いろはにほえど

3

「でも……匂いって不思議だよね、私姉がいるんだけど、やっぱり全然好みが合わないし、しかも同じ匂いでも感じ方が違うの。姉が好きな香水、私には錆びた鉄みたいな匂いがするんだけど、もちろん本人はそんな匂いしないって言うし、私の好きな匂いは病院みたいな匂いがするって」

は姉指定の柔軟剤を使いたくないと言って母親と大喧嘩したことがある。衣類が全て臭くてかなわない。なので現在家は基本的に柔軟剤使用禁止である。どうしても使いたかったら自分の衣類の洗濯は全部自分でやり給え、と母親は嬉しそうににやついていたが、姉は現在学生の身、早々に諦めた。

「バスケ部も柔軟剤禁止だよ。みんなが匂いのするもの付けてくるとすごいことになるからね」
「制汗スプレーとかも使わないの?」
「部活の後はシャワー入っちゃうからいらないんだよ。冷却スプレーとかは使うけど」

は神が自分と同様にスッとした匂いが好きだと言っていたことを思い出して、少し嬉しくなった。女子好みな甘い匂いが苦手でもバスケ部のすごい男子とデートみたいなこと出来るんだぞ!

楽しく班行動をしていたせいですっかり忘れていたが、神は簡単に言うと、神奈川で一番強い高校バスケット部の、次のキャプテンである。しかもちょっとかわいい顔をしていて、その割に真面目で努力家、厳しいけれど意地悪ではないので後輩にも慕われているともっぱらの評判だ。

それとふたりっきりで、こんな、デートみたいな。

いくら同じシナモンの匂いが苦手な仲間だからってハブられた自分なんかを気にかけてくれて、昨日なんか思わず泣いちゃっても心配して背中撫でてくれたりして、優しい。神と一緒にいて困ることと言えば、背が高いので話す時にだいぶ見上げなきゃならないことくらいだ。

ハブられたのが想像以上にキツくてめそめそしていただったが、これはハブられてよかったのかもしれない、と思うくらいには上機嫌になっていた。それと同時に、このまま1日中楽しく過ごしていたら勘違いしてしまうんじゃないかと少し怖くなる。ダメダメ、バスケ部すっごいモテるから無理だよ。

ハブられる前は同じクラスの数人で回る予定になっていた。主な目的は地主神社。京都屈指の恋愛にご利益があるという神社だ。何しろこのグループは全員彼氏なし、今のところ片思いしてる人もなし、恋愛に飢えている状態だった。しかし願う前にこんなデートみたいなことになるとは。

でもまあ、これがイコール付き合うってことになるわけじゃないし、いくら神様でもさすがにこれはハードルが高いよね。今日1日楽しく遊んで思い出になったら忘れるようにしないとね。

……ってそういえば部活って修学旅行帰ったらすぐあるの?」
「一応翌日は休みってことになってるんだけど、まあ休まないよね。冬の……大きな大会が近いし」
「ああ、なんだっけ、渋谷でやるやつだよね」

ほら、神は忙しいのだから、邪魔したらダメ。はしつこく自分にそう言い聞かせていた。だが、雰囲気のいいお店に入るたび、テイクアウトできる食べ物を買うたび、もし神が彼氏だったらなあという憧れがじわりじわりと心に広がっていくので、少ししんどかった。

例えば、ホテルの朝食ではどうにも足りなかった神が食べたいと言うので、団子を買った。スッとした匂い好き同士、ふたりとも草団子が好みで、1本ずつ買った。神が受け取ってくれて、彼は何のためらいもなく「こっちの方があんこが多いよ」と言ってあんこが多いらしい方をに差し出した。

わざと気遣ってやっている感じはしなかった。それがなんだか恥ずかしくて、神の方が体が大きいんだから神が多い方を食べなよ、と言えば、女の子に量の多い方あげるのはまずかったね、ごめんと言い出した。

こーいうのをスパダリって言うんじゃないの……付き合ってればの話だけど……

はそれでも舞い上がってしまわないよう務め、神の記憶の片隅に残るかもしれないこの日のことを少しでも良い日にしたくて、一緒に楽しみながらもわざとらしくならないように目一杯気を使っていた。

甘ったるい匂いが苦手という共通点のおかげか、昼食を取るのでも好き嫌いによる擦れ合いもなかったし、人気のある場所を避けていたせいで誰とも会わなかったし、ふたりはだいぶ京都観光が楽しくなっていた。なので、どちらも気が緩んでいたのかもしれない。

昼食を取った後、またふらふらしていたふたりは雰囲気の良い雑貨屋に足を踏み入れた。午前中にあまりたくさんお土産を買ってしまうと午後にかさばる荷物を抱えて歩かねばならないので避けていたが、もういいだろうと思って気軽に入ってしまった。奥に入ると、お香が焚かれていた。

ちょうど町家造りの店の入口から奥に向かって風が吹いていたので匂いが薄れていたのと、楽しく喋っていたので、気付かなかった。風がやみ、ゆったりと甘いお香の匂いが漂ってきたところでふたりは覚醒、慌てて店を出ようとした。だが、運の悪いことに団体客がぞろぞろと入店、出られなくなってしまった。

は慌ててハンドタオルで鼻をふさぎ、神も顔を背けて手の甲で鼻に蓋をした。だが、じんわりと香りが侵入してくる。甘くて丸みのある香りは優しく店内に漂い、団体客の女性はその香りを楽しんでいるが、と神にとっては毒にも等しい強烈な香りだった。

そうしてお香の匂いの中で耐えること数分、団体客の間に隙間が出来た瞬間、神はの肩を抱き寄せて店を飛び出た。店を出るなり鼻を解放したふたりは音を立てて大きく息を吸い込んだ。早く匂いのもとを追い出さねば! そして一刻も早く何の匂いもしない場所へ逃げなければ!

焦ったふたりは走り出し、大きな神社を見つけると迷わず飛び込んだ。神社なら常に香を焚き染めているわけではないだろうし、境内は豊かな緑に溢れていて爽やかな植物の香りが漂ってくる。

観光客もいるけれど、駐車場に続く裏門だったようで、ひと気のない砂利道をゆくふたりは途中ベンチを見つけてそこにぐったりと崩れ落ちた。特には普段走り慣れていないので息が上がっている。

「お香は……盲点だった……お香とか線香とかダメなのわかってたのに」

髪や服についてしまったお香の匂いを飛ばしたくて、神は体をバタバタとはたく。その横では呼吸を整えながら忙しなく携帯を操作していた。そして、神に向かって携帯の画面を向けて差し出す。ブラウザの画面には「お香の原料」というキャプションとともに原料の写真画像が表示されている。

「入ってる……お香にめっちゃシナモン入ってる……
「まじかよ……

秋の涼やかな風が吹いて、ふたりの体についてしまったお香の匂いを少しずつ取り払っていく。しかし煙の近くで長いこと佇んでいたせいで、鼻の中がお香の匂いで一杯になっている。ふたりとも鼻の中を洗いたいと言って力なく笑った。が、今ここで鼻にティッシュ突っ込んで拭くわけにもいかない。

「鼻の中に煙がこびりついてるみたいな感じだな」
「頭痛くなってきた……
「え、大丈夫か」

やっと呼吸が落ち着いてきただったが、そもそもがだいぶ気を使いながらの道中だったし、昼食を挟んで少し緩んでいたとはいえ、急に強い匂いを嗅いだ上にいきなり走ったので頭がガンガン鳴っている。神社の境内は静かで人もいないが、ちっとも癒えない。

「そういえば、昨日も頭痛いって言ってたよな」
「ならない?」
「オレはオエッとなるけど頭は平気」

苦手な匂いに対する反応も様々だ。は目眩に似た頭痛に、神は車酔いに似た吐き気になって出る。

「何か冷たいもの買ってこようか?」
「平気、ちょっと寒いし、匂いが取れてくれば落ち着くと思う」
「匂いが原因で効くかどうかわかんないけど、、こめかみ押すと楽になるよ」
「こめかみ?」
「目尻の近くの1番へこんでるところを指でゆっくり」

ベンチにもたれたまま、は神に言われた通りに中指でこめかみの辺りを探る。だが、どこが1番へこんでいるのかわからない。というかこめかみってどこからどこまで? がモタモタしているので、つい吹き出してしまった神は、自分でもやってみせる。

「ほら、こんな感じ。親指でやると楽だよ」
「こう? あれ、これ骨?」
「骨のちょっと内側だよ」

くすくす笑いながら、神は何も考えずに手を伸ばした。突然大きな手が迫ってきたので、はつい自分の手をこめかみから離してしまった。気付けば神の両手がの頭と顔の側面を両側からすっぽりと包み込んでいて、ひと気のない境内のベンチの上で向かい合っていた。ふたりの間を爽やかな風が通り抜けていく。

しまった――

神はすぐに手を離せばよかったのだし、も笑って誤魔化して手の中から逃れればよかったのだが、ふたりは固まってしまったままじっと見つめ合っていた。は頭痛を忘れ、神も鼻の中にこびりつくお香の匂いを忘れた。静かな境内の片隅、ふたりの頭上でさらさらと木の枝が揺れている。

が逃げない、というか動こうともしないので、これはいいんだろうかもしかして、という言葉が脳内に渦巻く神はそっと顔を寄せてみた。自分の両手の中にすっぽり入ってしまうの顔が徐々に近付いてくる。顔、小さいな。唇も小さい。だってほら、手の中に全部入っちゃってる。

だが、鼻の頭がぶつかりそうな距離に来てやっとが覚醒、びくりと体を震わせて体勢が崩れた。神の方もそれに驚いてパッと手を離し、そのまま勢いよく頭を下げた。

「ご、ごめん、つい、ごめん!」
「ち、ちが、あの、ごめん、そうじゃなくて、ごめん」

ふたりでごめんを連呼し合い、神が頭を下げているのでもペコペコとそれに倣う。だが、それが過ぎて顔を上げてみると、またすぐ近くにお互いの顔があって、ふたりは向かい合わないように顔をそらした。

「ごめん……勝手に、その、断りもなく」
「ご、ごめん、そういうの慣れてなくて、ごめん」
……なんでが謝るの」
……えーと、普通は、チューくらい、大したことないんだよね? だけどその、したこと、なくて」

言いながら真っ赤になってしまったは限界を超えて両手で顔を覆った。

「ほら、みんなファーストキス小学生とか中学生とか言ってて、でも、私――
「えっ」
「ごごごごめん、私モテないし、今日もなんか浮かれて、いっぱいいっぱいで、気持ち悪いよね、ほんとごめん」

早口でまくし立てていたはそこで我に返り、神が黙っているので恐る恐る顔を上げた。もしやまじキメェという顔でドン引きされてるんじゃ……と思ったからだ。だがどうだろう、神はなんだかちょっと困ったような、しょんぼりした顔をしていた。あれ、私なんかマズいこと言ったか?

「あ、あの……
「ええとその、オレも同じなんだけど」
……何が?」
「したこと、ないし、慣れてないし、浮かれてたし、今もつい調子に乗っちゃったし」

ぽかんとしているの目の前で、神はボリボリと後頭部を掻いている。と同じ、とは言うけれど、「モテない」が入らないのがさすがにバスケット部の次期主将といったところか。だがそれ以外が自分と同じになってしまうのはどういうわけだ、とはぽかんとしている。

「あんなに……キャーキャー言われてるのに?」
「それはそうなんだけど、時間、ないんだよ、本当に」
「好きな子もいなかったの?」
「いたと思うんたけど、バスケ放り出すほどじゃなかったから」
「もったいない……

また神が県内有数のバスケット選手であることを思い出したは、自分がキスされそうになったことも忘れて身を乗り出した。あんなに女の子に囲まれてキャーキャー言われてるのに一体どうしたことだ。もう高2だぞ。高校生にもなってキスもしたことないの? 人間としておかしいんじゃないの? とか言う人だっているのに……

「言ってみたらよかったのに。時間なくてもいいよっていう子、いたかもしれないじゃん」
……は時間なくても平気?」
「えっ、うーん、付き合ったことないからわかんないなあ……平気だと思うけど……

真剣な顔で首をひねるは、指先に暖かい感触を覚えてビシっと背筋を伸ばした。見れば、神の長い指が自分の手をすくい上げている。

「あの……
「本当に時間なくても、平気?」
「えっ? ちょっ、神?」
「嗅覚が似てる者同士、うまくやれそうな気がするんだけど、どう、かな」
「えっ? えっ?」

時間がなくても平気? なんて問いかけは「もしがオレじゃない誰かと付き合としたらどう?」と聞かれているようにしか聞こえなかった。なので、神の大きな手が自分の手を優しく包み込み、照れくさそうな彼の視線に晒されて、わけがわからない。ちょっと待ってなんの話?

「えーと、どういうこと?」
「いやその、そう思っちゃったから……もちろん無理にとは……
「えっ、いやいやそうじゃなくて、だから、神、あんなに人気あるんだし、別に私なんか……

神はしょんぼりしているけれど、これはの方がまっとうな反応といえるだろう。何しろ県内最強で次期主将で見た目も悪くないし中身ももっと悪くない。自虐というより、そんなこと言われてコロッと信じてしまえるわけがない。俯いてしまったの手を神はぎゅっと握り締める。

……大袈裟なこと言っていい?」
「え、何」
「苦手なものが同じ、好きなものも同じ、そういう人と出会える確率って、すごく少ないと思うんだよ」

きょとんとしているに、神はゆっくりと語りかける。

「楽しく感じることと辛く感じることが同じって言えばいいのかな。それってなんかすごく奇跡的なことなんじゃないかって、思って。血の繋がった家族だっていい匂いと苦手な匂いが違うのに、オレたちは同じ。そういう相手って、探そうと思っても見つけられないだろうし」

頷くもその理屈はわかる。確かに貴重な「同類」ではある。だがしかし、

「私よくわかんないんだけど、『好き』ってそういうことなの?」
……んっ?」

今度は神がきょとんとしている。どういうこと?

「神の言うことすごくよくわかる。同士よ! って感じする。だけど付き合うってそういうことなの?」
「えーと……
「つまりその……匂いの好き嫌いだけで、付き合いたいって、思うの?」

神が目を丸くしたので、は声が小さくなり、可愛くないしとか頭も良くないしとかゴニョゴニョ言い出した。意味がわかった神は改めて両手での手をくるみ、少し距離を縮めた。

「匂いの好き嫌いだけじゃないよ、昨日からずっと一緒にいて、楽しかったから」
「だけど、バスケ部、キャプテン」
「しょうがないだろ、のこといいなあって思っちゃったんだから」
「ファッ!?」

話が長くなってきたので開き直ってきた神は、また距離を縮めてを覗き込む。

「オレ、バスケ始めたの小学生の頃で、中学も毎日部活、寝て起きてご飯食べてるかバスケやってるか勉強してるかで3年間、高校生にもなって付き合った経験ないとかまじキモイとかいう女子たちに囲まれてそろそろ2年、たまたま同じクラスで同じ班になった女の子と共通点がいっぱいあって、一緒にいて楽しくて、それでついチューしたいなって思っちゃっただけだよ! はどうですか!」

どストレートな神の言葉には真っ赤、唇をわなわなさせている。

「あとさっきからなんか自虐多いけど、別にオレの目には普通にかわいいから」
「ちょ、そんなこと!」
「そーいうのいいから、どうですか!」
「どうって、そんなの、そんなのOKに決まってるじゃん!」
「ありがとうございます!」
「どういたしまして!」

勢いで頭を下げあったふたりはけたけたと笑い合い、神はまたの頬を両手でそっと触れてみた。

「しても、いい?」

まだ真っ赤なが頷くので、一応あたりを確認してからそっとキスした。

……まだちょっとお香臭いね」
「じゃあ匂いが取れたら、またしよ」

余計に真っ赤になってしまったを神はそっと抱き締めた。やっぱりちょっとお香臭かった。

付き合っているという前提があれば、もう誰に見られても構わない。ふたりは神社を出ると、また京都の町を歩き出した。今度は堂々と手を繋いで。海南の生徒が多そうだからと避けていたエリアにも足を伸ばし、匂いそうな所は避けて観光を楽しんだ。

だが、ふたりを知る人々の方は仰天。なんであいつらいきなり付き合ってんだ!?

「そういうことになっちゃったんだよ」
「超展開過ぎないか……
「どうせ今日も先生の部屋だし、明日はもう帰るし、まあいいかと」

殆どが遠巻きに見ていただけなのに対し、班長はひとりで突進してきた。呆れ声でああだこうだ言っていたが、その割にはにやにやと楽しそうだ。するとそこへ例の3班の女子が通りかかった。あらぬことを吹き込んでをハブった張本人であるが、それが神と一緒なので面白くないらしい。

「バスケ部と一緒だと思ったから誘わなかったのに!」
「最初は一緒だったけど、逃げてきたんだよ。もひとりだったし」
「えっ、てかちゃんは班長と回るんでしょ、ねーねー神、うちらと一緒に行こうよー」

言いながら神の腕をぐいっと引く。カッとなった班長がつい一歩踏み出したところで、神はその腕をするりと引き抜いた。彼女がをハブった張本人だということは神も知っているのである。

「ごめん、オレ、シナモンの匂いが大っ嫌いなんだ。あの匂いとは一緒にいられない」
「えっ」
「それに、彼女置いて他の女の子と遊ぶのはどうなのかな」
「彼女!?」

神はそう言うとの手を取ってしっかりと繋いだ。

「好きなものと苦手なものが同じなんて、運命の出会いだと思うんだよね」

3班の女子はもう苦笑いしか出てこない。班長がまたニヤニヤと顔を歪めている。

「そうそう、神もと同じで、シナモンの匂いで吐き気するんだよねえ」
「みんな八つ橋食べてるからほんとキツいよ。がいてくれてほんとによかった」
「だよねえ! みんな八つ橋バクバク食べてたもんなあ! 一緒にいられないよな~」

昨日に対して言ったのと同じことを神に言うがいい、という声色で班長は高笑いだ。面白くなさそうな顔をした3班の女子が仲間の元へ帰ったので、と神はホッと胸を撫で下ろしたのだが、班長はまだ高笑いだ。

「ハブられてたなんて気付かなくてごめん、て思ってたけど、これなら結果オーライだね」
「ありがと班長」
「いいってことよ。てかもしよかったら後で班で集まらない? 最後の1時間だけ」

3班の女子が問題だっただけなので、ふたりは班長の提案を受けて4班と合流した。男子の方もあまりの超展開に驚いていたけれど、ふたりの嗅覚事情を知っているだけに、最終的には真顔で「それほんと大事」と言いながら頷いていた。嫌いな匂いとは一緒にいられないから。

「てか神てすげえ忙しいだろ、それでいいの」
「まあそれはわかってたことだし、改めて考えるとどんなに完璧な人でもシナモン好きは無理だから」
「わかるわ……オレ、ネギの匂いとは一緒に暮らせないから……
「お前らもう結婚しろよ」
「うん……オレ今普通にそれを考えてる……
「ハァ!?」
「だってシナモンの匂いのする家で生活なんか出来ないって! だけどならそこ絶対安全!」

単なるネタ振りのつもりが、神が真剣な顔でそんなことを言い出したのでは真っ赤、班のメンバーたちは大笑い。狼狽えたは恥ずかしくなってしまい、つい神の後ろに隠れた。だが、班長に突っつかれ腕を引かれたはたたらを踏み、神の背中に顔面から突っ込んだ。

「わー、ごめん、神もごめん」
「オレは大丈夫。平気か」

だが、は神の背中に顔を押し付けたまま動かない。

「えっ、ちょっ、どうしたの、あれ私イジりすぎた? ごめん」
「いいにおい……
「は?」

焦って横から覗き込んだ班長の目の前で顔を上げたは、信じられない物を見たという表情をして神の背中のシャツをギュッと掴み、そして低い声で言い放つ。

「宗一郎の背中、めっちゃいい匂いするんだけど!」
「はあ」
「これ何? 制汗剤とか使わないって言ってたよね、香水とか付けてるの?」
「えっ!? 何もしてないけど」
「何々、神がいい匂いなん?」

があまりに真剣な声なので、4班のメンバーが全員神の背中をくんくんやり始めた。

…………無臭」
「いわゆる自然臭ってやつじゃないの?」
「私はちょっと苦手かも……
「人の背中で何やってんだ」

どうも班のメンバーにはあまり良い匂いには感じられなかったらしい。だがはまだ真剣な顔で神の背中をフガフガやっている。ついでに襟足や肩なんかも爪先立って嗅いでみる。

……ここだけだ」
「大丈夫か、目がイッちゃってるぞ」
「背中のここだけ!肩甲骨と肩甲骨の間のちょっと下だけ、信じられないくらいいい匂いする!」

後ろからガバッと抱きついたはその「いい匂いスポット」に顔を押し付けて息を吸い込んだ。

「やばいなにこれいい匂いすぎる」
……まあ、臭いよりはね、神」
……そう思うようにするよ」
「アレだなほら、猫の。マタタビ」

ちょっとげんなりしている神も含め、を除く4班の全員が「ああ」と納得の声を上げた。

以来は「神の背中の匂い中毒」になり、修学旅行が終わってふたりが付き合っていることが周知されるようになると、は学校でも神の背中をフガフガするようになった。よくよく匂いに縁のあるカップルだと班長あたりは笑うが、神はやっぱりげんなりしている。

「だっていい匂いなんだもん」
「それはいいんだけどさ、たまには前の方に来てほしいんだけど」
「前は匂いしないんだよね……

によると、芳しい香りがするのはやっぱり背中の一部分のみなのだそうで、よりはるかに背の高い神はしょっちゅう背中を丸めて後ろから抱きつかれている。はとうとう同学年のバスケット部員に「おんぶおばけ」とか「子泣きじじい」と言われ始めた。

それを耳にしては逐一抗議をしている模範的な彼氏は、いつも彼女が背中に張り付いていて顔も見られないので寂しい。ただでさえふたりきりになれる時間は少ないというのに、じっと黙って彼女のフガフガを聞いているのは切ない。オレだって彼女フガフガしたい。

「はい5分経ちました~」
「うううもっとフガフガしたいよ~」
「それはオレが5分フガフガしたらね」
「私は別に匂いスポットないのに~」

神の背中の一部のような「ここだけ異様にいい匂い」という箇所は確かにない。だがその代わり、神にとっては「全身いい匂い」である。渋々背中を離れたと向き合うと、神は抱っこするようにして膝に置き、すかさず首筋に唇を寄せる。神の匂いでうっとりしていたは特にいい匂いを放つらしい。

もいい匂い~」
「5分て短すぎる気がしない?」
「短いと思うけど背中フガフガやられるのは5分で充分だから」
「えーもっとフガフガしたいー」
はオレが好きなの、それともオレの匂いが好きなの、どっち」
「えっ、えーと……
「迷うなよ」

言葉に詰まったの顔を両手でホールドすると、神は有無を言わさずに唇を押し付ける。中々ふたりきりにはなれないが、神が個人練習を終えたあとの部室での逢瀬なら、長い時間ではないものの、ちょくちょく都合つけられるようになってきた。メントールの匂いに包まれたふたりは静かに唇を重ねる。

「でも私、宗一郎の背中の匂いがなくなったらメンタルおかしくなっちゃうかも」
「だから言っただろ、結婚すればいいんだよ」
「高校生のうちからそういう話重くない……?」
「別に言うだけならいいじゃん。結婚したら毎日フガフガし放題だけどね」
「ああなにその天国……

ぺたりとしなだれかかるを抱きとめた神はまたの首筋に口元をすり寄せて、ゆっくりと息を吸い込む。まだこうして抱き合ってキスをするくらいの仲でしかないけれど、いつか全身の匂いを嗅いでやろうと思っている。きっとは誰よりも何よりもいい匂いがするに違いない。

それほどに、の首筋から漂う優しい香りは神の心を酔わせる。

「オレはの全部が好きなんだけどな」
「わ、私だって全部好きだもん」
「ほんとに?」

神はにやりと笑ってまた唇を寄せる。苦手な匂いは不調すら招くけれど、好きな香りは優しく心を宥めてくれる。それが彼女の匂いなので同時に心が騒ぐけれど、匂い立つような花の散りゆく前に、浅き夢の如きに酔いしれたい――神はそう考えていた。さてさてそれは、いつになることやら。

END