「あれっ、もしかして『ハナミル』じゃないの!?」
「……ご無沙汰しています。覚えていてくださいましたか」
もちろんのでっち上げだ。道々初等科にいた頃のことを思い出して用意しておいた目くらましだ。
「ハナミル?」
「あ、ごめんなさい、初等科2年の頃にこの人鼻からミルク戻したことがあって」
「……やめて下さいそんな子供の頃のこと」
「それ以来クラスではハナミルと呼ばれてたの」
ピリッと緊張の糸が張り詰めていた大広間は「鼻からミルク」のせいで妙に緩み、顔を背けて笑っているのもいる。の父は娘と囚人を交互に見ながら思案していたが、その目にはあまり疑いの色はなかった。そしての腕を引いて広間の端までやって来ると声を潜めた。
「仲が良かったのか?」
「特別学級に入るまで一緒だったから、そりゃ学院にいる間はたくさん遊んだけど」
「どういう子だ?」
「子供の頃のことだからアレだけど……普通の子。ハナミルなんて呼んでも怒らない子だった」
どうやら腹の底にはこの国に対する憎悪が隠れているようだが、しつこく話しかけてくるに対して怒鳴ったり汚い言葉を浴びせかけたりすることはなかった。そういう意味では父親に言ったことは間違いではないとは思っている。
「実はこんなものを所持していたんで連行してきたんだ」
「なにこれ」
「……地下牢の看守が持つ鍵」
「は?」
「8年前のものだ」
「はちね……嘘」
8年前、反体制派の囚人が脱走した時の地下牢の鍵。もちろん直後に鍵は新しいものに替えられた。は思わぬ展開に少し背中が寒くなった。8年前なら確実に子供だったろう彼は一体――
「本人は人からもらって首飾りにしていたと言い張っている。何の鍵かは知らなかったと」
「まあ古いものだからありえない話じゃないかもしれないけど……」
「だけどもしお前と同級だったのならなぜ傭兵になったのかも気になる」
「貧しいのが嫌で国を出たなら傭兵になるのはちょっと理屈に合わないしね」
「というかこの鍵以外はほとんど怪しいところもないんだ。反体制派との接点もない」
しかし物が物なので捨て置けない。そこでが呼ばれたわけだ。
「他の虜囚と違って一貫して大人しいし、他の傭兵に聞いても暴れたくて傭兵やってたわけでもないらしい。この鍵の謎さえ解ければいいんだ。ちょっと頼まれてくれないか。その間雑務は人員を回すように手配するから」
はためらいがちに見えるように頷いてみせた。
「わかりました。鍵のことをすっかり話すまで私が預かります」
こうしては両手を鎖で繋がれた囚人をひとり手に入れた。
「王女が囚人を部屋に入れていいのかよ」
「忘れてるだろうけど今あなたはお友達の『ハナミル』だからね」
「てかなんだよその酷い設定は」
「いや、実際にいたの『ハナミル』。今はもう大陸すらも出ちゃってるけど」
設定上は幼馴染なのだから部屋に入れても何も問題はない。はぼーっと突っ立っている囚人を置いてバタバタと部屋の中をひっくり返している。
「だから名前教えてって言ったのに」
「まさか本当に通じるとは思ってなかったからな」
「それで? 本当の名前は?」
「み……いや、寿」
「私はアダ名なかったから、のままね」
それをそのまま言っていいものかどうか迷っている様子の寿に、はボフボフとタオルを押し付ける。
「何だよこれ」
「牢にいたんだからしょうがないけど、ものすごく臭いからさっさとお風呂入って」
「お、おお、すまんな」
「服は届けてもらうように言ってあるから。あと、体洗い終わったら呼んで。髪、切るから」
「裸のままで呼べってのかよ」
「そのくらい言われなきゃわからない? 何のためにタオル何枚も渡してるのよ」
すぐに憎まれ口を叩きたがる寿の背中をぐいぐい押して浴室に押し込める。甲国は水資源が抱負なので風呂が各部屋にあり、いつでも好きな時に入浴できるようになっているのが普通である。寿は例えば乙国ならひとりひと風呂など考えられないというのに、これも何も言わずに入っていく。もう間違いなくこの国の人間だ。
寿が浴室で体を洗っている間に頼んでおいた服が届き、ついでに父親から「口を割らせるのに必要な物があれば私に直接言いなさい」という伝言付きのおやつが届いた。
話を聞くのはいいけれど自分用以外に椅子もないので、慌ててソファとテーブルセットも入れてもらう。の母と従姉妹の母は2年前から地方都市を回っては国民の流出を止めるべく奔走しているので、彼女たちの部屋の物は何かというと持ち出されてしまう。の部屋に届いたのも母親の部屋にあったものだ。
そこにおやつを並べ、聞き取り用の紙とペンを置いたところで浴室のドアが開き、声がかかった。
普段から簡素なドレスで仕事をしているは腕まくりをし、替えの服と剃刀と鋏を手に浴室に入っていく。湯気で視界が悪い。寿も窓を開けて湯気を逃しているらしい。チェストの上に剃刀と鋏を置いて顔を上げると、腰から下にタオルをしっかり巻いただけの寿が髪をかきあげて佇んでいた。さすがに傭兵、よく鍛えられている。はつい目を逸らした。
「お前が呼べって言ったんだろうが」
「髪を切るんだからしょうがないでしょ。裸が見たくてやってるわけじゃない。そこ座って」
寿の方も少し照れたような表情をしていたが、は直視しないようにして鏡台の前の椅子を勧める。肩まで届く髪をバッサリ行かないことには「初等科時代のお友達」という体裁を保てそうにない。大人しく寿が椅子に座ると、肩にタオルを掛けて遠慮なくジョキジョキ切っていく。まっすぐな黒髪がバスルームの石畳の上に散らばる。
「……本当はどこの学校にいたの」
「……元は山の方。最初はそこの町唯一の学校にいたけど、途中で引っ越した」
「国を出たのは?」
「11の時」
鏡台の鏡の曇りが取れていき、そこに映る寿の仏頂面が見えてきた。は髪に鋏を入れながらそれをちらちらと見ていた。11歳、初等科は13歳までだから、卒業すらしていなかったわけか。ということは、この国が13歳成人になってしまったことも知らないだろう。
「もう国境沿いの紛争は始まってた頃……国外に逃げようと思ったの?」
他に聞くこともないのでさっさと切り出しただったが、返事がない。
「最後にいたのは引っ越した先? それともまた別のところにいたの?」
「前にも聞いたけど、なんでそんなこと気になるんだよ」
「……亡命した人なら傭兵になって戻ってきたりしないし、反体制派なら乙国の人になってるはずだから」
寿はどちらにしても中途半端、傭兵になって乙国に与していることがとても不自然に思える。
「理由があったとして、それを知ったらどうするんだ」
「それは知ってから考える。どんな内容でも同じ答えとは思えないから」
「ふん、そりゃそうだな」
なかなかきれいに整わないので、寿の髪はどんどん短くなっていく。鏡の中にいる寿はもう別人のようだ。
「何か、話せない理由でもあるの?」
「……お前年は?」
「18」
「ははは、同い年かよ。子供の頃の記憶って思ったよりないもんだな」
「どういう意味?」
襟足に剃刀を入れていたは手を止めて鏡の中を覗きこんだ。寿はにやりと笑って腕を組んでいる。
「……これからオレが言うことは誓って真実で、知らなきゃよかったと思うかも知れねえけどいいんだな」
「う、うん……」
「あと、何から何まで親父さんに報告するな」
「わかった」
ここで逆らっても仕方ないので、寿の肩にそっと手を置いたはしっかりと頷いておく。
「オレはここを出て行くまでの1年ちょい、この城にいたんだ。だから学院が一緒なのは事実だ」
石畳の上に鋏が落ちて大きな音が部屋中に響いた。はそれを拾おうともせずに寿の前に回りこむと、記憶を確かめるように彼の顔をまじまじと見つめた。だが、どう考えても記憶にない。成長で顔が変わると言ってもまだ18なのだし、面影くらいは残るはずだ。
「……何度見ても記憶にはないと思うぞ。オレが中央に転校してきたのは10歳の時だし、お前はもう特別学級」
「だけどこの城にいたんなら……」
「いたと言っても1年ちょい、もう男女を引き合わせてお友達になりなさいって歳でもねえだろ」
祖父は自分に甘く他人に厳しい典型的な暴君タイプなので、こういうところは厳しかった。は納得して鋏を拾い上げ、また寿の背後に戻った。とっさに思いついた嘘が一応事実だったとは……。
「オレの親父は元は地方の上院議員で、だけど堅物だったもんで、城で召し抱えたいと言われてホイホイやって来たわけだ。位も授かって、当時は反体制派ばっかりが入ってた牢の管理やら尋問やら、そういうことをやってた。そこでしばらく働いたら裁判所に移してやるって言われて頑張ってた」
は嫌な予感がして鋏の速度を落とした。それはまさか――
「……お察しの通りだよ。例の脱獄の手助けをしたことにされた」
「そんなの、おかしくない……?」
「誰だってそう思うよな。赴任して1年も経たない地方出の役人がなんでそんなこと、ってな」
しかしそれは地下牢に入っていた反体制派にコロッと洗脳させられたという理由で片付けられてしまったそうだ。
「てかその時の脱走犯、どんなやつか知ってるか?」
「あんまり詳しくは……確かなんかかっこつけた名前で名乗ってて」
「ワルキューレ、つまり戦う女だ。女だったんだよ、その囚人。それに誘惑されたことになっちまった」
反体制派の重要人物で城の地下牢から脱獄、乙国に亡命して今も紛争の中にいるとされる人物が女性だったことには驚いてまた手を止めた。勝手に髭もじゃのおじさんを想像していたからだ。しかしだからといって――
「堅物で召し抱えられたような人がそんな簡単に……」
「堅物だったからあしらい方を知らなくて洗脳されたってことになってる」
「そんなことしたら自分だってただでは済まないのに」
「一緒に逃げるつもりだったんだろうってことになってる」
「……本当は?」
「一切身に覚えがないって言ってた」
鏡の中を睨んでいた寿はふっと視線をそらすと、開いた窓の向こうをちらりと見てため息をついた。
「北の塔にも入れられたんだ。どうしても証拠がなくて出された時は弱った悪魔みたいになってた」
「それで国を出たの……」
「出たんじゃない、出されたんだ。地方に残してきた財産はすべて没収、着の身着のまま追い出された」
なんとか短く切り揃えたは鋏を置くとまた寿の肩に手を置いた。
「ごめんなさい……」
「別にお前が悪いわけじゃないだろ。あの時のことは親父自身もよくわからないままだ」
「だから芯から腐ってるって言ったの」
「……あちこち放浪してる間に親父は衰弱死、母親も途中で病死、傭兵くらいしか出来ることがなかったからな」
つい力が入ってしまったの手を寿は優しく取り除けて肩のタオルも外す。
「……オレの知ってることは全て話す。その代わり協力してくれないか」
「何を?」
「真相究明、真犯人」
寿が立ち上がると見上げるほどの背丈になってしまう。もう裸にドギマギしている余裕もなくなってしまった。
「……嘘は、ないんだよね?」
彼の話が真実なら手助けしてやりたいと思うのだが、これが巧妙な洗脳の手口だとしたらと思う気持ちがどこかにある。念を押したの目の前で寿は鏡台の前に置いてあったリボンを取り上げ、さくさくと錠前結びを作り、の手を持ち上げてその上に乗せた。
「約束の印」
「……男の人が結ぶと生活苦になるって言われてるんだけどね」
「えっ!? そうなのか!?」
自然な反応だった。は気持ちが緩んでふっと笑うと錠前結びのリボンをドレスの帯に挟み込み、浴槽に湯を流し込む。髪の毛だらけなのでもう一度流して完了だ。
「わかった。じゃあとりあえず全部洗い流して、それからまた話を聞かせて」
「ついでに何か食べ物ないか。腹減って……」
「おやつが届いているから、それ食べよ」
途端に目がキラリと輝く。はくすくす笑いながら浴室を出た。
すっかりきれいになった寿は髪も短くなり、清潔な服を与えられると傭兵には見えなくなっていた。
「てか手枷、外したままでいいのか」
「誰か来たらつければ?」
「王女のくせに危機感足らねえんじゃないのか」
「もし私を殺す気ならお風呂でとっくにやってるでしょ」
「まあな」
会話の内容は不穏だが、寿はバクバクとおやつを貪り食っている。牢の食事は基本的に1日1回なので腹も減るだろう。とにかくの父親は効率重視なのでこういうところをケチったりはしない。おやつというよりは軽食が来ていた。腹も膨れ、非力な王女相手なら頑なにならずに喋るかも、という判断だ。今のところ正しい。
「それで、何か手がかりはあるの」
「さっき取り上げられた鍵は親父が実際に預かっていた地下牢のものだ。親鍵」
「だけどお父さんは開けてない?」
「開けてないどころか地下にいなかった。だけどひとりだったからそれは証明できない」
地下牢は地下1階から地下3階までとなっていて、実際に囚人が入っているのは地下2階。地下1階には例の尋問室や厨房があり、地下3階は囚人が房で使う藁やゴワゴワの毛布の置き場や汚物の処理室などがある。この内寿の父親が所持していた鍵は地下2階への階段を降りた先にある一番厳重な鉄格子の鍵ということになる。
地下1階はその性質上、施錠の必要がないので地上からは階段を降りてくるだけで入れる。尋問室も普段は鍵がかかっているが、特に厳重なものではない。厨房はそもそもドアも格子もない。
一方地下2階は看守の詰め所がまずあり、そこから東通路と西通路に通じる鉄格子がある。この鍵は看守も持っていて、が食事を配る時はこれを開けてもらって入る。通路間は格子やドアはなく、牢内はほぼ回廊なので逃げ場はない。
囚人が脱走したのなら、東西の通路を通り、看守の詰め所を抜け、一番厳重な鉄格子も突破して地下1階に上がり、そこから城内を経由してしか外に出る方法はない。
「……普通無理だよね?」
「突破しなきゃならない鉄格子だけで3つ、基本的に無人なのは地下1階だけ。親父はそこにいたんだ」
尋問があるか配膳時でなければ人がいないのが普通の地下1階でひとりでいたという。は腕を組んで頭を垂れた。それが怪しいとは思わないが、これ以上不在証明のしようがない状況があるだろうか。
「お父さんそこで何してたの」
「囚人が脱走したのは深夜1時くらいだったらしいんだけど、0時の巡回が終わって帰り支度をしてる時だった」
彼の父親は看守ではなくて役人なので、0時の巡回までは城内にいて、それが終わると城の敷地内の宿舎に帰っていた。息子の寿もそこで寝起きしていて、母の話によるとその日はいつもと変わりなく帰宅し、夜食を取って間もなく床についたという。しかしその宿舎に帰るまでもずっとひとりで、誰も無実を証明しようがなかった。
ただし動機の点で非常に疑問が残るのと、実際に逃亡させたという証拠が出てこないので処刑は免れた。とはいえその時点で北の塔に入れられていて、自分でも何が正しいのかわからなくなっていたそうだ。
「うーん……証拠がないことには……」
「だろ。そこから攻めてもどうしようもねえんだ。だから協力して欲しいんだよ」
「どういうこと?」
「オレの父親が無罪の証拠、じゃなくて、別の人間が真犯人である証拠」
すっかりおやつを平らげて満足そうな寿はお茶をガブリと飲むと、袖でぐいっと口元を拭う。そうか、とは膝を打つ。もう彼の父親は他界してしまっているし、元々証拠がなさすぎて件の事件の容疑者の中では珍しく極刑を免れている。そこをほじくり返しても新たな発見はあるまい。それならば、真実を探せばいい。
「ええとその、協力してもらえますか、王女様」
「どこまでできるかわからないけど……わかりました」
「……ありがとうございます」
寿はホッとした表情でソファを滑り降りると跪き、の手にぎこちなくキスをした。