在り方の問題、または指先の恋

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「あれ、珍しいね、まだ帰ってなかったの」
「あー、うん、中間がちょっとね……
「あ~ごめん変なこと聞いて~」
「平気平気~」

職員室を出て廊下をちょこまかと走っていたはクラブ棟への渡り廊下へと続く辺りで同じクラスの体操部の女子に遭遇して、苦笑いのまま手を振って通り過ぎた。

高校生になって最初の中間テスト、は全教科あと数点逃したら全て赤点という状況で、しかし中学時と入試の成績から考えるとあまりにも不自然なので、いわゆる「高校デビュー」を心配した担任に呼び出されてしまった。まさか遊んじゃってるんじゃないだろうね?

それを同様に苦笑いで違いますと否定し、あれこれと話していたらあっという間に1時間ほどが過ぎてしまった。やっと慣れてきた1年生の教室が並ぶ廊下を駆け抜け、はD組のドアに飛びつく。制服がまだ馴染んでいなくて強張るので動きづらい。だいぶ時間もロスしてしまったので急ぎたいが、どうにもモタモタしてしまう。

テストの件は期末までにもう少し何とかするとして、今のところは急がねば。ドアを勢いよく開く。

すると、やけにでっかい男子が窓際で机に突っ伏していた。おかしい。入学して約1ヶ月半、同じクラスの男子にこんな巨大なのはいない。だが、少し回り込むと見覚えのある髪型が出てきたので、は静かにため息をつく。すやすやと居眠りしているらしい彼の正体がわかったので、なぜここにいるのかもわかった。

「先輩、先輩! ここ、1年の教室ですよ! あととっくに部活始まってますよ!」

は「先輩」の肩を乱暴に揺すって声をかけた。気持ちよく寝ていた彼はだるそうに薄目を開き、深く息を吸って全て吐き出し、眠りを遮られたので不機嫌そうな声を出した。だが、が言うように彼は1年生ではなく、そしてとっくにクラブ活動が開始している時間帯だ。

「あ~……誰かと思ったら」
「また監督に怒られますよ」
「何で~?」
「何でって、遅刻でしょ! もー、どうしてどこでも寝ちゃうんですか」

やっと体を起こして大あくびをしている先輩の向かいに立つは腕組みでまたため息。

「それに、ここ、1年生の教室ですよ。2年D組は2階です」
……そうだっけ?」
「先輩『D組』しか見てないんじゃないんですか」
ちゃん、オレ、仙道彰っていうんだけどまだ覚えてないの?」
……ヒロに怒られるからダメです」

猫背でニヤニヤしている先輩、仙道はまた大あくびをして目をこすった。はまたため息。

ちゃんはどうしたの、こんな時間まで残ってるなんて珍しいんじゃないの」
「ちょっと担任と話してただけです。もう帰ります」
「いいよ、先に帰って」
……じゃあどいてください、そこ私の席なので」
「まじか」

呆れ顔の仙道がヨロヨロと立ち上がると、は机の中を探ってノートを取り出すとバッグに押し込んだ。高校に入ってから新しくしたバッグもまだ固くて、物の出し入れがやりづらい。

「越野のいないところでならいいんじゃないの」
「そういう切り替えは面倒くさいので嫌です」
ちゃんはお客様にはあんなに天使なのにオレには冷たいよね」
「そりゃ、お客様じゃないので。あとほんとヒロがうるさいからそういうのやめてくださいね」

ポケットに手を突っ込んでぼんやりと佇んでいる仙道はまだあくびをしている。は今度は教室の背面に並んでいるロッカーに移動し、忘れ物がないか確認してしっかり施錠をする。その後ろを仙道はのろのろと着いてくる。彼は優秀なバスケット選手のはずなのだが、普段はなんとなくトロい。

「先輩も見たでしょ。幼馴染だけど学年ひとつ下って面倒くさいんですよ」
「まあね。あいつはそういうところきちんとしなきゃってタイプだし」
「だからほら、さっさと練習行った方がいいですよ。ヒロだけでなくて監督とキャプテンにも怒られる」
「そうだね~」

が教室を出たので、やっと仙道も出てきた。自分がこの場を後にしたらまた戻って寝てしまうんじゃないかと心配したが振り返ると、彼は真後ろに立っていて、そうすると顔を上げないと顔が見えない。

「ちゃんと部活行って下さいね」
「はーい」
「あと私だからよかったけど、他の1年だったらマジでビビるので気を付けてください」
「はいはい」
「じゃ、バスケ頑張ってください」

ペコリと頭を下げたはくるりと背を向けて歩き出す。その背中にまた声がした。

「ねえ、また遊びに行ってもいい?」
……ヒロに聞いてください」
「越野がいいって言ったらいいの?」
「それで私があとでうるさく言われないのであれば、どうぞ」
「そしたらちゃんと天使対応してね」
「それは先輩がちゃんとお金払ってくれるお客様になったらやります」

あはは、と笑う仙道を残して、はその場を後にした。廊下の窓の外を見れば、もう日が傾き始めている。ずいぶん時間を食ってしまった。急いで帰らないと私も遅刻だ!

の家業は、いわゆる「割烹」である。ただし街場の間口三間のカウンター店ではなく、12の個室にレストランフロアとバーも併設されており、もう少し料金が高ければ「料亭」にクラスチェンジできるような店だ。そろそろ創業60年、相模湾の旬の魚介類を中心とした地元の名店である。

事の起こりは売春禁止法が施行されて赤線が廃止された頃に遡る。横浜の遊郭の板場に従事していた初代が仕事を失ってあてもなく地元に戻ったところ、戦後のどさくさで奉公先を逃げてきたままフラフラしていたという幼馴染と遭遇、よし、いっちょ飯屋でもやるか、と意気投合したのが始まりだった。

もう戦争なんて割に合わないことはやらないさ、これからはうまい飯を腹いっぱい食う時代が来るはずだ、とふたりで海を眺めながら夢を語ったので、店の名は「白波」。元々板場で働いていた初代と、奉公先ではそろばんを徹底的に仕込まれたという幼馴染の商売は高度経済成長の波に乗って順調に成長、掘っ立て小屋のような最初の店から始まり、駅にほど近いテナント、居抜きの中古を経てバブル期にとうとう敷地100坪を越す「割烹 白波」を建てるに至った。

ふたりはしかし、商売は拡大しても極貧時代を忘れることはなかった。いかなる時代が来ようとも金持ちしか入れない店にしてはならんと言い残して、ふたりはが9歳の時に立て続けに他界、二代目も従業員たちもその教えを守り、白波は地元で長く愛され続けている。

その初代の孫がである。初代は白波にかかりきりで忙しく、当時としては結婚が遅かった。そして、幼馴染の「てっそん」――つまりきょうだいの孫が「ヒロ」、越野宏明である。白波は越野家の人間も多い関係上、ふたりは小さな頃からよく知った間柄の幼馴染、というわけだ。

白波は大通りを一歩入った場所にあり、街場と閑静な住宅街の境目というような立地にある。夜になると控えめな照明が灯り、一品料理やリーズナブルな和膳を求める客は表の入り口から、個室で宴席や高級コースを求める客は別の専用口から入っていく。

邸宅風の店だが従業員は全員住居を別に構えており、学校を飛び出したは店から1分ほどの場所にある自宅に自転車を投げ入れると、そのまま走って白波の裏口に飛び込んだ。学校からは自転車でものの15分程度の距離だが、もう店は開店間近の慌ただしい頃合いで、いつもよりかなり遅刻だ。

「どうしたの、遅かったじゃない」
「ごめん、この間のテストの件で先生に呼ばれちゃって」
「んもう、だからどっちかにしなさいよって言ったのに」
「お願い、どっちもやめろって言わないで」
「それは構わないけど……学校の方は自分でなんとかしなさいよ」
「はい」

そういうわけで、の母は現在若女将である。まだ初代の妻である女将が現役なので、もしが正式に従業員となっても、若女将にはなれない。は足音を立てないように女子用の従業員部屋に飛び込むと、急いで制服を脱ぐ。乱れ箱に揃えてある着物を着るのだが、まだ慣れないので時間がかかる。

だからさっさと帰ってきたかったのに、先生と先輩のせいだ。

が白波で働き始めたのは中学2年生の時だ。もちろんまだ働いてはならない年齢だが、この頃は「自分の家のお手伝い」であって、報酬も特になく、最初の数ヶ月は客の前に顔を出すこともなかった。そうして店がどんな流れで動いているのかをじっくり学んだは中3の1学期の間に少しずつ客前に出るようになった。

座敷の方はともかく、レストランフロアは常連さんも多く、また近所が住まいでが小さな頃から知る人も多く、飲み物を運ぶだけのところから始めたけれど、馴染むのは早かった。以後、受験が終わるまではしばし店から遠のいていたが、高校進学が決まると、今度は座敷の方にも顔を出すようになってきた。

ところで「ヒロ」こと越野宏明の方はよりひとつ年上。彼は小学生の頃からバスケットに夢中で、自宅から近い陵南高校のバスケット選手たちを見て憧れて育った生粋の陵南っ子である。

そんな越野がチームメイトを白波に連れてきたのは、が店に出るようになった昨年の春頃のことだった。監督にスカウトされて東京から進学してきたはいいが、陵南に元々寮はないのでアパートでひとり暮らし、仲間の食生活が不安だと言って連れてきた、それが仙道だった。

彼は通称「天才」と言われるほどの選手なので、の父や越野の父を始めたとした板場衆は食いつくのが早かったし、子供の頃から父親と渓流釣りをするのが好きだったという仙道を海まで連れ出して磯釣りを教えたのも白波の板さんである。仙道の方も少々人たらしの気があるし、懐っこいので可愛がられている。

当然にも気さくに声をかけてきて、名前を聞いた途端「ちゃん」と呼び始め、しかしそこは接客勉強中のなので、よろしくお願いしますときちんと挨拶をした。それがあまり気に入らなかったのか、仙道はそんなに堅苦しくしなくていいよ、と何度も言ってくれた。

なので少し砕けてもいいのかな、と思ったところ、越野のストップが入った。夏頃のことだ。

いわく1学年でも先輩後輩、仙道はそういうところものすごくいい加減だから、お前の方でちゃんとしろ、という。名前呼びはダメ、先輩と呼べ。仙道はいずれ陵南を背負って立つ選手だし、なんなら神奈川で一番のプレイヤーに充分なれる選手なので、お前なんか馴れ馴れしくするな、と叱られてしまった。

以来は越野が面倒くさいあまり、仙道にはまともに取り合わず、越野とも擦れ合わないように気を付けつつ、学校から帰ってくると白波に直行、22時まで働くという生活を続けていた。越野のストップで仙道もめっきり足が遠のいている。

「なんだよ、テストの結果あんまりよくなかったのか」
「初めてのテストだったしね。今度はもう少し時間かけて準備するよ」
「あんまり根詰めるなよ、ヒロだって似たようなもんだったぞ」
「おじさんそーいうこと言うからヒロが怒るんだよ」

越野父はまだ息子とが小学生くらいの頃の感覚が抜けなくて、特に息子に対してデリカシーがないので、それこそ中学2年生くらいからこっち、越野親子は割りと荒れがち。というか親子がカッとなるとご飯を貰いに来た仙道が間に入るという事態もしばしばで、本当に彼はするりと白波の中に入り込んできた。

そんな1年間を経ては現在高校生と若女将予定見習いの二足の草鞋を履いているのだが、越野がうるさいので彼らには素っ気なく、その結果、「客には天使だけどオレには冷たい」と言われてしまうわけだ。冷たくしたくてやってるわけじゃないと思うが、仕方あるまい。

……中学の時にあんなことでからかわれなければなあ」
「しょうがないよ、ヒロはすごく傷ついたんだろうし、私もあれは嫌だったよ」

白波は地元では割と有名な店だし、地元っ子の集まる中学ではと越野がそこの子供で幼馴染というのも知られたことだったし、だが今でも白波自体は家が経営しているという建前があり、越野家の人間は長く働いてはいても、全員従業員である。

それを知られたことで、越野はずいぶんからかわれたらしい。挙句、バスケバスケ言ってるけどと結婚して白波を継ぐんだろうと言われたことで爆発、今後何があっても絶対白波では働かない、と宣言、以来のことも敬遠しがちである。

「当時のヒロの彼女にすごい嫌味言われてさ、私が言ったわけじゃないのに」

と越野は幼馴染だが、それほど親しい間柄ではない。親たちは揃って毎日白波にいるけれど、幼稚園は別だったし、そもそも学年も性別も違うので、お互い仲良くなりたいという気もなかった。

自分は自分の夢を邁進しているというのに、中学の時にからかわれたことを実践しているがあちらも面倒くさいのだろう。部活もやらず、平日もほとんど、休みでも夜は基本的に白波にいる。

「だけど……放課後もろくに友達と過ごさないで店にいるんじゃ、つまらなくないか」
「そんなことないよ。店にいるの、好きだし」
「それじゃあ彼氏も出来ないだろ」
……別に友達と遊んでれば出来るってわけでもないしね」

は高校進学をするかしないかで散々悩んだ末、白波に入るまでの「猶予」として高校生になることを選んだ。一時期は本気で中卒で白波に就職しようかと考えていた。

まだ初代とその幼馴染が存命であった頃、たちの親世代は白波で働く人が多く、も越野もみんなひっくるめて家族のようであった。だが、世代が下るとともに白波に入ろうと考える者は減り、もちろん前述のようにヒロの方の越野も嫌がり、現状三代目の見通しがない状態。

それも世の流れだろう、従業員の中から責任を持って白波を預かるという者を選び出して継いでいってくれれば、と初代たちは考えていたのだが、当時まだほんの子供だったは白波が大好きだった。そこで冗談めかして三代目になるか? と言ってみたところ、は本気になってしまった。

元よりは初代の孫でまさに直系だし、跡取りとしては申し分ない立場にいる。本人は当時から板前より女将を希望しているが、それも飲食店の経営者が女将であってはならない理由はない。初代たちはにこにこしながら「じゃあが三代目になって白波をもっと素敵な店にしてくれ」と言ったものだった。

は既にそのための「修行」をしているのだ。

昨今「家業を継ぐなんてダセェ」という風潮はほぼなくなりつつある。だがそれでも高校やその先にある「一般的な」社会を見てから戻ればいいんじゃないの、という意見は根強い。中卒がまずみっともないし、家業に従事なんかしていたらせっかくの楽しい20代が台無しになると言われた。友達なくなるよー?

接客業なのだから、そういう世の流れから完全に切り離されるのもどうだろうかと考えたは近所の陵南を受験するに至ったのだが、何しろ高校の勉強と白波の勉強の両立はそう簡単にいくものではなかった。ちゃんと休みの日を作って勉強すればいいのだろうが、残念なことに白波が楽しかったのだ。

はまだ個室の方にはお手伝いで入る程度、基本的にはレストランフロアの方で働いている。こちらは一般的な価格帯のメニューが中心、席もカウンターとテーブルだし、常連さんも多いのでは特に楽しい。仙道の言うように「天使」になってしまうのは、お客さんたちがを可愛がっているからだ。

はなんとか着物を着るとカウンターの中に入る。父親は主に個室向けの板場の総責任者なので滅多に出てこないが、中堅どころの板さんたちが活気のある声でを迎える。も元気よく挨拶をする。

板さんを始め白波のスタッフたちはを板長の娘だからと言って特別扱いしない。だから楽しいのだ。みんな家族のようで、仲間のようで、お客さんたちも仙道のように「ちゃん」と名を呼んで可愛がってくれる。いつか若女将、そしてやがては女将と呼ばれるようになりたい。

越野は眉をひそめるが、バスケットに夢中なのも白波で働きたいと思うのも、どちらも同じなのになあ、とは思う。ヒロや仙道先輩は朝から晩まで飽きもせずずーっとボール投げたりしてるけど、私は彼らがバスケットやってる時間ほど白波にいるわけでもないし。ヒロたちの方が重症だと思うけど。

各テーブルの調味料が切れていないかを確認して回るはしかし、誰もいないフロアでふと、耳に仙道の声が蘇って足を止めた。お客様にはあんなに天使なのにオレには冷たいよね――

ヒロがあれだけダメダメ言ってるのに、あの人諦めないんだよなあ……。それに、言ってることもおかしいよ。だって、私に名前で呼ばれたい、お客様みたいに天使対応して欲しいってことでしょ。別にもう殆ど会わないんだから、そんな対応、いらなくない……