イノセント

4

金曜にテストが終わり、その日は帰宅するなり爆睡、翌朝早朝に目が覚めた清田はたらふく朝食を食べると、ジーンズ姿でのんびり背中のボールを跳ねさせて神社へ向かった。テスト明けなので部活は解禁になっておらず、翌日曜から練習再開となっている。

日曜からずっとここには来ていなかったから、もしかしたらも3人組も来ていないかもしれないと思ったけれど、だから自分も行かずに練習を休もうとは思わなかった。

お姫様抱っこなんてことをしてしまったせいで、ずっとは様子がおかしかった。恥ずかしがっているのだろうが、以前のように普通に喋れなくなってしまった。それがだいぶショックだったのだが、真面目にテスト勉強をやっている間、清田は何度も何度も自分に言い聞かせた。

勝負が終わるまでの付き合いなんだから、いいんだそれで。勝負が終われば練習も終わる。

ひやりとした風の吹く曇天の下を清田は俯き気味で駆け抜ける。雨が降り出しそうな空模様が自分の心を写し取ったみたいだ、などと考えてはポエムかよとげんなりし、がいないのに3人組だけいたらどうしようと思っては、余計にげんなりしていた。

だが、曇天のせいでいつもより薄暗い境内は静かで、広場にはしかいなかった。

「あれっ、3バカ来てないのか」
「あっ、久しぶり! そう、私が来た時も誰もいなかった」
「あいつらは中間とかねえしな。てかも週明けからテストじゃないのか」
「うん。だからお昼で帰るよ。今日から来ると思ったからちょっと顔出しておこうかなと」

いつものようにがジュースを差し出してくれるので、清田は何も考えずに受け取った。3人組が買いに行くことがあっても、彼らは清田にジュースどうぞ! なんてかわいらしいことをやったりはしない。それが清田の金であっても買ってきたものは全てに渡すので、結局清田はから手渡されることになるのだ。

……ってこれ買ってきてくれたのか。払うよ」
「いいよジュース1本くらい。毎回じゃないんだし。奢ってもらったこともあるんだし」
「まあそうだけど。てか決まったか? 勝った時にしてもらうこと」

ふたりはベンチに並んで腰掛け、揃って拝殿の方を見ながらぼそぼそと喋っていた。お姫様抱っこの気まずさは慎重に心の奥底にしまい込んで出てこないように鍵をかけている。シュート勝負が終わったらそれまでの関係、は神社に来る必要がなくなるから、余計な気持ちを育てないように。

「3人組は色々煽るけどさ、ほんとにそういうの、ないんだよね。してほしいことなんか」
「だからなんか買ってもらえばいいんじゃねえの」
「それもさ、いとこに買ってもらったものとして残るのって、なんかむず痒くない?」
「そういうもんなのか? オレ女のいとこいねえからわかんねえけど」

そもそも中学に入ったくらいからほとんど会ったことがないんだとは首を傾げている。

「だからむしろ、1年間くらい有効にしてもらっといて、いつか何かしてもらう、とかでいいのかも」

清田の胸にチクリと疼きが走る。1年て、長くないか?

「で、なんか困ったらこき使う、みたいなのがいいかなって」
……そういうこと、聞いてくれそうなのか、そのいとこくん」
「勝てば聞くんじゃないかな? そういうところは厳格そうだし」
「もし負けたら、大丈夫か?」
「あははは、みんなそれ心配するけど、どうせご飯奢れとかそんなんだよ!」

脳天気なの笑い声がどうにも信用のならない清田だったが、従兄弟氏のことはの言葉と3人組の煽りと自分の勝手な思い込みで象られているに過ぎないし、これ以上の文句はお門違いだ。いくら師匠でも言えた立場ではない。本人と会ったこともないのだから。

変な想像をしてしまったけれど、それならまだいっそ――

……ドローで終われるといいな」
「えっ、なんで?」
「ドローならお互いに何もなく、じゃないのか?」
「そうか。ドローの時のことは考えてなかったな……

本当に考えてなかったらしい。は腕組みをして唸る。それを目の端でちらりと見た清田はペットボトルのジュースをあおる。もし勝負がドローに終わって、妙な想像が現実になってしまったとして、それでからいとこと付き合い出したよ! なんて連絡が来たらオレ、どう思うんだろう――

そんな風に打ちひしがれて空を仰いだ清田だったが、頬に冷たいものを感じて思わず目を閉じた。

「うわ、やっぱり降ってきた。荷物まとめろ」
「えっ雨? 嘘、どーしよ、今日も自転車なんだけどな~」

パラパラと雨粒が舞い落ちてきて、広場に点々と染みを作る。ふたりは慌てて荷物をまとめてベンチから立ち上がると、拝殿の濡れ縁に避難した。張り出した屋根のおかげで拝殿の基礎部分は土砂降りでも水がかからない。なので濡れ縁は近所の放浪猫のお昼寝スポットになっている。

「昼までに止むかな」
「どうだろな。雨の予報はなかったはずだけど。自転車じゃないと帰れないのか?」
「えーと、駅まで出るバスがあれば何とかなる」
「それなら走れば1分くらいで行けるぞ。バス停屋根あるし」
「信長の足で1分なら私は3分か……
「そんなにかかるか?」

賽銭を投げ入れ、雨宿りさせてくださいと頭を下げたふたりは足元に荷物を置き、濡れ縁に寄りかかってけたけたと笑った。長く地元民に愛されている拝殿の濡れ縁は古びた色合いにすべすべした触り心地のいい板張りで、ふたりを優しく受け止めている。

少し気が楽になった清田は足元のバッグの中を探って目的のものを掴み出すと、濡れ縁にずらりと並べた。

「そういえばこれ見てくれよ。おかげさまで今のところ赤点なし!」
「えっ、ほんと!?」

中間の初日と2日目の教科の答案用紙である。早々に戻ってきたものだけでも、全て1学期より点数が上がっていた。これらの教科はが直接教えていないものも含まれるが、が頑張って教えてくれるんだから少しは勉強しなきゃ、と清田が奮起した結果である。

「それとここ、ほら、お前が絶対出るって言ってたやつ、ほんとに出た」
「ほんとだー! ああよかったあ~心配してたんだよね~」
「配点大きいからすげえ助かったよ」
「これで期末までは安心だね。なんだっけ、冬の選抜だっけ?」

雨がしとしとと降り始めて夕方のように暗くなってきてしまったけれど、ふたりは肩を並べて答案を見ながらわいわいと騒いでいた。多少なりとも教える側であったは何とか役目を果たしてホッとしているし、清田の方も残念な報告をせずに済んだので喜びもひとしおだ。

「へー、今度は会場近いのか。見てみたいなあ」
「来ればいいじゃん。3バカと一緒に見に来いよ」
「3人の親御さん知ってるの?」
「いや、知らないけど、もし来たいって言うなら連絡取ってもらってさ」
「ちょっと待って、それ私が連れてくんだよね?」
「平気だよ、オレと違ってすげえ懐かれてるから大丈夫じゃね?」
「マジで!? すっごい疲れそうなんだけど! 私ひとりじゃ――っくしゅん!!」

また楽しそうに笑いながら喋っていただったが、雨が降り出して気温が下がったか、体を震わせたかと思った瞬間、大きなくしゃみをした。いつものようにパーカーだが、もしかしたらそれ1枚しか着ていなかったのかもしれない。慌てた清田は腰に巻いていたジャンパーを解いて着せかけた。月曜からテストなのに!

だが、突然暖かくなって驚いたのはである。しかも着せかけられた時に少しだけ清田の両腕で包まれたようになって、余計に驚いた。肩幅はもちろん、丈も袖も長くて、その上ずいぶん重くて、それがどうしようもなくドキドキする。ついでにふわりと清田の匂いが立ち上って、それはもう落ち着かない。

「おいおい中間月曜からだろ~こんなんで風邪とか勘弁しろよ」

清田はあたふたしていて、何も考えていないらしい。の頬がカッと熱くなる。こんなの、ダメだよ。

「だ、大丈夫だよ、私あんまり風邪とか引かないし、帰ったら暖かくするから」
「いやそれ着てろよって。オレ寒くないし。……いや、洗ってあるぞ!」
「そ、そういうことじゃなくて……

勘違いでまた慌てる清田に向かい合い、はジャンパーをかき合せると無理に笑ってみせた。

「こ、こういうの、やめた方が、いいよ」
「えっ?」
「信長優しいから、気を付けないと……
……嫌ならそう言えばいいのに」
「えっ、そういう意味じゃないよ!?」
「じゃあどういう意味だよ!」

つい勢いでふたりは大きな声を出した。騒がしい声が境内に吸い込まれていく。

「だから! こういうことすると、勘違いしちゃうじゃん!」
「は!? 何を!?」
「何をって! こんな、服貸してくれるとか、もしかして好きなのかなとか思っちゃうでしょ!!!」
「いやそれは勘違いしろよ!!!」
「だから言っ――は!?」
「え!?」

濡れ縁に手をついてギャンギャン言い合っていたふたりは息を呑んでピタリと止まった。

サーッと清廉な音を立ててる雨は境内の木々に降りおりてはまたぽたりと落ちて、快いリズムを刻んでいる。その雨音で外界から遮断されたような静けさの中、ふたりは身じろぎもせずに見つめ合っていた――のだが、雨で冷やされた空気が爽やかな風となって吹き付け、はまたくしゃみをした。

……いいから、着てろよ。着て帰ってもいいから」
「そんなの、本当に勘違い、するけど」
「だから、しなよ」
「じゃあ、する」

俯いたがジャンパーに袖を通す。ぶかぶかだ。

「そういうの、オレも勘違いするんだけど」
「す、すればいいんじゃないかな」
「していいの?」
「して、ください」

ジャンパーの裾をぎゅーっと掴んだままがそう言うなり、清田は引き寄せてそっと抱き締めた。ぶかぶかのの腕が清田の体もぎゅっと締め上げて、ふたりは少しだけふらふらと揺れる。

……3人に、笑われちゃうね」
「恥ずかしい?」
「ううん、かっこいい彼氏出来て嬉しいって自慢する」
「嫌がられるぞ、それ」

くすくすと笑い合うふたりはなぜだかじわりと暖かさを感じていた。拝殿の周りだけ雨風の冷たさが入ってこなくなってしまったみたいに感じる。の頬はすっかりピンク色に染まっている。その頬に手を滑らせると、は少し爪先立つ。清田は両手で頬を包み込み、ゆっくりと唇を寄せた。

頬はすっかりピンク色だったけれど、は遠慮がちにぼそりと呟く。

……信長、寒い」
……じゃあ、ぎゅーしてよっか」
「うん」

静かな土曜の神社、昼頃に雨があがるまで、誰も来なかった。3人組も、来なかった。

「まじかよ! なんだよオレらのいない時に!」
「なんだよどっちが好きって言ったんだよ!」
「てかもう1週間経つじゃん! ちゅーしたのかよ!」
「うるせー!!! ちゅーなんかいっぱいしてるわ!!!」
「信長!!!」

の中間が終わった翌金曜の放課後である。が中間で練習を休んでいる間にも清田と3人組は1度顔を合わせていたが、が揃うまで内緒にしていた。清田の方は普段なら練習なのだが、本日3年生の課外授業と2年生の修学旅行が重なったので休み。

3人はわいわいと囃し立てるしはやっぱり照れているが、清田は遠慮しない。ウロチョロする3人をしっしっと手で払い除けるとを引き寄せて緩く抱き締める。

「ということではオレの彼女になったのでお前らは二度と触るな」
「えー!!!」
「やだよ!!!」
、抱っこー!!!」
「うるせー!!! 禁止だ!!!」

だが相手は3人だし、を囲い込むのにも限度がある。清田はくるくると逃げ回るが、の背中はガラ空きで3人組がべったりと張り付いている。

「てか、彼氏できたっていとこに言った?」
「えっ、言ってない」
「ちゃんと言わなきゃだめじゃん。変なことされるかもしれないだろ」
「されないって……
「てかいつ勝負するんだよ」

結局清田と3人組にくっつかれたままのは苦笑いだ。

「それが……予選が近いからまだダメだって言われちゃって」
「へえ、予選出るのか。まあ神奈川は出場校多いからな」
「だからそれが終わったらになりそう」
「てことはまた期末の直前とかそんなんか」

そうなるとかなり先の話だ。その分練習期間が長く取れるわけだが、清田としてはさっさと勝負を終わらせてほしかった。というか向こうが予選前だろうがなんだろうが、彼氏できたってことくらいは報告しておいてほしい。しかしはそれには及び腰だ。

「なんかわざわざ言うの恥ずかしいじゃん……報告しなきゃいけない理由もないし」
「なくないだろー!」
「向こうがのこと好きだったらどうすんだよー!」
「だからそんなことないって言ってるじゃん!」
「じゃあは信長がのこと可愛いなって思ってたの気付いてたか!? 気付いてなかったじゃん!」
「ハ――!?」

乾いた悲鳴を上げたと清田を3人組がボスボスと叩いて回る。

「ふたりとも自分なんかだめだってグズグズしてさ」
「相手がどんな風に思ってるかなんて全然気付かないでさ」
「それで『そんなことない』とか言われてもなあ」

向かい合わせに軽く抱き合ったままのふたりは顔を赤くして左右に顔をそらしている。めっちゃ恥ずかしい。しかしわざとらしい咳払いを何度も挟んだがふるふると顔を振って、3人組を見下ろす。

「そうかもしれないけどうちのいとこの場合は間違ってないよ! 本当に中学入ったくらいから疎遠になってたし、どっちかっていうと私の父親がすごく可愛がってて、それで向こうも懐いてたって感じだから。子供の頃から向こうは運動得意だったし、私はトロかったからバカにされてたのなんて幼稚園の時からだし」

まだなんとなく信用できない清田と3人組だったが、それを突付いても始まらない。せっかく清田が休みなので練習をしたり遊んだりおやつを食べたりして過ごし、いつものように神社の境内に日が差さなくなった頃合いに解散になった。付き合っていたのだとしても、はチャリなのでそのまま帰ります。

「よかったな信長!」
はほんといい女だからな!」
「きっといい嫁になるぞ!」
「じじいかよ」

おじいちゃんの受け売りをしているのかと思うと真剣に突っ込む気にもならない。清田はへらへらと笑ってすぐ横にいたタカヒコの頭をワサワサと撫でた。クソ生意気でうるさいが、3人はずっとふたりの仲を取り持ってくれていた。言葉にはしたくないけれど感謝はある。

……オレまた部活であんまり来られなくなるけど、のこと頼む」
「おう、任せとけ!」
「オレたちがいればなんにも心配いらないぜ!」
「ちゃんとシュート練習もさせておくからな!」

あの時はたまたまテスト前で部活がなかったから毎日のように通って来れていただけだ。そういう風に強制的に部活動が出来ない状態にならなければ、清田は地元の神社に来ることもない。と知り合うこともなかっただろう。いつかトシローが言ったように、これも「縁」だな――

従兄弟氏同様、迫る予選で清田も暇じゃない。と一緒にここで練習したり3人組と遊んだりしたいけれど、そうもいかない。それは期末前を待たなければ。もしくは学校自体が閉まる年末年始を待たなければ。

それがちょっと寂しい、それはにだけ打ち明けて、3人組には内緒にしておこう。やっぱりちょっと恥ずかしいから。清田は暗くなるばかりの境内でまた3人の頭を撫でると、早く帰れと送り出した。