星屑の軌跡

3

由香里、主婦やめる

妊娠がわかってすぐ、頼朝は跪いて再度ウサコにプロポーズをした。実家との付き合い方が厄介になってくるのはわかるが、生まれてくる子供は清田頼朝と清田宇佐子の子であってほしい、どうしてもウサコと正式に夫婦になりたいと言って、頭を下げた。

まさか妊娠するとは思っていなかったウサコなので、これにはすぐに頷いて、彼女はやっと清田家に嫁いだ。実家を出てから1年以上が過ぎていた。

さてそのウサコの実家、北見家である。

ウサコが清田家で過ごしている間に、工務店に窃盗目的で侵入した叔父さんは予想通り懲役刑を食らっていた。判決の時点で懲役5年、執行猶予なし。新九郎にビビらされてしばししおらしかった叔父さんだが、それが喉元を過ぎるとまた身勝手な理屈でヘソを曲げるようになり、それが仇となったか、ともかく反省の色がない彼は5年服役することになった。

それでも一応叔父さんの処遇が決まったことにホッとしていた母子3人だったが、話はここで急に折れ曲がる。ウサコの実家が立ち退きを要求されることになったのである。

そもそも北見家はウサコの祖父が住んでいた家で、それを叔父が引き継ぎ、その後ウサコとその母、祖母が移り住んだ一戸建てである。だが北見家が所有しているのは借地権だけであって、北見家周辺一帯は古くから近所の大地主のものであり、そこが代替わりしたので、一気に売却が決まった。

新九郎に言わせると北見家周辺の家々は「オレが高校生くらいの時に一気に建てられた家ばっかり」なのだそうで、今にも傾きそうな家がたくさん並んでいるし、管理者がいない空き家も増えてきたそうだし、地主さんはまとめて処分を断行、一帯は再開発の方向とのこと。

困ったのは北見家のふたり、ウサコの母親と祖母である。

しかし尊がよくよく釘を差しておいたので、ウサコに「困った」とは連絡を寄越したが、それ以上に何かを要求することはなく、やがて行くあてもないふたりは一時的に、と店の2階に引っ越してきた。だが、元々はそこに住んでいたのである。戻ってきただけ。しかも、突然退去勧告をしてきた地主さんはきちんと立ち退き料を用意しており、それほど悪い話ではなかった。

ただ問題だったのは、店の2階へ上がるには急な外階段を登らねばならず、その外階段も錆びに錆びて強度が落ちていたし、なおかつ祖母の方はもう何年も膝と腰を患っており、母親の方も腰痛持ちで、しかもふたりとも夜に酒をしこたま飲む商売をしていた。

あの階段は危ないから、まとまった現金があるなら階段の上り下りの必要がない賃貸住宅に引っ越した方がいいんじゃないのか、とウサコは何度も進言した。だが、立ち退き料に目が眩んだふたりは高価な宝石を買い求め、それを知ったウサコはもう何も言うまいと口を閉ざした。

するとウサコの予想は的中、酒の抜けない状態で短い睡眠から目覚めた祖母は煙草を切らしていることに気付き、早朝にひとり外に出た。そのまま足を踏み外し、転がり落ちた。早朝のことだったので発見も遅く、しかし頚椎を骨折していて、ほぼ即死だった。

店の常連さんに見送られて葬儀が終わると、ウサコの母は店を畳みたいと言い出した。

だが、店を畳んだところで彼女にはウサコの他に家族もなく、商売を離れると交友関係も希薄で、はっきり言いはしないけれど、大所帯の清田家に混ざりたいような目をして娘をチラチラと見ていた。だが、可哀想なようだが、それだけは絶対にウサコが許可しない。

それから一月ほど、あたしは娘に見捨てられたと言って生活保護しかないのかしら、と飛躍した恨み節をブツブツ言うようになっていた彼女は、やはり最近一緒に店をやっていた姉を亡くしたという知人から、一緒に働かないかと声をかけられた。

ウサコは遠巻きにそれを見ながら「おばあちゃんの件は不幸な事故と言えるかもしれないけど、トントン拍子ってこういうことを言うんだなって思った」と漏らしていたが、文字通りウサコの母はトントン拍子に店を売り払って小奇麗なアパートに越し、知人の店でまた働き始めた。

のみならず、新しい店に移って半年、客としてやって来ていた70代の一人暮らしの男性に見初められ、なんと100坪の邸宅持ちの男性の内縁の妻に収まってしまった。子供と折り合いの悪いその男性は自身の遺産は全て残すから自分の面倒を頼むと言う。

そんなわけで、恨み節が一転、ウサコの母親は生まれて初めて安定した生活というものを手に入れ、知人の店での仕事は続けていたが、孫が出来たことも大層喜び、ウサコにも本人が怪訝そうな顔をするくらい優しくなり、関係は良好になっていった。

なのでウサコは安心して清田宇佐子になったわけだが、この時清田家孫世代は既に5人目、カズサは小学生になっていた。子世代は全員30代、そしておばあちゃんは80代後半に突入していた。

これをひとり粛々と受け止めていたのは、あまり変化が見えないながらも還暦を過ぎた由香里である。

ウサコの妊娠を聞きつけてセイラちゃんが突撃してきたその翌月、とある日曜のことだった。日曜なので出勤の信長を欠いた清田家は全員揃っていて、セイラちゃんは帰国を聞きつけた実家が騒いだので渋々出かけていた。由香里はリビングに腰を据えると、咳払いをひとつ。

「私、主婦やめようと思う」

夫の新九郎も含め、全員由香里のその言葉に首を傾げた。やめるとは言うけれど、この場合の「主婦」って職や肩書のことではなくて、由香里がどういう状態にあるかを言い表しているだけなのでは? それをやめるとは? 真意の見えない家族はひとまず次の言葉を待った。

「ちょっと計算してみたんだけどね、仮に主婦業を仕事と考えて休日が週2日あるとして、祝日や年末年始、夏休みなんかを含めたら、ひと月に平均で10日くらい休みがある計算になると思うのね。そうすると、仮にそれが30年あると、休日だけで9年間分ある計算になるのね」

単純計算では一応そういうことになる。全員うんうんと頷いた。

「だけど正直、ハタチでこの家に嫁いでから、私に休日ってものはほとんどなくて、スーツ着て電車乗ってお勤めしてたのは結婚前のほんの短い間だったけど、以来私は休みなく働いてきたと思うのよ」

それも事実なのでまた全員頷く。確かに由香里が「会社勤め」をしていたのは高校を卒業してから2年間ほどだったが、その頃よりも結婚後の方が忙しく、特に子育てをしながら癌を患う舅とそれに悲観していた姑を気遣い、毎日10人近い従業員に食事を振る舞い、病に倒れた父に代わって代表を務めなければならなかった夫を支えていた20代、由香里には休日どころか休む時間すら殆どなかった。

……幸い、私はやエンジュ、ウサコに恵まれて、この10年ほどはひとりじゃなかった。おばあちゃんも手伝ってくれてた。だから大病もせずに無事にこの歳を迎えられてるわけなんだけど、同世代の女性たちは、みんなバタバタと病気になって、何人も死んでる」

特に由香里の場合、夫の仕事に関わってきたせいで顔が広く、地元に同世代の知人が大量にいる。今でも組合などを介して同年代の女性と話す機会が多い彼女は、そう言ってまた咳払いをした。

「このままだと病気になるとは思ってないけど、私は私の人生の仕事にそろそろ区切りをつけてもいい頃だと思う。おばあちゃんに代わってこの家を守ってきたけど、私はそろそろその役目から降りよう、9年間分の休日を消化しよう、そう思ったの」

言いたいことはわかるので、また全員頷きつつ、その「役目を降りる」が何を意味するのかわからなくて固唾をのんでいた。しかも二人三脚で寄り添ってきた新九郎については何も言わない。まさかとは思うがまさかではあるまいな。この時新九郎は全身冷や汗でびっしょりだった。

そして、由香里は背筋を伸ばし、言い放った。

「私はこの家の主たる役目を降ります。そして、後継者には、を指名します!」

一瞬意味がわからなくてポカンとしていた家族は、しばらくすると口々に「どういうこと?」と言い出した。唐突に注目を浴びたもオロオロしている。

「お父さんが社長を続けてるうちは、会社の責任者はお父さんでしょう。それはいずれ頼朝が引き継いで、現場も豪に任せてお父さんは第一線を退く時が来るだろうけど、私はこうしてどこかで区切りをつけない限り、死ぬまでこの家の先頭に立って何でも取り仕切る役目から離れられないのよ」

遡ること40年ほど前、この清田家を取り仕切っていたのは、おばあちゃんこと新九郎の母親であった。当時は「女将」と呼ばれ、身内も他人も関係なく毎日食事を振る舞い、当時としては珍しい恋愛結婚であった夫に献身的に尽くしていた。だが、その夫は50代半ばで病に倒れた。

そこから新九郎の父、通称「親方」は治療を続けながら7年間隠居生活を送ったのち、ろうそくがゆっくりと燃え尽きるようにして息を引き取った。当時としては治療が延命に大変な効果を上げていたと言えるかもしれないが、愛する夫を失った女将はがっくりと落ち込んでしまった。

以来女将は親方の位牌と幼馴染の友達以外にはあまり興味を示さなくなってしまった。なので、親方が病でやせ衰えていくほどに、由香里と新九郎は忙しくなっていったし、その中で子供を3人も産んだ由香里はいつしか、次の「女将」になっていた。

「女将から全ての役割を引き継いで、子供3人抱えて走ってきたけど、それはもう充分に全うしたと思う。今の私の役割はこの家を仕切ることじゃない。孫と遊ぶこと、経験者としてやウサコをサポートしていくこと、そういうことだと思うの。そうしてもう1回自分自身を見つめ直して、9年間分の休日を、新九郎さんと一緒に過ごしていくことだと思うの」

子世代が揃って新九郎の方を見ると、案の定新九郎は両手で顔を覆って無言で泣いていた。というか「お父さん」とか「社長」とかではなく、「新九郎さん」と久しぶりに呼ばれたので、もう我慢ならなかったらしい。笑ってはいけない。

「女将が親方を亡くして落ち込んでしまった時は私しか跡継ぎはいなかったから悩む暇もなかったけど、今はちょっとややこしいでしょう。まだ工務店の方はお父さんが社長だし、まあ昔の感覚で言うならは三男の嫁だし、そういうことなら頼朝とウサコが会社も家も代表として引き継ぐべきなのかもしれない。実際会社の方は頼朝が受け継ぐわけだし」

由香里はひょいとウサコの方を見て、少し頭を下げた。

「だけど、ウサコ、ごめんね、はこの家に暮らすために、5年間もひとりで戦ってきた子なの」
「そ、そんな、わかってます。私もそれはだと思います」

もちろんウサコに「長男の嫁は私なのに」なんていう気持ちは微塵もない。というかしどろもどろになっているが、ウサコの目は雄弁に「むしろお前が後継者になれと言われる方が困ります」と語っていた。彼女の場合、頼朝の妻という役割だけでも目一杯なのである。さらに予期せぬ妊娠、とてもじゃないが清田家など預かれない。

「親方と女将、私と新九郎さんがやって来たように、会社のことは夫が、家のことは妻が、というのが一番順当なんだろうということも考えたけど、あんたたちを見てるとね、そういうのって、古い時代の無意味な習慣だなって思って。だから、会社のことはいずれ頼朝が継げばいいけど、この家のことは、に任せたいの。、後を、頼みたいんだけど、引き受けてくれるかしら」

ここに来て感極まった由香里の涙声に、も言葉に詰まる。この家に暮らすことは、17歳のの「夢」だった。この清田家というものへの思い入れは誰よりも強い。そして、自身でも由香里の跡継ぎは自分だと強く思ってきた。清田家は「私の家」、そう思っている。

「私、もし信長とうまくいかなくなったら、養女にしてって、ゆかりんに言ったことあって、その時は本気で、信長と結婚できなくても、この家で暮らしたいって、思ってた。だから、まだ私なんかおばあちゃんとかゆかりんになんか及ばないけど、でも、やります、私が、引き受けます」

女将から由香里へ、そして由香里からへ、バトンが確かに手渡された瞬間だった。

涙の引退式、そしてへの引き継ぎを終えた由香里は一転、ちょっとふんぞり返って息子たちをひたと見つめた。末っ子を欠くが、息子たちは肩をすくめる。あまりいいことは言われそうにない。

「そういうわけで以後私は色んなことに対する『決定権』をに譲り渡していきます。だから、あんたたちはこの家の中のことに関してはに従うようにしなさい。だけどこんな人が多くて忙しい家をひとりが支えきれるわけもないんだし、それを全員でサポートしていきなさい」

息子ふたりだけでなく、由香里はエンジュとウサコにも言っているらしい。

「私と新九郎さん、おばあちゃんを除いたら、大人6人に対して子供5人、子供ふたりの家庭がふたつ、子供ひとりの家庭がひとつ、てな程度よ。全員がそれをしっかりわきまえていたら、負担は他所様のお宅とさして変わらないはず。だから、にばかり負担がかかって家がうまく回らなくなったら、それは協力すべきあんたたちの責任でもあるということは肝に銘じておきなさいね」

つまり、をリーダーに置いて全員で頑張りなさいよ、ということだ。

その夜、さっそく新九郎とデートに出かけた由香里と入れ替わりに帰宅した信長は、話を聞くなり「養女にしてって言ったのは聞いてたけど、まさか清田家乗っ取りだったとはな」と言ってヘラヘラと笑った。これがきっかけでのちにこの件は「由香里の変」と呼ばれることになった。

「なるほど。による下剋上だったか」
「平均的な家庭が3つ程度、それが破綻したらフォロー不足、とは上手いこと言うよね~」
「でもまだしばらくはうるさそうだけどな」
「そりゃそうだろ、40年近く司令塔だったんだから、そんなにすぐに切り替わるわけない」

この家に生まれ育った兄弟3人は、母親の人生の決断により、いきなり嫁をリーダーとせよと命じられてしまったので、それぞれ好みの酒を傾けながら苦笑いである。

だが、最近のは新九郎ですら「お袋や由香里より怖い」と言うほどなので、不満があるとかそういうことではない。頼朝もウサコにその任を押し付けられても困るし、尊は現在に生活の雑務を丸投げしている状態だし、信長も嫁がリーダーで自分は三男のままであることは気にならない。

その信長はふとの祖父母のことを思い出した。彼らはと信長が結婚した頃に「卒婚」し、元々川ひとつ挟んだ隣町の地元っ子同士だったせいもあって、それぞれの生まれた町に帰っていった。

「結婚式の前日にそんな話聞かされたのか」
「まあ、だからいろんな形があるよって言いたかったんだろうけど。あいつらも同じだよな」
「未だにお互いのこと大好きな時点でふたりも充分珍しいよね~」
「珍しい? オレもウサコとそうなる自信あるけど」
「オレもお前と違って一筋だし」
「オレも異常かもしんないけど、お前らもちょっとアレだかんな」

清田家はどこもだいたい極端vs極端になりがちだ。三兄弟は意味もなくグラス掲げてを鳴らし、中身を一気に飲み干した。日曜の夜、2年ほど前から大河ドラマを見始めたとウサコは夜20時から45分間は家事その他を一切やらないと決めているし、最近ではエンジュもそこに混ざり始めた。

それをダイニングテーブルで眺めていた尊はしかし、髪をわしゃわしゃとかき混ぜて呻いた。

「でもな~オレあんまり信用出来ないんだよな~」
「何が」
「由香里の引退~。休日9年分消化とか言ってるけど、あの人の性分でやめられるとは……

生まれた時からずっと一緒に暮らしてきた息子の意見である。信長も頼朝もすぐに頷いた。

確かににバトンを託したいのは本音だろうし、自分の人生を見つめ直して夫とふたりの時間を作りたいのも事実だろうが、今そこにある戦いから目をそらせないのが由香里という人物なのである。果たして今後の清田家に、立ち向かわねばならない困難は一切訪れない――わけがないのである。

この清田家がまずまず平穏であったのは、信長が小学生から中学生くらいの約10年間くらいだっただろうか。その前は親方の病やら若くして社長に就任した新九郎一強体制化によって多忙を極め、尊が高校生の頃に豪と桃香の結婚、そしての出現、そこからはまた毎日毎日ドタバタドタバタ、由香里だけでなくみんな慌ただしかった。

「今はまだ『自分は決断した』って思ってるだろうけど、たぶんアレ、もう仕事はやりきったって言って定年迎えて1年で耐えられなくなって再就職先探す人みたいになると思う。みんなバタバタ死んでるって言うけど、あの人の場合は9年間も休んでる方が病気になりそう」

さもおかしそうにくつくつ笑う尊に、兄と弟は頷きながら同じように笑った。

明日からこの家のリーダーはになるけれど、彼らにとって由香里は母親だ。

尊は兄と弟のグラスに酒を注ぐと、ドラマ鑑賞のお邪魔にならない声で咳払い。

「じゃ、ま、お母さんお勤めご苦労さまでした、ってことで」

三兄弟は囁き声で「乾杯」と言ってグラスを掲げた。

一方その頃妻の決断にいたく感激した新九郎は、今日は自分は一滴も飲まないからと宣言して由香里を連れ出し、由香里の好きな店で食事をし、高級なバーで酒を飲ませ、そのままドライブをして海が見える場所までやって来た。

そこで新九郎は潮風に酔いを覚ましている由香里の傍らで跪き、なんとプロポーズを始めた。

いわく、結婚までも苦労続きだったことはよく知ってるから、もっと余裕のある生活をさせてやりたかったのに、むしろ転がり落ちるように忙しくなってしまって、正直自分でも思い描いていた結婚生活からは程遠かった。だからここからそれを仕切り直したいと言う。

「そういえば新九郎さん、最初のプロポーズも大して出来が良くなかったわね」
「だからそれも仕切り直し。指輪はちょっと間に合ってないけど」
「最初のプロポーズの時も間に合ってなかったんじゃなかった?」

ちくちく突っつく由香里はしかし、ゆったりと微笑みながら新九郎の手を取った。

……もう白のレースのリボンが似合う女の子じゃないわよ」
「えっ、そう? もう1回由香里のウェディングドレス見たいなと思ってたのに」
「いやーね、笑われるわよ、そんなの」

由香里の手を取ったまま立ち上がった新九郎は風にヒゲをそよがせて笑う。新九郎がこのヒゲを生やし始めたばかりの頃、慣れない由香里はその髭面にキスされることをしばらく嫌がっていた。何しろ毛髪がクドい家系の清田家、チクチクして痛い。

「笑う? オレの嫁さんを誰が笑うっていうの」

潮風の向こうに、由香里は21歳の新九郎を見た。君を世界で一番愛しているのはオレだから、君は世界で一番幸せになれる。そういう理屈のプロポーズだった。私は世界一幸せかしら。そう自問するたびに、由香里は心の中でこっそり「そうよ」と言い続けてきた。

そういえば最初のウェディングドレスは妹にそそのかされて買った巨大な提灯みたいな袖のドレスだった。今写真を見直してみても、ドレスに人間が埋もれている。あれはそう、幸せな黒歴史だ。

「じゃあ、結婚式して、新婚旅行に行かなきゃいけないわね」
「そういや新婚旅行、2泊3日の国内だったな」
「新九郎さん、私、一度でいいからパリに行ってみたい」
「おお、いいな。行こう行こう。パリでもフランスでもどこでも連れてってやるぞ」

由香里はゴフッと吹き出し、そのまま新九郎に抱きついた。新九郎もぎゅっと抱き締め返す。

「女将もお母さんももう終わり。明日からはあなたの妻しか、残らないからね」

それが由香里の、「見つめ直していきたい自分自身」だったのである。