君しか見えない

4

途端に照れて狼狽えただったが、言ってしまったもんはもう取り消せない牧はヤケクソで彼女を引き寄せ、伸ばした両足の間に座らせてしまった。牧が後ろから抱っこするような状態である。だが、牧は片足を落として完全に伸ばせるし、は両足を伸ばせるし、この方が余裕がある。

なのでは何も言えなくて俯いているし、牧はヤケクソなので逆にテンションが上ってきた。日常ではありえなかった距離感と閉鎖空間が普段冷静で温厚な性格をしている牧の理性をグラグラと揺さぶる。だって本当に嫌だったらすぐに拒絶されるはずだよな……

そしてスカートから伸びる素足が目に入る。素足……

、寒くないか」
「えっ!? ああ、うん、今のところ」
「まだ日中の暖かさが残ってるからいいけど……暗くなってきたから」

今日はカラリとよく晴れた空模様だったし、そのぶん窓を開けていない旧生徒会室は日差しに暖められて寒さは感じない。だがそれでも11月、迫る日没で人の少ない校舎は急速に冷えていくかもしれない。牧は上半身をよじってブレザーを脱ぐと、後ろから手を伸ばしての膝にかけた。

「え、いいのに」
「オレ、全然寒くないから」
「風邪、引いたら大変だよ」
「未だに半袖で部活やってるくらいだし」
「それは汗をかくほど運動するからでしょ」

後ろから手を伸ばしてブレザーをかけたので、抱っこ状態はますます加速。牧は両手にブレザーを掴んだまま、背中を丸めているの肩や後頭部を眺めていた。後ろの席から毎日見ているはずの眺めなのに、まるで別人のようだ。

「あ、そうだ、メガネがポケットに入ってなかった? 壊れたら大変」
「かけてみるか? 弱いだろうけど、少しは助けになるかも」

足にでも当たったのか、はブレザーの内側をまさぐって牧のメガネを取り出した。

「眼科で視力検査してる時みたいな感じ。ちょっと見えるけどまだボケボケ」
「しかも左右で度が違うしな」
「私も中学ん時はガチャ目だったんだよね。でも気付いたら良かった方も見えなくなってた」

は牧のメガネをかけたままキョロキョロしていたが、やがて体を捻るとメガネを外しながら振り返った。左のレンズなど0.9を1.2に矯正しているだけなので、0.03では全く意味がない。

だが、そもそもがだいぶ密着していたのである。メガネを理由に忘れたふりをしていたけれど。

「ありがとう、壊しちゃったら大変だから、これ返す…………
「ああ、ありが……とう……

振り返りメガネを外したは牧を見上げていて、牧はメガネを受け取ろうと少し屈み込んでいた。すごく近い。そして角度がなんだかとてもちょうどいい感じだ。の手からメガネを取り上げてソファの背に置いた牧だったが、ずっとを見つめていた。目が離せない。

そして、いかに0.03のでもはっきりと牧の顔がわかるほどの距離。静まり返った旧生徒会室、物置の戸の隙間から入り込む明かりはもうほとんど消えかけていて、お互いの制服のシャツの白さばかりが際立つ。そして何も言えない。何を言えばいいかもわからない。

校内が1番騒がしい時間のはずだが、その喧騒もほとんど届かない。こんな狭い場所に置き去りにされてふたりきり、自分の早すぎる鼓動だけが耳に響いている。

すると、メガネを手放した時のまま宙に浮いていたの手が、そっと牧の腕に降りてきた。彼女の手が牧のシャツを掴み、緊張にギュッと握り締められている。それが合図になったかどうか、牧は掴まれていない方の手でを引き寄せ、片腕でしっかりと抱き締めた。無意識に潜めていた息が行き場を失い、音を立てて吐き出される。

「ま…………
……なに」
「かの、じょ、いない、の」

緊張と動揺での声は揺らいでいた。牧は答える前に両腕で強く抱き締める。

「いないよ。好きな人もいなかった」
……過去形?」
……そうだな。ちょっと前から、気になってる子が、いて」

前の席の女の子が気になりだしたのは、彼女がメガネも似合うよと言ってくれた時からだ。単なる社交辞令だったかもしれないけれど、どうしてかやけにそれが嬉しくて、彼女の助けになれることも嬉しくて、一緒にいられることが無性に幸せだった。

「別に普段からすごく親しいとかいうわけじゃないし、まだ熱烈な片思いってほどでもないんだけど、一緒にいて楽しいし、一緒にいたいなと思うし、彼女のヒーローになりたいって思うし、こういうのって、どうなんだろうな。は、どう思う? その子、こういうの、嫌がると思うか?」

と話していると体の真ん中がポッと温かくなる。その心地よさをしばらく抱えていた牧は、今日1日のサポートをしていたことではっきりとした自覚を得た。でも、はどうなんだろう。今日1日ずっと一緒にいて、とどめにこんな狭いところでぴったりくっついてるけど、実際はどうなんだろうか。

そんなそわそわした居心地の悪さと自覚してしまった恋心に軋む胸、牧はことさらにを強く抱きしめて、彼女の髪に顔を埋めた。優しくて甘い、けれど少しだけ埃っぽい匂いがする。それがどうしてこんなに全身をきゅんと言わせるのだろう。

そんな牧の胸元ではゴニョゴニョ言う。ほとんど囁き声だ。

……喜ぶんじゃ、ないかな。たぶん、すごく、嬉しいと、思う」
「付き合ってほしいって言ったら、なんて答えると思う?」
「私でよかったら、って、言うと思う」
「言っても大丈夫かな」
「絶対大丈夫だと思う」

腕が緩み、は縮めていた体を伸ばして顔を上げた。0.03の世界はぼやけているだけで何もかもがあやふやだけれど、これだけの至近距離なら全てが鮮明ではっきりと見える。すっかり暗くなってしまった物置の中でも、しっかり見える。

「だって……牧しか見えないから」

の視界には牧が、牧の視界にはだけ。額が触れるほど顔を寄せ合って、ふたりは微笑み合う。視力だけでなく暗さで余計にお互いの顔しか見えていない。でもそれでよかった。

「2時間なんて、すぐだね」
「もっと閉じ込められててもいいのにな」

どうせ誰も気付いてくれないのだし。

のんびり2時間たっぷりイチャつけると思っていたふたりだったが、1時間もしないうちに忠誠心に厚い後輩が救助を求めるメッセージに気付いて仰天、3年生の部員を連れてすっ飛んできた。頓珍漢な気遣いをしていた武藤が外から「いやこれ助けない方が親切なんじゃねえの」としつこかったが、ともあれふたりは無事に助け出されてしまった。

しかも旧生徒会室と物置の解錠が絡んでいたので、バスケット部の報告によってと牧の行方不明の真実に気付いた生徒会は真っ青。特に思い込みでを罵倒し鍵をかけてしまった2名は半泣き状態。だけならもっと高圧的に出たかもしれないが、牧を閉じ込めたとなると話が変わってくる。

これには牧から事情を聞いたバスケット部の3年生が「予選が近いから早く救出出来てよかった。牧になにかあったら大変なことになってた」と漏らしたせいもあり、最後の最後で結局後味が悪そうな会長だったが、の件は誤解だとして謝罪、残りの1日を何とか穏便に全うしようと納得してくれた。

そんな騒ぎとそもそもの生徒会の仕事の多さで、バスケット部を含めた関係者たちは日没をゆうに過ぎて暗く人もいない校舎に取り残されていたのだが、今度はそこに「メガネ踏んで壊したのは自分です」とフルーツソーダのクラスの生徒が名乗り出てきた。

聞けば、よく晴れて気温も高めで空気が乾燥していた本日、フルーツソーダは大盛況。展示終了を待たず午後1時頃には完売してしまったほど売れた。一方隣のポップコーンはチョコとカレーがほとんど売れず、そのせいでキャラメルが昼前に完売してしまい、おかげで客が激減、自分たちの苦情は言いがかりで強く言い過ぎたのでは……という空気になってしまったらしい。

しかもそんな様子の隣のクラスが可哀想になってきた数人がカレーポップコーンを買ってきて食べてみたところ、止まらなくなってしまった。確かに匂いはキツいしオシャレ感もないけどカレーポップコーンうめえ! ……というわけで、2クラスはのいない場所ですっかり和解した。

その結果、メガネを踏んでしまった生徒が自分で名乗り出ること、そしての新しいメガネは2クラスの全員で負担して作ろうという結論に至った。そもそも自宅用の予備メガネだし、ファストブランドの製品だし、ということで負担と言ってもひとり100円程度。誰も反対しなかったそうだ。

かと思えば、翌日のの目はまったく改善せず、親に眼科に連行されたところ、結膜炎との診断がおりてしまった。コンタクトどころの話じゃない。なので残り1日どころか新しいメガネが出来るまでのは0.03で生活するしかなく、一般来場客でごった返す文化祭2日目も牧に助けてもらいながらひたすら生徒会室で書類に埋もれていた。

そんなゴタゴタをなんとか乗り切り、予選を目前に控えた牧は無理矢理時間を作ってのメガネを一緒に作りに来ていた。やっとコンタクトが入るようになったので普通にデートだが、たくさん時間は取れないし、実は付き合い始めたこともオープンにしていない。

「うーん、こっちは? こっちもどうかな。わっ、これもいいね~!」
……オレのメガネはどうでもよくないか?」
「待って待って、こっちもかけてみて。あっ、似合うー! スーツ着てほしー!」
「制服ってスーツみたいなもんじゃないか?」

物置を出て以来、牧が忙しくてゆっくりふたりになれないのでは大はしゃぎ、自分のメガネそっちのけで牧にメガネをかけさせてはニヤニヤしている。着せ替え人形状態でツッコミばかりの牧だが、初めて見る私服のがあんまり可愛いので機嫌はいい。メガネをオーダーして昼を一緒に食べたら練習に戻らないとならないのがつらい。

というか今日もバスケット部の仲間たちが都合をつけてくれたので時間が取れたけれど、本来であればデートなんかしている時期ではない。なのでおそらく12月の全国大会が終わるまではデートの機会は二度とない。つらいが時期も悪いし関係をオープンにもしていないので我慢するしかない。

「だから、来年になったら付き合ってますって言ってもいいんじゃない?」
「物置の件をきっかけに付き合うことになりました、って嘘付いてるわけでもないしな」
「まあ別にわざわざ宣言したいとも思わないけどね」

どうせ年が明ければ自由登校に入ってしまうし、卒業間近の3年生だし、特に親しい友人相手ならともかく、わざとらしく見せつけることもないよね――は思っていたのだが、店を出た牧はの手を取って繋ぐと、やけに真顔になっていた。

「でも付き合ってるって言わないと変なのが寄ってくるかもしれないし」
「変なの?」
「てか今日も私服すごく可愛いけど……心配だな」
「はい?」

はつい突っ込んでしまったが、牧の目は真剣。

「だってそうだろ、卒業までそんなに時間もないし、メガネの件で隣のクラスとやけに仲良しになっちゃってるし、のこといいなって思うやつが現れたら困る。こんな時に限って武藤は『今度はちゃんと空気読んで秘密にしておくからな』とか言い出すし」

あまりに真顔でそんなことを言い出したので、は吹き出した。

「紳一って嫉妬深いタイプだったんだ?」
「えっ、しっ、嫉妬……そういうつもりは……
「そうなの? じゃ束縛したいタイプ?」

は楽しそうに笑いながら牧の腕を突っつく。牧がただ無自覚なだけで、嫉妬や束縛がキツいタイプでないことは知っているので、はまたニヤニヤ。牧はちょっとばつが悪そうだ。

牧は咳払いをひとつして姿勢を正し、手をギュッと繋ぎ直す。

「嫉妬とか束縛にならないように気をつけるけど、それは単にのこと大好きだからです」
「えっ、ちょ、こんな外で……あの……知ってるけど……

途端に狼狽えるの声はどんどん小さくなっていくけれど、やっぱりはっきりと言ってしまった牧は逆にテンションが上ってきた。足を止め、の目線まで屈むと声を潜める。

狭い物置に閉じ込められていた時も、今も。

のことしか、見えないから」

END