いろはにほえど

2

「もうね、いい匂いを臭いと感じる方がおかしい、としか。あいつあんなバカだとは」

このままではがこの部屋で眠れないと心配した班長が3班の子をなんとか説得しようとしてくれたらしいのだが、まるで聞き耳を持たず、自分の好きな匂いを悪し様に言う不愉快な人と言って譲らないので、ひとまず放置でを追いかけてきてくれた。

彼女もまた先生に事情を話して誰かと部屋を代わったらどうだろうと考えたのだが、神の話を聞いてがっくりと肩を落とした。全室シナモンフェスティバルだったらと神は本当に出奔してしまうかもしれない。

「でも換気してゴミをきちんとまとめてトイレにでも置いてくれれば」
「さむーい、あたし冷え性だからー。裸足でなに言ってんだろな、あいつは」
……なんで女子ってそんなめんどくさいの」
……神、そういうのは心に秘めておかないと」

女子がめんどくさいのではなくてたまたまその子がめんどくさいだけなのだが、まあ女子あるあるではある。班長も八つ橋を食べてきたばかりなので、自販で緑茶を買ってちびちび飲んでいる。緑茶に含まれるポリフェノールであるカテキン・タンニン・フラボノイド各類はどれも消臭に有効だ。

「オレもそうなんだけど、結局明日も自由行動日だろ。でまた一晩泊まって、帰りの新幹線も長い時間密室だろ。なんかもうどこに逃げても同じなんじゃないかって気がして……

3人が腕組みで俯いているのはそういう理由からだ。そこそこ安価でどこでも手に入る定番土産、家族用の他に自分用に買うなどしたり、その場で別のクラスの友人と交換したり、部活の仲間と交換したり、シナモンの匂いが右から左へウロチョロと飛び交う可能性は高い。

「まあその、だからって例えば鼻栓してろとかそういうのは私も違うと思う」
「お菓子くらい帰ってから食べてよと思うんだけど……無理だよね……
「私もよく考えたら甘酒の匂いがダメだった。あれ吐き気する」
「湯気の立つ甘酒の鍋のある部屋で寝ろって言われたらどうする?」
「暴れる」
「だろ?」

そこへ引率で来ている先生が通りかかったので、班長はそれを捕まえて事情を話した。すると先生は意外にもすぐ理解を示してくれて、小声で実はパクチーが大嫌いなので気持ちはわかる、と言ってくれた。

「一応具合が悪くなったりした場合は先生と同じ部屋に寝てもいいことになってるのね」
「あ、そっか」
「だけど巡回の件もあったりで、一回相談しなきゃならないんだけど……えーと」

推定40代の女性の先生はあたりをきょろきょろと伺ってから声を潜めた。

「おそらく女の先生の部屋になる思うんだけど、神、そこでも構わない?」
「えっ!? まさかと思いますけども一緒にですか」
「うん」
「いやあの、それまずくないですか」
「先生たちの部屋は大きい部屋だから、ひとつの部屋でお布団並べて、てことはないんだけど」

女性の先生は体調不良が出た場合には巡回をせずに生徒と過ごすことになっているらしいが、その際は男子女子関係ないそうで、元から洋室と和室とリビングからなるファミリータイプの部屋に少人数で泊まっていたそうだ。風呂が動くようにもなっているので、生理中の女子生徒もここを使う。

「ですから、先生も含めですけど、みなさんは嫌じゃないんですか。そこに男ひとりいたら」
「お風呂タイムはあんたも普通に大浴場だし、それが全部終わったら寝に来るだけ」
「それも大丈夫なんですか……
とは同室にならないし、まあその、先生は大人だから、男の人、とは」

先生が神のプライドに触らぬよう笑わないよう頑張っているのが見て取れる。彼女も確か中学生の男の子のお母さんだ。神ひとり部屋の隅に押し込んだところで、男性と同室、なんていう感覚にはならないのだろう。

「むしろこの点はが大丈夫ならってとこかな。神はどうせベッドルームにひとりだよ」
「そっか。お風呂とか全部終わって寝るためにベッドルームに入るだけなのか」
「そう。は私たちと一緒だから着替えも問題なし。消灯までならここにいてもいいわけだし」

頷く班長を眺めつつしばし無言だったと神だが、シナモン地獄や3班の女子と同室という現状を考えると、背に腹は代えられない。ふたりとも先生を見上げてカクカクと頷いた。

「よし、じゃあ一応話してくるから、ふたりとも荷物引き上げておいで」
、ここにいな。私取ってきてあげる」
「えっ、ありがとう、ごめんね」
「気にしなくていいよ、神は自分で取ってきな」

かくしてと神は無事にシナモンの匂いのしない場所で休めることになった。だが、依然それぞれの部屋がシナモン臭いのには変わらないのである。神がげっそりした顔で荷物を抱えって戻ってくると、が私物をバタバタと仰いでいた。

「やっぱ匂い移ってたか」
「班長が戻ったら私の荷物ゴミ箱の近くに置かれてたらしくて、バッグに粉ついてた」
……心に秘めておきますね」
「そうしてください」

そろそろ夕食の時間になるので、一旦先生の部屋に荷物を預けたらまた班行動である。それが終わり、男女それぞれ全9クラスあるところ3クラスずつ大浴場にて入浴が終われば、あとは消灯時間を待つのみである。消灯時間は一応22時、部屋の行き来をしていいのは21時まで。

食事も入浴も終えたと神がエレベーターホールにやって来ると、ちょうど21時になるところだった。

……大丈夫?」
……こういうのをいじめと言わずに何と言うんだろうとは思う」

がシナモンを苦に先生の部屋に寝泊まりすることになった、と聞いて3班の女子がますますヘソを曲げ、しかし班長がを気遣うものだから、もうひとりの4班の女子が参ってしまい、は自分で望んで先生の部屋に行くんだから、残る私の方を助けろ、と班長の腕をガッチリ掴んで離さなかった。

その上たかがシナモンでは大騒ぎをして先生にまでチクったと別の班の女子に触れ回るし、食事や入浴などは基本班単位で行動なので、結果的には女子の中でぼっちになってしまった。同じシナモン・レジスタンス仲間である神が声をかけようとしたのだが、例のニンニク男子に止められた。

「女子の揉め事に男が口挟むとの方が困ることになるって言われてさ」
「その通りです」
「また心に秘めておきます」

部屋の行き来は21時までとなっているので、廊下は静まり返っている。ふたりはだらだらとソファで時間を潰し、22時前になって先生の部屋に戻った。神は入り口に近いベッドルームにひとり、は先生たちと一緒にドアと襖を隔てた一番奥の和室である。

「先生たちも八つ橋食べたかったんじゃないんですか」
「まあその、ごめん、先生もう飽きた」
「私も前にいた学校合わせると京都これで8度目だからなあ」

いくら先生と言えど部屋ではゆっくり寛ぎたかったんじゃなかろうかと思っただったが、先生たちは遠慮がちにそう言い、むしろ酒が飲みたいと笑っていた。

先生と同室ゆえ深夜までお喋りをしたりテレビを見たりは出来ないけれど、0時までは携帯を見ていてもいいとの許しを得たので、は和室の片隅に敷かれた布団の上でのんびりと携帯を眺めていた。ファミリータイプの部屋なのでコンセントも多く、これまでのように延長コードで引っ張り合いをすることもない。

そしてさきほどエレベーターホールで繋がったばかりの神にメッセージを送ってみる。あちらは完全に個室なのできっと深夜まで携帯いじっていても怒られないに違いない。

「そっちどう?」
「ひとりだし、申し訳ないくらい快適。先生と一緒でつらくないか?」
「平気~。なんとか無事に臭くないところで寝られるからホッとしてる」
「同じく。さっき風呂でも臭いやついたから、やっと楽になった」
「また明日も臭いかもしれないけど、がんばろーね」
「おう、ゆっくり休めよ、おやすみ!」
「おやすみー!」

そんなやりとりが少しくすぐったかった。神がいてよかった、仲間がいてよかった。

翌朝、朝練で慣れているから、と神は予め先生に6時起きを申告、男だから身支度はロビーのトイレで構いませんと前置きして6時15分には部屋を出してもらった。これならや先生たちも安心して支度が出来るだろう。そして神はまたエレベーターホールへ戻って皆を待ち、ロビーに降りた。今日は自由行動日である。

自由行動日はそれこそ自由に遊んできていいので、一緒に出かけるのは違うクラスの生徒でも構わないし、何ならひとりでもいいし、どうしても行きたくなければホテルに残っても大丈夫。なのでロビーは大混雑、神はバスケット部の仲間たちと集まって遅刻者を待っていた。

すると、ロビーの一角にがポツンとひとりで腰を下ろしていた。

昨日はクラスの女子と揉めてたしな……と思った神は直接声をかけずに携帯を取り出してメッセージを送った。

「具合悪い?」
「平気」
「昨日ちゃんと寝れた?」
「うん、大丈夫」

まとまったグループがぞろぞろとロビーを出て行く。神はそれをちらりと見るとまたメッセージを送る。

「もしかして、ひとり?」
「そう。夜の間に色々拡散されてたみたいで、ハブられちゃった。みんなあの子が怖いんだよね」
「班長は?」
「班長は元々別のクラスの子と回る予定。神はバスケ部?」

背が高いので神は目立つし、のいる場所からなら顔を上げれば男子だけで集まっているのがわかる。話を逸らされたな、と気付いたけれど、神はバスケット部の仲間たちの声を聞きながら静かに深呼吸をして決意を固める。無理はしてない、後悔しそうにもないし、自分で望んでいる自覚がある。

「オレでよかったら一緒に行かない?」

は神の方を見ていたかもしれない。けれど神は見なかった。ややあって返信が来る。

「バスケ部の子たちと一緒なんでしょ、気を使わせてごめん」
「別にそういうつもりじゃないよ。こいつらは普段から一緒だし、目的もないし」
「いいよ、どこかその辺で時間潰して早めに戻るから」

もしかしてオレと一緒じゃ嫌かな、という可能性も考えた神は顔を向けないようにしてちらりとの方を見てみた。は俯いて目元をしきりにこすっていた。もしかして、また泣いてたのかなと思うと、神のみぞおちの辺りがキリッと軋んだ。ほんとにめんどくさいよ、心に秘めておくけども!

「あのさ、いつも一緒のバスケ部と遊びに行くより、シナモン嫌い仲間と遊ぶ方が楽しそうなんだけど、がオレで嫌じゃなかったら今日一緒に遊んでくれない? おねがいします」

遅刻していた仲間がトイレからモタモタと出てくるのを目の端に捕らえながら、神は携帯を凝視している。、急いで、移動始めるかもしれないから……

さて移動するべー、なんて仲間たちが言い出した瞬間、から「ありがとう、こちらこそおねがいします」と返信が来た。神は急いで仲間を呼び止めると、腹がものすごく痛いから先に行ってほしい、特に目的もないから後で適当に連絡するとだけ言ってその場を離れた。

神の言うように毎日毎日一緒のバスケット部、ひとり欠けたところで空気を読めと駄々をこねられるような関係ではないし、当の神にしても、男だけでぞろぞろと目的もなく京都の町をうろつくより、苦手を同じくする女の子とふたりきりでデートみたいな自由行動日の方がよかった。

今朝も身支度をしたトイレに駆け込んだ神は急いでにメッセージを送る。ホテルを出て目の前の通りを右に行くとコンビニがある。そこで待ってて。腹痛を口実に離脱したから、少し遅れていくよ。

了解の返信が来たのでそっと顔を出してみると、小走りで出ていくの後ろ姿が目に入った。手に携帯を持ったままだったけれど、顔を上げてまっすぐ前を向いて跳ねるようにエントランスを出て行く。背中で揺れるリュックがにっこり笑っているように見えた神はロビーで時間を潰してからエントランスを出てコンビニに向かった。

「ほんとにごめん~!」
「だから気を使ってるわけじゃないって」

コンビニの前で落ち合うなりがペコペコと頭を下げるので、神は慌ててそれを押しとどめた。顔を上げたはやはり目と鼻が薄っすらと赤くなっていて、みぞおちがキリッと来る。しかし、今は嬉しそうな可愛らしい笑顔だ。そんな女の子と1日ふたりで過ごすのだと思ったら、ちょっと嬉しくなってきた。

「でも、実はひとり自由行動の人って結構いるんだよね」
「うん、いるな。A組に確かものすごい新撰組のファンが」
「ああ、あの子有名だよね。ひとりで走って出ていったの、見たよ」

並んで歩き出しながら、ふたりはへらへらと笑った。そういう風にこの自由行動日にひとりで京都中を駆けずり回る猛者が毎年何人もいるらしいが、とりあえず今のところ歴史ファンでも寺社仏閣好きでもないの場合、ひとりにされると持て余す。

「神は何か見たいのとかないの」
「うーん、そう言われてもなあ。清水寺とか東大寺とか、見たい?」
「うーん、そう言われると別に」

事前に自由行動日におすすめな観光スポットを紹介してある冊子をもらったけれど、ふたりとも特に興味は惹かれなかった。何しろほとんど寺社仏閣、今に残る歴史の痕跡、下地となる知識もないので進んで見に行きたいとは思わなかった。

「てかバスケ部の人たちにバレたらどうするの」
「まあ、その時はその時。別にそれでこじれたりはしないし」
「あーはいはい、女はこじれるけどねー」
「すいません心に秘めきれませんでした」

神の言葉に揃ってけたけたと笑い合う。は楽しそうだ。神は内心、もしバレても羨ましがられはしても僻まれてハブられるなんてことにはならないよ、とほくそ笑んでいた。どう考えてもあとで「腹痛いって残ったくせになんで女子とふたりっきりなんだようらやま」と詰め寄られるくらいが関の山だ。

バスケ部ってモテるでしょ、と人は言う。ああ確かにモテるよ、と神は考える。

しかしどれだけモテても毎日放課後一緒に帰ってカフェでお喋りする関係にはなれない。一生懸命バイトして稼いだ金でクリスマスにアクセサリーをプレゼントしたりは出来ない。そういえば夏休みにほとんど遊べなかったと言って後輩が別れてたな……と思い出す。

だからこんな風に1日自由に女の子と遊ぶなんて、初めてなんですけど!

楽しそうに笑っているをちらちらと見ながら、神は平静を装う。ハブられてしまったが可哀想だなと思ったのは事実だ。だが、一緒に行こうと誘ったのは、バスケット部の連中と天秤にかけた時に、の方が重かったからだ。そこにほんのちょっぴり下心があることは否定しないが、そこは内緒だ。

「じゃあ買い物と食べ歩き、もし面白そうなところあったら入る、でいいかな」

うーん、それって普通にデートですよね。ニヤついてしまいそうになる頬を堪えて、神はうんうんと頷く。本日ホテルへ帰還しなければならない「門限」は17時。今はまだ午前中。なんでも出来そうな気がしてくる。

まあ、付き合ってないのに手を繋ぐのは……さすがに無理だろうけど!

「てか、オレもう腹減ってんだけど」
「え!? 朝ごはん食べたじゃん!」
「あんなの食ったうちに入らないよー」

だけど京都マジック、修学旅行マジックっての、あるかもしれないし!

しかし、ペシッと腕を叩いてくるの手を掴んで繋ぎたいと思う気持ちにしっかり蓋をして神はゆっくりと歩く。何しろ身長差があるから、意識して速度を落とさないとが疲れてしまう。気付けば今も充分早足だった。手を繋ぎたいなら、そういうこと気を付けないとね。

照れているのか、はおどけて言う。

「えへへ、変なの、なんか、デートみたい!」

やっぱりそう思う? いや、もうデートでいいんじゃないの、これ。