たまゆらの雫

4

そもそもがだいぶ制限のある中での付き合いだった。

自分たちで選んだこととは言え、こそこそと付き合っているのは窮屈だった。誰にも邪魔されることなく手を繋いで歩き、たまには誰もいない場所でゆっくりふたりきりになって、お互いの気持ちが求めるままに関係を進めていきたかった。

そういう長い時間をかけて着実に蓄積されていたフラストレーションは、修学旅行先のホテルで蓋を開けられてしまい、一気に外に飛び出した。様々なリスクは承知の上だったけれど、額のあたりがボーッとして、霞がかかってしまったみたいに思考がぼやけている。

誰かに見つかるかもとか、そんなことはもうどうでもよかった。考えられなかった。

するするとの足に手を滑らせていた牧は、キスを繰り返しつつシャツのボタンに指をかけて、外そうとした。しかしモタついてしまい、うまく外せない。

「いいよ、私が外す」
「ごめん」
……緊張、してる?」
「そりゃ、するよ」

もうどうでもよくなっているとはいえ、一応ここが修学旅行先のホテルだということは忘れていない。むしろそのリスキーな環境が余計に感情を昂ぶらせて気持ちを盛り上げているのかもしれない。緊張はもちろん、興奮ももちろん、とにかくあまり冷静でない。

ボタンが全て外れたシャツの隙間に指を差し入れ、そっと開く。

「や、やっぱりちょっと恥ずかしい、ね」
「もう少し後にするか?」
……ううん、平気、続けて」

そっとシャツを閉じようとした牧の手を取り、は自ら胸元に差し入れた。パラリとはだけたシャツの中を牧の指が這い回る。少々遠慮がちであるのも手伝って、こそばゆい。ついくすりと笑ってしまっただったが、牧もそれを見て少し緩んだ。

「すごい、すべすべ」
「お、お風呂入ったばっかりだからかな」
……舐めて、いい?」

なんとか気持ちを緩めて笑顔を作っていたは体を固くして唇を真一文字に結ぶと、ややあってから小さく頷いた。顔と耳が真っ赤だ。体も少しずつピンク色に染まっているような気がする。牧は逸る気持ちを抑えてゆっくりと唇を寄せ、滑るようにキスをしつつ、すべすべした肌を少し舐め取ってみる。

またギクリと跳ねるの体、キュッと縮こまる肌、潤む瞳。

ブレスレットのついた手がふらふらと伸びてきたので、牧は指を絡めてギュッと繋ぎ、滑らかな肌にゆっくりとキスを繰り返していく。無音の部屋の中は固いシーツの衣擦れの乾いた音だけで、他には何も聞こえない。

「大丈夫か」
「平気。ドキドキしてわけわかんなくなってるだけ」

髪を撫でてやりながら問いかける牧に、は苦笑いだ。

「恥ずかしいとか怖いとかそういうのもあるけど……やめてほしくない」
……も、したかった?」
「具体的な想像はあんまりできなかったけど、でも、そういう関係になりたいとは思ってたよ」

性差個人差もあろう、しかしも牧にとっての特別な存在になりたかった。

「だから、やめないで。このまま、しよ」

牧の頬に手を添えながらは掠れた声で言った。牧はそのまま頭を落としてキスをしながら、手を伸ばしてするりと両足の間に手を差し入れた。またの体は跳ねたけれど、もう手は止めない。

秘密の関係で修学旅行で雨のせいだったけれど、これでいい。

窓の外に暗雲が差し、やがてまた静かに雨が降り出した。

それからどれだけ経っただろうか。と牧は布団の上で幸福感に包まれながら睦み合っていた。お互いほぼ裸でたくさんキスを繰り返しながら、たまには言葉を交わしながら、そうしているうちにひどい緊張も落ち着いてきて笑い合えるようにもなっていた。

どちらも自然とたっぷり時間をかけて気持ちをひとつにしていこうと、そう思っていたのだ。牧の方は少々逸っていたけれど、に無理を強いるのは嫌だったし、焦って失敗するのも嫌だった。

しかし、そろそろいいだろうか、と牧が思い始めたときのことだ。

静か過ぎるふたりの時間に、突然ワッと同級生たちの声が聞こえてきた。

ふたりは飛び起き、は慌てて牧の布団に体を突っ込み、牧は牧で投げ出してあったバスタオルを腰に巻き付けた。今の騒がしい声は一体何だ!? まだ門限まではかなり時間があるぞ!?

ゆったりドキドキと愛し合っていたふたりは一転、真っ青な顔で全身に冷や汗をかき始めた。

「い、今のなに」
「シッ」

膝立ちで唇に人差し指を立てた牧はしかし、廊下の騒ぎ声に耳を澄ませていたが、突然立ち上がると窓辺に駆け寄った。自分たちが既に一度やられているので気にならなかった。外はかなりしっかりとした雨が降っている。窓に当たる雨粒からすると、勢いが強いようだ。おそらく風もあるだろう。

「この雨でみんな帰ってきたんだ……
「ど、どうしよう!」
「落ち着け、大丈夫だからとにかく服を着よう」

牧にそう言われたは、カクカクと頷くと急いでバスルームに飛び込んだ。私物をかき集め、下着をつけてジャージを着て髪もまとめる。手が少し震えていた。焦る慌てるというより、怖かった。バレずにちゃんと西館まで戻れるだろうか。

バスルームを出ると、牧もしっかりジャージ姿になっていて、ドアを少しだけ開いて外を見ていた。

「エレベーターの都合があるから、一気になだれ込んでこないみたいだな」
「だけど、てことはロビーのエレベーターホールにはみんないるってことでしょ」
「それは仕方ない。階段で行こう」
「大丈夫かな」

ロビーでしか東館と西館が繋がっていない以上は他に方法がない。牧はドアを閉めて振り返ると、今度は怖くてプルプルと震えているの手を取ってギュッと握り締める。

「マスクあるか?」
「えっと、多分あると思う」
「マスクして、頭にタオルをかけて顔をわかりづらくしよう」

牧の指示に従ってはマスクとタオルを準備する。幸いみんな雨にやられて引き上げてきたようだし、ボトムがジャージなのはよく見れば違和感を感じるだろうが、誰も彼も慌てているだろうから、見慣れたジャージなら気付かないかもしれない。

「タイミングを見計らって外に出て、えーと、階段はここだ。左のつきあたり」

牧はドアの内側に貼り付けてある避難経路図に指を滑らせた。この部屋を出て左に廊下を真っ直ぐ行くと、階段がある。位置的にロビー階ではエレベーターホールとは離れた場所に出られるようだし、ロビーに出られればなんとかなる。エレベーター到着から人がいなくなるまでの間にこの部屋を出なければ。

話がまとまると牧はをギュッと抱き締めた。

……最後までしたかった」

もうそれどころではないとはいえ、心からの本音だった。もギュッと抱き返す。

「帰ったら、続き、しようね」
「どこで?」
「それも、探そうね」

ふたりの関係についてはささやかなレザーブレスレットを除いては結局何も変化がないままだ。しかしチャンスは巡ってきた。途中で邪魔が入ったけれど、永遠に影に隠れてコソコソとキスするだけの関係でなくてもいい、それは証明された気がする。

それに、ほんの少しの時間だったけれど、幸せな時間だったことには変わりない。

元々リスクの多い場所だったのだし、雨が降ったのもの部屋のバスルームの水が出なかったのも、どれがひとつ違ってもこのような結果にはならなかった。修学旅行という限られた時間の束の間の逢瀬はきっと忘れられない記憶になるだろう。それもふたりの財産だ。あとで笑い話になるならそれもいい。

牧はを背中に隠しつつ外を窺い、エレベーターから降りてきた一団がそれぞれの部屋に消えたのを確認すると素早くを押し出した。自分もタオルを首に引っ掛けてエレベーターホールの方へ向かう。繋いでいた手が離れ、ふたりは振り返ることもなく足早に立ち去った。

手が離れる瞬間、ブレスレットの太陽と月と王冠がチリン、と触れ合って音を立てていた。

結論から言うと、は無事に自分の部屋へと戻ることが出来た。

ロビーで同室のクラスメイトと行き会ってしまった時は心臓が止まるかと思ったが、運良く頭がスルスルと素早く回転し、雨にやられたのでシャワーを使おうかと思ったらお湯が出ないので知らせに来たと淀みなく言えたのだった。おかげで下半身だけジャージなのも疑われることなく、同室の子と一緒に部屋に戻れた。

そういう言い訳をした手前、再度風呂に入ることになってしまったけれど、無事に戻れただけで気が抜けてしまったは疲れてぐっすり寝てしまい、夕食の時間まで意識がなかった。

牧の方も怪しまれることなく済んだという話だったし、いいところで水をさされてしまったとはいえ、と牧の少し奇妙な修学旅行はお揃いのブレスレットというしるしだけを残して終わることになった。

新幹線で神奈川まで戻り、駅で解散。翌日曜日はいずれの部活も2年生は休みという建前になっていて、1日旅の疲れを癒やしてからまたいつもの学校が始まる――という月曜日、この年の修学旅行帰りの2年生に欠席がふたり発生した。と牧である。

牧は部活のために特に体調管理が抜かりないタイプである。職員室で牧のクラスの副担任が首を傾げていた。

はともかく牧が体調不良というのは珍しいですね」
「牧先せ……お母さんもなんだか苦笑いみたいな声でしたね。風邪みたいなんですけど、って不思議そうに」
「そういやは自由行動の日に単独行動してひとり雨にやられてましたね」
「えっ? もですか?」

隣のクラスの担任と話していた副担任はつい高い声を上げた。なんかそれって……

「えっ? もって、牧もですか?」
……って茶道部の部長でしたよね」
「ああ、そうでしたかね。……って茶道? あらら」

牧の母親が茶道部の指導をしていたことは去年今年の新任でもなければ、誰でも知っている。隣のクラスの担任は目を丸くしたのち、口の端を少し曲げてニヤリと笑った。もしかしてそういうこと?

一方、苦笑いの声で学校に電話をかけてきた牧の母親は、通話を終えると息子の部屋に顔を出した。普段から割としっかり体調には気を使っているというのに、修学旅行から帰ってきた日の夜に熱を出して、まだ下がりきっていない。京都は寒かったのかと聞いても、言葉を濁していて、どうにも要領を得ない。

「学校に連絡入れておいたからね……って何やってんの寝てなよ」
「スポドリなくなったから買ってこようかと」
「ドラッグストア行く用があるから一緒に買ってくるよ。他に欲しいものある?」
「ごめん、大丈夫。スポドリだけで平気」

熱でボンヤリした顔をしている牧は着替えて買い物に行こうとしていたのだが、呆れた母親にベッドに沈まされた。ベッドサイドのペットボトルは空になって転がっていた。

「まったく……普段部活ばっかりで遊び慣れてないからはしゃいじゃったんじゃないの」

ある意味では正解なので牧は返事をしない。確かにはしゃぎまくった。違う意味だけど。

「じゃあ大人しく寝てなさいよ。何かあったらおばあちゃんいるから」
「わかった」

目が半分閉じている息子のおでこをパチンと叩くと、牧の母親はそのまま家を出てドラッグストアに向かった。車で乗り付け、カートにカゴを乗せて店内を回る。牧に頼まれたスポーツドリンクも少し多めに取り、他に何か必要なものがなかったかと考えながら歩いていた。

すると真横から聞き覚えのある声が聞こえてきて、足を止めた。

「先生~! こんなところで、お久しぶりです!」
「やださん、ご無沙汰してます! えっ、お宅この辺でしたっけ?」
「ううん、違うの。家は国道の向こうなんだけどね、娘が熱出しちゃって」

このドラッグストアから少し行くと国道に行き当たる。はそれを超えた先の地域に住んでいる。牧の自宅とは車で40分位の距離だろうか。ドラッグストアは牧家寄りの立地である。

「食欲ないけど五穀屋の雑炊だったら食べるとか言うもんだから~」
「あらあ、ちゃんも? 実はうちの紳一も修学旅行帰ってきてから熱出しちゃって」

五穀屋はこのドラッグストアの近くにある惣菜店である。雑穀を使った雑炊が人気で、母娘はこれが好物なので、よく利用している。まあそれはともかく、の母親はそれを聞いて目を丸くした。

「えっ、紳一くんも? 紳一くん風邪引かなそうな感じがするのに」
「実際風邪なんかもう何年もひいてないのよ。今京都ってそんなに寒かった?」
「あ、それがね、自由行動の日に雨降ったらしいのよ。それでみんな濡れちゃったって」
「やだ、そうなの? あの子そんなこと何も言わないから。それじゃ雨で冷えたのね」

よく見るとふたりともカゴの中は風邪っぴきグッズだらけだ。

「今の子は弱いわね~! 雨くらいどこでも降るじゃないねえ」
「ほんとよ~! 濡れたままぼーっとしてたんじゃないの、って言ったんだけど返事しなくて」
「一応制服なんかは乾いてたけど、温めもせずに遊んでたんじゃないのかしら」
「体も大きくてカッコつけててもまだまだ子供なのよねえ」

その娘と息子が雨にやられて何をしていたかなど知る由もない母親ふたりはケタケタと笑いあった。風邪を引いて学校に連絡をし、食事などの世話をしている子供がまさかということも今ここでは思いつきもしなかった。だが、風邪で弱っていたせいか、と牧はあまりに迂闊だったし、母親ふたりが偶然出会ったことは、大変に運が悪かった。

「そうなのよ、今だって熱で朦朧としてるっていうのに、アクセサリーだけはちゃんと付けるのよ!」

の母の言葉に、牧の母親も目を丸くした。うちの子と同じじゃないの。

ちゃんてあんまりギャルギャルしいタイプじゃなかったわよね?」
「まあ、一応今でも茶道部やってるくらいだし、派手好みではないかなあ」
「そういうのって、なにかあるのかしら、兆候と言うか。紳一も急にアクセサリーつけるようになって」
「えーっ。紳一くんこそそういうの縁遠かったでしょう」
「そうなんだけど……。あっ、でも、派手なものじゃないのよ、革のブレスレットでね、なんか後生大事に」
「えっ!?」

ドラッグストアにの母親の甲高い声が響く。

「革のブレスレットって、なんか銀の飾りがコロコロとくっついた……
「そうそう、って、えっ!?」
「もしかして修学旅行前には付けてなかった、とか」
「あ、あら……? まさかとは思うけど、ええと」

母親ふたりは思わず距離を縮め、つい手を重ね合った。

「普通の赤っぽい革のブレスレットで」
「金具で止めるタイプのやつで」
「銀の飾りがいくつかくっついてて」
「そんなの見たことなかったけど、修学旅行帰ってきたら急につけてて」
「家の中でも常に付けてて」

言い合うこと全て自分の子供に当てはまるので、ふたりは次第にニヤーっと顔を歪め始めた。

「嘘、やだ、ほんとに?」
「やだ、どうしよう、それって!」
「それってそれって、それってことよね!?」
「やだー! 嘘ー! ねえちょっとお茶飲まない話したいことあるんだけど!」
「行こ行こ、もう子供じゃないんだもの風邪引いてたって1時間くらいいいわよ、ねえ!?」

さっきまでどの口が「まだまだ子供」だなどと言っていたのか、というところだが、ウキウキの母ふたりは急いで会計を済ませると店を出た。近くのファストフードでいいよねー! と大声で言い合うと、どちらもさっさとタウンカーで車道に滑り出た。

一方その頃、体調不良で判断力が鈍っているあまり堂々とブレスレットを付けていて、それが意味するところを母親同士に気付かれたことなど想像だにしないと牧は、そのブレスレットを撫でつつ、文字のやり取りで寂しさを紛らわせていた。通話しないのはの声がほとんど出ないからである。

「放課後の部室物足りないと思ってたけど会えないよりマシだったね」
「予選が……
「風邪引いたの何年ぶり?」
「中3の冬以来」
「今度は暖かいところにしようね」

ふたりは熱でぼんやりした頭で考える。暖かいところ、誰もいないところ、そしてお教室も跡継ぎも関係なく手を取り合っていられるようにするには。この熱に浮かされた頭では考えられそうもないけれど、ふたりで考えれば、あるいはいつか全て丸く収まる答えが見つかるのではないかと信じている。

お互いの手首に揃いのレザーブレスレット、月と太陽がある限り明日は来るのだし、諦めることはない。

――例え、ファストフードで母親ふたりがキャンキャン盛り上がって学校でもバレていようとも。

END