君しか見えない

1

「あれっ? 牧ってメガネかけてたっけ」
「最近な。前からちょっと見えづらかったんだけど」

2学期が始まってすぐ、配布プリントを回すために振り返ったは、後ろの席の牧がメガネをかけているのを見て目を丸くした。前後の席になって長いが、初めて見た。というか彼は校内でトップの実績を持つ運動部の部長なので、少しばかりギャップも感じる。

「バスケ大丈夫なの」
「部活中はしてないよ。黒板がちょっと見にくいだけだし」

言いながら牧はメガネを外し、テンプルを畳んだ。メガネのあるなしで目の印象がそれほど変わらないので、本人の言うようにレンズの度は強くないようだ。

「コンタクトの方がいいんじゃないの? そしたら部活中もつけてられるじゃん」
「うーん、そうなんだよな、よく言われるんだけど」
「イヒヒ、牧がカラコンつけてたら面白いだろうなあ」
「どういう意味だよ……

チャイムが鳴ったのでついそのまま喋っていたふたりだったが、のニヤリ顔に牧はちょっと不服そうに口を尖らせた。ふたりは2年の時も同じクラスだったので、仲良しというほどではないものの、親しく話せる間柄ではある。校外学習などで同じ班になったことも1度や2度ではない。

「私もコンタクトだけど、楽だよ」
「えっ、入ってんのかそれ」
「透明だからわかんないでしょ。黒コン好きじゃないんだよね~」

クラスの中では親しく出来る関係でも、知らないことは多い。牧は目を丸くして首を突き出した。が人差し指で下瞼を引き下げると、確かに薄っすらと青いレンズが張り付いているのが見えた。

「目、悪かったのか」
「ド近眼」
「えっ、どのくらい……?」
「両目とも0.03」
「れいてんれ……え?」

ノートを取りつつ急に顔を上げると黒板がぼやけて見えることがある……と牧が気付いたのは、2年生の終わりごろだった。それが視力が落ちてきているのだと気付くのにも時間がかかったのだが、しかし授業中の黒板以外では違和感を感じなかったので、ひとまずメガネを作ることになった。その際の視力検査では右が0.9、左が0.5だった。

なので0.03という未知の世界にまた目を丸くした。それってほとんど見えてないんじゃないのか。

「見えてないというか、ボヤボヤかな。伸ばした自分の手がぼやける」
「それは……大変だよな」
「だからメガネだとものすごくレンズが分厚くなっちゃう」
「なるほど……じゃあコンタクトの方がいいよな」

牧は腕組みで頷きつつ、検眼の際の眼科医の言葉を思い出していた。仮性近視の可能性も捨てきれないから、見え方には気をつけてくださいね。携帯や本など長時間近くで見ないようにね。だがほど近眼になってしまうと、視力矯正グッズはもはや命綱なんだろう。

「ええとその、コンタクトって、外れないんだよな……?」
「ソフトなら平気なんじゃないかなあ。牧みたいに激しい運動したことないけど……
「ケアが面倒だぞって脅かされたんだよな、親に」
「まあその、確かにメガネは買ったら終わりだけど、コンタクトは色々必要」
「まだ軽い近視だし、そこをケチられた可能性は高い」

けたけたと楽しそうに笑うの向こうでチャイムが鳴ったので、牧は再度メガネをかけ、はそれを見てまたニヤリと笑った。

「不思議。メガネかけただけですごく雰囲気変わるね」
「そ、そうか……?」
「そういうインテリっぽいのも似合うよ。かっこいい」

急に褒められたので牧は咄嗟に返事も出来ず、しかも次の授業の先生がやって来たのでは慌てて前に向き直った。しかしそんないきなり褒められると無駄に気恥ずかしい。牧はその大きな体をさらに丸め、そそくさと教科書を開いた。

中間テストが終わると秋、そして海南大学附属は文化祭のシーズン。部活動が盛んでクラブ参加率は実に8割を超えるが、基本的な学校行事を蔑ろにしてまで部活を優先はしない方針。全国大会でもあれば別だが、そうでなければクラス展示への参加が望ましい。一部の文化部を除いて。

なので運動部の牧は比較的暇であり、逆に生徒会所属で文化祭担当のはものすごく忙しい。しかも今年の生徒会は人手不足で、は副会長と文化祭の会計とクラブ展示管理まで兼任していた。席は前と後ろだが、挨拶すらもろくにしないほど準備期間のは多忙を極めていた。

そんな状況を経ての文化祭1日目、この日は校内のみの開催で、翌2日目の一般公開に先立つリハーサル兼前夜祭といった予定になっていた。なので生徒たちはまだクラス展示を完成出来ていなかったり、普段交流の少ない学年の展示を覗いてみたりとのんびり楽しむ。

その中で唯一朝から忙しそうに校内を走り回っているのが生徒会所属の生徒で、も始発で登校してきて以来、ずっと駆けずり回っていた。廊下で済ます朝のHRの時点でもう疲れている。だが、今日のは普段通りではなかった。

「あれっ、メガネ珍しいな」
「今朝コンタクト入らなくてさ~。寝不足だし、目が疲れてるのかも」
「確かに目が赤くなってるな」
「マジで~。目薬持ってきてなかった~」

珍しくメガネで現れたを牧は屈んで覗き込む。マジでレンズ分厚いな。

「勉三さんだなって思ってるでしょ」
「べんぞ……そんなこと思ってないよ。でも目が小さくなるんだな」
「だからメガネやなんだよね」

形ばかりのHRが終わると早速展示の準備に入るわけだが、そんなことを話していたと牧は後ろから声をかけられて引き止められた。振り返ると隣のクラスの男子生徒が困った顔をしている。

と牧のクラスは一般客用の入り口から近いこともあって、ポップコーンカフェをやることになっていた。室内の装飾はアメリカンレトロ、床には白と黒のタイルを模したシートを貼り付け、赤いカウンターで教室を区切り、壁にはルート66やコカ・コーラのポスターを飾る。とどめに50年代から60年代のヒット曲を流せば出来上がり。

なので事前の準備もそれほど手がかからず、当日も混雑具合によりけり数人がカウンターの中にいれば充分、という余裕の展示だった。ひとつ問題があるとすれば、4種用意したポップコーンのフレーバーの香りがかなりキツくなっていたことだ。クラスで人気投票を行った結果、フレーバーはキャラメル、チョコレート、塩、そしてカレーになった。これは臭う。

しかも隣のクラスがフルーツソーダカフェだったので、繊細な果物の香りがキャラメルとカレーの匂いで駆逐されそうになっている。さらにポップコーンカフェはカフェを名乗る以上はコーヒーを出すべきだという結論に至ってしまい、コーヒー臭までもが上乗せされた。

これは正直展示内容の結論が出た時点で担任同士が協議を行っておくべきだったのでは……と後で責任転嫁されるわけだが、結果として2クラスは隣で何が行われるのか知らぬまま準備に入ってしまい、前日になって突然の匂い問題が勃発。そして当日の朝になってフルーツソーダカフェはブチギレた。何飲んでもカレー臭で全部台無しだよ!!!

「すまん、こんなに臭うとは思ってなくて」
「キャラメルとコーヒーだけならまだわかる。でもカレーはキツすぎるだろ」
「そうなんだけど、実際に試食してみたらカレーが1番美味いってなって……
「いやわかるよ、カレーめっちゃ美味そうだけど、匂いなんとかなんないのかよ」

こういう時、話を穏便に済ませたいと思ったら実績のある運動部のトッププレイヤーを担ぎ出すのが1番揉めにくい。なので牧は隣のクラスの野球部の副部長を前に言い訳を述べていた。確かに臭い。臭いがカレーポップコーンはめっちゃ美味い。前日の試食の際、クラス全員で豆1キロ分を食ってしまったくらいなので、これは売れるぞと盛り上がっていた。

野球部の副部長の方も背中に突き刺さる「もっと強く抗議してせめてカレーを中止させろ」という無言の圧力にげんなりしていた。だがポップコーンカフェの激臭に紛れてフルーツソーダが売れずに仕入れた食材が余っても困るし、せっかく何日もかけて装飾したのに閑古鳥が鳴くのは嫌だ。

そして牧もそういう事情は重々承知しているので、腕組みでため息をついていた。だが牧のクラスはいわば「加害者」であり、隣のクラスは「被害者」なので、アクアブルーのフルーツソーダTシャツを作ってしまったお隣さんは頭に血が上るのが早かった。

キャラメルとコーヒーだけでも臭いんだから、カレーは中止しろよ! とひとりの男子生徒が怒鳴ったのをきっかけに、2クラスは牧と野球部の副部長を挟んで一触即発の空気に。運動部で活躍している生徒ふたりの間でなんとか収まれば……と静観していたも慌てて間に入った。

「いや待ては生徒会なんだろ、自分のクラスだけ贔屓してんなよ!」
「贔屓なんかしてないって! 基本的に余程のことがなければ展示は各クラスの自由で」
「だけどカレーってことは知ってて無視してたんだろ!」
「こんなに臭うとは思ってなかったんだってば!」
「ほら、ひどい臭いだってことは自覚あるんじゃないか!」

と牧も背後から注がれる「毅然とした態度でクレームには屈するな、こんなに美味いものを中止とか許さない」という視線が痛かった。とはいうものの、昨日の試食で作っただけのカレーポップコーンの臭いがまだ廊下に漂っているくらいなので、隣のクラスの憤りもわかる。

その上今日も明日もカラリと晴れた良い天気、という予報で、ほとんどのクラスが窓を開け放ち、秋の爽やかな風を通している。おそらく文化祭両日カレーポップコーンを強行すれば一週間くらい校舎中がカレー臭に包まれるかもしれない。

その恐れに思い至っていたは苦笑いで振り返り、不満げな顔で見ているクラスメイトに「カレー、ちょっと匂い、強すぎるかも」と言ってみたのだが、こちらはこちらで「せっかく激ウマポップコーンで盛り上がってるのに水を差されるのは嫌だ」という意味で既に燻っており、その一言で火が吹き上がってしまった。

「てか、カレーポップコーンがあったらソーダが売れないって決まってないだろ!」
「そうだよ、ポップコーンと一緒にソーダ買う人もいるかもしれないじゃん」
「カレーポップコーンでソーダの味消えるだろ!」
「そんなの人によって違うだろ! 営業妨害だ!」
「それはお前らの方だ!!!」

いよいよ双方詰め寄って言い合いを始めてしまい、その間に挟まれていたや牧はもみくちゃにされていた。しかも言い合いを始めたのは基本的に男子。なので余計にはその中に埋もれてしまい、牧はをその中から出した方がいいのではと思い始めていた。

、ちょっとここから出た方が」
「わた、私もそう思う、けど、出られない」
「オレがなんとか出るから、張り付いて捕まっててくれ」
「ごめん、頼む」

春の時点で牧は身長が184センチになっており、その上日々の練習で鍛えた体は高校生とは思えない大きさに育っており、この乱闘寸前の中でも頭がひとつ飛び出ていた。なのでは彼の背中にしがみつき、牧が隙間を縫って出ていこうとするのに合わせて少しずつ移動しようとしていた。

だが、何しろ牧はこの海南大附属高校における「トップ」な人物であった。ただでさえ実績のある全国的にも有名な名門強豪バスケット部の、しかも歴代でもトップクラスの選手。それはクラスにとって「超強力な威を借りられる虎」なのであり、逃げられるのは困る。

なので逃亡に気付いたクラスの男子は勢い任せに牧を止めようとし、さながら玉突き事故のようになった。牧よりは小柄だとしてもよりは大きな体の男子が3人、次々に牧に体当たりをした。というわけでニュートンのゆりかご、そのエネルギーは牧を通り過ぎてにぶつかり、彼女は吹き飛んだ。

「ちょっ、待てやめろ、大丈夫か!」

牧の声がただごとではなかったので、ふたクラスの言い争いは一瞬で静まった。だが牧の背後ではふっ飛ばされたが床にへたり込んでおり、慌てて傍らにしゃがみ込んだ牧は「うわっ」と声を上げた。の爪先のあたりに彼女のメガネが落ちていて、テンプルが真っ二つに折れていた。

「ま、牧、ごめん、メガネがどこかに……
「それが……メガネ……
「あーーー!!!」

が悲鳴を上げた途端、一触即発の空気だった男子たちはサーッと波が引くように離れ、そのままそろりそろりとその場をあとにして教室に入ってしまった。問題は何も解決していないが、メガネという高校生にとっては「親に買ってもらうもの」レベルの損害には関わりたくない。幸いメガネは両陣営の間に落ちていて、誰が踏んだのかは確かめようがない。

「ど、どうしよう……
「予備とか、ないのか。コンタクトとかって持ち歩いてる人も多いだろ」
「だってコンタクト入らなかったからメガネにしたんだよ……メガネが予備なのに~」

そしては日常に使い捨てでないコンタクトを使用しており、自宅に戻るとメガネに変える、という生活を送っていた。なのでコンタクトの予備はなく、メガネは基本家から出さないものなのでこちらのスペアもなし。0.03の目が潤む。今日はやらなきゃいけないこといっぱいあるのに……

傍らで片膝をついていた牧は無惨に壊されてしまったメガネを拾い上げてみる。テンプルは真っ二つ、鼻あても片方が取れていて、折れていない方のテンプルは蝶番のあたりで少し曲がっていた。この状態では応急処置も出来ない。というかはこのままだと0.03の視界で下校しなければならない。それはちょっと危ないんじゃないか……

伸ばした自分の手がぼやけるレベルのの状況はかなり深刻。牧はしかし、自分たちの周りに誰もいなくなってしまったことに呆れつつ、腹を決めた。

、今日はオレがの目になるよ」
「え?」

牧の表情がぼやけて分からないのだろうか、目を細めたが首を突き出した。

「だから、何も見えないだろ。危ないから、今日はオレがつきっきりで助けるよ」
「えっ、でも、そんなの悪いよ……
「しっかり踏ん張って盾になれなかったオレのせいってこともあるし」
「そんな!」

ちょっと言い過ぎたかなと牧は苦笑いだったが、それもには見えていない。だがここで牧が見捨てればはたったひとり、歩くのも怖い視界で役目をこなすか、人手不足の生徒会でひとりだけ何も出来ないという屈辱を味わわねばならない。それは可哀想なので。

「どうせクラス展示は忙しくないし、一緒に歩いてるだけだけど」
……遊ぶ予定とか、なかったの?」
「何も。今日も明日も、運動部は暇なの多いから」

やっとは表情が緩む。牧が貸してくれた手に捕まって立ち上がり、その手を掴んだままペコリと頭を下げた。にとっては天の助け、今日を無事に乗り切るためには甘んじて受け入れたい申し出だった。

「ありがとう、正直めちゃくちゃ助かる」
「気にするなよ。なんなら帰りも送っていくから」
「ううう……それもどうしようかと思ってたんだ……

はホッとしてまたペコペコと頭を下げつつ、繋いだ手を振り回した。

「本当にありがとう! よろしくお願いします!」

その笑顔に牧は、頬と体の真ん中がポッと暖かくなったような気がした。