七姫物語 * 姫×王太子

4

劇場前での頬にキス以来、と神はあからさまにギクシャクしだした。とはいえそれも館の中だけのことで、館の中にいても普段出入りのない城の者などが顔を出すと、ふたりともきれいな作り笑顔で仲良しを装っていた。そんなだから、きっと世継ぎはすぐ誕生するに違いないともっぱらの噂であった。

相変わらず神は会議ばかりの生活、は毒蛇の一件以来少し行動を慎むようにはなったけれど、やっぱり暇なのでばあやのいる厨房や危険のない作業をしている使用人のところに入り浸る日々を送っていた。

「少しじっとしてろよ」
「前よりはひとりで過ごすようにしてる。宗一郎がそういうところを見てないだけでしょ」

会議と昼食が終わったので、はバルコニーの掃き掃除をしていた。最近庭木に花が咲いたので、風に乗ってその花びらが飛んでくる。はちょっともったいないと思いつつ、バルコニーの外に掃きだしていく。

「結婚したらどうするんだよ。掃除なんかやらせないぞ」
「それはその時考える」
「ほんとに可愛くないなお前は……
「だから可愛い必要ないんじゃないの?」

ギクシャクはしているが、は動じないし、神の皮肉にもちゃんと切り返せる。それが少し面白くない神は、とうとうが背を向けたまま言い返してくるようになったので少々強めにカチンと来ていた。スタスタと背後に歩み寄ると、忙しなく動いている箒に手をかけて止めた。

「お前を黙らせるのなんか、簡単なんだからな」
「へえ、そうなんだ」
「出来ないと思ってるな」
「そりゃあね。私は脅しには屈しな――

きっと神を睨み上げたは驚いて固まった。顎に指をかけられて、神の顔が目の前にあったからだ。

「ほら黙ったじゃないか。お前は強気なくせに、こういうことには弱い。顔、真っ赤」
「しょうが、ないでしょ、城下の女の子たちとは育った環境が――
……それにすぐ泣く」

じわりと赤く染まるの涙目が神の目を見つめている。悲しくて悔しくて寂しいのだ。

……だったら構わないでよ」
「オレの部屋の掃除を始めたのはそっちだろ」
「わかった。もう二度としない」
「逃げるのか。キス、怖いんだろ」

嘲るような言い方だったけれど、神はしかめっ面をしていた。苦しいのは私の方なのに、こいつ何でこんな辛そうな顔してんの。私が気に入らないならやっぱり結婚なんかやめた、って言って帰ればいいのに。ちゃんと好きになれる人と結婚すればいいのに。どうしてここにいるの。何で私なの。は頭がぐるぐるしてきた。

「そっちこそ……物々交換の女にキスなんか、出来ないくせに、偉そうに」
「バカにするな。お前とは違う。キスくらい簡単だろ」
「出来ない人ほどそういう風に言うんだよね」
「なっ……
「私は別にキスなんかしてもらわなくてもい――

いいけど、と言おうとしただったが、言い終わる前に唇を塞がれて息を呑んだ。息が止まる。

を不慣れですぐ狼狽えるちょろいお子様だとでも言いたげだった神だが、どうしたことか、キスはあまりに優しくてそっと触れただけも同然で、は目眩がした。こんな意地悪ばかりを言って勝手にキスしてきたくらいだから、きっと乱暴にされるんだろうと思ったのに、なんなんだこのふんわりしたキスは……

ふたりの手が離れて、箒がバッタリとバルコニーに倒れる。目眩とともに震えてきたがつい神の服に手をかけてしがみつくと、神の手もの背中に回り、そっと支える。やがて花びらとともに風が吹き込むと、思い出したようにふたりは離れた。は俯き、神は顔をそらしている。

……挙式は人前でやらなきゃいけないんだからな。もう動揺するな」
……そっちこそ」
「オレは動揺なんかしてない」

はもう何も言わずに箒を引っ掴むと走って部屋を出て行った。またぼろぼろと涙が零れる。こんなところをばあやに見つかったらまた心配されてしまうから、は館を出て庭の木々の間に潜り込んで膝を抱えて泣いた。なんであんなことしたの、どうしてあんなキスだったの、物々交換ならなぜ、あんな風に優しく抱き寄せたりしたの――

意味もなくキスしてしまって以来、ふたりはギクシャクどころかまるで喧嘩したカップルのように今度はツンケンし出した。しかし険悪なのとも違って、お互いがお互いを皮肉ったり揚げ足取りをしたり、隙あらばぎゃふんと言わせてやろうという雰囲気だった。なのでばあやや側近たちはどう諌めたものかと困っていた。

神がこの国にやってきてからそろそろ3週間になろうとしている。1月ほど滞在したいと言っていたので、予定ではあと1週間程度で神は国に帰る予定だったのだが、毎日難しい顔で会議を繰り返すばかりで、帰還の話は一向に出てこない。

一応の父上は好きなだけいてもらっても構わないよ、と気楽なものだったが、それならせめて寝起きだけでも城に帰らせてもらえないだろうか……は思い始めていた。神はともかく神の側近や使用人たちと過ごすのはとても楽しいので、それは毎日一緒でも構わない。けれど、窓ひとつない使用人部屋が辛くなってきた。せめて換気ができる窓が欲しい。

そんなある日のことだった。神たちが朝だけでなく夜まで会議ばかりしていたので、はいつもの使用人部屋を出て、1階にある小部屋を借りてそこで眠っていた。元々は意図的に狭く作られた談話室だが、誰も使わないので一晩くらいソファ寝でもいいや、と逃げてきた。その夜遅く、というかほぼ夜明け前のことだった。

談話室は館の正面玄関のすぐ隣にあって、ひと気のない場所にある。なのでとても静かなのだが、聞きなれない物音を耳にしては目を覚ました。まだ真っ暗だが、カーテンをずらしてみると空の裾がほんの少し白っぽくなり始めていた。こんな時間に何だろう……は夜着にガウンを引っ掛けた状態で談話室のドアを開けてみた。

ドアの隙間から目を凝らすと、側近らしき男が数人、静かに正面階段を登っていく後ろ姿が見えた。まあそろそろ外国での滞在が3週間、神に着いてきた家臣たちも気晴らしがしたくなってくる頃か。城下には朝方までやっているパブもあるから、ちょっとはしゃいでしまったのかもな、とは考えた。

そうして階段を折り返して2階に上がっていく家臣の顔をちらりと見て、静かにドアを閉めた。うん、見覚えのある顔だ。さあて私も二度寝しようかな――とソファに腰を下ろしかけた瞬間、は頭を打たれたような衝撃で目が覚めた。あの顔は覚えてる。覚えてる、あれは、あの男は、毒蛇を持ってきた男だ!

は裸足のまま部屋を飛び出し、階段の脇に飾り物として置いてある甲冑から槍を奪うと全速力で階段を駆け上がる。何も聞こえてこない、静かなままだ。だが、階段を上がりきった真正面にある主寝室のドアが薄っすらと開いていた。背中がサーッと冷たくなったは、また猛然と駆け出して主寝室に飛び込んだ。

神が寝ている部屋に駆け込むと、男が3人、神の口を押さえて刃物を突きつけているところだった。

「何してるの、離れなさい!」
「誰だ! ……って何だ、使用人か」
「その手を離しなさい」
「おい、面倒だ。片付けろ」

見たところは普通の女の子なので、槍を構えていても素手で捕獲できると思ったに違いない。だが、は油断していたふたりを瞬殺、そのふたりが倒れた拍子に床に転がり落ちたナイフを拾い上げると、正確無比なコントロールで投げてもうひとりの手を刺し貫いた。神に突きつけられていたナイフが落ち、戒めが解かれた神は勢い良く咳き込んだ。

手にナイフを刺されて呻く男を蹴倒して、は喉元にピタリと槍を突きつけた。

「お前、この間毒蛇が入った小箱を私に預けた男だな」
「ちょ、おま、なんなんだ使用人のくせに」
「使用人じゃない。私はこの国の王女でそこの王太子の妻だ! お前こそ何者だ!」

今にも槍で刺し貫きそうなだったが、そこに騒ぎを聞きつけて側近たちが雪崩れ込んできた。すわ一大事かと飛んできた彼らは槍を手にひとり無傷で佇むと、その足元に転がる男3人を見て絶句した。が、に侵入者だから拘束するようにと指示を出されると、我に返って慌ただしく取りかかる。

はそれを確かめると槍を放り出してベッドに駆け寄った。やっと咳き込むのはおさまったようだが、神はまだ呼吸が荒い。はベッドに飛び乗ると素早く神の背中を擦った。

「もう大丈夫だよ、怪我してない? 痛いところとかない!?」

神はベッドに倒れこむと、弱々しく手を伸ばしての頬に触れた。緩く微笑んでいるようにも見える。

「どうしたの、何か――
「何で、助けたんだ」
「はあ? 何でって……
「お前、オレの、妻、なのか」
「え。あ、あの、それはその……

がしどろもどろになっていると、神はほんの少しだけニヤリと笑って、そして意識を失った。

「お恥ずかしい話なのですが、我が国は王位争いの歴史とともにあります。いつまで経っても終わらないのです」

まだ夜が明け切らなくて灰色の部屋の中で、初老の側近はため息とともにそう零した。今回の件は城には黙っておこうね、では済まされない問題であり、目下その件について家臣たちはあれこれと準備や相談をしている。そんな中、は側近とばあやに呼び止められて、彼らふたりの独断で話を聞いている。

「王家と言っても、我が国の王家には本家と分家の2派があり、宗一郎様は本家筋の跡継ぎです。当家が国を治め始めた頃からの直系ですので、彼が正統な次期国王であることは間違いないのですが、王位の奪い合いを繰り返していて、そのどちらもが正統性を主張している状態です」

始祖から辿れば血筋的には神に行き着くけれど、分家にも統治の歴史があるので引き下がらないのだという。

「戦乱もありました。飢饉や災害もありました。ですが本家も分家も統治能力としてはどちらも大して変わりません。後継者の血筋が変わるだけの話です。しかし諍いが終わらないので、宗一郎様は子供の頃からその渦中で育つことになってしまったのです。しかも王太子です。分家筋から執拗にお命を狙われ続けてきました」

神の父親である現国王もそうして育ち、無事に即位したわけだが、今度はその跡継ぎである神が狙われ始めた。

「最初の襲撃は生まれて3ヶ月の頃だったのですよ。私が抱っこしている時でした」
「3ヶ月……
「ちなみに宗一郎様の生母である当時の王妃様は彼を守って亡くなられています」
「そののち新しい王妃様も迎えられて、また男の子が生まれましたが、既にふたりほど殺されています」

なので長子である神の下には男子がひとり、女子が4人いる。全員無事なら男女4人ずつというところだったわけだが、幼子をふたりも手に掛ける分家が恐ろしいと神の弟妹たちは地方に逃げ出して帰ってこないという。一応神が無事に育ち上がっているので、それでも問題はないわけだが……

「一方で、我が国には国王に即位する時は満たさなければならない条件があります。王家の血を引く成人している男子であること、現在進行形で病を患っていないこと、そして、妃がいる――結婚をしていること。この3つが満たされていないと王位には就けないのです」

古いしきたりだそうだが、これにより幼王を置いた傀儡政治や性別を偽っての即位を防ぐ目的があるのだとか。譲位は認められず、王の死去とともに直系の年長男子優先で次の王が決まる。始祖の血筋である本家が神で4代目なので、分家がだいぶ焦っているらしい。彼らにとっては100年近く本家に王位を奪われたまま、なのだろう。

「まだ現国王は健在ですが、こちらも絶対に誅殺されないとは言い切れません。宗一郎様が成人している以上は、早く妃を迎えていつでも即位できる状態にしておく必要がありました。ですが、国内の貴族からは軒並み断られ、目ぼしい近所の王家からも『死なせるために嫁にやりたくない』とはっきり言われてしまいました」

そう言う側近ははっきり言わないけれど、つまりそうやって断られない王家を探してに行き着いたのだろう。しかしそれは納得できるので、は黙って頷いた。大陸中にその名を轟かす大国だというのに、自分たちはそんなお家騒動を抱えていることすら知らなかった。ド田舎の王家丸出しである。

「宗一郎様にどんな思惑があるか、それを全て包み隠さず伺っているわけではありません。けれど、あなたが結婚に頷いて下さったので私たちは命拾いしました。今回こちらへ押しかけてきた者たちは全て宗一郎様の家臣ということになりますが、もし宗一郎様が殺されたら私たちもまた処分されてしまうのです。だからみんなで一緒にいるのです」

それなのに賊を神本人の寝床まで近寄らせてしまったので側近たちは落ち込んでいる。穏やかな国ののんびりした生活でたるんでいたと肩を落としている。がいなければ神はあのまま殺されていた。王太子とその家臣団は2度に渡りに救われているのだ。

「しかし……これではあなたに無理を強いることになります」
「え、でも……
「宗一郎様の憎まれ口くらいならまだ照れている程度のものです。だけど命の危険となると話は別です」

側近の方はこんな状態ではを妃として迎えるのには不安が残る、という表情だ。だが、静かに話を聞いていたばあやがの手を取り、涙目で微笑む。

「若様は……そういう環境で育ったので、あのように完璧な外面を備えましたけれど、中身は歳相応の、まだまだ少年です。あなたには申し訳ないと思いつつ、いずれ夫婦になるのだから本当の若様を知って頂いた方がいいと思って、窘めたりはしませんでした。姫も負けじと言い返してくれるから、私はそれが嬉しくて……

そう、が神の豹変に負けたりしなかったので、ばあやを始めとする家臣使用人たちはを好意的に受け入れ、この姫なら殿下をお任せ出来ると思うようになった。今回の件も結果的に神の命を救ったことには感謝もあるし、ますます信頼を持てるだろうが、それにしては危険がすぎる。

いくらが男3人相手に槍一本で楽勝だったのだとしても、次は勝てないかもしれない。その時代償として差し出さなければならなくなるのは生命だ。取り返しがつかない結果になってしまってからでは遅い。

「今も本音ではあなたにこのまま婚約者でいて欲しい、予定通りお妃様になって欲しいと思っています。若様は私たちのような者にいつも囲まれているけれど、それでも孤独なのです。私たちはあくまでも家臣、使用人、注げる愛情の種類が違います。若様をひとりにしないでと、思ってしまう――

そう懇願しているのと同じだった。ばあやの手を側近が止める。

「殿下、失礼を。お命の安全には代えられません。このことは陛下にもご報告いたします」
……わかりました」
「その上で最終判断をいたしましょう。契約はまだ婚約の段階ですから、破棄は可能です」

ばあやはじっと涙目でを見上げていた。そんなのは嫌だと言いたいのを我慢しているに違いない。さても今回の件の報告を受けた父上がどんな反応をするのかさっぱり見当がつかなくて困惑した。あの人ならなんて言うだろうか。その場でカッとなって破棄だ! となるだろうか。それとも一度交わした契約は破ってはならんと義理を通すだろうか。

それと同時に、自分は一体どうしたいのかと考えるけれど、これもまったく答えが見えなかった。