君しか見えない

2

そこは一応付き合っているわけでもないので、は牧の制服の袖に捕まってゆっくり歩いていた。視力0.03、強烈にぼやけた視界では大まかな壁や廊下の区別はついても細かいものは認識できないし、人の顔もはっきりしないし、手元の資料くらいしか自分で確かめられるものがない。

「こんな見回りみたいなこと、やってたんだな」
「問題がなければ声もかけないし展示中止になるようなトラブルもまずないからね」
「トラブル……あれか、オレらが1年の時の中庭の」
「あー、そうそう! ああいうことがないとも限らないから見回りをね」

海南大附属高校の文化祭は、基本全てが事前に許可されて初めて展示などが出来る。通常はそれで問題がないのだが、ふたりが1年生の時にそれを理解していなかった生徒が中庭で勝手にライヴを開き、しかもおひねりを稼ぎ、その返還を拒んだことで大きな問題になった。ふたりが入学する前には「ゲリラプロレス」で怪我人が出たり、事前に届け出のない食品が高額で販売されたりと、たまに問題行動が起こるので生徒会は交代で1日中見回りを行っている。

そういうわけで牧はの指示に従い、3年生の教室から順に回っていく。の手元にある展示内容と比較して激しく逸脱していたら注意をしなければならない。

「まあまだ1日目の朝だし、一般来場客もいないから静かだよな」
「ていうか私よく見えてないけど、牧っていつもこうなの?」
「えっ、どういう……
「いや、普通に歩いてるだけで人が避けていくんだなって」
「えっ、そ、そうか……?」

0.03の視界でもわかるほど、廊下で準備をしたり呼び込みをしている生徒たちが素早く道を開けてくれる。がメガネを壊されて牧に助けてもらっているなど誰も知らないわけだし、が普段ひとりで歩いていても誰も避けない。牧がモーセ状態なのだと考える方が自然だ。

「もしかして意識したことなかった?」
「なかった……なんでだ……?」
「なんでだ、ってそりゃバスケ部の部長は怖い」
「オレそんな威張り散らしたことないぞ」

表情を見なくてもわかる牧のしょんぼりした声にはつい笑った。もちろん牧に同級生からも恐れられるほど威張り散らす暇はない。ただこの海南大附属で「バスケ部の部長」という看板を背負うということは、校内でモーセも避けて通れないことを意味する。

「誰だって一度話せば牧が怖くないってことはわかるんだけどね~」
……もそう思ってた?」
「1年の時は知らなかったし……2年の時はほら、一学期始まってすぐに遠足あったし」

思えばその時も同じ班だった。牧は懐かしそうに「あー」と言いながら頷き、廊下の角を曲がるためにの背中をそっと抱き寄せた。案の定角の向こうからふざけて走り回っている男子が突っ込んできた。それでも突進先が牧だとわかるとなんとか踏ん張って逃げる。バスケ部の部長なんかにぶつかって怪我でもさせたら残りの高校生活が針の筵になってしまう。

「あの時も確か仕切りたがってた子がひとりいたけど、みんな何でも牧に聞くんだよね」
「でも班長は別の子だったろ。それはそれで困るんだよなあ」
「牧ってすっごい頼れる感じがするからね。今はめちゃくちゃ助かってます」

照れて何も言えない牧に気付かないは、手元の資料に目を通す。3年生は今のところ問題なし。自分では何も見えないが、展示内容を牧に言うと、差異がないかどうか見てくれる。彼は慣れないせいか、どの程度厳しく見ればいいのか戸惑っている様子だ。

あるいは朝っぱらから牧に掴まったままのがやって来るので、どちらとも面識のある生徒だと「あれ、いつの間に付き合い始めたの?」と勘違いされることもしばしば。だがメガネが壊れて……と説明をすると途端に声色は「バスケ部の部長にそんなことさせていいの?」という色を帯び始める。

とはいえ3年生、もこの文化祭で引退だし、牧は冬の大会を最後に引退になるという。ちょっと噂が立ったところで、それもあと2~3ヶ月のこと。ふたりは気にせず校舎を回っていく。

……手すりは掴まるためにあるんじゃないのかなあ」
「まあ普段使わないから意識しないんだろうけど、これ明日は問題だよな」
「これはちょっと今日中に職員室行きだな。許可も出てないはずだし」

2年生の校舎へ向かおうとしたところ、階段の手摺が各クラスや文化部の案内ポスターとそのデコレーションで埋まっていた。当然は掴まれない。

「伸ばした手が見えないんじゃ足元なんか当然……
「ざっくりとは見えるけど、この階段普段使わないから、壁、壁で何とか」
「無理すんな、ほら掴まって」

壁に手をついて一段ずつ登る気でいただったが、問答無用で牧に手を取られて飛び上がった。その上背中を抱きかかえるようにして後ろから支えてくれる。

「うううごめん……
「いいから足元に集中してろよ」

は「こんなおばあちゃんみたいなの恥ずかしい」と思っていたが、通り過ぎる生徒たちはまったく別のことを考えた。特にを知る3年生は彼女の具合が悪いのかと勘違いをした。

「それが、メガネ壊れて何も見えなくて……
「ちょっと隣のクラスと揉めてな……

まったく困りましたよ……という苦笑いのふたりだったが、通り過ぎていく3年生は「いやメガネて大袈裟じゃね……?」という囁き声を隠しもしなかった。

……きっと視力いいんだろうね。0.03でメガネもコンタクトもないということが、どういうことなのか知らないし、想像もしないし、なのに牧にこんな風に助けてもらうほどのことじゃないって、言いたいんだろうね。私もこういうこと、甘く見てたかも。見えない世界はものすごく怖い」

階段を登りながらぼそぼそと呟くの手を、牧はぎゅっと握りしめた。自分も甘く見ていた気がしたからだ。けれど視界がぼやけるということを実際に体験し、それを数字で認識し、改めての0.03を想像すると、彼女の「恐怖」は無視していいものとは思えなかった。

……だから今日は遠慮せずにオレの目を使いな」
「ありがとう。せっかくだから遠慮しない」

階段を登りきったはまた牧の袖に掴まり直すと、資料を入れ替え、2年生の展示を確認していく。

「それに、みんなが怖いって勘違いしてる牧といっぱい喋れるのもちょっと優越感ある。バスケ部の人たちを除けば、こんな風に牧と喋ったことある子は少ないと思うし、将来牧がすごいバスケ選手になったらめっちゃ自慢できる」

とどめには鼻で笑い、ニヤリと唇を歪めた。牧は大袈裟だなと笑いつつ、また頬と体の真ん中がポワッと暖かくなってきた。

学年が下ると同学年のような誤解や偏見に晒されることはなくなるが、その分「バスケ部の部長」の威光は弱くなる。海南大附属のバスケット部が強いことは知っていても、そのキャプテンの顔は把握していないという生徒も増えてくるからだ。特に文化部の下級生は反応が鈍い。

なので2年生のクラス展示で1件、文化部の展示で2件のによる口頭注意が出たが、文化部は素直に従う様子がなかった。は巡回リストにチェックマークをつける。今日中に改善が見られなければ職員室送りの上、最悪展示は中止になる。

「こういうの、恨まれないのか」
「だから基本3年生の役割。文化祭で引退だから」
「ルールが守れないならゲームに参加する資格はないんだけどな」
「あはは、そうだよねえ」

普段そのルールの中で戦っている牧が真顔で言うので、はつい笑った。

「でも今年は牧のおかげで穏便に済みそうだよ。後輩くんがいるクラス、話が早かった~」
「部員のいるクラスでトラブルがあったらどうしようかと思ったよ」

牧は疲れたような表情で肩を落としたが、突然部長が現れた後輩たちは異様な緊張声で、はまた笑った。後輩くんたちは直立不動、何も不正は働いてないというのにが巡回の説明をしただけで謝っていた。そして部長が遠ざかるまでお見送りをしていた。

「巡回、これで終わりか?」
「えーと、そうだね、よかった時間内に終わった」
「まだ何かやることあるのか」
「この書類を生徒会室に返して、職員室に報告して、昼にミーティング、午後から再巡回と」
「そんなに!? 明日は?」
「明日はもっと忙しいよ」
「見て回る時間は」
「ない」
「ない!?」

生徒会室までたどり着いたところで牧の声が裏返ったので、は遠慮なく声を上げて笑った。そりゃあしょうがないよ、生徒会の仕事だし、その代わりクラス展示なんかは手伝えないのだし。だが、一緒に生徒会室に入ってきた牧はため息をつくと、を椅子に座らせてから肩に手を置いた。

「それじゃ飯食う時間もないんじゃないか。何か買ってくるよ」
「え。そんなパシリみたいなこと……
「部外者だけど今日のはしょうがないからいいよな」
「いや待って聞いてよ」
「一応ポップコーンも様子見てくるわ。勝手に動くなよ、危ないから」
「ちょ、待て、牧! なんでそこまで! 話を聞けー!」

しかし牧は返事もせず振り返りもせずに生徒会室を出ると、20分もしないうちに戻ってきた。手にはポップコーンとフルーツソーダ、そして食堂が販売している焼きそばとフランクフルトが乗っていた。食堂の方は全生徒が引換券をもらっているので実質無料だが、ポップコーンとフルーツソーダは違う。は慌てた。

「と言っても、どっちも200円だからなあ」
「だから400円でしょ。はい」
「このくらいいいのに」
「助けてもらった上に奢ってもらってどうすんの。私が奢るならともかく」

なんだか牧は細かいことを気にしていないようで、躊躇するお構いなしに焼きそばを食べ始めた。彼の髪色が焼きそばに似ているので、はニヤニヤしながらポップコーンを口に入れた。1番手間がかかるキャラメルポップコーンだ。

……教室、大丈夫だった?」
「なんかみんな白々しいほど普通。あんな騒ぎを起こしたことも知らないふりしてる感じ」
「メガネ壊れ損じゃん……
「しかもあれだけ推してたカレーは人気ないらしい」
「嘘!?」

一番人気はがつまんでいるキャラメル、次が塩、カレーとチョコレートはほとんど売れていないそうだ。なので匂いも少なく、フルーツソーダを買いに隣のクラスを覗いたところ、担当の生徒ににっこり笑顔で歓迎されてしまったらしい。

「まあそうか、色んなお店のもの食べたいし、ひとつだけ選ぼうと思ったらキャラメルか~」
「しかも客がほとんど女子で、みんなキャラメルみたいだった」
「まあそうね……ひとりだけカレーとか、イジってくる人いそうだしね……

午後以降や翌日の一般公開では事情が変わるかもしれないが、まだ始まったばかり、焦って喧嘩することはなかったようだ。フルーツソーダも果肉とクラッシュゼリーがしっかり入っていて美味しい。というか牧がフルーツソーダを傾けていると酒に見える。

……さっきからなんだよ、ニヤニヤと」
「いやほら、一緒にご飯食べるとか、遠足以来だし」
「遠足の時はバーベキューだったし、人数多かったしな」
「あんまり覚えてない?」
……てこともないけど」

牧はちょっと肩をすくめて照れた。何が恥ずかしいのか分からなかったが首を傾げても、詳しく話す気はないらしい。それを深追いする意味もないのでは食べつつまた書類を広げた。しかしやっぱり見えないのでテーブルに顔がくっつくほど近付けた。

「今度は何」
「これは会計書類。あ、そうだ、だから帰りはそもそも無理だったよ」
「無理?」
「遅くなるかもしれないから」

本日の展示は例外なく15時までとなっており、そこから売上金を指定の報告書とともに16時までに生徒会室に届けなければならない……のだが、毎年16時までに揃った試しがない。なので処理が始まるのはそれから、おそらく下校は19時近くになるはずだ。

だが、牧はこともなげにまた肩をすくめた。

「いつも部活でもっと遅くなるけど。迎えの確保、出来てるのか?」
「それは……

運の悪いことに、家で唯一車の免許を持っている父親はこの週末を出張中。母親は仕事中でまだ連絡がつかず、おそらくタクシーを利用するしかないという結論になりそうだ。その上メガネをすぐに新調せねばならず、今日1日休ませただけで明日の朝にコンタクトが入るようになるかは分からない。の肩も下がる。

「文化祭が無事に終わるかどうかってことばかり気になってたけど、まさか自分がとはね……
……後味は悪いかもしれないけど、今日は諦めた方がよくないか」
「それを相談したくても、みんな出払ってるしなあ」

そもそも生徒会は人手不足で、部活動が盛んな海南大附属においては委員会より人気のない課外活動。なのでそれぞれがいくつも仕事を抱えて校内に散らばっており、グループに連絡を入れたところで既読がすぐにつくとは限らない。

それでも一応、不可抗力のトラブルで行動が制限されているということは連絡したのだが、みんなそんなことに構っている余裕がないようだ。はまた書類を覗き込む。

「てかまだこれ時間かかるし、付き合わなくていいのに」
「といっても、何か見たいものがあるわけでもないし」
「バスケ部はそっか、何もやってないんだよね」
「準備にかける時間はないからな」

時期的に3年生が全員引退済みの運動部は模擬店やちびっこ教室なんかを開催することもあるが、バスケット部は牧を含め数人の3年生は未だ引退しておらず、この文化祭が終われば最後の全国大会の予選は目の前、文化祭に時間を取られるわけにはいかない。なので当日だけは暇、という部員が多く、通常であればクラス展示にかかりきりということが多い。

「クラスの担当は明日だし、もう食べるもん食べたし」
「最後の文化祭なのに、申し訳ない」
「あ、すまん、気が散るよな。外に出る時は呼んでくれれば」
「えっ!? まさかそんなことは! こんなことにいても面白くないだろうと思ったから」
「そんなことも、ないけど」

また牧はちょっと照れたように肩をすくめた。その意味がわからないは「じゃあせっかくだから、これ」と会計書類を差し出し、同じように肩をすくめてみせた。

「牧は臨時役員ね。報酬は文化祭終わってから相談」
「そんなこと気にしなくていいのに」

そして制服のブレザーの内ポケットからメガネを引っ張り出してかけた。はその動作に気付いて目を細め、首を伸ばした。

「そのメガネ借りても……無理だよねえ……
「と、思うよ。てか近くを見るときはいらないな、これ」
「でもやっぱりインテリ風の牧も悪くないねえ、うんうん」

書類で口元を隠してニヤニヤと笑う、牧はまた照れつつメガネを外した。