中間テストあたりを境にはますます清田に対して不満を募らせ、わがままを言うようになった。
だが、依然清田はそういうに対して怒りもせず、どちらかというとそんなでも好きなようで、バスケットより優先できないことをごめんごめんと謝りつつ、そういうわがままに不満を抱いている様子もなかった。
それをしかめっつらで首を傾げていたのは同学年のバスケット部員たちである。そりゃそうだ。部内でのキャラはともかく、海南随一の実績を誇るバスケット部で1年生だというのにずっとスタメンを維持している、いわばエリート。それが突然彼女作ったと思ったら尻に敷かれているのはよくわからない。
「でも別に困るようなこともないからなあ」
「怖くて別れられないんじゃなくて?」
「え。別れたいとか思ってないけど」
「そんなに好きなん……」
「そんな大袈裟なことでもないと思うけど」
仲間にちくちくと突っつかれた清田だったが、彼らの言わんとしていることはピンとこない様子。
「オレはわがままな女とか絶対無理」
「わがままじゃない女なんかいるのかよ」
「だよなあ、付き合うとすぐに威張りだして全然言うこと聞かねえし」
「ごめんて謝ってもずーっとイライラして許してくれないし」
部員たちの愚痴を聞きながら、清田は声を立てずに笑った。まあ、あるあるではある。
「もしかしてお前、ドM? ああやっていじめられてるの好きとか」
「何でそうなる」
とうとう声を立てて笑った清田は、ロッカーの扉を閉めて襟を直す。
「大袈裟だなほんとに。困ってないって言ってんだろ」
「だから普通は鬱陶しくないか、って話で」
「じゃあ普通じゃないんだろ。普通で終わっちゃマズいからそっちの方がいいよ」
今日も練習が終わって時計を見上げてみたら19時半である。長く神奈川の頂点を保持している海南の場合、練習はいくらやっても飽きないタイプの集団であるが、このくらいの時間がエネルギーの問題で限度なのである。疲れすぎて毎日授業を爆睡でも困る。
そういうわけで今日もとは会えない。さっさと帰って飯食って早く寝る。
けれど文化祭で体育館が使えなくなるまでもう少しだ。清田に危機感はない。仲間たちはそれを不思議そうな顔で見ていたけれど、本人はまたにんまりと笑って腰に手を当て、ポーズを取る。
「てかたぶん、向こうよりオレの方がわがままだと思うよ」
一方は燻る気持ちが晴れないまま毎日を過ごしていたのだが、隣接するクラスとの合同課外授業にて目に痛いものを見せられる羽目になった。バス移動があったのだが、選択授業のため、人数の関係で隣のクラスの女子と隣り合わせになった。合同授業ではよく顔を合わせるので喋るのは問題ない。だが、
「1ヶ月だよ1ヶ月。もう何年も付き合ってますっていうのと違うでしょ。それに彼女がいるのにアイドル好きってほんとにおかしいから。CDとか全部捨ててって言ってるんだけど言うこと聞かないんだよね」
彼女は付き合ってひと月になる先輩がいるそうだが、彼が1ヶ月記念の日を覚えておらず、バイトのシフトを入れてしまったとかで激怒している。その上女性グループのファンで音楽をよく聞いているのも許せないらしい。
「それを謝りもしないで、そんな怒るなよって言うだけでさ、全っ然悪いと思ってない」
「アイドルって……?」
なんとなく予感がしたので聞いてみたら、案の定女性だけの構成でアイドルは自称していないグループだった。
「付き合ってすぐの頃にカラオケ行ったんだけどさ、歌うのもそればっかり。彼女と来てるんだから空気読むでしょ普通。しかもそのあとカフェ行ったんだけどさ、ミルクティー飲んでんの。男がミルクティーとかないわーって言ったんだけど、それも全っ然わかってなくて」
は目がマジの薄笑いのままサーッと背中が冷たくなってきた。この子正気だろうかと思うが、彼氏への愚痴意外は特に変わった様子もなく、非常に常識的。それが余計に怖い。なんとなれば、程度は違えどまるで清田に対する自分を見ているようだったからだ。
そして彼女はカラオケでは彼氏にはこれを歌って欲しい、カフェでは何をオーダーして欲しい、と真顔で語っている。そういう彼氏が理想だから。そういうのが「自慢できるかっこいい彼氏」だから。そしてろくに返事もできないの目の前で彼女は痛烈な一言を放った。
「告ってきたの向こうだし。私が好きならそのくらい出来るはず」
ぐうの音も出ない。
だが、バスで現地についてみたら、まだプリプリしている彼女の言い分に、なんと全面同意している子がいた。の中で渦巻く感情がせめぎ合っている。同類かもしれないが自分はここまでひどくない、だからいいのだと正当性を主張したかと思えば、程度が軽ければ何をやってもいいというものではないと根本から反省する気持ちも芽生え、ぐるぐるしてきた。
しかしその中でひとつだけ疑問が生じた。御託はともかく、彼女、先輩のこと好きなんだろうか?
全て自分の都合に合わせてくれるパートナー、それに対するポジティブな感情が「好き」なのだと言われてしまえばそれまでだ。だが、どうにも好きで付き合っているという感じはしない。それは彼氏の方も同じだ。愛聴しているCDを捨てねばならず、彼女が喜ぶ歌を歌い、飲みたいものも飲めない相手が本当に好きなんだろうか。
己を省みるに余りある実例を見せられて心が痛いだったが、その点だけは自信があった。
は清田が好きだ。面白くないことがたくさんありすぎてずっと不貞腐れていたけれど、彼は王子様だったはずなのだ。優しくて楽しくて、いつでもまっすぐに愛情表現をしてくれる。どれだけがぶっきらぼうに接しても決して怒ったりせず、全て受け入れてくれる。
ただそう、彼女のように「付き合うとはこういうもの」という理想にしがみついていて、手放せなかった。
向こうから付き合いたいと言ってきたのだから、向こうが望んだことなのだから、自分のことが好きなら。
それがどういうことだったのか目の前でまざまざと見せつけられたは、10月の風に吹かれながら空港での夜を思い出していた。あの時は本当に胸がワクワクして楽しかった。非日常のきらめく明かりの中でふたりきり、まるで異世界に迷い込んだみたいだった。
隣り合う高速バスのシート、声を潜めて肩を寄せ合い話したあの時、何を思っただろう。自慢しまくってやると鼻息荒かったけれど、それでも清田と話していることが楽しくて仕方なかったはずだ。翌日調子に乗ってしまったと後悔するほど、楽しかったのだ。
携帯の中に眠るツーショット画像を開く。だから、付き合ってくれないかと言われた時は本当に嬉しかった。ぎゅっと固く繋ぎ合わされた手が熱くて、気が遠くなった。そよ吹く風に揺れて額に触れた彼の髪ですら愛しく感じて、彼の一番になりたいと思った。
確かに、そういう気持ちだったのに――
突然がクールダウンしたことに対して、清田は特に反応を示さなかった。文化祭ではクラス展示がごたついてしまってろくにふたりの時間が取れず、しかも文化祭が終わったら予選は目の前、実のところ、の変化に敏感に対応している暇はなかった。
予選が終わったら終わったですぐに期末に突入。中間では無事に補習を回避していた清田だったが、予選に夢中になっていた清田は普段の授業の理解が追いついておらず、放課後バスケット部員だらけの寮に混じって集中的にテスト勉強をしなくては冬の選抜の本戦が危ういという状況。
テストが終わればテスト休み、その間は当然本戦が目の前なので練習。本戦が終わると海南のバスケット部は引退した3年を中心とした忘年会の習慣があり、クリスマスも飛んだ。
はそれに対して、文句を言わなかった。というか、テスト休みに入ってからと言うもの、ろくに連絡も取れない日々が続いていた。どちらも特に親しい友人からは少し心配されたけれど、そういう時間を過ごしてしまった。冬休みはもちろんあったけれど、年末年始はが例の飛行機の距離の田舎に行っていたし、新体制に入ったばかりの清田はやっぱり練習ばかり、短い休みの間に会うことはなかった。
そうして3学期、1学期2学期に行事を詰め込む海南では割とのんびり過ごせる時期である。大学附属なので受験でピリピリしているのはほんの一部の外部志望の生徒だけだし、自由登校でもふらりと登校してくる生徒が多い。そのくらい余裕のある寒い朝のことだった。
「……留学?」
「そう」
「いつ?」
「再来週から」
朝練終わりの清田は昇降口で行き会ったを目の前にして呆然としていた。白い息を吐きながら淡々と話すはあまり表情がなくて、清田も何を言えばいいのかわからなくなっていた。留学って普通、海外に行くってことだよな?
「携帯通じないわけじゃないけど、電話とかそういうのは、あんまり出来ないから」
「そ、そうか」
「お、おみやげとか、なんか欲しいものとかあったら、考えておいて」
はそれだけ言うと、さっさと教室へ行ってしまった。
1月下旬の日曜、出発を控えたは夜の空港で窓の外を見ていた。嫌でも蘇る夏の記憶はロケーションも手伝ってやけに鮮明で、余計に気持ちを沈ませた。これから海の向こうに旅立っていかねばならないというのに、こんなに落ち込んでてどうするんだろうという不安が身のうちを埋め尽くしている。
自分なりに考えて考えて考え抜いた挙句の決断だった。けれどそれが正しいかどうかはまだわからない。正しいかもしれないという漠然とした感触もなかった。
自分がいなくなったら清田はどうするんだろう、どう思うんだろう。気になるのはそんなことばかり。
今日出発するということは報せてあったけれど、土産の要望もなければ、これといって特別に言葉をかけてきたりはしなかった。しかもこの土日は泊りがけの遠征で留守。家を出る時に行ってきますとメッセージを送ったけれど、今のところ反応はない。
自然消滅、しちゃうかもなあ。はじわりと涙目になってきて、慌てて目を擦った。まだ出発まで時間はあるけれど、こんなにウジウジしててどうするんだ。自分は学びに行くのだ、外の世界を肌で感じてくるのだ、こんな時に未練を残しててどうする。そうやって自分を鼓舞していたけれど、中々気持ちが上を向かない。
夜の滑走路、きらめく光の中をきらめくボディのジェット機が空へ飛び立っていく。
それをぼんやりと眺めていたは、視界に影が差したのを感じて顔を上げた。
「信長……」
「間に合ってよかった」
いつかのように清田は制服のままスポーツバッグを斜めがけにしていて、の隣に佇んでいた。
「事故渋滞に捕まって戻ってくるの遅くなっちゃって。バッテリー忘れて携帯も死んでたし」
昨日からほとんど連絡が取れていなかったことの理由はわかった。しかし――
「……気をつけてな」
「うん」
「危ないこと、するなよ」
「勉強しに行くんだもん、大丈夫」
「土産とかそういうのは気にしなくていいから」
「思いついたら、連絡して」
ぼそぼそと言う清田にもぼそぼそと返す。けれど、どちらも本当に言いたいことはそんなことではないのではということをちゃんとわかっているから、隣に並んで外の景色を眺めるばかりで真正面を向き合えない。まだ出発までは時間はあるけれど、時は確実に行き過ぎる。
また一機、加速から浮き上がった機体が空へ向かって上昇していく。それを揃って見上げていたふたりだったが、ふいにが向きを変えて口を開いた。
「……ちょっと離れちゃうけど、まだ彼女だって思ってても、いい?」
「そんなの……当たり前だろ」
「一緒に、いられないけど、でも――」
つい涙声になったの体を清田は引き寄せて強く抱き締めた。
「、ごめん」
「え、なんで信長が謝るの」
「いつも時間なくてほんとごめん」
「でもそれは」
「違うんだよ、悪いのはオレの方なの」
意味がわからなくて顔を上げたを、清田は申し訳なさそうに微笑んで見下ろしている。
「付き合ってるって言ったって時間がないせいで何も出来なくて、が不満に思うことくらいわかる。誰だってつまんないよそんなの。だけどオレ、それでもと付き合いたかったんだよ。だからがイライラしても不貞腐れても適当にごめんごめんっつってあしらってて、だけどのために何かしようとか思ってなくて、自分の部活の都合だけは絶対曲げたりしないのに、優しくしてれば別れずに済むだろうって……」
バツが悪いのか、清田は片手でボリボリとこめかみをかきむしった。長く伸びた髪がさらさらと揺れる。
「付き合ってたいって……だけど時間なくて……」
「あーうん、オレはさ、毎日教室で会えるだけでもけっこう満足しちゃってて、冬休みも時間取れなかったけど学校始まればまた毎日会えるし、でもは文句言いながらも応援してくれてたし、だからその辺はやっぱり部活の方が優先になってた。ほんとにごめん」
だが、はふるふると首を振って、じわりと赤く染まる目で清田を見上げた。
「違、そうやって気持ちの上に胡座をかいてたのは私だよ、信長が怒らないからって」
「怒らないっていうか、まあそれもわざとみたいなことろあったんだけど……」
「そうじゃないの、私、信長のこと人に自慢できる男だとしか思えてなかったから!」
清田の制服をぎゅっと掴み、は掠れた声を出した。
「神奈川で一番強いバスケ部にいて、背が高くて、いくら文句言っても不貞腐れても怒らないし、好きだよって言ってくれるし、自慢できる相手だって、思ってて、だけど自慢できる相手なのに、自分がやりたいこと何も出来なくて、付き合ってたらこんなの普通でしょ、向こうが付き合おうって言いだしたんだから、私の言うこと聞くの当然じゃん、好きなら私に合わせるべきって、思ってて――」
自分から付き合おうと言ったわけではなかったことが余計にそういうを助長させたとも言える。
「私いっつもそうなの。いいなって思ったものに飛びついて、だけど自分がやりたいって思ったことが出来ないとすぐにヘソ曲げて、子供の頃から習い事が続いた試しなかった。ほとんど練習もしないのに自分がやりたいのはこれじゃないって、自分のやりたいことをやらせてくれない方が悪いって――」
そして自ら記憶の蓋を開けて嫌な思い出を引っ張り出した。
「7才の時、どうしてもバレエをやってみたくて近所の教室に行かせてもらったの。だけどやってみたかったのはバレエじゃなかった。きれいなチュチュ着て、リボンの付いたトゥシューズを履いてみたいだけだった。習い始めたばっかりの子供が履けるわけないのに、トゥシューズが履けないならバレエなんかやらないって、怒って」
バレエ教室の先生は大人のお姉さんになったら、それまでたくさん練習したらトゥシューズを履けるよ、と優しく教えてくれたのだが、チュチュとトゥシューズには憧れても、練習には魅力を感じなかったのだ。結果、すぐに辞めてしまった。他にもそうしてやめてしまった習い事がいくつかある。
「信長のことはそれと同じだった。浮かれて、調子に乗って、全部信長が悪いって」
「オレはそうだと思ってたんだけど」
「違うよ、ふたりのことじゃん。悪いとかじゃ、ないよ」
は息を吸い込み、背筋を伸ばす。トゥシューズを履いてまっすぐに立つバレリーナを美しいと思い、それに憧れたけれど、彼女たちのつま先がトゥシューズの中でどれほど傷ついていたのかなんて、考えたことはなかった。美しい姿勢には、トゥシューズを履けるようになるには、それだけの理由があったからだ。
「だから信長、私少しひとりで色んなこと勉強してくる。もうヘソ曲げて投げ出したりしない」
「……わかった。待ってる」
「……ひとつ、お願い、してもいい?」
「いいよ」
「帰ってきたら、キス、してほしい」
だが、はその場で唇を塞がれて息を呑んだ。帰ってきたら、って言ったのに。
「い、今じゃ……」
「ごめん、我慢できなかった」
「またごめんて言う」
「……オレがしたかっただけ。と離れるの、寂しいから。明日からが教室にいないの、つらいから」
ぎゅうっと抱きついたの体をくるみ込みながら、清田は囁く。
「帰ってきたら、今度はからキスして。それまでずっと、待ってるから――」
あの日トゥシューズを履けなかったつま先を目一杯立てて、は清田に抱きつき、何度も頷いた。
それを遠くから呆れた目で見ていたのはと共に留学に出発する海南の1年生19人である。
「あいつら盛り上がってんな……」
「中7日のショートステイ、提携校との交換だっていうのに……」
「てかバスケ部だって海外遠征なかったか?」
「ある。春休みに行くはず」
「その時はまたこれやるのか?」
抱き合ったりキスしたりで大変盛り上がっていると清田を指差しつつ、定員20名の体験留学への出発を待っている海南1年たちはヘラヘラと笑っている。2学期末の時点で指定数以上の単位取得が見込める生徒に限り参加できる交流制度である。正直、留学というほどではない。
「そういえばが風邪で休んでた時、清田腐ってたな」
「それだけで」
「帰ってきた時も迎えに来そうだなアイツ」
「まあ、仲がいいのはいいことだけどね」
抱き合って佇むと清田を眺めながら、同級生たちはさもおかしそうに笑った。
帰国予定は8日後の夕方である。清田はなんとかして迎えに来るだろうし、空港内で一緒に食事を取って、高速バスで帰るだろう。そして今度はが爪先立って、清田にキスをするのだ。きっと。
END