キス・ミー・アゲイン

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借りた金を返したい、と清田から連絡が入ったのは、翌日のことだった。

しかし夏休みのはアルバイトに多めに入っており、時間に余裕がなかった。清田の方も短い休みの間にやっておかねばならないことが多く、結局バスケット部のお盆休みの間には都合がつかなかった。しかも8月の後半になると清田は国体の合同練習でさらに時間がなく、夏休みは終わろうとしていた。

しかしその国体のせいで9月は一切の週末が潰れる上に、平日も特に休みがないというので、ちまちまと連絡を取り合っていたふたりは8月31日に無理矢理予定をねじ込んだ。清田が休みだったからである。

「じゃあ国体までの間1日も休みがないの?」
「まあ、国体じゃなくても休みはないんだけど」
「それってちょっとやりすぎなんじゃないの?」
「だけど休みにしたところで自主的にやっちゃうんだよ、みんな」
「中毒じゃん」
「否定はしない」

翌日から新学期なので少し体を休めるようにと指示を受けての休みだったが、そもそも小学生の頃から356日毎朝数キロ走ってる、なんていうのが珍しくないのである。じっとしているのが苦手で、1日中寝てる方がつらい、というのもまあ、割と普通だ。清田はヘラヘラと笑っている。

お互いの駅の中間――には特に大きな街がないので、海南最寄駅の近くまで来てふたりは待ち合わせた。

金を返したがる清田に対して、は将来自慢できる奢りなんだからやめてくれと突っぱねた。また、お盆休み中はアルバイト先の時給が若干上乗せされたので、余計に嫌がった。だが、準優勝で祝ってもらうのも心情的に納得できなかった清田は、それならメシ奢るから出てこいと呼び出したというわけだ。

連絡を受けたは、えっふたりで? なんだよそれデートみたいじゃん……と狼狽えた。夏休みの夜の空港、そして高速バスという日常からかけ離れた世界が自分を大胆にし、終いにはツーショットの自撮りまで撮ってしまったことは、翌朝には「やってもうた」になっていた。

ゆったり笑顔のふたりが頭をくっつけて収まっているショットは、正直恥ずかしくて正視できない。

それがまたメシ食おうぜ、と来たので、は慌てて服を買いに行った。バスケットやってる男子というのは、なぜだかオシャレも楽しむイメージがあったし、何しろ清田は背が高くてスタイルがいいし、はっきりした目鼻立ちをしているので部の外に出れば割と目立つ。それと並んで歩かないとならないのだ。

幸い来月入る予定のアルバイト代と夏休みのお小遣いで軍資金はある。きっと清田はこんな服で来るに違いない、というパターンをいくつか考え、それと並んでおかしくない、しかしはしゃいでる感じが出たらダメ、あざとすぎるのもダメ、露出しすぎてもしなさすぎてもダメ、という点をすべて満たす服を1日かかって揃えた。

条件が多すぎたことが仇になり、結果として実に気軽な外出着、そして割と地味という揃えになってしまったことはもう仕方ない。デートみたいなの嬉っしー! という感じが出てしまうよりはマシだ。

しかし何しろの中では依然「日本で一番強い1年生バスケット選手」である。

ご飯食べるだけとは言え、そんな芸能人みたいな子とデートみたいなことしちゃっていいんだろうかと、ワクワクが止まらない。これ絶対自慢できるよ。インターハイのお祝いでご飯奢ったらお返しに奢ってもらったことがあるんだよ! といつか清田がすごいバスケット選手になった時、いくらでも吹聴できるじゃないか。

買い揃えた服をハンガーに掛けながらは少しため息をついて力なく笑った。

私も色々習い事とかやったけど、続かなかったなあ。清田みたいな、これ! っていうもの、見つからなくて。何かをやりたいって思った時は、それでも運命感じてたんだよ。でも、結局何も私の運命じゃなかった。

中でもバレエ教室は悲惨だった。小さな子供の頃のこととは言え、その時の記憶が蘇りそうになると慌てて別のことを考えて思い出を締め出す。いい思い出ではないから。

そうやって部屋でひとり寂しくなったことを思い出しつつ、は清田と並んで街を歩いていた。服装は予想通り。制服に比べてアクセサリーが増えているのも想定内。なのでの感覚ではなんとか釣り合った装いになっている。これで無事に乗り越えられる。

「てかなんかすごい髪伸びたね? 春頃そんなに長くなかったでしょ」
「全然切ってないしな」
「この間そういう髪型した人ファンタジー映画で見た」

苦笑いの清田はざっくりとハーフアップにしており、髪は肩に届いている。

「てかご飯てどこで食べんの?」
「好き嫌いあんまりないって言ってたよな? あそこ」

なんだかちょっと言いづらそうな清田がサッと腕を上げて指した先を見たは、一瞬で浮足立った。この春にオープンしたばかりのハワイアンレストランだった。あそこのパンケーキがふわふわでまじやばいらしいともっぱらの噂で、しかし一番安いパンケーキだけで1500円もするので、高校生には少々ハードルが高かった。

てかなんなのその女子ホイホイな店に連れてくとかいう気の利き方。暇ないとか言いながらあんた遊び慣れてんじゃないの? バスケしかキョーミありませんみたいな顔して女釣り上げるの得意なんじゃないの。ああそうだとも、釣られたよ!!!

どうせファミレスかなんかかと考えていたは一瞬で火がついた。が、

「この間ハワイのパンケーキ食べたい食べたいって言ってたじゃん」

言った。空港で。

「あの店、親が行ったらしくてさ。すげー自慢されたから、あああれか、と思ってたんだよ」

邪推してしまったこととは無関係だったけれど、しかし空港でのそんなちょっとした会話を覚えてたのか、と逆に頬が熱くなる。空港でうどん奢っただけなのにハワイアンパンケーキ連れてってくれたんだよって、桶に入った釜揚げうどんがパンケーキに化けて戻ってきちゃったって、また自慢できちゃうじゃん。

しかしハワイアンパンケーキは例によって一番安いバターとシロップのでも1500円。これにドリンクも付けたらあっという間に2000円。天ぷらたっぷり付けたうどんを既にオーバーしている。奢り返してもらうどころかオーバーだよ! それに気付いたはつい足を止めて清田のTシャツの裾を引いた。

「こまけーことはいいじゃん、もう」
「だけど」
「あそこでうどん奢ってもらってすげえ助かったんだよ。お礼込みだから気にすんな」

裾を掴んでいた手を引き剥がすと、清田はの背を押してどんどん進んでいく。

果たしてハワイアンレストランはプルメリアとハイビスカスでゴテゴテとデコレーションされたウッドデッキというわかりやすいデザインの店構えで、サーフボードと錆びた自転車が立てかけてある。店内には女性しかおらず、スタッフにひとり真っ黒に焼けた金髪の男性がいるのみ。

こんな女子くさいところ大丈夫なのかなとちらりを顔を上げてみれば、清田は何も気にしている様子はなく、入り口にあるメニューボードを凝視している。

「オレはフツーにメシ食うけど、お前も遠慮しないで食えよ」
「あ、ありがと……

これは自慢どころの話ではなさそうだ。はドギマギしながら席に通されると、念願だったホイップクリームてんこ盛りのハワイアンパンケーキをオーダーした。清田は自分もガッツリ食べるから遠慮すんなと言うけれど、そんなにたくさん食べられそうにない。ちょっとばかり、胸がいっぱいで。

しかもそれが高じてぼーっとしてきた。こいつ確か人見知りしないうるさめの男子で、バスケットがほんとにすごいんだってのは最近知ったばかりだけど、体のでかいお子ちゃまみたいに感じてた。だけど……どこがお子ちゃま? なんというかすごく、スペック高くない?

「じゃあその国体に出る4校が予選のトップなの?」
「いやその、えーと、実は夏の予選ベスト4に入ってるのは別の高校もいて」
「そこかわいそうじゃん」
「まあ、しょうがない。トーナメントってそういうものだし」

全国大会に出てしまうような部活動に覚えがないは、清田が国体のことについて色々話してくれるので、身を乗り出して聞いていた。だってつまりそのチーム15人だか16人だか、その中にあんたも入ってるんでしょ。

神奈川県内だけに絞っても死ぬ気でバスケやってる3年生2年生はもっともっとたくさんいるだろうに、だけど、いくら監督が海南の監督だからって、まだ1年生のあんたを選んだんでしょ。ねえそれすごくない? てか自分のことスーパールーキーとか言うからたぶんクラスの子たちほとんど信じてないよ。事実だったなんて!

「てことは、もし国体も遠かったらまた泊りがけになっちゃうのか」
「そう。まあ週末の遠征とかで珍しい話でもないけど」
「ほんとに部活漬けだね」
「まーな。こんな丸々1日休みてのも久しぶりだよ」
「えっ。貴重な休みなのにごめん」

もしかしたら夏休みの宿題終わってなかったかもしれないのに……と思ってしまっただったが、清田はジュースを一口飲むと手をパタパタと振った。グラスに刺さったエディブルフラワーがふらふらと揺れる。

「オレが誘ったんだからいいだろ、別に。お、すげえの来たぞ」
「うわ、どうしよ、なにあれ」
「マジか何あのクリーム」

薄焼きのパンケーキの上にソフトクリームのようなホイップクリームがそびえ立っている。清田は顔をそらして笑いを堪えている。好きなの頼めと清田が煽るので、フルーツたっぷりパンケーキを頼んでしまったのだ。フルーツもたっぷりだけどホイップクリームもハンパない。

「これは……すげえなマジで……
「ふおおお端っこでもアメリカって感じ」
「大丈夫か? 全部食える?」
「平気平気! 明日からしばらく甘いもの控えるから」
「そか。よかったな、いっぱい食べろよー」

そう言ってニカッと笑う清田が、王子様に見えた。

そういうキャラじゃなかったはずなんだけど、おかしいな。ああだけどふわっふわのパンケーキとクリームとジューシーなフルーツが! やんちゃな王子様とてんこ盛りのスイーツが! 目にも口にも極上の甘さが広がっていって蕩けてしまいそう。思わずため息がこぼれる。

「おいしー、幸せ……!」

「なんていうかこう、広く浅く、なんだよね結局」
「興味がないよりいいんじゃねえの」
「ていうけどさ、広く浅くは仕事にならないでしょ」
「そうかあ?」

驚く清田の目の前でパンケーキをペロッと平らげたは、気持ちが蕩けて上機嫌、店を出たけれどまだまだ日は高く残暑が厳しいので、少し移動して涼しいカフェに入った。バスケット部の話をあらかた聞いてしまったので、今度はの話になっている。

子供の頃から習い事が続いた試しがない、という話から、進路の話になってしまった。今のところこれという決まった道もないは出来れば避けたい話題だったけれど、清田が何も特別に反応をすることなく聞いてくれるので、ついついあれこれと喋ってしまった。

「ていうかすぐ何でも憧れちゃうんだよね。この間もCAさんとかいいなとチラッと」
「かっこいいよな実際。ちょっと怖そうだけど」
「そーなんだよ。いいなと思って調べるじゃん。すっごい厳しい世界とか言われるじゃん。萎えるじゃん」

清田は顔を片手で覆って肩を震わせている。

「そういう軽い気持ちで憧れてるのは事実だけどさ、なんかみんなネガティブなことしか言わないんだもん。この職業にはこんなつらいことがあるので、人生を捧げられる人だけ入ってこい、その他は近寄ってくるな! って言ってるみたいに聞こえちゃう。軽い憧れだからさ、よっしゃやったろ! って気持ちにもならなくて」

清田が笑いながら頷いてくれるので、はつい続ける。

「清田はずっとバスケでいいの?」
「そりゃそうだよ。厳しいからどうとか以前にほら、中毒だから」
「ああそっか、いいか悪いかじゃなくて、そもそもバスケが好きなんだもんね」
「好きなこととかないの?」
「うーん、こうやって人と喋ってるのは好きなんだけどね」
「それも特技だと思うけど」

それもよく言われる。だが、7つ年上のいとこが飲食店で接客業をしており、その愚痴を30分聞いただけで絶対接客業には従事すまいと心に決めた。いとこいわく接客業は人間扱いされないと言う。とてもじゃないがそんなの耐えられない。コミュニケーションは優しい人とだけ取っていたい。

「英語とかどうなん」
「どうって、テスト? そんなに良くはないけど」
「喋るの好きなら語学もいいんじゃねと思ってさ」
「おお、語学ね、なるほど……

そして他人から勧められると興味の波が襲い掛かってくる。しかもタイミングよく王子様化している清田から勧められたとなれば、余計に気持ちが盛り上がる。日が落ちる頃になって店を出ても、はまだフワフワしていた。清田が言うなら語学もいいかもしれない……

「てか国体見に来いよ。せっかく近いんだし」
「えっ、誰でも見に行って平気なの」
「同じ学校なんだからいいだろ別に」

そう言われては行くしか。うちわとか作った方がいい? また気持ちがポーンと高いところへ飛んでいく。その上最寄り駅で下車しようとしたら、まだもう少し先のはずの清田まで降りてきた。いわく、送るという。おいおい、王子様やりすぎなんじゃないの。

「毎日通ってる道なんだけどね」
「でももう降りちゃったし」
「歩きだとちょっと時間かかるけどいい?」
「今日動いてないからちょうどいい」

これは嬉しいけど自慢出来ないな。どうだエッヘン! っていう域を超えてる。たかが数百円のうどん奢っただけなのにパンケーキ奢り返されるわカフェで延々お喋りしちゃうわ、しまいにゃ送っていってくれる、なんて。もう自慢にならないかもしれない。こんなこと自慢したら嫌味になっちゃうかもしれない。

だって、ねえ、王子様だもん、これはちょっと自慢できないよ。

通い慣れた道を行きながら、はまた顔が熱くなってきた。清田って女の子には誰にでもこんな風にするんだろうか。さっきのハワイアンレストランは私の言葉を覚えてて、親が行ったからっていうちゃんとした理由があったけど、別に通学路、最寄り駅でバイバイでいいじゃん普通。

だけどそうだな、もしこれから清田が本当にすごい選手だってことが知れ渡って、みんなが憧れるようになったとする。そうなったら迂闊に近付いてなんか行かれないけど、今から仲良くなっておけばまたこうして遊んだり出来るかもしれない。もしかしたらずっと友達でいられるかもしれない! それこそ自慢できるぞ!

「国体終わったらすぐテストじゃん? テスト終わってちょっとしたら文化祭でしょ」
「オレらはその辺からもう冬の予選始まる」
「えっ、早くない!?」
「神奈川って激戦区なんだよ。出場数が多いからすげえ時間かかる」

国体やテストや文化祭の隙間を縫ってまたこうして遊びに行かれたらな、と考えていたはしぼんだ。そんなに早く冬の予選が始まってしまうとなると、当然その前は練習に明け暮れているはずだし、友達と遊んでる暇なんかないだろう。というかまだ友達というほどでもないかもしれない。

何とか隙間を狙って遊びに行き、例えば来年クラスが変わっても遊んだり出来る間柄になれれば――と考えていただったが、バスケット部は想像以上に時間がないようだ。

そうして忙しいまま高校生は過ぎてゆき、そのまま忙しい大学生になり、やがてもっと広い世界に飛び出していくのだろう。そうしたら、高校1年生の夏にほんの少しだけ仲良くしていたクラスメイトのことなんかおぼろげな記憶にしかならないんじゃないだろうか。忘れてしまうんじゃないだろうか。

だけど私は忘れられないだろうなあ。きっと自慢してる。高1の時に同じクラスに凄い選手がいてね、偶然が重なって、一度だけデートみたいなことしたんだ! 帰りは家まで送ってくれて、王子様みたいに見えたよ。

そういう未来予想図にちくりと胸を突かれただったが、線路沿いの道の上、の自宅方向である左に曲がる手前で清田が足を止めたので、一緒に止まった。ここを左折して線路の上越えて、まだもう少しかかるよ。思ったより遠かったかな。もう戻る?

「どしたん? もう少し――
「あのさ
「お?」

清田はやけに真顔だ。も勢い背筋を伸ばして畏まる。何かマズいこと言ったかな……

「今日、楽しかったか?」
「えっ、それはもちろん……楽しかったけど」

清田の言わんとしていることがわからなくてはしどろもどろだ。

「オレ確かに時間は本当にないんだけど、普通のやつに比べたらマジでないんだけど」
「う、うん……
「だけど、よかったら付き合ってくんない!?」
「ファッ!?」

突然来られたので文字通りは飛び上がった。肩にかけていたバッグのストラップを両手で掴んだまま驚いてその場で少し浮いた。付き合ってくんないって付き合うってちょっと待って何その超展開! 何とかしてこのスター選手と友達になれないもんかと思ってたけど、いきなりそこ行っちゃうの!?

「す、好きなやつとか、いなければ、だけど」

真顔だった清田が照れてそっぽを向く。王子様のように感じていたけれど、急に同い年の男の子に見えてきた。

……好きな、人、いる」
「あ……
「同じクラスのバスケ部の人」

既に夏休み、練習が厳しいことでも知られる海南大附属のバスケット部は脱落者が多く、のクラスのバスケット部員は春頃には4人ほどいたけれど、現在は清田ひとりである。一瞬諦めたような顔をした清田だったが、意味が通じるとまた照れた。

照れてむず痒そうな表情の清田が差し出した手を、は何も考えずに取る。大きくてしなやかな手だった。

「時間、ないけど、優先するように、するから」
「国体、見に行くね」
「時間が出来たら、またどこか行こ」
「うん」

も照れていた。夏の夕暮れの線路沿い、繋いだ手を揺らしながらそう言ってふたりはそっと寄り添った。一応誰が通りかかるとも知れない往来、抱き合うというほどでもなかったし、もちろんキスもできなかったし、けれど固く繋いだ手を真ん中に置いて、ほんの少しだけ目を閉じた。