キス・ミー・アゲイン

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失敗を他人のせいにするのはプライドが許さないのだが、それでもクソ暑い真夏のインターハイで4試合を戦い抜き、結果的にあと一歩のところで優勝を逃した挙句、閉会式の会場で生徒手帳を落としてそのまま帰ってきてしまった、ここまで来ると誰でもいいから誰かのせいにしたくなってくる。

これがまだ電車で1時間程度の場所ならともかく、空路である。清田は制服で大荷物のまま羽田空港で不貞腐れていた。大きな大会の閉会式、身分証明となるものを携行するようにという指示があり、学生証を身に着けておくようにと監督から言われたが、海南大附属の場合、学生証は生徒手帳の1ページ目という仕様なので、それを持ち歩くしかない。

普段は学校指定バッグの内ポケットにでも入れておけばいいけれど、閉会式でジャージ。携帯と財布と生徒手帳で尻ポケットが盛り上がっているのはなんとなく恥ずかしい。というわけで清田は生徒手帳をトップスの方のポケットに入れていて、何かの拍子に落としてしまったらしい。

幸い大会関係者に拾われ、神奈川の出場選手の生徒手帳であることはすぐわかった。さらに運の良いことに、大会関係者はプレス担当であり、そのまま心当たりの元へ運んでくれた。

週刊バスケットボールの記者である相田氏は、大変個人的な理由から神奈川の選手を溺愛していることでも知られている。それをプレス担当が知っていたのは偶然だが、この度の清田の忘れ物事件に関して言えば、これが幸いした。よく知っている選手の忘れ物を預かった相田氏はすぐに連絡をくれた。

いわく20時頃羽田着の便で戻るから、どうしても急ぎなら空港で待っててくれとのこと。急ぎでないなら後日東京にある編集部まで来てくれという。一応校則に学生証含む生徒手帳は在学中常に携帯していることという一文が添えられている手前、監督は後でいいんじゃないと言えず、ここで待ってろ、と清田を置いていった。

確かに! 確かに落とし物をしたうっかりさんは自分だけど! でも疲れてんのになんで空港でトランジットじゃあるまいし明日は一応休みだけどこんな無駄な時間。清田のイライラは加速する。

イライラし続けたせいか腹も減ってきた。時計を見上げるとまだ18時。相田氏の到着予定まで2時間もある。その上開会式から閉会式まで9日間の滞在の間に清田の財布の中はほぼ空っぽになってしまった。清田たち海南大附属の選手たちが羽田に到着したのは16時頃のことだったので、そのまま帰宅していれば財布がすっからかんでも何も問題はなかった。

一応事の次第を自宅へ連絡してみたところ、今日はインターハイを戦い抜いた息子を労ってやろうとして19時に寿司を予約してしまったのだという。笑いをこらえきれない様子の母親は「キャンセルしたら悪いからお母さんたちだけで行ってくるわね~!」と言って電話を切った。

オレだけど! 落とし物したのはオレだけど! 清田はため息を付いて膝を抱えた。

疲れた……寿司食べたかった……腹減った……疲れたよパトラッシュ……

不運に見舞われてひもじいと人は泣きたくなる。下を向いていたら本当に泣きそうだと勢いよく仰け反った清田は、正面に知っている顔を見つけて「あ」と声を上げた。夏休みに入って2週間以上が経過しているので少し久しぶりな気がするが、クラスメイトだ。向こうも気付いた。

「あれ、清田じゃん。制服で何やってんの」
「お前こそ何やってんだこんなとこで」
「私はおばあちゃんちからの帰り。そっちは?」
「インターハイの帰り」
「あっ、そーか!」

海南大附属1年C組で一緒のであった。彼女はキャミソールにロングスカート姿で、清田と同じように大荷物。清田の無愛想な声ににこっと笑ったはベンチに荷物をドサリと置くと、彼の前に立ちはだかる。

「どうだったの、バスケ部! 優勝した?」

どういう聞き方だよ、優勝以外の結果でそんなこと言われたら心に刺さるだろうなとか思わないんだろうかこの女。清田は一瞬カチンと来たのだが、しかし疲れて空腹で怒る気力もなかった。

……いんや、出来なかった。準優勝だった」

全ての運動部員がそうとは言わないけれど、少なくとも海南大附属バスケットボール部は優勝以外の結末など望んでいなかった。準優勝という言葉も嫌だった。だが、先輩いわく、各方面サポートしてくださった方はどこに潜んでいるかわからないので、準優勝という表現を使っておいた方がいいとのこと。

その意味がイマイチわからなかった清田だったが、直後にが高い声を出した。

「えっ、マジで!? ほんとに!? すごくない!? 準優勝って日本で2番目に強いってことでしょ!?」
「え、いやまあそうだけど」
「ていうか1年なのに試合出てたの? うそまじで!? 清田ってそんな凄い人だったの」

ああ、「準優勝って言った方がいい」って、こういうことだったのか。は興奮気味にはしゃいでいる。同い年のクラスメイトが全国レベルで2番手に付けていることが信じられず、しかしそれが嬉しいようだった。極限まで不貞腐れていた清田の気持ちも少し緩む。

緩んだところで清田ははたと思いつく。なんかちょっと情けないけどやむを得ない。

「あのさ、頼みたいことがあるんだけど」
「おお、どした。いいよ、準優勝おめでとうだから何でも言いなよ!」

両手を広げて満面の笑みのが頼もしい。清田はガバッと頭を下げた。

「すまん、金貸してくれ!!!」

途端にゴフッとが吹き出すので、清田は情けないしょんぼり顔でかくかくしかじか、もう財布の中には帰りの高速バスのチケット用の金しかないのだと訴えた。だけど昼前にちょっと食べたきりでひもじくて泣きそう。

「それは大変だったね……いいよ、貸したげる」
「すまん、何か食べられればそれでいいんだ」
「てか私もお腹減ったな。食べに行く?」

ちょっと遠慮気味なだったが、清田はぶんぶんと何度も頷いた。さん聖母ですわ。

ひもじさから解放されると思うと、ささくれ立っていた心が丸くなり、優しい気持ちで満たされる。申し訳なさはたっぷりあるけれど、今はそれ以上に感謝の方が強い。助かった! 清田は自分の荷物を背中に背負うと、の荷物も持ってやり、わざとらしく冗談に聞こえるように「マジ天使」だの「女神に見える」だのと連呼した。

しかし何しろまだ高校1年生、店構えがきれい過ぎると入ってはいけないような気がしてしまうし、もし高級店だったら大変なことになる。空港案内図を見つつ、現在地から行って戻ってきやすいことも加味して、結局ふたりは地元でも見慣れたうどんチェーン店に入った。これなら清田がいくら食べても問題なし。

「準優勝のお祝いなのにうどんでごめん」
「何言ってんだ、そんなことないってオレうどん好きだし全然」
「てか久しぶりに来たけどほんとに安いよね……。ほらほら、天ぷら好きなのお食べ」

聞けばおばあちゃんち帰りの、祖父母や親戚からお小遣いをたんまりもらってきたそうで、うどんチェーン店なら余裕の懐具合だとか。しかし清田はおやと気付く。

「いやいや、貸してくれるだけでいいんだって! 何おごりみたいなことになってんだよ」
「まあまあ、このくらいなら平気だから好きなの食べなよ。私からお祝い」

それはイカンと止めようとしたのだが、清田は両手が荷物で一杯になっており、はスタスタと先を行ってトレイを用意している。だが、うどんならどれだけ食べても2000円を切る。はおごりだと言うけれど、後でちゃんと返せばいいんじゃなかろうか。

腹も極限まで減っているので、清田は逆らわないこととし、に勧められるまま大盛りのうどんと天ぷらにおにぎりも付けた。これでやっと胃がきしむほどの空腹から自由になれる。

「そっかあ、惜しかったんだね。うちのバスケ部強いとは聞いてたけど、あとちょっとで優勝だったのか」
「まあいいよ、もうインターハイのことは忘れる。年末の大会の方で優勝するから」

切り替えができているのではなくて、空腹が満たされたので機嫌がいいのだ。清田は満足げに腹をさすりながら、のんびりと元いた場所まで戻ってきた。うどんチェーン店までたどり着くのに空港内をウロウロしてしまったので、時間は20時まであと30分を残すのみ。

「冬にも大会があるの? 忙しいね~。テスト大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないけど大丈夫」
「どっちだよ」

の笑い声とともに元いたベンチに並んで腰掛け、揃って携帯を取り出して操作する。

「あ! インターハイの写真見るか?」
「えっ、見たい見たい! 試合の写真?」
「いやオレの携帯だから試合中のはねーんだけど……
「えーなにこれ、トーナメント表って、こんなに出るの!? それで準優勝なの!?」
「すげーだろ」
「うん、すごいすごい」

が手放しで褒めてくれるので、清田はどんどん機嫌がよくなる。それにしても女の子の「きゃーすごい!」はどうしてこんなに気持ちがいいんだろう。お腹もいっぱいになって褒めてくれる女の子もいて……と悦に入っていた清田はそこで我に返る。あれ? なんでここにいるんだ?

別に先に帰っちゃってもいいのに、一緒に待ってくれるのか。なんかそれも付き合ってあげなきゃ、みたいな押し付けがましさはなくて、ノリで! みたいな気楽さが伝わってくる。清田はを「いい子だな」と思った。特に強い印象もないクラスメイトだったが、仲良くなれそうな感じがする。

清田はいわゆるダンスィがそのまま成長して高校生になったようなタイプである。運動が得意でバスケットに出会うまでにも色んなスポーツを習ってきたし、人見知りはしないし、友達も多い。しかし高校では何しろ練習時間が長いし、土日も部活動で消費しがち。中学までに比べて遊ぶ時間は激減した。

部員以外の同級生と一緒に学校以外の場所で喋っていることすら、久しぶりだった。相田氏を待つ30分はすぐに過ぎた。というかむしろと喋っていて相田氏が到着ゲートから出てくるのに気付かず、向こうから声をかけてもらう始末。相田氏も7日間に渡る取材で疲労が見えていた。

「なんかかっここいねー女性のライターさんなんて」
「でもあの人陵南の選手贔屓だからな」
「え。そーいうことしていいの……
「ほんとだよ、牧さんの方が絶対すごいのに」
「てみんな言うよね。バスケ部の部長さん化物だって」
「実際化物。知ってたつもりだったけど改めて化物だった」

無事に生徒手帳が戻ってきた清田はしっかりバッグに詰め込み、地元近くに向かう長距離バス乗り場へ向かう。も到着駅から数駅の距離だというので、同じバスで大丈夫。ふたりとも荷物が多いのでバスの横っ腹にあるトランクルームに荷物を入れてもらい、手荷物だけで乗り込む。車内はキリッと冷やされていて、快適だ。

羽田を出発して、渋滞にハマりでもしない限りは1時間半ほどで到着する。ふたりとも到着駅からなら30分位で自宅まで帰りつけるはずだ。つまりどちらも22時過ぎ頃には自宅へ戻れるだろう。

「遅くなっちゃったけど、大丈夫か」
「元々夕方の便だったし、まあ夏休みだしね」
「でもひとりだろ、家まで」
「荷物多いからタクシー乗っちゃう」
……自宅の前じゃなくて、少し離れたところで降りろよ」

はきょとんとしているが、念には念を入れて、危機管理というやつだ。

「あと玄関ドア開ける時は後ろ確認してからにしろよ」
「ちょっと待って余計怖くなるようなこと言わないでよ」
「だってお前何も考えてなさそうだから」
「それはあんたに言われたくない」

バスの車内は半分ほど埋まっており、ふたりは声を潜めてくつくつと笑った。

「てかひとりで田舎行ってたのか」
「んーん、私だけ先に帰ってきた。なんか親戚づきあいとか面倒くさくて」
「お小遣いだけもらってさっさと逃げてきたわけだな」
「言い方は気に入らないけど否定はしない」
……ちょっと待て、てことは今日家にひとり?」
「そう」
「ちゃんと鍵閉めろよ」
「なんでさっきから私が防犯出来ないみたいなことになってんの」

きらびやかな明かりの灯る空港をあとにして、バスは走り出す。も清田も椅子の上で膝を立て、軽く向き合って喋っていた。到着ゲートの近くのベンチで相田氏を待った30分はすぐに過ぎた。きっとこうして喋っていれば、1時間半の道のりなどあっという間に違いない。

他にもたくさんの乗客がいるので、ふたりは出来るだけ肩を寄せて小さな声で喋っていた。好きなこと苦手なこと、同じクラスの誰がどうしたのこうしたの、またバスケット部の話、が帰ってきたばかりの田舎の話、他愛もないことをなんでも。

しかしふたりとも朝から移動続きで、しかも心地よいバスの揺れに眠気を誘われてきた。

「寝過ごして降りられないってことはないだろうし、無理しないで寝た方がいいんじゃないか」
「んー、でもぐっすり寝ちゃったら余計疲れそうだしなあ」
「伝染ったかな、オレも眠くなってきた。膝枕してくれ」
「やだよ重い……と思ったけどあんた頭軽そうだね」
「うん……自分でも思った」

の言うように、ふたりとも到着駅が最寄り駅ではない。また荷物を抱えて帰るので、ぐっすり眠り込んでしまうと到着駅からの道のりがキツそうなのは想像に難くない。

……インターハイが終わったらどうするの」
「どうするの、って、少し休みになるけどまた練習。国体あるし、冬の選抜もあるし」
「なんか部活の合間に高校生やってるって感じだね」
「まあ、そんなようなもんだな」

特に海南の場合20年近く神奈川で一番強いバスケット部というものを維持してきているので、どうしても部員たちはプライベートを全てつぎ込んで練習に打ち込むことになる。それでも海南ほどの強豪校になれば、それを承知で入学してくるのがほとんどだ。清田もそう。

「えっ、スカ、スカウトだったの?」
「そうだよ。今年の運動部特待枠はオレだけ」
「あれっ……そんなすごい人だったんだっけ……?」
「褒められてる気がしねえな」

普段のダンスィ感が仇となって中々知られていないことだが、これでも清田は神奈川で一番強いチームの監督が「是非に」と望んだ選手でもある。これも部外の人間にはわかりづらいことだが、そんな強豪校にあって1年生からインターハイの全試合に出場したので、現在の主将と肩を並べるスタートであることは間違いない。

「それって、ええと準優勝で、そういう1年生って多いの?」
「オレみたいに出ずっぱりってのは……ほとんどいなかったと思う」
……それはつまり、日本で一番強い1年生ってことに、なるの?」
「ええと……まあ、試合結果だけで言えばな」

そこで普段のように「そういうことだ!」とふんぞり返ることは出来たが、それが間違いであることは自分自身がよくわかっている。団体競技なので、チームの結果は自分だけのものではない。途中で敗退して去っていったチームの中には自分を凌ぐほどの選手がゴロゴロいるのだと、心の奥底ではわかっている。

だけどそんなこと正直に吐露してみたところで何になるというのだ。そうです日本で一番バスケット強い1年生です! と言い張ってもいいじゃないか、ただのクラスメイトなのだし。だけどなぜか虚勢を張りたくなくなってしまったのだ。嘘ついてもしょうがないし、嘘をつかなければならない相手とは思えなくて。

……だからもっと練習しないと、ならないから」

まだインターハイの初戦を終えたばかりの頃、他のチームの試合を観戦していて、強くそう思わされることがあった。先輩にも言われた。認めたくはなかったけれど、いくら自分が本年度海南唯一の特待枠だったのだとしても、それが選手としての自分の成長には何のプラスにもならないことくらいは、わかっている。

これからしばし休みに入るけれど練習は休みたくないなと考えていた清田の横で、はしかし、楽しそうな笑顔のまま楽しそうな声で囁いてきた。

「そっか、日本で一番バスケ強い1年生か、そっかあ」

聞いてなかったのかよ。清田は内心こっそり突っ込む。だが、

「私将来絶対自慢するよ、高1の時に日本で一番バスケ強いクラスメイトにご飯奢ったんだ、羽田でうどんだったけど、そーいうすごい選手にご飯奢ったんだよって絶対自慢しまくる!」

そう言ってはふん、と鼻を鳴らした。

清田は返す言葉がなくて、だけど無反応でもいられなくて、ぎこちなく笑顔を作る。嬉しいのと、照れくさいのと、そんな風に自慢できるほどの選手だったろうかという自問と、そして、に対してぼんやりとした感情を抱いたことが混ざりあって、ちょっとだけ居心地が悪かった。

「んー、でも証拠がないな。清田、写真撮ろ、写真」

鼻息荒く自慢計画に夢中になっているが肩と頭を寄せてくるので、清田もそれに倣う。どうせならの肩を抱いた方がいいんじゃないかと思ったけれど、そういうノリではなさそうだ。ついと触れ合っている右腕が疼いたけれど、呼吸とともに飲み込む。

「こんなんで証拠になるか?」
「えー、日付見ればわかるじゃん。インターハイの直後だし!」
「日付とかっていじれるんじゃないの?」
「よくわかんない。ほらほら、いえーい!」

携帯のモニタにはふたりの顔、そしてその間の隙間にはヘッドレストが見えていた。まだ少しだけうずうずしていた右手をぎゅっと握り締め、清田はその隙間を埋めるように、そっと頭を傾けた。髪が触れ合い、ちょっとだけ頭がコツン、と当たる。まさかの連写に笑いつつ、清田は思った。

生徒手帳、落としてよかったのかもしれない。