星屑の軌跡

11

この地球上にたったひとり

清田家が突然保育園状態と化した、ちょうどその頃。デスクで昼休憩を取っていたエンジュは、義姉からの電話に面食らって椅子から転げ落ちそうになった。

曰く、2ヶ月ほど前に兄夫婦が離婚したというのだ。

「一体どうしたの……
「ま、それは昼休みの電話10分で済む話ではないかな~」
「それはそうだろうけど」

電話の向こうの声は明るい。元々この義理の姉、いや、元義理の姉とは良い関係であったエンジュだが、2ヶ月もそれを知らなかったことや、円満だと思っていたふたりの破局や、頭が一度に処理しきれなくて悲鳴を上げている。

「だから一度ご飯食べない?」
「それはいいんだけど、実はちょっとオレ今ものすごく忙しくて」
「ありゃ、繁忙期だった?」
「ていうか、ええと、だからそれも10分じゃ」
「あはは、お互いしばらくちゃんと話してなかったもんね~!」

仕事もまあまあ忙しい上に、今はとにかく清田家が大変な状態なので、あまり私用は入れたくなかった。この度の騒動ではあまり力になれることがないと判断したエンジュはせめて余暇は自宅にいて、のサポートに徹しようと決めていた。

なので正直元義姉のために時間を取ることは気が進まないのだが、しかしその兄夫婦の離婚について、兄本人はおろか、両親からもなんの連絡もなかったのである。少しでもいいから何が起こったのかを聞いておきたい。なのでエンジュはつい、言ってしまった。

「よかったら、うち、来ない?」

元義姉は「いいよ~!」と快く承諾してくれたが、エンジュは後で思い直してにペコペコと頭を下げた。ただでさえ大変な状況なのにごめんなさい。自分の部屋に招いて喋ったら帰すので、どうかお願いします。お茶とかそういうの、何にもいらないので!

「そんなこと気にしないでいいよ。ここに呼んだってことは、寿里のこと話すんでしょ」
……うん。出来ればそうしたいなと」
「そしたら寿里は一緒にいればいいし、お義姉さんが大丈夫そうならアマナも呼んでくれれば」

エンジュの実家の事情を知るはそう言って笑った。エンジュはごめんを連発しながらに抱きつき、その代わり今月のお小遣い増額するねと言って、またに笑われた。

というわけで、お盆休み間近の土曜日、雲が多くてじめじめと蒸し暑い日だったが、エンジュは久しぶりに会う元義姉を清田家に連れてきた。ごくごく個人的な来客なのでリビングには通さないし、必要ならにだけ挨拶をしてもらう。寿里も話をしてから引き合わせる予定だ。

「ずいぶん大きい家だね~! しかもきれい」
「リフォームしてまだそんなに時間経ってないから」
「何だっけ、友達の家なんだっけ」
「そう。同期の子で、バスケ部にいたんだけど」
「なんか聞いたことあるな、その子の話」
「したと思う。最初オレが好きになっちゃって、それから友達に」

この元義姉、(ほまれ)さんはエンジュや信長と同じ大学の出身である。兄は慶太郎、弟は寿一、そこに嫁してきたのが誉さんだったので、結婚が決まった当時は「なんて縁起のいい夫婦なんだ」とか「あやかりたい」と散々もてはやされたものだった。

誉さんは「お邪魔しますー」と可愛らしい声で靴を脱ぐと、リビングから響いてきたけたたましい子供たちの騒ぎ声に驚いて声を上げた。それでも最近は静かな方なのだが、今日はコスモもいるので子供は総勢7人、全部まとまればうるさい。

「ず、ずいぶんたくさんお子さんいらっしゃるのね……
「い、今ちょっと夏休みで増えてて」
「おうちが広いのも考えものだね。場所があると溜まり場にしていいって思う人多すぎでしょ」

誉さんの忌憚のないご意見にエンジュは苦笑いだ。この誉さん、学生の頃から思ったことは遠慮せず口に出すタイプで、しかしとにかくざっくばらんな、細かいことは気にしないという人だった。少なくとも、エンジュにとっては「男性的」だと感じる女性でもあった。

誉さんは2階に上がるとまた歓声を上げた。ドラマでしか見たことのないような長い廊下に、ドアがたくさん並んでいる。

「一部屋もらってるの? バス・トイレ・キッチンは共用? 家賃いくらよ」
「ええと家賃として決まった金額を納めてるわけではなくて……
「なんか複雑なの? てか何でこの家だったの。職場からずいぶん遠くない?」

誉さんがぶつけてくる疑問はもっともなのだが、それら全て寿里の件を話さなければならないし、それは一旦彼女の話を聞いてからにしたかった。もう離婚して無関係とは思うけれど、寿里の件が遠藤家に漏れるのだけは避けたい。エンジュは部屋の中にある寿里のものも全て隠していた。

誉さんはとにかくコーヒーが好きで毎日ガブガブ飲む人なので、頼朝に豆を分けてもらって準備してある。そして昔から好物だったアポロチョコも並べておいた。誉さんのデスクにはいつもコーヒーカップとアポロチョコが置かれていた。

「オレの話はまたあとでするとして……どしたの?」
「どしたの、っていうか、実はあんまりうまくいってなかったんだよね。前から」
「嘘お」
「隠してただけ。なんていうか、私たち、目的が完全に違ってたの」

部屋中にコーヒーの香りが漂う。少し背筋を震わせたエンジュだったが、誉さんはニヤリと笑った。

「えーと、聞いてるかな、慶太郎、不妊体質だったって」
「あ、うん……結婚してすぐに検査したら、って」
……それ誰に聞いたの」
「えっ!? ええと、その、父親」
「親とうまくいってなかったんじゃないの?」
……いってないよ。ただ何年か前に突然連絡きて、聞かされた」

誉さんはちょっとだけ怖い顔をしたが、すぐにまたにんまりと笑ってアポロチョコを口に放り込んだ。

「あのお父さんが見栄っ張りなのか慶太郎が見栄っ張りなのか……。検査したのって、数年前だよ」
「えっ……
「てかそれ以前に、私、子供は作らないっていう前提で結婚したんだけどね」
「えっ……え!?」
「だってそうでしょ、私はやりたい仕事があったし、でも慶太郎が結婚したいってしつこいから」

エンジュは目眩がしてきた。兄、父、そして誉さん。一体誰の話が真実なんだ。

「私も実家の隣に家建ててる時点で慶太郎の目的に気付くべきだったよね~。そんな都合よく隣の家が出て行くわけないのにさあ。でもまだ20代のうちはそれほどうるさくなかったんだけど、30になった辺りから子供はどうした、嫁に異常があるんじゃないか、って、なんでこっちに異常がある前提なんだって話なんだけどさ、そしたら慶太郎のやつ、子供作らない約束だったこと、親に話してなくて」

エンジュは苦笑いしか出すものがないが、心の中で「でしょうね」と突っ込んでいた。まさかあの親に対して「妻は仕事人間なので子供は作りません、元からそういう約束でした」なんて言えるわけがない。というか兄はそれを知っているはずだ。

「どうも結婚したら気が変わると思ってたみたいなのね。結婚してても子供を産んでないと職場でそれを突っつかれるだろうから、いずれ必要に迫られて欲しくなるんじゃないかって。甘いよね、うちの職場、そういうハラスメントしてる暇もないっていうのに」

誉さんは真夏でもホットコーヒーである。エアコンで適温にしてある部屋に湯気が漂う。

そのあたりから誉さんと慶太郎はすれ違い始めた。誉さんは男性の方が多く目が回るほど忙しい会社で働き、しかしそれに生き甲斐を感じているタイプだったので、作らなくていいと思っていた子供の話を持ち出されて気持ちが離れ始めた。

……あのバカ、ゴムに細工してたらしいの。出来ちゃえば何とかなると思ったんだろうね。だけど出来ない。まあ私もピル飲んでたけど、それでまさかと思って検査受けに行ったらビンゴ。まったく、結婚以来何年も避妊してなかっただなんて、子宮頸がんになったら治療費請求してやる」

当然子供を作るなど協力したくなかったし、慶太郎に不信感も抱いてしまったので、その頃から完全なセックスレスになってしまった。ちっともうまくいっていないが、お互い仕事が忙しいので結論を先送りしてしまった、というのが今このタイミングでの離婚の真相だったらしい。

「じゃあもう、離婚するって決めてたの?」
……あんたのお兄さん像を壊したくはないんだけど」
「大丈夫、元から壊れかかってたから」
「そう。じゃあいいけど、あの人、特別養子縁組したいって言い出して」

よくよく今年の夏はそういう話に縁があるな――。エンジュは誉さんの声をどこか遠くに聞きながら、兄が追い詰められているのが手に取るようにわかった。上昇志向が強くて頭が良くて物分りの良い誉さん、完璧な嫁を早めに迎えて、早めに子供を作って――きっとそんなイメージがあっただろうに。

まさか不妊体質だなどと思いもせずに勝手に避妊をやめ、それでも10年近く出来ないのを不審に思って検査してみたら自分の方に原因があった。誉さんと離婚して別の女に乗り換えても、やっぱり「遠藤家の跡取り」は生まれてこない。

「私絶対やだって言ったのに、もう決めたことだ、みたいな言い方をしたから、だめだこりゃって」
……よく離婚に応じてくれたね」
「まあ、私が本気になったら離婚調停の申し立てくらいはするしね」

養子と言っても、ざっくりと二種類ある。ひとつは「元の戸籍を残したまま養子縁組」をする。ひとつは、「実父母との親族関係をなくして完全に養親の子になる」。後者が慶太郎の望んだ特別養子縁組である。事情があって実父母が養育できない幼い子を、自分の子供として引き取るわけだ。

この特別養子縁組は、独身者では不可能。つまり、離婚した時点でこの手段は取れなくなる。

「ま、再婚すればいいだけの話だしね~。いずれするんじゃない?」
……誉さんはほんとにそれでよかったの?」
「もちろん。私、ほんとに子供は欲しくなかったから」
「嫌いなんだっけ?」
「ま、正直好きではないよ。さっき言ったでしょ、私の目的は母親になることじゃないの」

エンジュは恐る恐る探りを入れていく。誉さんは離婚してさっぱりした様子だし、子供を作りたくなかったのは子供という存在自体を嫌悪してのことではないようだし、これは、いいんだろうか。無理に紹介することはないけれど、寿里の件を話すチャンスはきっとこれが最後だろうと思った。

「もう兄さんには未練とか、ないの」
「あんたそういうウェッティなところ変わんないねえ。ないない、そこは大丈夫」
「遠藤家とは……
「何よ、心配しなくてもこの家に住んでるなんてことチクったりしないって。てかもう連絡取らないし」

エンジュは誉さんの軽やかな笑顔の向こうをずっと探っていたけれど、どうにも裏は見えなかった。彼女の向こうに、兄や両親の影はない。何かが潜んでいそうには見えるけれど、それはエンジュが警戒しているものではなさそうだった。

……たぶん、オレたちもこれが最後になるよね」
「だろうね。特に付き合いを続ける理由もないし、共通の趣味があるわけでもないし」
「じゃあオレも、ネタばらし、しようかな」
「おお、こんなところに住んでる真相ってこと? なになに、何があったの」

誉さんはコーヒーのおかわりをしながら、目を丸くして身を乗り出した。エンジュは学生時代に信長と知り合ったところから改めて話を始め、そして全て話し終えると、に連絡を入れて寿里を連れてきてもらった。

「寿里、お義姉さんにこんにちわ、して」
「おねえさん、こんにちわ、えんどうじゅりです」
「ちょっとやだ、似てる~しかも既に美少年じゃな~い」

寿里は物静かで聡明な子である。その点はアマナも同じなのだが、父親に促されるともじもじしつつも、ちゃんとご挨拶をした。誉さんは思わず吹き出し、挨拶も返さずに寿里の頬を指で突っついた。

「なるほどね、これじゃ警戒するわ。立派な遠藤家の跡取りじゃない」
……言わないでね」
「大丈夫、言う機会もないよ。遠藤家の今後なんて興味もないし」

誉さんはエンジュの膝に抱かれている寿里を眺めつつ、またニヤリと笑った。

「でも、いいね。寿一は欲しいものを全部手に入れたわけだ」
……まあね」
「いや、私、そういういいとこ全部取りって、ありだと思うよ。それはもっと貪欲に求めていいと思う」

だったら、誉さんの「いいとこ全部取り」って、何……? 聞いてみたくなったけれど、エンジュは深呼吸をしてそれを飲み込んだ。聞いてどうする。彼女とはもう二度と関わることはない、他人になるのだ。長く生きていたら、いつか顔すら忘れるかもしれない。そういう存在になるのだ。

お義姉さんが大丈夫そうならアマナも、なんては言っていたけれど、とんでもない。エンジュはすぐに寿里を返すと、そこからはぶっちゃけ話と無難な雑談に2時間ほど費やし、夕方に差し掛かってきたところで駅まで送っていくと先手を打った。酒や食事には付き合えない。

滅多に使わないこともあって、エンジュは車を持っていない。今日は由香里のタウンカーを借りて送り迎えをする。来た時と同じように、誉さんは清田家の誰とも顔を合わせずにまた帰っていく。駅までの道のりの間も雑談に終止し、最終的には芸能人の話になってしまったくらいだった。

だが、駅まであと5分ほど、という頃になって、誉さんはため息とともにエンジュの手を取った。

……どうしたの」
「寿一のところにだけ、ほんとのこと、置いてくわ」

そして指を絡め、またちょっとだけニヤリと唇を歪めた。

「私ね、男が大好きなの」
……はい?」

ついツッコミじみた相槌を入れてしまったエンジュに誉さんは吹き出す。

「だから、イコール、女が大嫌いなの」

真夏の午後、狭い車内にやけに冷たい空気が張り詰める。だって、だけどあなたも女で――

「この地球上に、女は私ひとりだったらいいのにっていうくらい、私は男が好きで、女が嫌いなの。異常って思う? そう思ってくれて構わないレベルだと思う。さっき、寿里くんを連れてきた人、信長くんの奥さん? ああいう、妻で母で、その上女ですって感じの人、ほんと苦手」

は言うほど女性アピールの強いタイプではないはずなのだが、妻で母で、「しかも女」という点に気付く辺り、誉さんは本当に女性が苦手らしい。愛妻家の夫を持つはそういう意味で未だ色濃く「女」の匂いを持っている。おそらく、エンジュくらいしか嗅ぎ分けられないような、稀に放つ匂いではあるけれども。

「だから今の会社はほんとに理想的。実際今いる部署に女は私だけ、社内ですれ違う女なんか掃除のおばちゃんくらい。もうそういう興味は失っちゃったけど、慶太郎も理想的だった。あんたたちの親に似て、心の奥底では自尊心が強くて、選民意識が高くて、すっごくマッチョ。ゲイの弟に理解のある兄って顔を演じてるのも、可愛くて仕方なかった。こいつを独り占めしたいって思ってた」

誉さんの目的は、慶太郎という「男」だった。慶太郎の目的は、違った。

「やっぱり演じてたの、あの人」
「そりゃそうでしょ。寿一に理解を示せば寿一と実家の距離は開く一方」
「そうすれば自分が両親の理想通りの長男になれる……
「私ね、虚勢を張って、オレは男なんだぜ偉いんだぜって振る舞ってるバカな男、大好きなの」

エンジュは誉さんの指が絡む手が温度を失っていくのを感じていた。自分もゲイだし、そういう関係で色んな「性」を持つ人々と関わり合ってきたと思っていたけれど、こういう人はさすがに初めてだ――

……もし子供なんか作って、女の子が生まれてきたらと思うと、ゾッとする」
「もし男の子が生まれたとしても……
「ママ友なんか死ぬほど嫌。息子がヘテロだったら女に興味を持つでしょ。それも嫌。許せない」

この誉さんの「ほんとのこと」を、慶太郎は知っていたのだろうか。エンジュはそれが少し気になったが、まあもう誉さんにとって慶太郎は理想的な男ではなくなってしまった。離婚という決断は、正しかった気がした。そして、もっと早くに決断できていればよかった。

「最近、たまに思うの。私、性自認は女だし、自分が女であることにはそれほど疑問は感じないけど、私の中にある魂というか、本体というか、アイデンティティみたいなものは実は男で、その上で男が好きな――ゲイなんじゃないかって思うことがあるの。男だけの世界に、いたいの」

そう言って誉さんは繋いでいた手を解いた。

「この話をしたの、寿一が初めて。ちょっとすっきりした」
「これから、どうするの」
「ま、候補は既に何人か。最近年下も可愛いなあって思うようになってきてね」
「付き合うの?」
「どうかな。もう結婚はめんどくさいから、特定の相手を作る気はないんだよな~」
「特定でなければ?」
「えへへ、もう、そういうのも、ライフスタイルのひとつだよね」

誉さんは尊さんみたいになっていくのだろうか。それは突っ込まなかったエンジュは、頷くだけにして駅のロータリーに車を進めた。誉さんが自分の中に置いていくものは、決して小さくない。けれど、いずれ、気が付いたら形を失って消えていくような気もした。それまでは、置いておこう。

車を停めたエンジュに、誉さんはにっこりと笑いかける。

「寿一の本当の目的って、なに?」
……あの家で、一生を終えること」
「子供と、親友のそばで?」
「そう。寿里と、信長と、と、一緒に、いたいの」
「それは心配なさそう。じゃ、元気でね。学生時代、楽しかった。ありがとね」

誉さんはそう言ってさっさと車を降り、また輝くばかりの笑顔で手を振ると、もう二度と振り返らずに去っていった。サラサラの黒髪が夏の風に揺れて、キラリと光る。

エンジュの脳裏に、兄の声が蘇る。

――黒髪ストレートに白肌、小顔、華奢、わがまま言わない、誉は理想的なんだよな。

そういう、理想と理想が向き合った、理想的な夫婦だったのだ。ただ、目的が違っただけで。

エンジュはハンドルを切り、もと来た道を戻っていった。