ラッシュ&ライオット

5

「落ち着け濡れ衣だ。昨日のことを思い出せ、オレたちは色目なんか使ってない」
「使わなくても……ダダ漏れなんじゃないんですか……無様ですねオレ……
「余計ネガティブになるだけだから今すぐエヴァネタから離れろ」

朝っぱらから地獄に転落した神は朝練も午前中もぺったりと貼り付いた笑顔のまま過ごし、湘北の三井に「気持ち悪い」と言われていた。なので余計にエヴァネタが加速していた。昼食後の休憩時間である。

練習は問題ないけれど、何しろそれを離れるとのことでネガティブが止まらないので、神は牧を捕まえて話をするつもりでいた。幸いといおうか、は疲労困憊で部屋に戻っている。今日は夕食前のミーティングがないそうで、夕食まで出てこなくていいと許可をもらっているらしい。

「藤真さんだけでなくて……花形さんまで……
「それは勉強見てくれたからだろ」
「想像以上に優しくて全然怖くなかった、何回も同じこと聞いてもちゃんと教えてくれた~って」
「それは単なる親切心だと思うけど……今は世話になってるわけだし」

しかし元が先輩っ子のである。他校の先輩に目覚めてしまったか、今日は赤木と翔陽の長谷川ともにこやかに話していた。どちらも堅物なタイプだが、怖そうだと思っていたらしい花形が優しかったので警戒心はもう残っていないようだ。神の昨夜の余韻ももう残っていない。

そこへスポドリのペットボトルを片手に牧がやって来た。

「あっ、牧さんお疲れ様です」
……おう、お疲れ。変な組み合わせだな」
「お疲れキャプテン、ちょっとこっち来いよ」

ふたりは両側から牧を囲い込むと肩を叩いてラウンジを離れ、まだだいぶ寒いテラスへと出る。レジャー施設ではないので、テラスはあまりきれいではないが、ひと気がないのでやむを得ない。

「なんだよ、こんなとこまで引っ張ってきて」
「牧さん牧さん、牧さんて彼女いましたっけ?」
「はあ? 何だ急に」

上がったり下がったり天国と地獄の間を行ったり来たりしすぎて神はちょっとヤケクソである。ぺったり笑顔で少し首を傾げているその佇まいは、ちょっと怖い。牧はそれには答えずに軽くため息をつくと、手にしていたペットボトルで藤真の脇腹をどついた。

「痛って! なにすんだ」
「お前な、暇なら練習しろ。うちの後輩を洗脳するんじゃない」
「失礼な。オレは恋する少年の手助けをしてるだけだ」
「そうですよ牧さん藤真さんだけじゃなくて花形さんまで助けてくれてるんですから」

洗脳されている。

「落ち着け神、何しに来てると思ってるんだ。お前年末になったら主将なんだぞ」
「引退したら付き合うつもりかな」
「牧さん引退したらと付き合うんですか」
「ハア!?」

ココロのスキマを熟知しているらしい藤真の悪魔の囁きに、神は洗脳が進む。

……もしそうだったらどうするんだ?」
「えっ」
「何の話か知らんが、もしそうだったとしたらなんだって言うんだ。お互い同意の上なら問題ないだろ」
「ありますよ! そんなのダメです!」

まさかの返答に焦った神はオロオロし始めた。確かにそう言われてみれば自分の入り込む隙間などないような気がしてくる。引退して時間の出来た牧、もしなんなら辞めてしまっても全く問題のない、牧の進学先を受験するために部活を辞めて勉強に精を出したりなんかしちゃったりしたら――

「ダメ? なんでだ?」
「ええと、オレがつらいです」
「理由にならんだろそれ」
「なのでいい加減牧さんはからジャージ取り上げて下さい」
「そうだー取り上げろー」
「それからに付き合えないとはっきり」
「彼女なんかいらねえだろー」
「藤真いい加減にしろ、お前ただの便乗だろうが」

横槍に翻弄される神はさておいて、牧は藤真に向かい合う。お前の魂胆はわかってんだよ。

「こういうことは当人同士がどうにかするもんだろうが。他人が余計な口を挟むな」
「当人同士がどうにかしようとしてたらお前のジャージが出てきたんだよ。先輩なら空気読め」
「そっ、それは知らなかったんだからしょうがないだろ。寒がってたから」
「常識で考えて寒がってる女子にジャージ貸していいのはその子を狙ってる野郎だけだろ」
「別にオレももそういうつもりじゃ」
「ないのか? 本人にちゃんと聞いてみたのか?」
「おいちょっと待てお前結局どっちの味方なんだ」
「お前の味方でないことは確かだ!」

先輩ふたりの応酬にポカンとしている神には目もくれず言い合っていた藤真と牧だったが、その締めに牧は吹き出し、藤真の方はちょっと楽しそうだ。国体へ向けた合宿だと言うのにどうでもいいことにかまけやがって、と若干腹を立てていた牧だったが、それも馬鹿らしくなってきた。

「あのな、神。一応言っておくが、オレはお前らが騒いでる件は昨日初めて聞いたくらいで、何も知らん。特別な感情もない。引退したらオレは即教習所だ。それにが何をどう考えているのかもオレは全く知らん。今お前が惑わされてることの殆どはお前の思い込みでしかない。こいつの甘い言葉には耳を貸すな!」

すっかり洗脳状態にあった神はまだぽかんとした顔をしている。一本気で一途でどんなことにも真っ直ぐに取り組む性格が裏目に出た。また悪魔の囁きが心地いい響きをしていたものだから、気持ちよくマインドコントロールされてしまった。あれー牧さん何とも思ってないのかー

「だからそういうことはひとりでやれ。まだ練習に影響が出てないからいいようなものの、これで練習に響いたらマジで監督に相談しなきゃならないぞ。来年の海南の進退に関わる人間なんだってこと、忘れるな」

そして牧は藤真に向き直ると、ペットボトルのキャップ部分を持ってビシリと突き出す。

「それから藤真、お前そんなに暇なら1年の面倒見させるぞ」
「おいやめろ、それだけは嫌だ」
「それから明日のミーティングからお前と赤木と魚住も呼ばれることになってるからな。気合い入れ直せ」

1年生担当という恐怖におののいた藤真だったが、ミーティングに呼ばれると聞いて顔色を変えた。牧、赤木、魚住、そして藤真。つまり本年度の春夏を支えてきた主将でありキャプテンであり部長である。

というか選手代表という名目で監督ふたりにちょくちょく呼び出されてはダラダラと続くミーティングに付き合わされていた牧が音を上げ、主将経験者は他にもいるんだし混ぜてみませんかと提案した。楽しくなっちゃってる監督ふたり、みんなで相手すれば苦痛も和ら――がないけど自分だけ損してる感は薄れる。お前らも苦しめ。

しかし、疎外感から純情な後輩を洗脳して憂さ晴らしをしていた藤真は気持ちが上向きになってきた。元主将が引退して2年生が主将に就任しているところもあるけれど、まだこの神奈川代表における「リーダー」の中に自分は入っているのだ。そうとも、それが正しい。

なのでだいぶ神の片思いはどうでもよくなっていたが、牧はそれを察して釘を刺す。

「あとこいつの後始末は責任持ってお前がやれ。洗脳解除、恋愛指南、ちゃんとやっとけよ」
「どっちにしとけばいいんだよ」
「どっちって?」
「お前ほんとにあのマネージャーの子いらないの」
「いるいらないとかいうことじゃない。あいつは仲間だ」
「ふうん」
「なんか文句あるか」
「いや、なんかいい話っぽいけど、色気ねえなと思って」
……国体に色気が必要な理由をミーティングで発表してもらってもいいんだぞ」

牧の額に青筋が浮かび上がってきたので、藤真はその場でくるりと向きを変えると、ぼんやりしている神に声をかけに行った。それを確認した牧は、本日1番の盛大なため息を付いて室内に戻っていった。ものすごく疲れた。凄まじく疲れた。監督ふたりにバカふたり、ほんとにいい加減にしてくれ!

「よし、いいか、女の子をその気にさせる手段ならいくらでもあるとは思うけど、お前の場合、お情けでも構わない、とにかく付き合ってもらって彼女持ちっていう肩書さえあればいいっていうのとは違うだろ」

牧が立ち去ったテラス、神と藤真はまたウンコ座りでこそこそ話している。後始末だ。

「はい、そうです。形だけでいいからとかそういうのは嫌です」
「で、何やっても脈があるかどうか確かめられない」
「嫌われてるわけじゃないと思いますけど、それだけというか……
「せめて対象か対象外かくらいは把握したいよな」

それがわかれば苦労しないのだが、どこで口を滑らせるかわからない以上、踏み込めていないのが現状だ。それに、牧の方からはそのつもりがないと言質を取ったけれど、の方からはそのつもりがあったりしちゃうのかもしれない。それを考えると怖いので余計に二の足を踏む。

「好きになった人がタイプとか、ああいうのってめんどくさいよな~。タイプっていうのは決まったパターンがあるから付く表現なんであって、だったら特にないとかかっこよければなんでもいいとか正確に言えってんだよな」

後始末はせねばなるまいが、正直飽きてきている藤真はハーッとため息をつく。

「けど、見た感じ仲はよさげだよな」
「そう見えますか?」
「昨日見た感じでは普通にそう見えたけど……まあかといって対象かどうかまでは」
「やっぱりそうなんじゃないですかー」

それは神も充分自覚している。との関係は悪くない。けれどそれが恋愛という形になるかどうかは全く別の話だ。のように気軽に話せる同級生の女子はいるが、もちろん彼女らは誰ひとりとして対象にならない。なぜならそんな気持ちを抱くのはしかいないから。

それと同じことがにも起こりうる。そしてそれは自分ではないかもしれない。

「誰かに聞いてくれたら……そうだ藤真さん」
「断る」
「即答!」
「そういう話に持ち込むまでには長い時間がかかるのだ少年よ」
「いや、それ藤真さんめんどくさいだけでしょ。しくじったらと思うと余計やりたくないだけでしょ」

ふい、と目を逸らしてしまったので「そうです」と言っているようなものだ。藤真は咳払い。

「誰かが聞いてどうするんだよ。もしそれで『神は無理、男として見れない』って言ってたよ、って言われたらお前どうするんだ。それを報告しなきゃならん方の身にもなれ」

それも事実だ。

「だったら不本意でも点数稼ぎしてみるとか、時間かけて恋バナに持ち込むとか、やってみろよ」
…………そう言えば藤真さん偉そうなこと言ってるけど3年間彼女なしでしたね」

藤真の目が泳ぐ。

「その顔があったって上手くいかないんだもんなあ……やんなっちゃうよなあ……
「素人め……顔は関係ないんだぞ……
「じゃ内面で失敗してるんですか~」
「オレはお前ほどメンタル強くない。それ以上やったら泣くからな」

洗脳が解けてきて藤真が頼りにならないことを思い出した神は、プルプルしている藤真を眺めつつ、顔を撫でていく涼やかな風にそっと目を閉じた。の笑顔が浮かんでくる。が好きだっていう気持ちだけなら抱えきれないほど持ってるんだけどな――

その夜、勉強タイムに藤真は来なかった。その代わり先日の花形先生が待っていた。

「マネージャーもまだ来ないな」
「そうみたいですね」
「うちの部長が悪かったな」
……知ってたんですか」

花形はアフターケアに来たらしい。だいぶ洗脳が解けた神は花形の向かいに座って膝に手をついた。

「あの、藤真さん3年間彼女なしってほんとですか」
「ほんと」
「あんな美形なのにですか」
「だからハンパなくモテるよ。だけどそういうのの中からひとりピックアップして付き合うとか、キツいだろ」

神が首を傾げるので、花形は鼻で笑いつつ頬杖を付く。

「クラスの子2~3人にモテるとか言うのとは次元が違うからな。校内だけじゃなくて校外にもファンがいるし、バレンタインなんかすごいぞ。今年はひとりじゃどうしようもない量が来たから、フードバンクに寄付したくらいだし。その中から花嫁選びみたいにしてひとりつまみ上げても普通の付き合いなんか出来ないじゃないか」

神はそういうものかな、と思ったけれど、一応黙って聞いておく。

「しょうがないことだけど、対等な関係を築けてる女子がいないんだよな、そもそも」
「みんな気後れしてるってことですか」
「そりゃそうだろ。1年の頃は突撃してくるのもいたけど、ゆっくり知り合ってる時間もないからな」

言われてみれば、とは部員同士というしょっちゅう一緒の環境があるからいいけれど、もしこれがバスケット部に全く関係のない相手だったら。

「ああ見えてすごく真面目なんだよ。そういうこと、中途半端にできないやつだから」
「すいません、普通に誤解してました」
「気後れして藤真に声をかけてこない子たちと、お前が重なったかもしれないな」

もしかしたら仲良くなれるかもしれない人たち、だけど藤真はあまりに目立つし色々肩書がくっついてるし、自分なんかが話しかけたところで――そういう気後れは想像に難くない。

「同じ……ですか?」
「先のことを気にして勇気が出ないのは同じだろ」

穏やかに微笑む花形に、神はついこっくりと頷いていた。すると廊下の向こうからの声が聞こえてきた。同時に聞こえてくる声から察するに、話している相手は清田のようだ。清田はもう合宿3日目になるというのに、勉強しているのかしていないのか、誰も把握できていない。

「少し本音でぶつかってみたらどうだ。いい人を装うのも嘘のうちだぞ」
「本音……
「心を裸にして正々堂々勝負ってことだよ」

そう言うと花形は立ち上がり、神の肩をポンと叩くと、ラウンジを出ていった。

確かに、には悪く思われたくないあまり、にとって都合がいいように、が喜んでくれるように、と考えながら振る舞っていた。への強い思いを自覚してからは余計に彼女の前では自然体でいられなくなった。いつでも自然体の彼女が好きなのに。

もしが好きになってくれる可能性があったのだとしても、飾るものが何もない自分を見てもらわねば話にならないではないか。24時間演技を続けて自分を偽ったままでも平気、というならそれもひとつの手段かもしれないが、自分には合わない。神は腹に拳をあてて頷く。

それに、大事なに対して嘘偽りを続けるなんて、なんて不誠実な。それはだめだ。

に対してはいつでも正直でありたい、彼女を思う気持ち、感情のひとつひとつは明瞭で曇りなく、ただ純粋な愛情ゆえのものである、そう伝わらなければ。誤解を生みやすいかもしれないが、に触れたいと思うことですら、同じことだ。が好きだから、大好きだから。

頑張る彼女の寄りかかれる場所になれたら、疲れたときに甘えられる場所になれたら。

もしそういうオレでよかったら、好きになって、もらえないかな。

君が本当に誰より好きだから。

「遅くなってごめーん。まだ寒いねー」

心を少しずつ裸にしていた神の隣に、が座る。顔を上げると、牧ジャージだった。

それ脱いで!!!!!!」

裸の心の極地にいた神は思わず両手で牧ジャージを掴んだ。