星屑の軌跡

12

罠にかかった信長

自宅は保育園の様相を呈しているが、実はシーズン開幕直前、信長は暇ではなかった。夏休みならではのイベントもあったし、しかし運営母体の方針でスタッフの夏季休暇はきちんと取らせることになっていたしで、とにかく家でも職場でも慌ただしい日々だった。

「気のせいかな、ちょっと痩せた?」
……やっぱりそう思う?」
「多少筋量が落ちたとかくらいならいいけど、ちょっと顔もこけたような」

仕事から帰ってくると子供が7人犬が4匹ウロウロしているという状態なので、最近信長は子供を寝かしつけるとと一緒に倒れ込むようにして寝てしまうことが多くなった。この日もそうやってまどろんでいると、が信長の頬をにゅっと引っ張ってそんなことを言いだした。

「お昼、ちゃんと食べてる?」
「食べてるけど、なんかいつも冷たい麺類とかになっちゃって」
「うーん、そういうのあんまりよくないね。開幕したらまた忙しくなるんだし……

プロ選手が引退後、運動量が落ちたのに食事量を抑えられなくて一気に増量してしまう……というケースはよくある。酒好きならなおさらだ。だが信長の場合は例のマスコットキャラとの乱闘が欠かせなかった都合もあって、動ける体を作っておく必要があった。

そのため、引退直後はもちろん、信長より2年遅れて引退した先輩の沢嶋選手の勤め先であるトレーニングジムでの体作りはずっとやって来ていた。なので現役時代そのまま……とはいかなくとも、ほどよく筋肉のついた、しかし絞りきらずに柔軟性を残した体を保っていた。

それが最近、少しだけ皮膚が緩んでいるように見えてきた。

夏バテと言ってしまうのは簡単だが、やっぱりまだマスコットキャラとの乱闘は恒例のネタとして続いているし、夏はまだまだ終わらないし、ここで体力を損なうのは後々もっと厄介なことになってしまうのではないか――はそれを心配していた。

聞けば食欲がないわけではないという。確かに家に帰ってきてリラックスしている時は普段と変わりなく食べているし、酒も飲む。つまり、仕事が忙しいので昼食を何にするか考えるのが面倒になって、つい冷たい麺ばかり食べてしまっている、ということらしい。

「お弁当、持っていく?」
「いいよそんなの、ただでさえ大変なのに」
「でもどうせじいじとだぁとみこっさんとエンジュのは毎日作ってるしなあ」

しかもこの真夏の炎天下で働くじいじの昼食はつまり、この工務店の基礎でもあるので、そこはと由香里、絶対に手は抜かない。で、そういう管理の一環で、嫁に弁当など作ってもらったことのないだぁの分もついでに詰めている。

これが女将、おばあちゃんの頃には毎日独身の職人さん8人分の弁当をこしらえて持たせていて、由香里が嫁いでくるまでは女将ひとりで毎日やっていた――と思うとは毎回ゾッとする。清田家の他人の世話焼きは今に始まったことじゃないが、やっぱりちょっとやりすぎな気もする。

「だから、職場で嫁の弁当ってのが恥ずかしくなければ」
「えっ、恥ずかしいとかそんなことあるわけないけど、大丈夫なのか」
……信長の体が壊れたら、困るもん」
……それはどっちの意味ですか」
「なんでそうすぐ邪推すんの」
「え~さん言ってよ~あなたがいなくなったら私生きていかれないとか言って~」
「そう言われると言いたくなくなるんだけど」

しかしこの夏は清田家で暇な人間などひとりもおらず、夏にバテてる余裕はないので、は由香里と相談しセイラちゃんにも意見を仰いで、全員がこの異常な夏を乗り切れるよう食事の面も気をつけていこうという話にまとまった。

そんなわけで、スタッフが交代で夏休みを取っていて人が少ない職場、信長は広報に転属して以来初めての愛妻弁当をデスクで広げていた。と言っても桜でんぶでハートマークが描かれているわけでなし、中身は新九郎たちと同じ、夏バテ防止食材を中心としたもので、特に飾り気があるわけではない。

「信長、今日の昼、門戸庵の天ぷら蕎麦食べに行こ――ってどうしたそれ」

だが、いつもなら外へ食べに出たりコンビニで買ってきたりで済ませてしまう信長が弁当を広げているので、向かいのデスクの同僚が目を丸くして覗き込んできた。

「お弁当なんて珍しい。てか、なにそれ奥さんの手作り?」
「はい。最近ちょっと夏バテ気味なもんで」
「バテ気味なのにご飯? 冷たい麺とかの方が食べやすいんじゃないの? 天ぷら蕎麦食べたくない?」
「疲労回復と夏バテ防止メニューになってるらしいす」

顔を突き出しているのは2歳年上の女性で、やはり学生時代はバスケットに明け暮れていたという人物。信長が広報に転属になった時に仕事のいろはを仕込んでくれた人でもある。その先輩、妙見さんは一転、ニヤニヤと笑って椅子にもたれかかった。

「夏バテくらいで弁当作らせるとか奥さん大変じゃな~い」
「いやいや、親父や兄と同じ内容なんすけどね」
「いやー、大家族大変ー! 奥さんストレス溜まんない?」

信長は弁当に手を付けられないまま返事に困った。ストレスが溜まってると言っても溜まっていないと言っても角が立つような気がしたし、一応この弁当はが言い出したものだし……

が頑張って作ってくれた弁当を恥ずかしいなどとはこれっぽっちも思っていないし、毎日食べている慣れた味なのでご飯におかずでも喉通りが悪いなんてことはない。だが、これまで広げたことのない弁当を人前で食べるということの面倒臭さはあるな……と思っていた。

特に信長が入団した頃からチームに関わっている人であれば、彼が人気投票1位をきっかけにプロポーズして結婚したことをよく知っているし、以後ポンポンと立て続けに子供が3人生まれたことも知っているし、ファンの間でも家庭的で愛妻家であることはよく知られた話だ。

なので余計に突っつきたくなる気持ちはわからないでもないが……

それから2日後のことである。はお盆休み前で残業になっている尊の夜食を用意し終えると、信長が子供たちと寝ているので、自室のローソファでぼんやりと手足を伸ばしていた。明日は由香里と買い出しに行かねばならないが、その間子供を全員置いて行くとウサコとセイラちゃんの負担が大きすぎる。さて誰を連れて誰を置いて行こうか――

すると手の中に置きっぱなしてしていた携帯が音を立てた。見ると、なんと沢嶋さんである。結婚してからは忙しいので中々会えなかったのだが、彼が引退して県内のジムでトレーナーを始め、そこに信長が通いだしてからは連絡が取りやすくなってきた。

メッセージには「ちょっと話したいことがある」と記されているが、しかし仕切りのない部屋の中、夫と子供は寝ているし、現在清田家に空き部屋はなく、誰にも聞こえないように電話で喋るには、事務所に入るかランドリールームに入るしかない。

もう床についてしまったから、と話をはぐらかすことが出来ないわけじゃない。だが、沢嶋さんはこんな時間に雑談したくて連絡を寄越すような人ではないのである。何かどうしても話す必要があるから連絡を寄越したのだろうし、はだるい体を起こして部屋を出ると、ランドリールームに入った。

「久しぶり。遅くにごめんね」
「いえ、こちらこそご無沙汰してます。お変わりないですか?」
「オレは何も、というかまあ、近況はそれなりにあるけど、それはちょっと措いといて」

信長もジムに通ってはいるが、お喋りしに行くわけでなし、お互い日常の変化などは知らないことの方が多い。ツグミが生まれた時にはお祝いを持って駆けつけてくれたけれど、それももう半年以上も前の話だ。お互い時間は取りたいが慌てる必要もなくて、しかし忙しいので時間だけが過ぎていく。

しんと静まり返ったランドリールーム、耳元に沢嶋さんの低い声が少し遠くなった。

「突然こんなこと言って申し訳ないんだけど、信長と妙見が不倫してるって、話を聞いて」
…………は?」

一瞬意味がわからず、はひっくり返った声を上げた。不倫てなんだっけ。ああ、浮気か。

「まさか。信長ですよ」
「オレもそう思ったんだけど、だいぶ噂が拡散されてて」
「うーん、毎日ちゃんと帰ってきてるし、正直そんな暇は……

仕事関係で信長のプライベートを一番良く知っているのはこの沢嶋さんだ。何しろ結婚前まではのアパートによく遊びに来ていたし、チームメイトから唯一結婚式にお招きした人物でもある。なので彼も当然それは何かの間違いなのではとすぐ思ったのだが……

「あのさちゃん、オレ別にふたりの間に波風を立てたいわけじゃないし、信長が不倫とかまずありえないし、そこじゃなくて、むしろそんな噂が立つということ自体が臭う気がするんだ。不倫がどうとかではなくて、信長にそういう嫌疑をかけるという、悪意があるんじゃないかって」

それはもっともだ。は頷いて相槌を打つ。

「で、噂のあらましなんだけど、関係は現役に始まって今まで続いてるという話で、地方に出た時に奥さんの目のないところで、という話から、やっぱり今も出張が一緒になるときなんかは同じ部屋でホテルを取ってるとか、そんなことになってて、目撃証言があるって話も出てるらしくて、妙見が信長の部屋に入っていったとか、その逆とか」

しかし一応同じ職場の同僚である。同じ場所にいるはずのないふたりが目撃されたのならともかく――

「そうなんだよ。そういう出入りは別にない話じゃないだろ」
「ものすごく深夜だったとかならともかく……
「それだって遠征先で飲んで帰ってきてから、とか、そういう場合もあるし」
「でも現役の頃って妙見さんそれほど親しくなかったですよね?」
「そこもそうなんだよ。彼女は当時から広報だし、ファンの子を連れ込むってんならともかく……

それも信長と思うとありえない。それに、当時はまだ親しい関係だったミチカはファンコミュニティの中での交流に熱心だったので、もしそれがにバレない前提の火遊びだったとしたら、リスクが高すぎる。しかも、そこから今までの間に子供が3人生まれて、出張とジム通い以外で夫がひとりで外出することはほとんどない。

「というか何でまた今なんですか」
「それも引っかかってるんだ。今、何もないだろ?」
「実は今ちょっと清田家は問題発生中なんですけど、私たちは何も」
「またか。カズサくんたちはみんな大丈夫?」

沢嶋さんはくすぐったそうな声で笑った。ええ、元気ですとも。

「んん、つまり問題は、そういうちょっと無理のある噂が引退してチームから離れたオレのところにまで流れてくる状態になってるってことだ。もし君たちを不仲にさせることが目的だったら、オレのところまで流れてくる前にちゃんが知ることになってるはずだと思う」

沢嶋さんの読みは正しいように思える。だが、だったら一体何の目的でこんなことを。

「私、広報に転属になってからの仕事についてはほとんど内情を把握してないんですが」
「オレが引退するまでの2年間で言えば、特別なことは何もないんだけど」
「そりの合わない人がいるとか、元選手ってことが何か、とか」
「それもなあ。元選手はスタッフの中には何人もいるし、信長は好かれてると思うけど」

それが身内であれば、信長は特に敵を作りにくい人物だ。本人が誰かを苦手と感じて距離を置くことがあっても、それを悟られることはまずない。誰かの恨みを買う……なんてケースも根拠に乏しい。

「例えば、例えばの話だけど、一ノ瀬。あいつ1年目でいきなり人気投票1位。3年目まで毎年1位。だけどその次の年、信長が1位。以後3年間、引退するまであいつはトップ3にも入れなかった」

一ノ瀬さんは華麗なプレイと美しすぎる顔で女性人気が爆発した元選手である。確かにそうまとめられると1位の座を奪われた後輩に対する恨みで――なんていう安直な物語は想像できるけれど……

「だけど一ノ瀬が信長にそのことで恨みを持つと思う?」
「思いませんね、あの逆玉」
「だろ? 引退したのだって怪我でしょうがなく、だし」

一ノ瀬さんは現役の間に資産家の娘でファッションモデルで実業家でもある女性と交際開始、引退後にそのまま結婚した。確か1年のうち数ヶ月は日本にすらいなかったはずだ。もちろんこの沢嶋さんと違って個人的に連絡を取ることはない。

「そうやって突き詰めていくと、チーム内では信長にこんなことをする人に心当たりがない」

だが、それが余計に怖い。は日中の熱気が抜けていない暑いランドリールームで背筋を震わせた。これまで生きてきて「話の通じない人」とか「理解に苦しむ人」というのには度々遭遇してきた。その代表格が義妹のアユルや、ウサコの叔父さんだろうか。

それでも、未だアユルを誘惑し続ける東京という呪縛や、ウサコの叔父さんの遊興費への執着など、彼らの目的はそれほど難しいことではない。実に単純な渇望だった。それをエンジュは以前「攻撃してくる人間の目的なんていつも単純で簡単なことばかり、それを色んな言葉にくるんでぶつけてくる」と言った。つまり逆に言うと、それさえ辿ることが出来れば、対処法も見えてくる。

しかし最近はその「目的」が見えにくいことが多くて――

はランドリールームに積み上がる、翌日洗濯予定の服の山を見て肩を落とした。そう、ちょうどコスモがそうだ。彼女は尊に責められて逆上し、以来セイラちゃんの監視下にある。いつだったかセイラちゃんが彼女と出かけた時は、知人の児童思春期内科医を訪ねていたらしい。

以来その件をセイラちゃんは語らず、尊が天道さんの件を探るのと、最寄りの児相の連絡待ちである。

――人は心の中に、とても正直な欲望を持っている。それを表に出さないのは、社会的に問題である場合がほとんどだろうけれど、自身がその正直な欲望を認められずに押し込めているというケースも少なくないはずだ。言いたくない。知られたくない。

今電話で話している沢嶋さんもそうだ。彼はゲイだが、それを知っているのはと信長とエンジュだけ。彼はわざわざ知ってほしい人はないと言う。家族は自分に女性との結婚を期待している風な母親しかいないので、彼女にも言えないと言っていた。

ここ数年は自宅で子育てと家事に奮闘しているせいもあり、子供たちの飾らない素直な感性にばかり触れてきたには、目的が見えないまま動いていく事態というのは計り知れない恐怖を掻き立てた。自分たちが子供を守っていかねばと思うとその恐怖はさらに強くなる。

だが、同時にの脳裏にカズサの顔が浮かんできた。

父とふたりきりで旅をしたカズサ、彼には少々時代の潮流からは外れた強い意志があった。幸い彼の父親はそれを心から理解してやれる人物だったので、は夫からそれを説明されて、幼く、未発達で、発展途上で、守るべき存在でしかなかった我が子には既に、「(さが)」があると再認識させられた。夫は、それを矯正するのではなく、いい方向へ伸ばしてやりたいと言う。も、そう思った。

あんな小さな子の中にも、外からは見えない「目的」があって、母であるはそれを読み取れなかった。というか、彼はそれを母や祖母に知られまいと虚勢を張り、隠そうとしていた。

それは、脳内という究極のプライベート空間にのみ自由に展開する世界であって、誰にでもそれが読み取れてしまう方が問題だが、それでも、見えないことは怖い。

ちゃん?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと、怖くなってしまって」
「こっちこそごめん、言おうかどうしようか迷ったんだけど」
「いえ、お話し出来て嬉しかったです」
「こんな話じゃなく、もっと楽しい話がよかったけどね」

沢嶋さんの声は優しい。それだけでも少し気持ちが楽になる。

「沢嶋さんは……大丈夫ですか。しんどいこととか、ないですか」
……あのねちゃん。詳しいことはまたいずれ話したいんだけど」

しかしその「いずれ」が現実になるまでは時間がかかるはずだ。沢嶋さんの声が少し掠れた。

……母に、カミングアウト、しました」
「えっ!?」
「母は、泣き崩れて、しまって」

また一気に背筋が冷たくなる。ダメだったか、受け入れられなかったか――

「それで、泣きながら、今まで無神経なこと言ってごめんと、オレに、謝って、きたんです」
「さ、さわじまさん……!」
「それでねちゃん、オレ、今、付き合ってる、人が、います」

はランドリールームの椅子の上で体を折り曲げて、声を殺して泣いた。

「母にも紹介、出来て、まだ付き合って1年も経たないんだけど、だけどオレ、今生まれてきて一番幸せだと思う。あの時信長とちゃんに、受け入れてもらった経験があったから母に言うことが出来たと思うし、だから今の彼氏と付き合えたんだと思うし、ほんとに、ありがとう」

はもう泣いていることを隠さなかったし、沢嶋さんも少し涙声だった。「またいずれ」は絶対に実現させましょう、何とかしてゆっくり話す時間を取りましょうねと言っては通話を切った。もう背中をぞわぞわと指先で撫でるような恐怖はなかった。

そしてランドリールームを出ると廊下を駆け上がり、部屋に飛び込むとぐっすり眠っている信長の隣に滑り込んだ。弁当を始めてから入浴も始めた信長はよく眠れるようになったと言っていて、今も口を半開きにして眠っている。その腕の中にもぞもぞと潜り込む。

むにゃむにゃと寝ぼけつつも、信長はの体に腕を伸ばしてきた。

怖いけど、色んなことが怖いけど、大丈夫。こうしていれば、怖いことなんか、何も。