たまゆらの雫

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私立校の場合、やれハワイだ香港だカナダだオーストラリアだと海外への修学旅行が一般化する中、本年度海南大附属高校2年生はなぜか関東に伝わる伝統と実績の京都4日間になってしまった。

当然生徒からは大ブーイング。確かに入学志望者向けパンフレット等には修学旅行は安全性と本来の目的である「修学」を重んじる国内と書かれていたけれど、入学当初より修学旅行は北海道か沖縄かと噂されていたし、何より彼らの1つ上2つ上の先輩たちは沖縄だったのである。

2年生になり、修学旅行についての案内があると聞かされた生徒たちは、もしや沖縄が続いたから今年は北海道か? と思っていた。しかし蓋を開けてみれば京都。公立出身の生徒なら確か一昨年にも行ったことのある京都。北海道や沖縄に比べて「遊びより勉強」色がとても強く感じる京都。

だったら大阪まで足を伸ばしてUSJに行けばいいじゃないか。関東に修学旅行しに来る地域の学生はみんなディズニーランド行くじゃん! 1日USJでいいじゃん! U・S・J! U・S・J!

却下。

これには一応事情があって、この年の学年は例年に比べて人数が多かったのである。その関係上空路での移動がまず不可能であるという判断が早々に出ていた。さらに去年一昨年と利用した沖縄のホテルも定員オーバー。修学旅行の手配を一手に引き受けている地元の旅行代理店から渋い顔をされてしまった。

しかしだからと言って急に海外にするわけにもいかないし、代理店さんは色々検討した挙句、伝統の京都修学旅行を推してきた。陸路ならなんとかなるし、京都にタイミングよくリニューアルのために閉館予定のホテルがあったのである。観光旅行じゃないんだから宿は二の次、と学校側は即決。

それに伝統と実績の京都ならコースを組み立てやすい。代理店さんは、まあ正直なところ、大人なら大変魅力的な京都観光プランを作ってくれた。しかしホテルがそこしか押さえられなかった都合上、定番の奈良すら行かずにただひたすら京都であり、そのため移動日含めて4日間という大変短い旅になってしまった。

その中で普段よりだいぶ多い人数を移動させてUSJに連れて行く余力はなかった。

「まあオレは短めに済めばそれに越したことはないけど……
「予選、近いしね」
「てかそんなに楽しみなのか、修学旅行って」
「目の前に迫ってくると急に盛り上がりだすよね、みんな」

海南で一番忙しくて強くて実績のあるバスケット部員である牧紳一は、海南で一番暇で人数の少ない茶道部の部室で大あくびをしている。これでも茶道部は昔大変な人気があり、一時は活動場所である和室に入り切らないほど部員がいたのだ。しかし現在全部で6人、活動も週に1回程度。

その茶道部の部長に就任して間もないは牧の膝の間で修学旅行のしおりを眺めていた。このふたり、付き合ってそろそろ半年、ふたりだけの秘密の恋人である。

というのも、バスケットなどとアメリカ原産のスポーツをやっているけれど、牧の家は和風一色。祖父は呉服商、父は鎌倉時代を専門にしている歴史家で大学教授、祖母と母は茶道家、という家に育った。その祖母と母の経営する茶道華道教室に通っていた縁で親しくなったのがだ。ちなみに華道の方は伯母が教えている。

何も「どこの馬の骨とも知れぬ女など、由緒ある当家に相応しくない」などと前時代的な言いがかりをつけられるわけではない。だが、逆に現代らしく牧家は後継者に悩んでおり、輸入物のスポーツで才能を開花させてしまった息子の彼女が元教え子なんてことになったら、すわ嫁か後継者かと大変なことになりそうなのである。

また、このかつて人気を博した茶道部、顧問とは別に指導者としてやって来ていたのが牧の母親。息子が中学生になった頃に辞めているが、海南の中には牧家を知る人が多いのである。どこからと付き合っているということが漏れるかわからないので、ふたりはコソコソと付き合っているというわけだ。

「USJ行きたかったなあ~」
……ふたりで回れないぞ」
「う、それはそうだけど」
「ディズニーランドでいいじゃん。冬休みは?」
「休みのときなんて混みすぎてて無理だよ。1月2月なら比較的空いてるって話だけど」

どちらにせよ学校行事で行く以上はふたりで過ごせないのである。は牧に寄りかかって頭をゴロゴロ転がした。牧はそのの体に両手を回してゆったりと抱え込む。

現在特別に指導者を招かなくても、小学5年生から牧の祖母と母に習っていたの場合、最低限ながら人に教えていいレベルに達しており、許状という許しを得ている、いわば有資格者。なのでこの茶道部はの縄張りであり、活動のない日でもこうしてこっそり利用している。

牧が練習中は活動日でもないのにやって来てお菓子とお茶でわいわい喋っている茶道部だが、練習が終わる頃になると一応解散となる。そこに部長であるだけが残り、練習終わりの牧を待ち、誰もいなくなった校舎からこっそりと手を繋いで帰る……という日々だ。

毎日このようには行かないけれど、が部長に就任し、なおかつ日没が少しずつ早まってきた夏休み以後はバレにくくなってきたので頻度が高くなりつつある。

「茶道部の部長なんだから京都楽しいんじゃないのか」
「でももう部活でしかやってないもん」
「おふくろたち手をこまねいてるぞ」
「紳一が結婚してくれるならそれでもいいけど」
「結婚は別にいいけど茶道家になりたいわけじゃないだろ」
「それなんだよ……

部長をやっているくらいだから茶道はもちろん好きなのだ。しかしそれはあくまでも趣味特技の範囲内であり、一生の生業とは思えないでいる。しかし迂闊に進路の決まっていない状態で長男の恋人であることがバレたら、待っているのは蟻地獄である。

中学2年の冬、受験に備えてお教室を辞めますと言ったに、牧の祖母と母は大口を開けて落胆したものだった。せっかく人に教えられるくらいの許状まで辿り着いたのにもったいない。

「昔みたいに大旦那様のお店が大きかったらなあ。そしたらそこで働くって手もあったんだけど」
「本人も自分の代で終わらす気みたいだしな」

大旦那様こと牧の祖父はそれでも昭和の頃には大変羽振りのよい呉服商であったが、町が洋装に侵食されていくのを見るにつけ、昭和の頃より事業の拡大には消極的で、現在も店自体は続けているが、孫の言うように後代に残す気はない。が就職してもおそらく20年と持つまい。

「若旦那様の妻にはなりたいけど、お教室の跡継ぎは難しいです」
「可愛い妻は欲しいけどお教室に取られると思うのでほんとに難しいです」

鼻で笑い合うふたりは顔を寄せ合い、小さく何度もキスをする。

最初こそ育ちが育ちな牧は茶室でイチャつくなど……と遠慮があったのだが、茶室と行っても校舎の3階だし、にじり口という小さな入口があるわけでなし、引き戸を開ければほぼ教室、道具や資料などを収納している準備室はリノリウムの床に灰色のロッカー付きである。すぐに慣れた。

しかも畳敷きの閉鎖空間、先代先々代共に部長は放課後の部室を時間貸しにしていた。1時間1000円設定が相場らしいが、かつては予約が取れないほど人気があったという。

だがに代替わりしてからは時間貸しはやっていない。もちろん自分で使っているからだ。けれどにしても牧にしても、本来的には節度を守って余計なリスクを抱え込まないよう振る舞いたいタイプ。イチャコラし放題の場所が確保できていても、一線は越えていない模様。真面目です。

しかしこの2年生の春から付き合い出して早半年、忙しいことが緩衝材となっていたけれど、茶道部の部室でふたりきりになる機会が増えて以来、牧は少々抑えが効かなくなってきている。かわいい。

「わ、ちょ、若旦那様、ダメダメ」
「ダメですか……
「てかそもそも時間ギリギリだから」

を押し倒した牧はすぐに押し返されて畳の上に転がった。

放課後にイチャコラし放題とは言っても、それは牧の練習が終わってから、である。熱心なバスケット部の練習が1~2時間で終わるはずもなく、現状どれだけ早くても体育館を出るのは19時以後になる。牧も急いで着替えてすっ飛んできたけれど、もう10分ほどで20時になる。部室を閉めて外に出なければ。

ついでに言えば活動が盛んな運動部でもないのにちらほらと帰りが21時近くなるは親に大変不審がられており、10月に入ってからは文化祭の打ち合わせでついついお喋りしてしまうのだと誤魔化しているが、ここにもバレてはならない。何しろの母も牧の祖母の教え子である。

しかし名残惜しく手を伸ばす牧に逆らえず、は畳の上に転がる彼に覆い被さって唇を重ねる。

「修学旅行、同じ部屋だったらいいのに」
「そしたらみんなにバレるよ」
……、駆け落ちするか」
「そしたらバスケ部辞めなきゃいけないんだよ」

八方塞がりである。しかしふたりともこの状況に甘んじる気はなく、少しずつ様子を見ながら、親たちに干渉されずに学生らしい付き合いができるようにしていきたいとは思っている。焦りは禁物。

……今日のところはこれで我慢して」
「余計我慢できなくなるよ」
「冬の選抜終わったら主将でしょ」
「それとこれとは別」

を腹の上に乗せてぎゅっと抱き締め、牧はまた唇を寄せた。

その日の夜、自分の部屋でストレッチをしていた牧はからの着信に気付いて手を伸ばした。電話がかかってくるとは珍しい。せっかく昂ぶった気持ちを抑えたところだったと言うのに……

「どうした?」
「しおり、全部見た!?」
「しおり?」
「修学旅行のしおり!」

のそりと立ち上がった牧は机の上に他のプリントとまとめて置いてあった修学旅行のしおりを手に取ると、そのまま椅子に腰掛けた。しおりと言っても小学生とは違うので、必要事項がまとめてある資料といった感じだ。

「しおりがどうかしたのか」
「6ページ目見て、行動日程表」
「6ページ……これか。何かおかしなことでも……
「もう、ちゃんと見て! この通りなら私たち4日目まで一切会えないんだよ!」

新横浜から京都までは約2時間というところだ。朝出発の海南御一行様は到着するなり荷物は先送りしてもらってすぐに市内観光が始まる。代理店さん渾身の修学プランはなんと年代を追うコースになっており、初日は平安から始まり、戦国、幕末、とそれぞれの時代に関係のある場所をぐるぐると回る。

そういうわけで初日から3日目まではビッシリお勉強観光。それだけならまだしも、人数が多すぎる今年の海南2年生、一箇所に集中すると管理しきれないのだろうか、各日のコースはさらに3分割されていて、現在クラスが離れていると牧は一日中別のコースを引きずり回される予定だ。

「それだけじゃないの、12ページ目!」
「ああ、ホテルの部屋割り……あー」

牧が目を落とすと、滞在予定のホテルは2棟がロビーやホールで繋がった造りで、これもまた別れてしまった。

「紳一は東館、私は西館……ううう……
「まさかわざわざロビーに降りて会うわけにもいかないしなあ」

牧はページをめくり、行動日程表まで戻る。

「つまり、この4日目の自由行動日まで、全く会えないってことか」
「そういうことに……なるよね?」

は泣き出しそうな声を上げた。そりゃあ夏休みにはインターハイや合宿で1週間近く会えないこともあった。だが、そういう牧が頑張っているバスケットのことなら耐えられても、まるで関係ない修学旅行でまでシャットアウトされてしまうと非常につらい。

元々ふたりは茶道教室の件もあってお互い名前だけは知っていた。それが同じ高校に通うことになり、初めて顔を合わせたのは1年生の時だ。同じクラスだった。そこから1年間じわじわと惹かれ合い、最終的に両片思い期間を数ヶ月挟んだのち、2年生に進級したところで付き合い始めた。

なので付き合ってないふりを装って会話をするくらいのことは問題がなかったのだ。親同士が知り合いでね~なんていうことは1年生の時に散々クラスメイトに言ってあったし、何なら他人にわからない話を突然始めるくらいの演技はできないこともない。

しかしここまで完全に引き離されるとそれも出来ない。

……ねえ、自由行動の日、一緒に回れないかな」
「オレもそうしたいけど……
「私、それまでにみんながどういうところを回るのか調べておくよ。それで人のいないところに」
「もしバレたらどうする?」
「ちょっと見られちゃったくらいなら黙っててって頼む」

どうしても隠しておきたかったのはお互い家が面倒だからであって、別に生徒に知られるのは構わないのだ。ただ親たちの耳に入るルート、つまり先生や茶道部の部員やらに知られなければいい。

「紳一が頼めばなんとかならないかな」
「どっちが言っても同じじゃないか?」
「そんなことないでしょ~バスケ部のエースが」

牧は一応まだ2年生なのだが、実質中心的存在であることは間違いないし、言う人に言わせれば既に3年生を追い越して部内で一番上手いようだし、ある意味では目立って尊敬されやすい人物ではある。だから大丈夫とは言いたげだが、本人にその自覚はあまりなく、不安が残るようだ。

、京都観光とかってどうしてもしたいタイプか?」
「え、別に。どうせ前3日で散々回るんだし、正直どうでも。おみやげは5日目でも買えるしね」
「そしたら観光あんまり関係ないところに行けばいいんじゃないか?」

聞くところによると、なくはないという話だ。日本史に興味がなく、観光にも消極的な生徒がカラオケ行ってただの、ゲーセンで時間潰してただの――

……そっか。そうだよね」
「観光地を避けてさ、普通にデート、それならなんとかなりそうじゃないか?」
「それだー! 紳一頭いい! オッケー、そういうところ、探しておくね」
「悪いな、頼む」

丸3日間会えませんが回避されそうなのはいいけれど、牧の方はこの状況に少し嫌気が差していた。自分たちには何も問題がないのにコソコソしていなければならないのは疑問を感じる。しかし牧の祖母と母親が手ぐすね引いて待っているのも事実。

ほんの興味からだったそうだが、小学生のうちから習い初めて都合4年以上しっかり真面目に学んでくれたにはまだ未練があるようだし、茶道部にいることを知って以来、余計に「ちゃんまた来ないかしら」と言うようになった。その上この点に関してはの母親も乗り気で油断ならない。

どちらもこの問題さえなければ良好な家族関係を保っており、まだ高校生の付き合いなのだし、騒ぎにして揉め事を作るよりは……と隠すことを選んだ。最初はその「内緒の付き合い」に酔っていた部分もあった。けれどそれが半年も続くと鬱陶しくなっても仕方あるまい。

家族の知るところとなっても、主にへの干渉なく付き合いを続けるには一体どうすればいいのやら。

そりゃあは可愛いので嫁にもらうのは大歓迎だけど、オレがこの先バスケでどれだけ上を目指せるかもわからないっていうのに、なんで親とバアさんに取られにゃならんのだ。はあくまでもオレのものであって、親とバアさんのものではない。

牧の主張は概ねそんなところだが、数十年に渡り数多の生徒を厳しく指導してきた母と祖母はとにかく強くて、オール和風の牧家からポンとはみ出してしまった息子は割と肩身が狭い。その上お教室は自宅とくっついており、常に大人の女性がひしめいている。勢い「触らぬ神に祟りなし」になりがち。

たまに手を繋いで帰るのが関の山だった付き合いから一転、6月にが茶道部の部長に就任したところで、ふたりの距離は一気に縮まった。部室があったからだ。誰もいないからおいでよ、と初めて誘われたその日に初めてのキスをして、以来コソコソしっぱなしだ。

少々考え込んでしまった牧の耳元でのはしゃいだ声がした。

「ねえねえ紳一、あのさ、高校生はホテルって入れない……よね?」

牧は机の上に置いていた肘を滑らせて椅子からずり落ちそうになった。何言ってんだお前。

「あのな、いくらなんでもそれは」
「私服に着替えれば紳一ならバレないかなーって」
「悪かったな老け顔で。もし見つかったら大変なことになるぞ」
「だよねえ……あの子戻ってこないもんねえ……
「戻ってこないって、退学したよ」
「え、嘘!?」

今年の春、たちと同学年の女子が放課後に交際している社会人とホテルから出てきたところを補導員にとっ捕まり、援交を疑われて即学校に通報された。一応金銭の絡まない恋愛関係だったけれど、学校帰りに歓楽街に出入りしていたことと併せて厳重注意を受けた上、援交してたという噂だけが広まってしまい、夏休みを待たずに退学してしまったそうだ。

……ふたりになりたいのはわかる。オレもそういう時間欲しい。だけどそれはマズいだろ」
「ごめん……
「オレも考えてるから、焦らないでゆっくりやっていこう」
「うん、わかった」

何をするしないではなく、茶道部の部室でしかふたりで過ごせないのが不満になってきているのは牧だけではない。も同じなのだ。自分たちを取り巻く環境が面倒くさいあまり、オープンな付き合いは怖くてしたくないけれど、でも、でももっとふたりになりたい!

そういう欲求がピークに差し掛かろうとしていたタイミングで、ふたりは修学旅行に出発したのである。