たまゆらの雫

3

突然の雷雨にふたりは走った。だが、慣れない街のこと、どんどん民家ばかりの通りを進んでしまい、叩きつける雨をしのげる場所もなく走り続けた。せめてコンビニでもあれば、と思うが、慌てていたので現在地がどこなのかもよくわかっていない。

運良く大きな通りに出たので、牧はの手を引いてまた走り、ようやく地下鉄の駅らしき階段を見つけて転がり込んだ。やっと屋根のある場所に入ることが出来たけれど、もうすっかりびしょびしょだ。

「こんなことなら店に戻ればよかったな、ごめん」
「平気平気、ちょっと、速度がアレだった、だけで」
「あああそれもごめん」

方や毎日走りっぱなし、方や座りっぱなしである。牧に手を引かれて走ったはびっちょり濡れたままぜいぜい肩で息をしている。牧が慌てて背中を擦るが、のぜいぜいが収まるまでは少し時間がかかった。

「うわ、ひどい、向こうの方もう晴れてる」
「通り雨だったか……どうするこれ」
……このままウロウロしてたら風邪引いちゃうね」

手持ちのハンドタオルで顔や首を拭きつつはスンと鼻を鳴らした。せっかくの楽しいふたりきりのデートだったのに。だけど風邪はダメだ。自分はまだいいとしても、牧は絶対にダメだ。まだ2年生だけど、彼は既に海南男子バスケット部の中心なのだから。

「先生に連絡して、帰ろうか」
……いいのか」
「風邪、引いちゃうから。制服も乾かさなきゃ」

もちろん帰りたくなんかない。もっともっとふたりでいたい。もうあと数時間の自由行動だったとしても、帰ればまたコソコソする間柄なのだとしても、手を繋いで歩いていたかった。は名残惜しそうに牧の手を取り、両手で包み込んだ。ブレスレットが重なる。

「これがあるから、平気。だから、帰ろ」

牧ももちろん同じ気持ちだった。人気のない地下鉄出口の影の中、牧はすばやくの額にキスをするとギュッと手を握り返した。帰りたくなんかないけど、仕方ない。

ふたりはそれぞれ担任に連絡を取り、途中までは一緒に帰った。もしかしたら同様に雨にやられてホテルに戻る生徒がいるかもしれないし、少し離れた場所で別れて戻った方が安全だ。

しかしホテルに到着するまで誰にも会わなかったし、先に到着したにホテルのスタッフはせっかくの自由行動なのに雨で帰ってきちゃったんですか、と言って目を丸くした。折り畳み傘くらい用意してなかったのか、という顔をしていたが、忘れてしまったものはしょうがないじゃないか。

ガッカリしながら部屋に戻ったは、自分の荷物を引っ張り出すと、バッグの中をガサゴソやりながら牧に電話をかけた。館内は静まり返っていて不気味だし、面白くないし。

「あんな雨が降るなんて予報、あった?」
「さあ……確認してなかった」
「そりゃ傘持っていかなかった私も悪いんだけどさ!」
「オレもかさばるからと思って置いていったんだよな」

初日からカラリと晴れた過ごしやすい天気だったせいで、折り畳み傘など無用の長物だと思って持っていかなかったのだ。ふたりはそれぞれの部屋で荷物をガサゴソやりながらブツクサ文句を言う。

「てか革って濡れても平気なのかな? どうしよう変質しちゃったら」
「すぐに拭いたから大丈夫じゃないか? それよりちゃんと体暖めろよ」
「シャワーじゃダメ?」
「うーん、お前の手すごく冷えてたから……出来ればお湯に浸かった方が」
「うん、寒い」

着替えを用意したふたりは電話で話しながらバスルームに向かう。どうせもう出かけられないのだし、牧もバスタブに湯を張る。2年生の秋は修学旅行があるために練習時間がだいぶ削られる。こんなところで風邪を引いたらもっと削られる。それはマズい。

すると電話の向こうでの声が跳ねた。

「どうした」
「おかしいな、お湯が出ない」
「赤い方だぞ」
「ううん、そうじゃなくて……水が一切出ないの。洗面所の方も出ない」

はあちこち試してみたのだが、浴室の水道が全て止まってしまっている。トイレは流れるけれど、お風呂と洗面所の水道が出ない。お湯どころか何をひねっても押しても無反応。

……まあ、うちらを最後にリニューアルで閉館するっていうしね」
「何気楽なこと言ってるんだ。そのままは絶対ダメだぞ」
「だけどホテルの人呼んで騒ぎにするのも……

風呂が動かない件に関しては、いずれ同室の子たちが戻ったらでも遅くはないだろうし、何しろ部屋にひとりだ。誰も引き入れたくはない。ため息をついたの耳に、牧の低い声が聞こえる。

…………こっち、来るか?」

は息を呑む。門限に当たる時間まで誰も帰ってこないであろうホテル、先生すら出払っていて、いるのはホテルの従業員くらいなものだ。みんなが帰ってきたら人の波に紛れて戻れば、バレないのではないだろうか。

……うん、行きたい」
「4階のエレベーターホールで待ってる」
「わかった。すぐに行くから」

はバッグの中を急いで探り、ビニールバッグを引っ張り出すと着替えやらバスグッズを詰め込み、すっかり濡れてしまった制服のスカートだけバスルームに干してジャージに着替えると、部屋を飛び出した。

コソコソとロビーに降りると、やはりほぼ無人。ホテルの従業員はいるが、人数は少ない。は努めて平然とロビーを横切って東館のエレベーターホールに駆け込み、牧が下ろしておいてくれたと思しきエレベーターに飛び乗った。4階のボタンを無意味に連打したは、破裂しそうな胸を押さえてしばし待つ。

ポーン、と軽やかな音を立てて4階に到着。ドアがゆっくりと開くと、目の前に牧が待っていた。

「大丈夫だったか?」
「平気。ササッと通り過ぎてきたんだけど止められなかった」
「まだ体冷たいな。早く暖めないと」

思わず飛びついたをぎゅっと抱き寄せた牧は、急いで部屋へといざなう。

「あれ? 紳一はもう入ったの?」
……いや、まだ。そんなにすぐお湯溜まらないよ」

牧の部屋はエレベーターホールから遠くないので、素早く部屋に入ったふたりは、ハーッと息を吐いて胸を撫で下ろした。これでしばらく安全なはずだ。

「でも走ってきたからそんな寒くない。紳一先に入ってきていいよ」
…………一緒に入るか?」
「え!?」

バスルームの方からお湯が出る音が響いてくる。それを聞きながら、は真っ赤になって慌てた。

……温まった方がいいけど、それだと待ってる方が冷えると、思って」
「そ、そう、だよね、風邪引いちゃうもんね」

狼狽えるの体をそっと引き寄せた牧は、頭を落として屈み込む。雨ですっかりびしょ濡れになってしまったの髪の先端から、ぽたりと雫が落ちる。

……嫌か?」
……そうじゃ、ないけど、いきなりお風呂って、ちょっと恥ずかしいと思っただけ」
「タオル巻いてても?」

ぽたぽたと雫が落ちて、を抱き寄せる牧の腕に音もなく伝う。は緊張で軋む体を奮い立たせて顔を上げた。低い声でぼそりと言うばかりだった牧だが、照れくさそうな顔で少し目を伏せていた。

「オレ、と一緒に入りたい」
「紳一……

の背中にぞくりと震えが走る。しかしそれは熱っぽい言葉を囁かれて、というだけではなさそうだ。ふたりともどんどん体が冷えていく。室内にいるだけまだマシとはいえ、このまま入る入らないでグズグズしていても風邪が待っているだけだ。

「紳一に見られるの嫌とかじゃなくて、まだちょっと恥ずかしいから、タオル巻いててもいい?」

それが全てだ。嫌なわけがない。いつかは一糸まとわぬ姿を目にすることになる、それは疑っていないし、望んでもいる。しかし何しろこんなことになるとは全く予想していなかったので、心の準備が、というやつである。牧は照れくさそうに微笑んで頷き、をぎゅっと抱き締めた。

先に入っていいというので、は急いでバスルームに飛び込み、高速で体を洗った。髪はもうすっかり濡れてしまっているのでお湯ですすぎ、軽くトリートメントを馴染ませる程度でまとめ上げる。そしてタオルをしっかり巻き付け、きっちり折り込み、バスタブの中に飛び込んだ。

湯の中で広がるタオルを手で押さえながら、ジップバックに入れた携帯で牧に合図をする。

「大丈夫か」
「う、うん平気、待たせてごめんね」

ドアの方に背を向けてバスタブに沈むは、冷えていた体が温まっていくのと同時に緊張がピークに達して興奮状態、ドアが開いて牧が入ってくると超高速で携帯をスクロールさせていた。一応友人たちのSNSを確認していたのだが、もちろん画面なんか見てない。


「はいい!」

シャワーが止まって声をかけられるなり、はバシャッと音を立てて飛び上がった。

「ちょっとずれて」
「あ、ごめん、ど、どうぞ」

またタオルを押さえながらバスタブの端にへばり付くと、湯がぶわっと盛り上がり、そのままに雪崩れかかってバスタブから溢れていった。ふたりが入ってお湯は満杯、少し動いてもザッと溢れていく。

それほど広い浴槽ではないので、縮こまるの踵に牧のつま先が触れている。牧の方を見られなくて、はまだ携帯を忙しなくスクロールさせていたのだが、そのまま黙っているのも気まずい。

「やっと温かくなったね」
「寒くないか」
「うん、平気。ちょっと熱いくらい」

牧の落ち着いた声が余計にドキドキしてしまう。しかしそこで途切れた。また気まずい。は肩が上下してしまわないよう気をつけて深呼吸をすると、携帯を鏡の手前のカウンターに置いて顔を上げた。すると、髪がぺたりと下りている牧が、赤い顔をして見つめていた。顔が赤いのは、温まったから? それとも――

なんと言ったものかと一瞬迷っただが、牧の方が先に口を開いた。両手を広げ、

、おいで」

牧も目一杯緊張してドキドキしていたし、普段通り気楽に喋れなかったけれど、それでもを求める気持ちの方が勝った。が恥ずかしがる気持ちもわかるし、だけど無理強いをしてもしょうがないし、彼もまたタオルを巻いて入っていた。はそれに気付くと、ただただ無心で手を伸ばして牧の腕の中に飛び込んだ。

これまで夏服の袖から伸びる腕くらいしか触れ合ったことのない素肌が重なり合う。

……肩、まだちょっと冷たいな」
「でももう寒くない。熱い」

牧の手が湯をすくい上げて、の肩にかける。温かな湯に思わず肌を震わせたは、大きく息を吐いて牧にもたれかかった。肩はまだ冷たいのかもしれないが、今にものぼせて倒れそうだ。

「なんか……頭破裂しそう……
……ごめん」
「えっ、怒ってないよ」

が体を起こすと、普段見慣れない髪型の牧の顔が目の前にあった。だいたいいつもボリュームを持たせたリーゼント風のオールバックなのだが、軽くかき上げただけの前髪がはらりと打ちかかっている。は手を伸ばしてその髪に触れる。

「すごくドキドキしていっぱいいっぱいだけど……でも幸せ」
「ほんとに?」
「色々すっ飛ばしてる感じはするけど、でも嬉しい。ブレスレットも、お風呂も」

湯でするりと滑る肌、そっと触れ合う唇はもうすっかり温まっていて、熱を持っている。湯が揺れて立てる音なのか、唇の立てる音なのか、ふたりとも頭がぼーっとしてきてよくわからなくなってきた。

……もうだめ、倒れそう」
「うわ、真っ赤だな。ちょっと温まりすぎたか。オレ先に出るから手首と足首冷やしておいで」

は顔と言わず全身真っ赤に染まっていて、牧は急いで出て行く。もぼんやりする頭でシャワーを冷水にして言われた通りに手首と足首にかける。多少楽になったような気がするけれど、まだ熱い。

ドタバタと牧が出ていった音がしたので、も急いで風呂場を出る。途端にひやりとした空気が全身を包んで意識がはっきりしてくる。よく見たら換気扇をかけていなかった。熱気がこもってしまったのだろう。改めて換気扇をかけたはタオルで水気を拭き取ると、下着をつけ、慌てて持ってきた着替えのビニールバッグを開いて覗き込んだ。学校指定ジャージの白いラインがチリッと胸に棘を刺す。

修学旅行先でなぜかホテルにふたりきりで一緒に風呂に入るという、あまりに日常からかけ離れた現実が、そしてついさっきまでゆるゆると重ね合っていた唇が、の羞恥とか躊躇いとか、そういう中々消えていってくれないものを温かい湯の中に雫となって落として、溶かしてしまった。

外しておいておいたブレスレットを嵌めると、鏡に映る自分の体を眺めながら、は大きく息を吸った。

牧ものぼせる寸前で、慌てて出てきたはいいが、正直何も着たくないくらいに暑かった。同じ部屋に泊まり続けているので、布団は敷きっぱなしだ。しかも男子部屋なので適当に三つ折りにして壁際に寄せてあるだけ。牧は自分の布団を解くとごろりと横になって体の熱を逃がそうとした。タオルで仰いだりゴロゴロ転がってみたり。

しかし、体の内側からどんどん熱が湧いて出てくるようで、ちっとも常温に戻らない。ドキドキも収まらない。

だってしょうがないだろ、タオル巻いてるとはいえ、裸のがすぐそばにいて、それで頭に血が上らないわけないじゃないか。それだって必死に抑えてクールダウンさせようとしたんだよ。でもそんなの無理だって。

キスだけで風呂を出られたのはそういう忍耐の賜物であり、牧は正直なところ、あのきつく巻かれていたタオルをむしり取ってしまいたくて仕方なかった。この布のせいで、この布さえなければ、と考えては、強制的に監督の顔を思い出して耐えていた。監督ありがとう、けっこう萎える。

しばらく布団の上でゴロゴロしながら体を冷ましていると、バスルームのドアの開く音が聞こえてきた。勢いよく振り返ってしまいたいのをグッと抑え、牧は努めてのんびりした声で「おかえり」と言ってみた。すると、突然背中に衝撃がきたので慌てて体を起こした。一瞬蹴られたのかと思ったのだ。飛びついてきただけだったらしい。

だが、振り返ったところで牧はウッと息を呑んで止まった。

が制服のシャツ1枚で布団の上に座っていたからだ。

「ご、ごめ……びっくりしたよね」

は正座をしているし、両手でシャツの裾をギュッと引っ張っているので下着は見えない。が、どう見てもシャツの下には下着しかないという状況で、牧はなんと言ったらいいものかわからなくなって、同様に正座したまま固まっている。これは、一体――

「みんな、何時頃帰ってくるんだろね。SNS色々確認したら結構色んな所見てるみたいだし」

自由行動の「門限」は18時。各自ホテルに帰着次第、ロビーで待ち構えている先生のところへ行ってチェックをしないとならない。門限破りは翌週中に京都に関するレポート5枚というペナルティが与えられると事前に通達があるので、まあ大幅な遅刻はないだろう。単純に考えて17時半以降に続々と帰着のはずだ。

まだ14時過ぎ。時間はある。

「ギリギリは危ないから少し早めに戻るようだけど、まだいいよね、雨も止んだし」
……
「制服が乾くならまた出かけても――えっ?」
……、オレ、のこと好きだよ。それ、知ってるよな」

牧が真顔でそんなことを言い出したので、はぞくりと痺れて肩をすくめた。

……だから、その格好、なんだよな?」

牧は手を固く握り締めたままゆっくりと語りかけ、が頷いたのを確かめると素早く近寄って引き寄せ、勢い余って布団に倒れ込んだ。牧に覆い被さるような体勢になったの髪からぽたりと雫がこぼれて、牧の鎖骨に滴り落ち、胸にツーッと滑っていく。

「私も、紳一のこと、好き、だから」

滴り落ちる雫にぞくりと背中が震えた牧は、の体をころりとひっくり返して唇を押し付けた。

あまりに静かだった。みんな出払ってしまってほぼ無人のホテル、明かりも付けていない午後の部屋には白っぽい外光が薄く差し、ふたりの立てる吐息と衣擦れの音の他には、バスルームから時折聞こえてくる雫の音くらいしか聞こえない。

雑な男子部屋、雑に広げた布団の上、制服のシャツとTシャツとパジャマ代わりのハーフパンツだったけれど、ふたりともそんなことは全く頭になかった。体が熱い、吐く息すら熱い、触れ合っている肌はもっと熱い。

牧はその熱さを体の中に抱えたまま、の素足に触れた。なぜか少し、冷たいような気がした。