イノセント

5

中間の成績が1学期の期末に比べてずいぶんよかったものだから、清田の担任や監督は彼をたくさん褒めたし、冬の選抜を終えたら新たな主将になる先輩からも「見直した」などと言われてしまう始末。

それは彼女が一生懸命教えてくれたのでやる気になっただけです。

真実はともかく、そんな結果を受けて「やっと清田も海南の選手としての心構えが出来てきた」などと言われてしまうと後ろめたさと鼻高々がないまぜになって、しかし予選が目前なので褒められるとぐんぐん伸びるタイプである彼は毎日順調に練習をこなしていた。

そんなある日のことだ。から時間がある時に会いたいと連絡をもらった清田は部室のカレンダーを凝視して都合の良さそうな日をなんとか探し出した。文化祭当日の日曜だ。運動部なのでクラス展示をやるくらいのものだし、それほど手間のかかることはしない予定だし、少し遅刻をしても問題はない。

というか予選目前だと言うのに文化祭の前後はやっぱり部活が出来ないので、練習しないと落ち着かないようなタイプは外でこそこそやっている。落ち着かないと言うほどではないにせよ、清田も丸3日間練習なしというのはどうしても不安だ。の都合がいいならまた神社デートをしてもいい。

「でも、私も文化祭近いからなあ」
「ですよねー」

当番が10時からなので、それまでに来ればいいとクラス委員と取引をした清田は朝っぱらから神社にやって来ていた。今日も少し練習していくというはパーカーにジャンパーを羽織り、スニーカー履きである。ベンチに並んで腰を下ろすなりそう言われた清田はのけぞって呻いた。

「で、それで、今日会いたいって言ったのはね、これを、渡したくて」
「なにそれ」
「お守り」
「お守り?」

清田が手を差し出すと、赤いちりめんで出来た小さな巾着が出てきた。

「この神社お守り売り場なんて……ないよな?」
「うん。えーとその、手作り」
「え!? まじで」

それにしては巾着の作りがしっかりしていて、手作りにありがちなヨレヨレ感や歪みもなく、売り物のようだった。万事トロめなだが、もしかすると手先が器用なんだろうか。清田は彼女の意外な一面を見た気がして、しかしちょっと感心した。こんな小さいものよくキレイに作れるな。

「手作りだからご利益とかそういうのはないんだけど、応援の気持ちを込めて」
「応援……もしかして予選の?」
「そう。今度こそ日本一になれますように」

もらって嬉しいというよりも、そんなの心遣いが胸にギュンギュン来る。お守りを指に引っ掛けて握り締めた清田は、腕を伸ばしてに抱きつく。オレの彼女まじかわいい。

「日本一になったら……私の彼氏日本一なんだって自慢できちゃうね」
「そう言ってもらえるように頑張る」
「3人組も応援してるからね。4人で願掛けたんだよ。だから、絶対勝てる!」
……うん、そうだな」

3人組を前にするとこっ恥ずかしくて無理だけど、いなければ言える。今度は嬉しくての体をぎゅーっと締め上げる。不思議な「縁」で繋がっている5人、一緒にいると楽しくて、嫌なこともつらいことも全部飛んでいく。

「そういうわけで、弟子はシュート練習して待ってます! 予選、頑張ってね」
「まかせろ。も絶対勝てるからな」

いつまでもくっついていたいけれど、清田は学校に行かなければならない。渋々立ち上がった清田を追っても立ち上がると、バッグを斜めがけにしようとした彼の手を掴んで止めた。

「どした?」
「ネクタイ、解けちゃってるよ」
「あー、あんまり好きじゃねーんだよな」
……私が結んでもいい?」

何だよそれ新婚さんか。照れてウッと詰まった清田は小さく頷く。

……子供の頃ね、お父さんのネクタイを結ぶのが好きで、いつもやらせてもらってたんだけど、ある時突然きちんと締めて部屋から出てくるようになってさ。それからは出来なくなっちゃったんだけど……

言いながらはくつくつ笑っている。

「実はヘタクソだったとか?」
「ひどーい。違うよ。たぶんね、お母さんがやってたんだと思うんだ」
「どういうこと?」
「まだ私が幼稚園の頃だし、きっとお母さんがやりたがって、お父さんもしてもらいたかったんだと思う」
……えーと、それをお前が取っちゃってたわけだな?」
「まあそういうことなんだけどね」

ニヤニヤしながらはネクタイをするすると結び、静かに締め上げる。

「やっぱりさ、ネクタイ締めてあげるのって、彼女とか奥さんの特権だよねって、ちょっと思い出した。大切な人の無事を祈って首にスカーフみたいなものを巻いたのが始まりなんだって」

ネクタイは苦しいから苦手、という清田だったが、どうだろうか、に結んでもらったらあまり苦しく感じない。結び目も力任せに引き絞ってあるというより、きれいな形に整っているだけで、喉元を圧迫していない。

「予選、平日は見に行かれないけど……頑張って、行ってらっしゃい」
「行って、きます」

途端に恥ずかしくなってきたので、清田は有無を言わさずに抱き寄せてキスをすると、そのまま振り返って走り出した。予選頑張ろう。本戦も頑張ろう。に見に来てもらって、それで日本一になれるように頑張ろう。神社を出た清田はどんどん加速する。

この日、清田は入学以来初めて1日中ネクタイを締めっぱなしにしていた。

17年連続出場のインターハイに続き、冬の選抜も無事に予選を突破、翌月から始まる本戦への切符を手に入れた。清田はもちろん予選の全試合に出場、まだまだ先輩に小言を言われてしまうこともあるけれど、それでも欠くべからざる戦力には違いなかった。

予選終了から本戦までの間には期末を挟んでいるので、練習したいけれど出来ない時間がどうしても発生する。結局、テスト期間でも部員たちはこそこそ練習している。特に進路が決定している3年生は期末は最低限で構わないし、やはり外に場所を見つけて練習しているらしい。

というわけでこちらはいよいよ例の「勝負」である。

清田も従兄弟氏も予選が終わると時間が出来るということなので、は清田の都合を最優先にして12月最初の土曜を確保、勝負の場所はいつもの神社、3人組は来るとも来ないとも言わなかったけれど、とりあえず師匠は来ます。従兄弟氏がに不埒な行いをしないよう監視しなくては。

従兄弟氏も自転車で来られる距離だと言うので、先に待ち合わせていたと清田はベンチに腰掛けて彼を待っていた。すっかり冷え込むようになった12月の午前中、神社は木が多いだけに、余計に寒い。

「てか結局勝ったらどうするんだ」
「やっぱり一年間有効の保留にする」
「なんかそんなに長く引きずるのやなんだけど」
「んー、でも進学するから家出るらしいし」
……進学? えっ、もしかしていとこくんて3年?」
「そうだよ。うちらの2コ上ー」

清田はなんとなく嫌な予感がして目が回ってきた。

普通3年って、よっぽど強いところとかじゃないと冬まで残らないぞ? それに、こんな時期まで部活やっててそれでも進路決まってるって、それが進学って、家出る進学ってまあ普通に考えて大学だろ。なんかすごく嫌な感じでピースがカチャカチャ嵌ってくんだけど、もしかしてそのいとこくん、本当にバスケうまかったりする……

受験なくていいなーなどと呑気なことを言っているの隣で、清田は冷や汗をかいてきた。今年の冬の予選に出ていた3年生、もしかしたらバスケットで進学の3年生、それは何十人といるわけじゃない。例えば神奈川予選決勝に駒を進めた4校で言うなら、海南を含めても10人しかいない。

誰が来ても嫌なことには変わりないが、どうかその10人じゃありませんように……

こっそり拝殿に向かって強烈な祈りを捧げていた清田の後ろで、ザッザッという地面をこするような足音がした。「あ、来たー」などとまた呑気な声を上げているをちらりと見た清田は、ごくりと喉を鳴らし、しかし腹に力を入れ、意を決して立ち上がり振り返る。どうかうちの3年生だけは勘弁してください――

「あ――――!!!」
「あ――――!!!」
「あー?」

ひとりきょとんとしているを挟んだ清田と従兄弟氏は人差し指を突き付け、揃って絶叫した。

「えっ? ふたりとも知り合いなの?」
! こいつはやめろ! 悪いことは言わないから別れろ!!!」
「なんであんたにそんなこと言われなきゃならないんすか!!!」
「なんで!? 身内だからだ! てかお前もにちょっかい出してんじゃねえ!!!」
「ちょ、ちょ、ふたりとも落ち着いて!」

慌ててが間に割って入る。の従兄弟氏、それは清田の通う海南大附属と同じ神奈川では「バスケットの強い高校」――に最近仲間入りをした県立湘北高校のザ・ラスト・3年生、三井寿だった。の言うように三井は清田に比べるとちょっとだけ背が高いし、まだ16歳の清田に比べるとちょっとだけ体も大きい。

「あのな、こいつはクソ無礼でアホだしほんとにやめとけ」

そして態度も大きい。

「クソ無礼とか失礼な。てか人のこと言えた立場かよ。あんた元ヤンだろうが」
「ちょ、お前それ誰に聞いた」
「国体ん時に翔陽の長谷川さんから」
「あの野郎……!」

そしてふたりは頂点を競い合う高校同士という間柄ながら、去る国体では神奈川選抜チームのメンバーとして共闘した経験がある。しかし、清田は1年生で三井は3年生、その上ポジションが丸被りで、三井を優先されると清田は面白くないし、清田を出されると三井も面白くないという最悪の関係だ。

だが清田の方には今、そんなことよりも面白くないことがある。

「しかも自分の得意なシュートで勝負しようってのは、どうなんだ」
「勝負しろっつったのはオレじゃねえ」
「だけどアンタにとってものすごく有利な条件だろ! 卑怯だ」
「いやちょっと待て、そんなにカッカするようなことか?」
「だってそうだろ。負けた方が勝った方の言うことなんでも聞く」

なんとなくを背中に庇いながら、清田は三井に詰め寄る。だが、三井は半目で呆れ顔だ。

「何を妄想してんのか知らねえけど……なんかジュース奢るとかそんな程度だろ」
「えっ」
「てかマジかよ、オレ叔父さんに合わせる顔がねえ」
「そんなことないって! なんでそんなにダメなの!」
「ダメに決まってんだろこんな……野猿!」
「野猿言うな!」
「大丈夫だって、信長優しいから!」

父親を出されて焦ったの一言に三井はピタリと止まり、にや~っと唇を歪めた。

「へえ~お前優しいの」
「そ、それがどうしたよ」
……オレはこいつの親父さんに恩があるんだよ。だからクソ男には渡したくない」

一点厳しい顔つきになった三井も一歩踏み出して清田を睨んでいる。流石に元ヤンなだけあって、ただの睨みではなかった。しかしクソ無礼に定評のある清田なので怯んだりはしない。睨み返している。

「長谷川の言う通り、オレは今年の春までヤンキーやってた。もちろんウチはオレがヤンキーになった頃からずっと揉めてたし、親とはこの2年くらい喧嘩しかしてない。だけど説教を繰り返すばかりのオレの親に、オレの気持ちも考えてやれってずーっと言ってくれてたのがの親父さんだ」

突然そんな湿っぽい事情を聞かされた清田は内心「ハァ?」という気分だったのだが、ここでそれをやってしまうとマジでのお父さんが首を突っ込んでくるかもしれないので黙っておく。

「そんな親父さんが大事にしてるのがだ。こいつはガキん時からぼけーっと」
「してないってば!」
「トロくさいし人を疑うことを知らないし、親父さんはいつも心配してる」
「お父さんは鬱陶しいだけだって!」
「つまり、オレは今叔父さんの代理だ」
「何勝手なこと言ってんの! 寿くんただの従兄弟でしょ!」

下の方でが喚いているが、三井はお構いなし、清田も反応しない。

「お前みたいな雑で無礼で厚かましくてその上自信過剰、親父さんが認めるとは思えねえ」
「そんなことないって! 寿くんが気に入らないだけでしょ!」
ちょっと黙ってろ。いいか清田、これが神だったらオレは文句ないぞ」

清田の目が吊り上がる。神というのは冬の選抜が終わったら新たな海南の主将になる先輩だ。物腰柔らかで穏やか、誰に何を言われずとも黙々と努力を重ねる苦労人である。今年春から清田のお目付け役だったが、つまりそういう「余裕」も持ち合わせている人物だ。

……だったらその親父さんを連れてこいよ。あんた、関係ねえだろ」
「話をすり替えるな。付き合ってんならわかるだろ。は無垢なんだよ」
「むく?」
「純粋だってことだ。親父さんが心配してんのはそういうところだ」

そんなことないと手を振り回しているを制した清田は片眉を吊り上げる。

「だから?」
「ただでさえ危なっかしい女なのに、危なっかしい男と付き合ったらどうなるか」
「ほんとに失礼だな。だからだったら親父さんに会わせろよ」
……埒が明かねえな。よし、勝負だ」

三井は足を引いて下がると、背中に担いでいたボールを取り出す。やっとシュート勝負かと少しホッとした表情を見せただったが、清田はまだ腰に手を当てたまま三井を睨んでいた。

「私だってものすごく練習したんだから」
、お前はそこで見てろ」
「え?」
「清田、勝負しろ。1on1、3点先取した方が勝ち」
「え!?」

の大きな声にも清田は反応することなく、三井を睨んでいた。

「ちょっと待って、なんでふたりが勝負するの!? てかほんと寿くん関係ないでしょ!」
「向こうはやる気みたいだけど」
「信長も何熱くなってんの!? こんなの真に受けないでよ!」
……勝てばいいんだろ」

三井は羽織っていたダウンジャケットを脱いでベンチに置き、ボールをバウンドさせながら清田と距離を取る。

「ちょっと待ってほんとにふたりともおかしいから。なんで私たちが付き合ってることに寿くんとお父さんが口を挟むの。何も悪いことしてないし、信長は寿くんが言うような人じゃないし、もしそうだったとしても寿くんが口出しするのはもっとおかしいよ!」

がもっともなことをまくし立てているが、男子ふたりはスイッチが入ってしまっている。

「だからどうした。オレを負かせばいいだけの話だろ。大したことじゃない」
「だからって!」
「それとも清田じゃオレに勝てないって思ってるのか?」
「そうじゃないけど! てか寿くんがバスケしてるところなんて私、ねえ信長、やめようよ」

従兄弟がさっぱり耳を貸さないので、は彼氏の方の腕にすがった。だが、清田は三井から視線を外すと、途端に穏やかな表情になってを見下ろした。

……、確かにお前の従兄弟は神奈川でもだいぶ上手い方に入る」
「そうなの!?」
「だけど、グレててブランク2年」
「そうそう、だから私は」
「それを越えられないようじゃ、神奈川の王者の名を背負う資格がないんだよ」

もはやと従兄弟のシュート勝負ではなく、神奈川県内のバスケットトッププレイヤー同士の妙な対決になってきてしまった。しかしふたりとも厳しい顔をしつつも、どこか楽しそうに見える。まあ、学年の違う他校の生徒同士が直接勝負する機会はないだろうから、そういう意味では面白いのかもしれない。

「そうだよなあ。お前どう考えても一年後には主将だ」
「だからあんたごときに負けるわけにいかねえ」
「ごとき? ブランクがあるとは言え、舐められたもんだな、1年坊主が」

にジャンパーを預けた清田は屈伸をして軽くジャンプをする。ハラハラしているの目の前で三井はまたニヤリと笑い、片手に掴んだボールを肩に乗せると、口元はニヤリと歪めたままでギロリと睨む。

「長谷川は教えてくれなかったか? オレは中学で神奈川のMVP獲ってるぞ。お前はどうだった?」
「え」
「さあて今神奈川でオレに勝てるやつというと、牧や藤真、仙道、流川くらいじゃないと勝負にならねえな」

も清田も、途端に三井が大きく見えてきて、青くなった。だが、その勝負にならないラインナップに「文句ない」と言った神は入っていない。清田の闘争心に火がつく。舐めてんのはそっちだろうが!

「清田、お前じゃオレには勝てない。それでもやるんだな?」
「ゴチャゴチャ喋ってねーでさっさとやろうぜ、先輩」

半泣きのが見守る中、清田と三井は駆け出した。