やりなよやりなよ! そうだよ、何でも好きなことやろうよ! どうせ家族しかいないんだし」
「旅行代理店も行かなきゃだわね。私どうしてもパリに行ってみたいの」

海外旅行にも個性が出る昨今と違い、由香里は「オシャレな海外の都市といえばパリ」という世代である。20歳で結婚した時は予算が乏しかったり時間がなかったりで、結局国内の2泊3日で済ませてしまい、それ以降夫婦ふたりだけで旅行というとがプレゼントしてくれた沖縄旅行くらいしか覚えもないので、由香里のパリ行きに対する情熱はかなりアツい。

……パリに行って、香水と紅茶を買いたいの」
「うん」
「それで、朝はカフェオレを飲んで、夜はワインを飲むの」
「うん」
「つばの広い帽子をかぶって、シャンゼリゼ通りを歩いてみたいの!」
……うん。じいじと、一緒に」
「そう! そういうの、やりたかったのよ。だから全部やる! 全部やっちゃうから!」

由香里の横顔は活き活きと輝いていた。由香里の心からの本音だったに違いない。忙しくてとてもじゃないが海外旅行など行っていられなかったこの数十年間心の中にしまい込み続けてきた願望の爆発だった。提灯袖のドレスは仕切り直し、いざゆかん憧れのパリへ!