在り方の問題、または指先の恋

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白波を休んでしっかり準備したおかげで、2学期の中間の結果は飛躍的に上昇した。だが、それでも越野父の言うような一桁ではもちろんないし、あくまで1学期に比べたらの話だ。それはそれで意識改革がよく出た結果であると認めてやればいいものを、担任はまたネチネチと要努力と通告してきた。

というかに嫌味を言ったことが白波を経由して自分が怒られるという結果になったのが面白くなかったようで、こんな成績でまだアルバイトを続けるつもりかなどと捨て台詞まで吐かれる始末。

その数日後の進路指導では副担任も同席だったので余計なことは言われなかったけれど、進学を考えていると言ったに対して「だったらもっと勉強しなさい」と強く言い、面談後に副担任の方から「もっとひどい成績から有名大学入った子知ってるから大丈夫だよ、頑張れ」と声をかけてもらった。

3年生の時にこんなのが担任だったら目も当てられないけれど、まだ1年生、傷は浅い。副担任からは余裕があるなら苦手な教科だけ塾に通うなどの補助があってもいいと思うとアドバイスを貰ったり、助けてくれる人はいる。攻撃してくる相手ばかりに構っているのは時間の無駄遣いだ。

越野の話、母の話、それをきっかけに、は今まで見えなかった白波というものが目に入るようになってきた。確かに父親はすごく頑固だ。それは入婿の立場で店を継いだことにもよるだろうが、頑なに初代の頃のままの白波を維持しようとしている。

それはそれで構わない。何でもかんでも世の流れに合わせてやるのでは白波が白波であることにならない。けれど、は確かに聞いたのだ。初代と越野のじいさまは「白波をもっと素敵な店にしてくれ」と言ったのだ。にはそういうつもりがある。これではいずれ父とぶつかる。

もう自分の世代のと越野は白波で働きたいと考えない人がほとんどだ。そうなればこの店はやがてでも越野でもない従業員ばかりの店になるのだ。そういう従業員たちと、父との間にも入らねばならない。それには、父と真正面からぶつかってでも白波を「素敵な店」にするには、父に意見できるだけの基礎がなければ。

白波のために経営を学んでこなきゃ、というよりは、あとで父と意見が対立した時にも「お前なんか高校しか出てないくせに」と言わせないために、進学をしたいと思うようになった。それを母に話すと、彼女は「ありそう」と言いながら賛成してくれた。

結局何でも白波のためなのだとすると、確かにそれはちょっと周囲からは浮いた道なのかもしれない。けれど、白波が好きなのだ。最近駅前にできた真新しいピカピカのカフェより、白波が好きなのだ。誰より白波を愛する自分が守っていきたい。そのためには戦っていくための武器がなければ。

そう思えば、少し白波を離れて武器を調達しに進学するくらい、どうってことない。

幸い副担任は進学に関して相談したいことがあればいつでもおいでと言ってくれたので、担任とは関わらないようにして少しずつ考えていこう、自分が武器を身につけられるような進学先を探そう。この日はもう10月も半ばだと言うのに蒸し暑くて、は髪をぐりぐりとまとめ上げると、小走りのまま教室のドアを開けた。

いつもの場所に、仙道の丸い背中があった。

ドアに手をかけたままは止まる。新学期に入ってからはほとんど会っていなかった。その上国体を見てしまったことで彼を遠くに感じてしまった。夏休みにふたりで夏祭りに行ったことも、ナベさんと遊びに出かけたことも幻だったかのように、遠く感じた。

越野がふたりを案じたように、こちらもまだ傷が浅いうちに手を引いてしまった方がいいんじゃないだろうかと思った。引き返せないところにまで踏み込んで、あとで傷つくのは自分だけではないだろうし、それが彼の邪魔になるなら、自分がやがて彼を傷つけることになるなら、これ以上は。

ドアを勢いよく開いてしまったが、今のところ仙道は動かない。は足音を立てないように教室へ入る。バカだな先輩、2学期入って席替えしたからそこはもう私の席じゃないんですよ。教室の中ほどの席までそろそろと歩み寄り、机の中身を確かめ、引っ掛けたままにしていたサブバッグを持ち上げる。

そしてちらりと仙道の背中を見ながら、は心の中で語りかける。先輩、ありがとうございました。

夏祭りのことはたぶん一生忘れないし、店の裏口でハグしてもらったことも忘れないだろうし、もし先輩が大学でもその先でもどんなに凄い選手になっても、それでもまだ白波のご飯が好きだったら、食べに来て下さいね。白波がなくならないように、私も頑張るから。

そのまま立ち去ろうとしただったが、そんな考えに浸っていたせいでつま先を机に強打。机はガタンと大きな音を立て、静かに寝ていた丸い背中をビクリと跳ねさせた。やってもうた。半開きの目をした顔がぐるりとこちらを向く。音を立てた主がだとわかると、彼は眠そうな瞼のままゆったりと微笑んで目を細めた。

ちゃん」
……先輩、そこ、もう私の席じゃないです」
「え」

幸せそうに目を細めていた仙道は慌てて体を起こして立ち上がった。蒸し暑いのでシャツ1枚で、しかも襟元を大きく開いている。開け放したままの窓からそよそよと風が吹き込み、カーテンと真っ白なシャツをはためかせている。彼は罰が悪そうに椅子を戻し、のろのろとに近付いてきた。

「いつ席替えしたの」
「2学期になってすぐ。今そこは夏休みデビューでチャラ化した男子の席です」
「うええ、まじか、やってもうた……
「てか先輩いくら暑いからってそのシャツ……なんですかそのボタン!」

衣替えも過ぎて一応制服は学ランなので、それを上に着てしまえば見えないとは言え、シャツはだけ過ぎだろう……と呆れただったが、はだけていたのではなくて、ボタンがなかった。というか第2ボタン第3ボタンは見るも無残な糸が伸びた状態で、音をつけるなら「びよーん」という感じ。垂れ下がってぶらぶらしている。

「ああ、夏休みは帰省しなかったし、もう殆どのシャツがこんな感じ」
「全部取れちゃったらどうするんですか……早く言えばいいのに」

ため息を付きながらはバッグの中に手を突っ込んでポーチを取り出し、中身を机の上に広げた。出てきたのは針と糸。仙道はそれに気付くとの隣の机に腰掛け、少し首を傾げての指先を眺めていた。

「一番上は取れちゃってるんだけど、付けてくれるの?」
「ちょっと色が違うし応急処置だけど我慢してください」

手早く針に糸を通すと、は仙道のシャツを引っ張って屈み込む。玉止めした糸を通し、ボタンも通してシャツに固定していく。シャツを着たままなのでは丁寧にゆっくりと、けれどてきぱきとボタンを付ける。

「縫い物、上手なんだね」
「店で色々やってるので」
「あ、そうか。いいね、女の子らしくて」
……そういうのって差別なんじゃないんですか」
「そうかな? 女のくせに出来ないのかって言えば差別かなと思うけど……

仙道に差別意識などないと分っていてつい言ってしまったは返事をしない。

「そんな小さな針、この手じゃやりにくくて。女の子の小さい手ならやりやすいと思う。それに、女の子は細かい作業が上手な人が多いでしょ。だから縫い物が上手なのは女の子っぽいなあ、と思っただけ。ちゃんが縫い物苦手でも、何も思わないよ」

仙道は自分の手を持ち上げてくるくると回している。確かにでっかくてバスケットボールを掴むのにはいいだろうが、こんな細い針と糸を素早く操れと言われたら、やりづらいだろうなあとも思う。すると、傍らでふらふらと揺れていた手が、ゆっくりとの背中に降りてきた。ついビクリと肩を強張らせてしまう。

……最近、連絡取れなくなっちゃったね」
「テ、テスト前、だったし、国体、あったじゃないですか」
「テスト前、白波に行きたいなって思ってたんだよ」
「ヒロに言えばよかったじゃないですか」

第2ボタンを補強しつつ、は越野に馴れ馴れしくするなと言われていた頃のような、淡々とした口調を守って答える。そう、白波に来たければ来ればいいのだ。越野でもナベさんでも、簡単に連絡が取れる誰かに言えばよかったのだ。だが、ボタンを付けているというのに、仙道は体を屈めて頭を落とした。

……ちゃんに会いたかったんだよ」

思わず手を止めたの背中で、仙道の手がするりと這う。もう少しで肩に届きそうだ。ああこのままぎゅっと抱き締めて欲しい、そう思ってしまったはスッと息を吸い込んで雑念を振り払い、針を動かす。

「会って、どうするんですか」
「テスト前の放課後ちょっとくらいなら、またふたりでどこか行かれないかなって」
「テスト前なんだから、勉強、しましょうよ」
「越野と同じこと言ってる」

くすりと笑った仙道は手を浮かせると、人差し指での背中をそっとなぞる。

「海の近くの学校っていいなあと思ったんだよ」
「はい……?」
「ここ最近ではIHに出たこともないってわかってたけど、海が近いのが気に入ってさ、陵南」

まとめ髪からこぼれた一筋の髪を跳ね上げ、また仙道の指は背中を這い回る。

「好きな時に好きなこと出来てひとり暮らし気楽だし、部屋がちょっとくらい散らかってても怒られないし、最初はよかったんだけど、なんせ毎日飯作らなきゃならないのがしんどくてね。そしたら越野がうち和食の店やってるから来いよって誘ってくれてさ。助かるーと思って、何も考えずに出かけていったら、なんか料亭みたいなところで、だけどご飯がめちゃくちゃ美味くてびっくりして……

は背中を這う指を意識の外に締め出しつつ、第2ボタンが終わるとすぐに第3ボタンに取り掛かる。

「そりゃお店なんだから毎日とはいかないけど、また食べたいってすぐに思うくらい美味くて、そしたらさ、可愛い女の子がいるじゃん。越野は鬱陶しそうに幼馴染だって紹介してくれたけどさ、その時まだ中学生なのに超笑顔でいらっしゃいませ! って声かけてくれてさ、話しかけても嫌な顔しないし、ほら、その頃はまだ天使対応だったじゃん? にこにこしながら、ご飯粒ついてますよ、って、指で摘んで取ってくれたでしょ」

緩みが軽かった第3ボタンが終わり、シャツを引っ張って出来を確かめたは、手を伸ばして針を机に置くと、ボタンをかけていく。第3、第2、第1。少し大きな代用ボタンの第1をかけ終わると、の両手はバスケットボールを掴める仙道の手で包み込まれた。

「その時から、ちゃんのこと、好きだなって、思ってる」
……そんな、ことで、ですか」
「白波のご飯みたいに、暖かくて、優しくて、幸せな感じがしたんだよ」
「わた、私、別に、そんな」

少し震えているの手を仙道はしっかりと包んでいる。またつめたく冷えているの手が、温かい仙道の手の中で温まっていく。ポカポカと、そしてじわりと熱く。

「私は、先輩みたいにすごい能力とかないし、白波で働くことが夢だし、そのために勉強はしようと思ってるけど、ずっとあの店にいることは変わらないし、どこまでも着いていきますみたいなこと、出来ないし、先輩は、卒業したら、必ずここから、いなくなっちゃうじゃ、ないですか……

やっとのことで言葉を吐き出しきったの手を解放すると、仙道はまた体を屈め、そして何も言わずに引き寄せて抱き締めた。もうずっとそうして欲しいと願ってきたは、倒れ込んだ勢いのままにぎゅっと抱き返す。仙道の背中のシャツを掴んで、肩に顔をうずめる。

「だけど、私のためにここにいて欲しいとか、そんなこと考えたくもないし、私も白波から離れられないし」
ちゃん」
「先輩の世界はどんどん大きくなるけど、私の日常はずっとこの小さな街だし」
ちゃん」
「限られた時間しかないのに、付き合ったりしたら余計に、つらくなると」
!」

越野と話し母と話し自分でも国体の試合を観戦して以来、ずっと心に重くのしかかっていたことをまくし立てたの体を、仙道はぎゅっと強く抱き締めた。いつでも優しく「ちゃん」と呼ばれていたので、突然呼び捨てにされて、それにも驚く。

……、何の話、してるの」
「だから、私たちはそういう」
「オレは、君が好きだって言ったんだよ。うまくいくかいかないかとか、卒業してからの話とか、それよりもっと先のことなんて、誰がわかるっていうの。そういうところ、血の繋がりはなくても越野とそっくり。なんでそんなこと心配してるの。限られた時間しかないなら、無駄にしないことと、怖がらずに挑戦することをオレは選ぶよ」

腕が緩み、ふたりはゆっくりと向かい合う。は今にも泣きそうな目をしていて、仙道は少し困ったような、けれどいつものように優しく微笑んでいた。顔が近付き、俯くと額が触れそうな距離で仙道は続ける。

が白波で働きたいって思ってることと、オレがバスケもっと強くなりたいって思うことは、ほとんど同じだと思う。それを人はどっちがすごいだのなんだのって言うけど、白波を守っていきたいって思えるを、オレは本当に尊敬してるし、だけどそれと好きだなと思うことはまた別だよ」

仙道の指先が伸びてきて、の頬に触れる。

がオレのこと好きと思ってくれるかどうか、問題は、ただそれだけ」
「問題って、そんなの、好きに、決まってるじゃないですか」
「だったら、それでいいじゃない。が心配してるようなことは何ひとつ問題にならないよ」

もうほとんど涙目のは、顔を上げて仙道のシャツの襟元を両手で掴む。

……また一緒に手を繋いで遊びに行ってくれますか」
「テスト前にそうしたかったんだけどね」
「そのあと白波でご飯食べて」
「それもね」
「それから、あの時、みたいに、ぎゅって、して」
「ぎゅーだけ?」

言いながら、仙道は上手く笑顔を作れていないに静かにキスをした。そして「あの時みたいに」ぎゅっと抱き締める。遠くに運動部の掛け声が響く教室、窓から吹き込む風がふたりを通り過ぎていく。潮の香りが仄かに漂う風を吸い込み、仙道は囁いた。

「オレ、がいるから白波が好きなんだよ。知ってた?」

その日、練習が終わった仙道は越野と連れ立って白波にやって来た。とのことがうまくいったので上機嫌の仙道と、まだなんとなくこっ恥ずかしいのと複雑なのとでしかめっ面の越野を営業スマイルのが出迎えた。仙道念願の天使対応である。

久々の仙道に喜んだ板さんたちは早速賄い部屋に通してたらふくご飯を食べさせてくれたし、からのおごりだと言って、ふたりの好きなおかずもたっぷり用意されていた。

「先輩、お茶のおかわりいりますか?」
「あっ、ほしいですください」
「あー、こぼれてますよ。てかまたご飯粒付いてるし」
「えっ、どこ」
「ちょ、 なんでこんなところにくっつくんですか」
「取って取って。え、なんでそんなとこ!」
………………お前らうざい」

の天使対応が嬉しくて仕方ない仙道はデレデレだ。それを少し離れた席でぼーっと眺めていた越野は吐き捨てるように言うと、たくあんをバリバリと噛み締めた。越野は固くて音が出る食べ物が好きだ。

「うざいって何だよ~散々邪魔したくせに」
「邪魔じゃねえっつの……
「ヒロもお茶いる?」
「お前は話聞けよ」

しかし、もう勝手にしろと言ったのは自分なので、越野は音を立ててお茶を啜る。

「てかのことだけじゃなくて他もちゃんとやれよキャプテン」
「善処します」
……、こいつ二度と遅刻させるな」
「私がすること!?」
「あと練習あるのに釣り行こうとしたらオレに報せろ」
「私マネージャーじゃないんだけど」

呆れてつい突っ込んだのその言葉に仙道が食いつき、マネージャーやってよとニコニコしている。本来的にはそれほど相性が良くない幼馴染ふたりは揃って肩を落としてため息をつく。

「バカ言うなよ」
「無理ですよ」
「お前らはほんとに血縁ないっていうのにそっくりだな。しかもそうやってすぐ不可能だって言い出す」
「別に似てないし先輩の発想が不可能なことばかりだからです」
「可能不可能の前にお前何も考えてないだろ!」
「もー、お前がいるとがツッコミばっかり。越野、帰れ」
「帰るのはお前だ!!!」

言われて改めて時計を見上げてみると、そろそろ21時半だ。のんびりご飯を食べてしまったので、つい遅くなってしまった。はふたりの食器を片付け、板さんたちに仙道が帰るよと声をかける。またおいでを連呼する板さんたちに、仙道はぺこりと頭を下げて礼を言い、賄い部屋を出た。

「お前覚えてねえだろうけど明日朝練だぞ。さっさと帰ってさっさと寝ろ」
「今日はちょっとテンション高いから無理な気がする」
……、明日6時に体育館だからこいつ5時に起こせ」
「だから私関係ないでしょ~」
「彼女なんだからそのくらいやれ!」
「私先輩のお母さんじゃないから!」

どこかで聞いた話がいきなり飛び出してきたので仙道と越野は吹き出し、身を捩って息を整えている。

……すまんかった。けどマジで遅刻すんなよ、じゃーな」

まだ若干苦しそうな越野だったが、そのままスタスタと裏門に向かい、自転車に跨るとさっさと帰ってしまった。色々言いたい放題だった割には引き際が潔いではないか。おそらく、気を使っているつもりなのだろう。越野もめんどくさい。仙道はを引き寄せて顔を近付ける。

……電話で起こしてくれてもいいし、起こしに来てくれてもいいし」
「5時にですかあ!? そしたら私4時半起きじゃないですか」
「じゃあ泊まりに来る? 一緒に寝よっか」
「泊ま……結局5時起きじゃないですか……

狼狽えてそっぽを向くの頬に指を添えて元の位置に戻す。照れていた。

「制服のシャツ、ボタンがえらいことになってるから直しに来てよ」
「そ、そのうち、にね」
「そうだ、その時は着物着て来て」
「えっ?なんで着物なんか」
「一度脱がしてみたいから」
……そういうアホなこと言う人には天使対応しません」

呆れた真顔で冷たく言い放っただが、仙道は笑顔のまま動じない。呆れ顔を両手で包んでキスをする。

「それはそれでいいって言ったよね?」
……あ、朝練のない時に、します」

一瞬きょとんとした仙道だったが、途端に笑み崩れてまたを抱き締めた。

「待ってます。ずーっと待ってます。だから早くおいで、

ぼんやりとした橙色の明かりが灯るだけの白波の裏口、夜会巻きに着物をたすきがけにしたを仙道は抱き締め、ふたりとも目を閉じて揺れていた。夏の夜風に踊る葉ずれのそよぎの中で、ただ静かに。

END