7月末、早めに夏季休暇を取得した信長はカズサを連れて神奈川から遠く離れた私鉄の駅に降り立った。連日の猛暑が続いていた神奈川だったが、一転こちらは前日の雨雲が抜けきっていなくて、どんよりとした曇天が重く垂れ込めていた。
「おーい、ここだここだ」
「……お父さん、あれがひいじいちゃん?」
「そう。お母さんのお母さんの、お父さん」
駅舎の柱の影で手を降っている小柄な男性に信長は大きく手を振り返した。
待っていたのは、の母方の祖父。元から小柄な男性だが、長年連れ添った妻と「卒婚」をして生まれた街に帰ってからずいぶん痩せてしまったので、もっと小さく見える。ただし、痩せはしたけれど、その分運動量が増えたとかで、以前より姿勢がよく、日焼けをしている。
いつか彼とはを間に挟まずにゆっくり話をしたいと思っていた。だが、結婚以来公私共にのんびりした時間は取りにくく、また少しでも休める時間がある時はや子供と一緒に過ごすことにしていたので、それはどんどん先送りされてしまっていた。
結婚式以降、彼と会ったのは僅かに3度。現在小学生になったカズサが生まれた時と、アマナが生まれた時と、信長がプロを引退した時。どれも慌ただしい時だったので、腰を据えて話す時間はなかった。
だが、この春から体調を崩していたというの祖母が先月とうとう入院になった。それを聞いた信長は、カズサも小学生に上がったことだし、まだツグミがよちよち歩きな上にウサコが妊娠中だし、それにしては専門は外科だが医師であるセイラちゃんもいるので、思い切ってふたりで訪ねてみることにした。祖母の入院を期に、人は有限であることを改めて思い出したからだ。
その上カズサは信長のコピーかというほど父親にそっくりだったし、体力を持て余して朝から晩まで家中で暴れまくるのは目に見えていた。初めての夏休みで興奮気味だし、少し外に連れ出して発散させたかった。それに、これから宿題を片付けさせなければと思うと気が重いが、この旅行が何かのネタにでもなれば儲けものだ。
「カズサくん、こんにちは」
「こ、こんにちは」
「君がまだ小さい時に一回会ってるけど、ほぼ初めましてだね」
「なんて呼んだらいいか、迷ってるんです」
「そうか。おじいちゃんはフミオって言うんだけど、文て漢字を書くから、ブンじいにしようか」
「ブンじい」
「そうだそうだ。カズサくん、ブンじいと遊んでってくれるかい」
ブンじいがその焼けた拳をカズサに突き出すと、カズサはこっくりと頷いて、小さなげんこつをコツンと当てた。父親にそっくりで暴れん坊で我が強くまるで言うことを聞かないが、実はかなりビビりな部分も併せ持っていて、信長はそういう息子としっかり向き合う時間も欲しかった。
呼び名が決まったところで3人はバス停に向かって歩く。ここから15分ほどバスで移動すると、かつてブンじいが長く住んでいた町にたどり着く。家はもう取り壊されて残っていないが、そこは学生時代のが信長への思いを強固な意志で守りながら過ごした場所でもある。
信長はそれも一度、自分の目で確かめておきたかった。住宅街としか言いようがない町並み、その中にポツンと現れるショッピングモール、公園が併設されていて、はよくそこで信長と電話で話していた。その場所に実際に行ってみたかった。
「おばあちゃんの具合、どうですか」
「今んところ小康状態だね。体が楽なんで気持ちも落ち着いてるよ」
「も来たがってるんですが……」
「まだ三番目が小さいんだから無理せん方がいいよ。今度の子はどうだい」
「それが何というか、また静かな子で」
「ははは、君に似たのはこのカズサくんだけらしいな」
信長とカズサはとにかくそっくりだ。信長自身が割と新九郎に似ているので、新九郎は「オレ似」と言い張るが、ありとあらゆる点でカズサは父親似であると言えた。信長をぎゅっと縮小したらカズサになる。そんな感じだ。の要素がほとんどない。
対するアマナとツグミは一見して清田家の要素がとても薄い。まあまだそっちは5歳と1歳前だし、カズサも含めいくらでも変わっていくだろうけれど、今のところわかりやすく父方の血を引いているのはカズサひとりだ。
そのカズサは遠くへ旅するということが初体験なので、興奮と緊張がぐちゃぐちゃに混ざりあって落ち着かない様子だ。バスも地元で乗るものとさして変わらないのだが、信長と手を離したがらず、硬い表情で車窓を眺めている。
だが、到着したのは地元でも馴染みのショッピングモールである。途端に緩んだカズサは、ブンじいがどうしてもご馳走したいというのでとんかつをぺろりと完食。カズサは非常に肉好きで、とにかく食べ物と言ったら肉肉肉肉、基本肉さえあれば黙って食う。
「オレたちの感覚だと子供なんてそんなもんじゃないのかと思っちゃうけどなあ」
「オレもそんなもんでしたよ。うちは肉が多かったので目立ちませんでしたけど」
「昨今『子供は肉が好きなもんだろう』なんて言ったら怒られちゃうけどな」
「アユルですか」
「まあもう、何年も会ってないよ。ナイトくんはシティボーイだから」
それだけでだいたい想像がつくなと思いながら、信長は笑った。風の噂によるとの義妹アユルはひとり息子の
見慣れたショッピングモールでたらふく肉を食ったカズサはアイスクリームまで買ってもらい、上機嫌だ。しかも普段ひとまとめにされる弟妹たちはいない。長男様天国である。なので信長はふたりをベンチに残して、モールの裏手にある公園の真ん中に立ち止まった。
近所にショッピングモールがあって、裏に公園があるからそこで電話してる。最初にからそう聞いたのは、まだ高校生だった。部活で疲れた体をベッドに横たえながらの声を聞き、早くどこでもドアが現実にならねーかなと思ったものだった。
そうしたら今すぐの元に行って、抱き締めてキスをするのに。
夏休みで子供がたくさん遊んでいるし、ほんの数十秒佇んだだけで信長はその場を離れて戻ってきた。するとブンじいはニヤリと笑い、
「あの頃のに会えたかい」
と言った。ブンじいは小柄で平坦な顔をした典型的なおじいちゃんだが、その中身は割と気骨のある「昭和の男」である。おばあちゃんやの母に言わせれば融通が効かなくて頑固だとも聞く。だが、そういう昭和の男独特のロマンチシズム漂う言葉に信長はちょっと心がときめいた。
「……はい。ずっと、会いたかったので」
あの頃、いつでも誰より何より、に会いたかった。が恋しかった。
ショッピングモールからまたバスに乗り、中継地点である役所でバスを乗り換えてまた30分ほど行くと、景色には緑が多く混ざり始める。ブンじいとおばあちゃんが生まれた町は山あいの農村部と住宅地の境目あたりにあって、真ん中を川が通っている。
「オレは神奈川なんていうと都会ってイメージしかなかったけど、意外と緑があったよな」
「そうなんですよね。山が多いので、その分ただ平らな住宅街だけが広がってるわけでもなくて」
「でも今日はもっと山の方だ。いとこが死んで以来売れなくて使ってない家があるんだよ」
ブンじいは現在生まれた街で幼馴染といとこと3人暮らしである。だが、そもそもはブンじいは男女合わせて5人きょうだい。いとこに至っては8人きょうだい。今日から2泊信長とカズサが世話になる家はそのいとこが住んでいたものらしい。
バスを降りると、今度はタクシー。今日はショッピングモールに寄り道をしてしまったのでずいぶん時間がかかったが、帰りは直接私鉄の駅へ向かえばバスで30分、タクシーなら早いと15分だそうで、信長はそのブンじいの説明をちょこまかとメモして写真に収めている。
そうしてタクシーを降りると、そこは視界を埋め尽くす緑と青、私鉄の駅を下りた時はどんよりと曇っていた空は晴れ、絵に描いたような里山の風景があった。
2泊借り受ける家はスロープを少し上ったところにあり、都市部にしては相当大きな家で育った信長とカズサでも驚くほど巨大な家だった。いくつもの平屋が連なり、何に使うものやら、小屋や作業場が周りを取り囲み、テレビの中でしか見たことのないような縁側が何メートルも続いていた。
「カズサくん、お母さんと離れるの初めてなんじゃないのかい」
「がいない家というのは、確かに、ツグミが生まれた時くらいですね」
「今日はお父さんとブンじいだけだからな。ちゃんと寝られるかな」
早速開け放してあった縁側を猛ダッシュしているカズサを見ながらブンじいはニヤニヤしている。父子が通った幼稚園には「お泊り保育」というものがあったのだが、カズサが入園する頃には安全上の理由だとかで廃止になっていた。
また、ツグミが生まれる少し前から、弟を子分にしたいあまり「自分はもう大人だ」と言ってひとりで寝る練習をしていたカズサだが、生まれてきた子分予定は年が離れすぎていて即戦力になりそうもなく、しかも妹のように静かなタイプだったので、練習はやめてしまった。
そういうわけでカズサは母親が近くにいない状態で夜を過ごすのはこれが初めてである。
「ねーねーお父さん、この後何するの」
「カズサ、今日はご飯作ってくれるお母さんいないよな」
「じゃあオレ、ハンバーグがいい」
「ハンバーグ食べられるお店、どこにある? 来る途中にあった?」
そう言われるとカズサは急に渋い顔になって縁側にしゃがみこんだ。体を折り曲げてしゃがみ、首を前に突き出すのは彼の「面白くない」サインである。信長は荷物を解いていた手を止め、カズサの正面に胡座をかく。
「だから、今日はブンじいとお父さんと、カズサの3人でご飯作るんだよ」
「やだ、ハンバーグがいい」
「へえー。ブンじいとお父さんはでっかいお肉焼くけど、カズサはハンバーグの方がいいのか」
「えっ」
「しかもお手伝いしないんだろ。ひとりでハンバーグ食べに行っていいよ」
「それもやだよ!」
でっかいお肉と聞いてカズサの背筋がシャキンと伸びる。里山体験で渋い食事をするのもいいけれど、カズサは大所帯生まれで食育は二の次な育ち方をしたし、ひとまずまだ7歳なのだし、この旅に嫌な思い出を残してほしくなかった信長はブンじいに頼んで肉を用意してもらっていた。
バーベキューなら普段から家で散々やっているので珍しくもなんともないけれど、それは所詮住宅街の一軒家の庭である。薪を火にくべて、もうもうと煙を立ち上らせながら肉を焼くということになれば、多少はスペシャル感が出るかもしれない。
「カズサ、今日と明日は、お父さんとブンじいの3人しかいないんだよ。いつもカズサのこと何でもやってくれるお母さんとかゆかりんとかウサコはいないし、車もないし、コンビニもないよ。でも、お父さん、そういうところにふたりで旅行しない? って聞いたよな。そしたらカズサ行くって言ったじゃん。お父さんとふたりで冒険してくるって、お母さんに言ったじゃん。あれ嘘だったの?」
まあしっかり理解しているとは思っていなかったけれど、信長は一応そういう旅行だということは本人に何度も確認を取った。それを見ていたや由香里もお父さんしかいなくて平気? と何度も突っついた。だが、誰に似たのか負けず嫌いのカズサは絶対大丈夫だから行くとふんぞり返ったのだ。
昼間に地元と何ら変わらないショッピングモールで特別待遇を受けたので、その前提がすっ飛んでいるんだろう。それを思い出したのか、神妙な顔つきになってきた。
「それとも、やっぱりカズサはお母さんがいないと寂しいから、清田の家に帰る?」
「ち、違うもん、そんなことないし」
「お父さんは幼稚園の年中さんの時にはゆかりんいなくてもキャンプ行けたけど」
「オレも平気だってば!!!」
無理に虚勢を張らせても仕方ないわけだが、ひとまずハンバーグでいつまでもごねられても困るので、信長はなんとかカズサを丸め込んだ。というか車は用意できないわけじゃないし、何ならハンバーグでも構わなかったのだが、こんな機会は何度もないだろうから、徹底して普段の生活から引き離してみたかったのだ。
そこには自分が幼稚園児の頃に父と兄と4人だけで何度か行ったキャンプの記憶があったからだ。カズサと違って末っ子なので、父と兄がいれば何の心配もない信長はキャンプで駄々をこねることは一切なく、日中年上の兄たちの運動量に全部付き合い、そして夕食をとった直後に寝てしまい、明け方まで起きなかった。そう言う意味では新九郎にとって楽な末っ子だった。
ついでに事前によくよく確認を取った上で今回はゲーム機を持参禁止にしたので、カズサは突然暇になった。だが、ここがカズサのビビりなところで、これが小学1年生の信長だったら、ちょっとでも目を離した隙に山で行方不明になっていただろうが、カズサは縁側すら下りない。
住宅街育ちの彼にとって、家の周りが全て自然というのは初めての体験で、そこに迂闊に足を踏み入れれば危険を伴うかもしれないという恐怖感があるのだ。それがわかるので、信長は解いた荷物の中から預かってきた土産物を手にして台所へ向かう。案の定カズサはその後ろをくっついてくる。
「おじいちゃん、これと由香里から預かってきました」
「おお、なんだよ、重いのに大変だったな。まーた由香里さんはこんなに金を使って」
「これでも減らしたんですよ。あ、こっちは父からです」
「あーっ、こりゃまたマズいもん頂いちゃったな。飲むしかないじゃないか」
おじいちゃん3人暮らし、日持ちのする食品がいいのでは……とと由香里は海鮮珍味をあれこれ用意し、新九郎は酒好きのブンじいのために、秘蔵の日本酒を一本差し出してきた。新九郎は現在二度目の結婚式に向けてダイエット中で、ビールも止め、飲むなら焼酎だけにしている。
おじいちゃんは酒なら何でもうまいというタイプで、白い和紙に包まれた瓶を掲げて顔を綻ばせた。転倒の危険があるからと卒婚以来飲酒は控えめにしているらしいが、飲んじゃおうかな! という顔だ。
「よしよし、そんじゃ男3人、宴会の支度といこうか。先に風呂の方がいいかな」
「オレ洗ってきますよ」
「いやいや家中すっかりきれいにしてあるよ。あとはお湯を張ればオッケー」
「す、すみません、何から何まで」
「2年近く空き家だったからな。カズサくん、お父さんとお風呂準備してきて」
風呂など、入りなさいと言われて入ればいつでもきれいな湯が張ってある……という生活のカズサはまたちょっと面白くなさそうな顔をしたが、その「風呂」に案内されて歓声を上げた。
「お、お父さん、これ、これトトロのお風呂だ!!!」
「すげー!!!」
話には聞いていたが本当に「となりのトトロ」に登場する風呂によく似たものだったので、信長まで歓声を上げた。しかも、なぜかこの風呂は壁が一面外れていて、ほとんど露天風呂になっていた。すると後ろからブンじいが現れてまたニヤニヤしている。
「このお風呂、いいだろう」
「どうしたんですか、これ。壁もないし」
「いとこはどうやら古民家の宿をやろうと思ってたらしいんだな」
なので風呂はレトロなタイル張りの釜炊き風呂であり、衝立てで囲って半露天風呂にする予定だったらしい。ブンじいは庭の小屋を指して「だから実はそこに石窯とか炭火のコンロとか、前から全部あるの」と耳打ちしてイヒヒと笑った。今日はそれで料理するようだ。
興奮したカズサと一緒に釜に水を張り、薪を突っ込んで火をくべる。送風機があるらしいけれど、どうせならと信長は竹筒で息を吹き込み、カズサも真似をし、クタクタになりながら風呂を沸かした。風呂が沸いたらちょうど汗だくだったので、ふたりはそのまま風呂に飛び込み、大はしゃぎで出てきたら料理が殆ど終わっていた。信長は濡れた髪にタオルを巻き付けたままペコペコと頭を下げた。
「す、すいません、何もせずに」
「でも肉はまだだよ。オレも汗流してくるから、それ頼む」
「わかりました。これ、炭、いいんすかこのままで」
「ふふん、お父さんもいいとこ見せねえとなあ~」
信長も学生時代の寮生活以外、ずっと実家暮らしだ。がひとり暮らしをしている頃も、彼女に食事作らせてふんぞり返っているタイプではなかったけれど、それでも女性の手がない状態で調理などほとんどしたことがない。おじいちゃんはそれを見抜いてニヤニヤしているんだろう。
しかし息子の手前、父もかっこつけたい。信長は流したばかりの汗をダラダラかきながらなんとか肉を焼き、ブンじいを待った。というか炭は安定した状態になっていて、網の上でのんびり肉を転がせばいいだけだったのだが、それに気付くまでにえらく緊張してしまった。
ブンじいが汗を流して戻ると、谷あいの里山の日はすっかり暮れて、太陽の名残を残した紫色に染まっていた。そこに神奈川の住宅街では見えづらい星がきらめき出す。
そこで乾杯をした3人は炭火で焼いただけの肉と野菜の夕食を取った。ブンじいは奮発して巨大な肉の塊を用意してくれていたので、カズサはもうハンバーグのことなど頭になかった。普段は嫌がる野菜も食べ、食事中にふざけて立ち上がることもなかった。
信長はそういう「旅効果」を動画で撮影してに見せたいと思ったけれど、なんとなく携帯を引っ張り出すのは無粋な気がしてきてしまって、結局自分だけの記憶として残しておくことにした。
そして夢中になって肉を貪り食ったカズサは、その場で船を漕ぎだした。無理もない。今日はずっと興奮と緊張が続いていて、途中で一度も寝なかった。新幹線でも電車でもバスでも、一度も眠くならなかった。なので、もう限界。
まあでもそれは予想できたことだし、おじいちゃんは予め布団を用意してくれていたので、信長はカズサを抱きかかえて運び、パジャマに着替えさせてから布団に突っ込んだ。日中はひどい暑さだが、さすがに里山の朝晩は気温が低い。長袖長ズボンに腹巻きもしっかり。
それから遠慮するブンじいを何とか押さえてひとりで食事の片付けを終えると、もうあたりはすっかり真っ暗闇に包まれていた。調理場の照明がかなり明るいので、気付くと敷地と表の通りの境目も見えないくらいに真っ暗だった。
その代わり、空にはびっしりと星が張り付いていて、自分たちのいる里山より夜空の方が明るいのではないかと思えるほどだった。紫や青や赤や、ほんのり色づいて光る星もあれば、白く煌々と強い光を放つ星もあって、食器を手にした信長はしばし見惚れた。
すると、縁側にほんのりと明かりが灯った。ブンじいがランタンを灯している。
「さあて今度は大人の時間だな。新九郎くんの酒を由香里さんのつまみで飲もう」
「えっ、それはおじいちゃんたちみんなで、って」
「バカ言うなよ~こりゃオレがもらったもんだ。あいつらに分けてやる義理はねえよ」
おじいちゃん3人暮らしのために、と由香里が用意した珍味が次々と開封されていく。新九郎の日本酒も包みが解かれて瓶ごと冷水でゆっくりと冷やされていたらしい。汗をかいている。
ブンじいは蚊取り線香の煙が漂う中で湯呑に日本酒を注ぎ、信長に突き出した。
「さてさて、こっちが本当の乾杯だな。信長くん、本当によく来てくれた。乾杯!」
「か、乾杯!」
甘露な酒にブンじいは上機嫌である。そして、ぼそりと呟いた。
「やっとふたりで話が出来るなあ。信長くん、カズサくんをダシに使ったな?」
暗くてもわかるブンじいのニヤニヤ顔に、信長の頬がカッと熱くなる。
「まあもうこんな機会は二度とないさ。旨い酒もあるし、男同士、腹を割って話そう」
暗くてよかった。きっと真っ赤な顔になっているに違いない。信長はブンじいの言葉に何度も頷きながら、日本酒を煽った。甘い酒が喉を焼き、体に火をつける。そう、一番の目的はカズサとの旅行なんかではなかった。ブンじいと話をすることだった。
どうしても話しておきたかったのだ。いつか彼が旅立ってしまう、その前に。
だが、信長に話しておきたいことや聞いておきたいことがあるわけじゃなかった。ただやおばあちゃんや由香里や新九郎のいないところで、このブンじいと話をしてみたかっただけだった。なので正直話題はない。
「まあ君はおじいちゃんを知らないからな」
「一応父方の祖父は4歳まで一緒に暮らしてたんですけど、記憶がほとんどなくて」
と言っても信長が物心ついた時には親方は既に病みついていて、現在と信長夫婦の部屋となっている2階の一番奥の部屋に起き伏し、ほとんどそこから出てくることもなかった。おばあちゃんも一緒になって悲観していたし、そこに顔を出しても甘やかしてくれる人がいるわけではないので、信長は滅多に近寄らなかった。顔も写真の記憶程度しかない。
「あれだけ家族がたくさんいるんだから、こんなじじいなんぞどうでもいいだろうにとこっちは思うけど、やっぱり人ってのはないものを求めるんだなあ」
清田家にとっておじさんやおじいちゃんはごくありふれた存在だし、何なら小さい頃から可愛がってくれた人がいなかったわけじゃない。ただどうしても、信長にとってこのブンじいは特別で、が「まるで本当のおじいちゃんと孫みたいだね」と笑うほどだった。
なぜなら、を除くとこのブンじいは信長の人生で唯一、「頼朝くんより、尊くんより、君が一番素晴らしい」と口に出して言う人だったからだ。もちろん、本気で。
しかしそれを、褒めてくれるから慕っている、と一言で片付けてしまうのも少し違うと思っていた。
ブンじいが信長を褒めるのは、「を安心して任せられる男」だからなのだが、それが信長の中の「男子」をくすぐるのである。そして、ブンじいは彼の知る中でも、飛び抜けて「男臭い」人物だった。身長189センチでガチムチヒゲモジャの父親より、よっぽど男を感じていた。
男として褒められている、男として兄たちより素晴らしいと言ってもらえている。そういう感触だったのだ。そんな手触りを感じるたびに、普段は大人しくしている彼の中の「男子」が疼き出し、無性に誇らしさを感じてしまっていた。
男だからとか女だからとか、それが一体何だと言うんだ、そこに優劣なんかない、ということは新九郎のもとで育った彼には至極当然のことだったし、エンジュのような友人もいるし、そこは問題じゃない。ただ彼の場合は自身を強く男と感じる瞬間が好きだっただけなのだ。
ブンじいは、それをくれる人だった。
しかしこの日は信長も疲れていて、ブンじいと何を話そうかと考えているうちに瞼が重くなってきてしまい、それに気付いたブンじいのニヤニヤ顔に追い立てられて布団に倒れ込んだ。蚊取り線香の匂いと、天日干しの布団の乾いた匂い、そしてうるさいほどの虫の声に包まれて、信長は眠りに落ちた。