君しか見えない

3

牧とふたりがかりで書類を片付け、それが終わったら職員室に巡回の報告をし、途中で3年生の役員とすれ違ったので事情を伝え、はまた生徒会室に戻った。昼が終わったらミーティングの予定なので、その間の牧をどうしようかと考えていたのだが、誰も戻ってこない。誰も戻ってこないどころか、連絡もつかない。事情を伝えた役員も了解しただけで自分の仕事に戻っていってしまったし、早くミーティングを始めないと午後の巡回が押すばかりだ。

と、牧までもがやきもきしていると、やっと会長から電話がかかってきた。

……は被害者だと思うんだけど」
「すっかり加害者だね」

なぜか会長は役員全員と校庭にある文化祭実行委員会本部に集合しており、ここで昼とミーティングをまとめてやってしまうから、は来なくていいと言ってきた。そして、報告は受けたから事情はわかったけど、今日1日何も出来ないというのは無責任なので認めないと言い、一方的に切った。

なのでには予定外の任務が与えられた。今生徒会室で出来る作業を展示終了までに全て片付けておくことと、旧生徒会室に置かれている文化祭関係の書類を全部運んでこいという。だからはっきり見えないんだっつーの。

「確かに今日の展示終了後には必要になるものだけど……牧がいるって知ってるのかも」

旧生徒会室は附属高校で一番古い校舎にあり、数年前に新校舎が完成したので、いずれ解体される予定になっている。今のところ1年生の一部と特別教室として使われているが、その一角の元生徒会室は物置状態。文化祭はとにかく書類の山との戦いでもあるので、ダンボールがいくつも積まれている。

と牧は生徒会室で出来る作業を何とか済ませると、今度は薄暗くなり始めた旧生徒会室との間を何度も往復していた。がダンボールを抱えて歩くことは不可能、自分のリュックに書類を詰めて牧に掴まって移動するしかなく、その分だけ往復の回数は増えた。

「旧生徒会室の方が広くて、新しい方が狭いっておかしくないか」
「この校舎が取り壊されたあとにまた新校舎が出来て、そこにちゃんとしたのが入るみたいよ」
「へえ、てことは今の生徒会室は一時的なものなのか」

旧生徒会室は現生徒会室の2倍はあり、古いので清潔感はないが、文化祭のような大きな行事のときは最低でもこのくらいの広さがないと無理があるよな……と牧は考えていた。掃除用具入れのような作り付けの物置など、なぜかボロボロのソファが詰め込んであり、そこにも書類の入ったダンボールが積まれていた。それらを運び出して運べば一応任務完了だ。

だが、生徒会室に戻ったはあるはずの書類がないという。なのでまた旧生徒会室に戻る。

「暗くて見えないかと思って聞かなかったんだけど、ここか?」
「これは確かに見えない……でも奥の方になんかありそう」
「携帯貸せ、持っててやるから」
「ごめん頼む~!」

なぜかソファが詰め込まれている作り付けの物置は奥にまだスペースがあり、はソファに寝そべるようにして覗き込んだ。牧はその上から携帯をふたつ差し出して明かりを送る。が、どうにも物置の奥は狭くて暗くて、0.03のでははっきり見えないようだ。

「あー、でも書類も落ちてる~。こっちは正門ゲートのバルーンアートの領収書~!」
「そーいうの全部生徒会がやってたんだな」
「領収書なくしたら補填しなきゃならないんだよね……
「嘘だろ……

ソファの奥から次々と領収書が出てくるのではもう笑うしかないし、牧はこんな状態で管理されている文化祭にちょっと呆れた。生徒会に丸投げじゃないか。回収された領収書を並べたら、テーブルが埋まってしまった。中には7桁の領収書もあって、それを失くしたらと思うと背中が冷たくなる。

だがその時、旧生徒会室の外から騒がしい声が聞こえてきた。

「メガネ壊れたからって何? こんな忙しいのにひとりだけ何もしなくていいわけないじゃん」
「まあ、ってそういうところあるよな」
「てか書類運んだだけでどっか行っちゃうとか、マジで無責任過ぎるんだけど」
「どこで遊んでるんだか。副会長のくせに」

内容が内容だったので、と牧は思わず物置の中に隠れ、慌てて引き戸を閉じた。

も突然の事態にソファの上で膝を抱え、口元を手で覆って息を潜める。牧はともかく、はそれが誰の声なのか判別がつく。腹は立つが今飛び出ていく勇気もなかったし、飛び出たところでふたりの表情すら見えない。

「何これ、領収書と鍵が置きっぱなしじゃん! なんなの!?」
「10万超えてる領収書置きっぱなしで消えるとか信じられねえ……

瞬間、ふたりのうち片方が物置のドアを強い力で蹴ったようで、は悲鳴を上げそうな口元を強く押さえて身を縮めた。牧もソファに膝を立てて体を丸め、厳しい表情で息を押し殺していた。

「腹立つけどしょうがない。真面目な人間ほど損しちゃうんだよな」
「どうせ明日でうちら引退だしね。後味わっる! 人の青春台無しにして何も思わないんかな」

そんな声が聞こえる中、また物置の戸がガタガタと揺すられ、そして乱暴に閉められるドアの音が聞こえ、やがて旧生徒会室はしんと静まり返った。旧生徒会室は2階の端に位置していて、今年の文化祭では1階しか展示がないため、生徒は近寄らない。

…………、大丈夫か」

牧の低い声が物置の中にそっと響く。は背もたれに寄りかかって両手で顔を覆っていた。

「ごめん、巻き込んでごめん」
「いいよそんなこと」
「ねえ牧」
「どうした」
「私、何かしたかな」
……

両手を外したは目を真っ赤にしていた。無理もない。牧はと向き合うように座るとその手を取った。指先が涙で濡れているが、構わずに握り締める。

……集団で、何か役割をこなしていて、その中のひとりだけが役割を果たせないっていうことが、ここまでの憎しみに変わるのかってことは、オレも初めて目の当たりにしたよ。向こうは全員揃ってて、はひとり、の言い分を一度も聞かずにあそこまで思い込む、しかも自分たちが被害者として、それになんの疑問も抱いてない……怖いな。すごく怖い」

今日1日、の目になってきた牧には視力0.03の世界の恐怖を垣間見た気がしていたが、そんなものとは比較にならなかった。そしておそらく、あの時自分が飛び出していって反論をしたなら、苦笑いで不問に処したかもしれないと思うと今度は怒りも感じた。

「ひとりだけ楽してサボろうなんて、思ってなかった」
「当たり前だろ」
「メガネ壊したのは私じゃないし」
「あれは事故だよ」
「私だって後味悪い」
は悪くないって」
「だけどあの子たちはそうは思わない」

苦痛に涙をこぼしているの手を牧はぎゅっと握り、静かに、けれど力強く言った。

「でもは悪くない。それが事実だし、オレは全部見てる。が一番の被害者だよ」

そんな言葉が余計にを泣かせてしまうわけだが、狭い空間でふたり、嗚咽を飲み込んでいる女の子を目の前にして牧はつい、彼女の肩に触れた。目には見えないくらい細かく震えていて、それをなんとか抑えようと体を強張らせていた。は何も悪くないのに――

邪な気持ちは欠片もなかった。ただ彼女の受難に心が痛んだ牧は、そのままそっと抱き寄せた。

「第三者が首を突っ込むのよくないかもしれないけど、いつでも証人になるから」
「ごめ、ごめん、牧、関係、ないのに」
「全部横で見てたんだから関係なくない。の目をやってたのはオレだし、だから腹も立つし」

泣きじゃくるの背を撫でながら、牧は内心「の味方になれるのはオレしかいない」と気付いた。多勢に無勢、生徒会は口を揃えてを非難するかもしれない。それが事実無根の言いがかりだったと認め、謝罪する勇気がなければ、数の暴力は牧が見てきた「事実」を押し潰し、嘘が真実になるだろう。その時、本当の真実を持つことになるのは自分しかいない。

だが、不思議と恐怖感はなかった。3年生の校舎を歩けば廊下がモーセの海割れのようになってしまう自分なら、思い込みの憎悪からを救うことが出来ると思った。それはむしろ心を奮い立たせ、腕の中で震える女の子への愛しさまでもを自覚させた。

奇妙な巡り合わせでこんな狭い物置の中だけれど、今日1日をすぐそばで寄り添って過ごしたと一緒にいられることは、どうしてか嬉しかった。彼女は何に対しても素直で、牧が少し照れてしまうようなこともサラリと言えて、けれど自分の役割に真面目に取り組む人だった。そんなが晒されている誤解と思い込みから守ってあげたくなった。

なので、つい言いたくなってしまった。

、オレは、味方だから」

まるでヒーロー、また牧の心がポッと温かくなる。

その言葉に体を起こして見上げるの目が涙にきらりと光って、それしか見えなくて。

だが、不意に鳴り響いたチャイムにふたりは飛び上がった。本日授業がないのでチャイムは基本止まっているのだが、それが鳴るということは展示終了の合図だ。これが鳴ったら問答無用で展示を終え、片付けに入らねばならない。なので、15時だ。ふたりは我に返って慌てて離れた。

「ごめん、なんか色々ごめん」
「いいって。それよりどうする、このあと。まだ会計の仕事あるだろ」
「そうなんだよね……
「一応一緒に行こうか。見えなくて大変だったことくらい、オレが言うよ」
「いいのかなあ、そんなこと」
「明日さえ乗り切れたら終わるよ。だから何とか――えっ?」

頑張れ、と言おうとした牧は物置の戸に手をかけたところで大きな声を上げた。

「どしたの?」
「ええと、開かない……
「え!?」

も焦って目の前の戸に手をかけたが、ガタガタ揺れるばかりで開かない。

「もしかして、さっき、鍵かけられた……?」
「嘘だろ!」

ふたりはまたソファに崩れ落ちて仰け反り、呻き声を上げた。

「そういやさっき、鍵がどうのって」
「うん、テーブルの上に置いてた」
「旧生徒会室って必ず鍵閉めないとダメなのか」
「特に文化祭の間は。領収書とかあるし」
「そうだった……

そもそもが現在は使用していない旧生徒会室である。物置やロッカー、棚、そして教室のドアは生徒会室に置いてある鍵で全て施錠しておくのがルールになっている。そうでもしないと空き教室はすぐに隠れ家になってしまうので。

「じゃあ鍵は今、さっきのふたりが持ってるのか?」
「たぶん。それか生徒会室に返してあるか、クラブ棟で使ってるか」

がテーブルの上に置いていた鍵束は生徒会が管理している教室全ての鍵がまとめられており、クラブ棟にある備品倉庫も生徒会の管轄なので、そちらへ持ち出される可能性もある。

「職員室にもスペアがあるけど、ちょっとタイミングが悪い……
「展示終了時間か……!」

附属高校3年目、も牧も、文化祭の展示終了の慌ただしさには覚えがある。展示によっては楽しくなってしまって時間通りに片付けに入らない生徒は多く、そのため先生たちと生徒会は校舎中を駆け回って店じまいと片付けを促さねばならない。普通に大騒ぎの時間だ。

これが明日なら、翌日が片付け日なので売り上げをまとめる程度でも構わないのだが、1日目の展示終了後は片付けやゴミの処分、売り上げの管理、1日目で壊れてしまった装飾などの修復、翌日の仕込みなどの準備……とやることが多い。基本部活で展示を行わない生徒が全員でやらねばならない。

なので、誰に連絡をしても気付かれない時間帯なのである。

「これが落ち着くのって……
「早くても17時頃だよね……
「あと2時間……
「牧、トイレ大丈夫?」
「さっきここに来る途中で行っただろ。よかった……行ってよかった……

教室に閉じ込められたならまだしも、こんな物置である。よかったと言いつつも、ふたりはまたソファにぐったりと寄りかかって呻いた。だからって2時間。

は一応生徒会のグループと、親しい友人数人に旧生徒会室に閉じ込められてしまったことを報告したが、校内が1番騒々しく、全員が忙しく立ち働いている時間帯なので既読がつくわけもない。牧も手当たり次第に助けを求めてみたけれど、誰も反応なし。

「牧たちみたいに部活忙しい子でも、文化祭はちゃんとやるもんなあ」
「むしろこんな時期に丸2日も休みになるから、個人練習したり、逆に遊んだりするしな」

部活動が生活の基本となっているバスケット部にとっても、この文化祭はイレギュラーな2日間なのである。予選は近いが、一応本分は普通科の高校生なのできちんと文化祭に参加するよう指導もされる。なのでだいたいは楽しく文化祭に参加し、その後みんなで打ち上げやらに繰り出すことも多い。

だから救助は望み薄……と考えていた牧の手の中で音が鳴る。

「おっ、武藤が気付いてくれたっぽ――いやなんでそうなる!」
「どうしたの」

天の助けとばかりに携帯を覗き込んだ牧だったが、呆れた声を上げながら仰け反った。そして携帯を差し出したので、は屈み込んで携帯に顔を近付けた。武藤からのメッセージは、

〈OK了解! と一緒なんだろ? ごゆっくり~!〉

呻く牧の傍らではゴハッと吹き出し、背もたれに寄りかかって笑い出した。

「いや笑いごとじゃないだろ」
「だって、どうしたらこんな勘違いが出来るんだと思って!」
「日中ずっと一緒にいたからかもな」
「だとしても普通それを部員全員に報告しないでしょ。武藤の読解力ってどうなってんの」

は文字通り腹を抱えて大笑いし、牧は勘違いだから今すぐ旧生徒会室に助けに来てくれとメッセージを送り直したが、もう既読はつかなくなってしまった。部長が珍しく彼女とどこかにしけこんでるっぽいから邪魔しないであげよう……なんていう余計な気遣いが発生しているのかもしれない。

……昔からなんだけど、バスケ部って、恋愛長続き出来ないことが多くて」
「そりゃそうだよね、あれだけ忙しければ」
「だからその分、彼女いるやつとかは優遇してやろうみたいな習慣があって」
「それはいいことなんだろうけど、今は最悪」
「もし誰も気付いてくれなかったら……これ、扉壊せるかな」
「18時過ぎても誰も気付いてくれなかったら親から職員室に行ってもらうしかないね」
「なんかそれ余計に誤解されそう」

出来ればふたりの事情を理解し、余計な勘繰りもしないで救出してくれる人物に気付いてほしい。例えばバスケット部、あるいはの友人など。だがとにかく文化祭という、授業もなくて普段から親しい仲間とずっと一緒、という状況なので、特に携帯の確認は疎かになりがち。

やっと笑いが引っ込んだだったが、体を起こそうとしたところでまた止まった。

「へえ、牧の待受、海なんだ。きれいだね」
「えっ、ああ、そう。ハワイの、ノースショア」
「ハワイ好きなの?」
「えっ!? いや、ここはサーフィンで有名なところで」
「えー! 牧ってサーフィンやるんだ!」
「あ、ああ、時間ある時だけ、だけど」

はメガネもコンタクトもない上に薄暗いからか、身を乗り出して興味深そうに目を輝かせている。牧は途端に気恥ずかしくなってきて少し身を引く。普段、バスケット部の中でならキャプテンがサーフィンも好きということは当たり前のような感覚なのだが、前後の席で数ヶ月も経つはずのはそれすら初耳で、牧は不意にプライベートを曝け出してしまったような気がして居心地が悪い。

そして今さら「ものすごく狭い場所に閉じ込められてふたりきり」なのだという感覚をリアルに感じてきた。しかもは0.03、その上薄暗くて、やけに距離が近い。というかお互い物置の左右の壁にへばりついたとしてもまだ近い。

途端にもっと離れなければならないような気がした牧はもぞもぞと足を動かしたが、そもそもの身長のせいで体を縮めるにも限界がある。もしひとりで閉じ込められたのだとしても、狭い。

「あっ、そっかー。だからそんなに焼けてたんだね」
「はは……普段室内競技だしな……
「私も最初はチャラい人だと思ってたもんな……
「それもよく言われる」

は声を上げて笑っているが、その息遣いを腕に感じてしまう。さっきまでそんなこと感じもしなかったのに。牧の足は余計にムズムズして組んだり持ち上げてみたりを繰り返していた。

……今さらだけど、今日、ありがとね、色々」
……いいって」
「さっきも味方だって言ってくれて、嬉しかった。こんな最強の味方、いないもん」
……そんなこと」

牧の手元を覗き込んだままの姿勢だったは、言いながらもぞもぞ動く足に気付き、そこでがばりと体を起こした。

「うわ、そうだよね、狭いよね、ごめん!」
「えっ、大丈夫だって」
「そんなでっかい体して何言ってんの! もっとソファの上に足伸ばしていいよ!」
「そしたらが狭いだろ」
「足短いから大丈夫だって。牧がエコノミークラス症候群になったら大変」

が制服のズボンを掴んで引っ張るので、牧は慌てた。

「2時間くらいでエコノミークラス症候群になるか?」
「ほらほら遠慮しない! 困ったときはお互い様」
「そういう問題じゃ……

と、そこでまた牧の携帯が音を立てたので、もついにじり寄って覗き込んだ。が、牧の校外の友人で、今は何の助けにもならない人物からの連絡だった。ので、は残念と言いながら体を起こした。すると、ちょうど牧の両足の間におさまる形になっていた。

驚いた牧が思わず体を起こすと、余計に距離が縮まってしまう。

「わ、ご、ごめん……
「いや、平気、なにも、問題ないから」

だが、牧はその距離の近さにむしろ現実感を失い、口が滑った。

「でも、これなら、狭く、ないよな」