いろはにほえど

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「友達は確か中国」
「あー、そういえば同小の子がマレーシアだったなあ」
「うち、兄貴がハワイだった」
「ハワイ!? それもう修学旅行じゃなくてただの旅行じゃん」

神奈川県にある海南大学附属高校は、その名の通りもちろん私立である。だが、修学旅行は古来より関東に伝わる「4泊5日京都の旅」である。2年C組第4班の6人はホテルのロビーでひとかたまりになって海外修学旅行の実例を上げては肩を落としていた。

というのも、本来この学年の修学旅行は「沖縄本島・宮古島・石垣島周遊7日間」のはずだったのだ。少なくとも入学の時点で気の早い生徒が担任に尋ねたところ、そう答えが返ってきた。が、具体的な説明が出る頃になって配布された史料には「京都」の文字。何やら大人の事情が発生した模様。ガッデム!!!

それが大ブーイングになってしまったのには、関東に古来より伝わる修学旅行の行き先なだけに、公立出身の生徒の殆どが中学でも京都だったからだ。なんなら家族で行ったことがあるというのも少なくない。何しろ国内外に絶大な人気を誇る観光地。要するに「またかよ!」である。

公立から公立への進学で京都が重なるケースはままあるが、私立に入ったというのになぜ京都なんだ、と生徒たちは不満を露わにし、それがこうして京都に到着してもブスブスと燃え残りの煙のように吹き出している。

また噂に聞く修学要素ゼロの観光旅行と違い、滞在2日目までは古来よりの伝統をそのまま引き継いだ完全なるお勉強コース。地元神奈川といえば鎌倉幕府、鎌倉幕府と言えばその創設は源頼朝、なので源平周辺を重点的にお勉強します。丸々2日間全部源平関係。歴史に興味がない生徒は即飽きた。

歴史好きや歴史モチーフの創作のファンがいないわけじゃない。けれど、源平関係だけと限定されて狂喜乱舞して突っ込んでいくようなのは本当に稀。幕末好き戦国好きも飽きてきた。

そんな2日間からようやく開放された3日目、本日は班行動の日である。ある程度事前に計画されたコースを班単位で巡り、帰ってから見聞録的なレポートを作らねばならない。本当に修学旅行だ。なので基本的には全員腐っているし飽きてるしやる気はない。

というわけで、そんなつまんない修学旅行における最後の砦がおみやげだ。

3日目の班行動、4日目の自由行動の2日間のみ、一応上限2万までとの規定がある小遣いの中から好きに買い物をしてよいことになっている。中には「その場で梱包して発送すればバレない」と上限を超えた小遣いを持ってきているのもいるようだが、とにかく彼らの楽しみはショッピングのみになりつつあった。

「えーと、親、弟、ばあちゃん」
「え、なにそれ偉くない? うち家族はひとまとめ」
「何だそれうらやましい。オレ姉ちゃんにあぶらとり紙大量に頼まれてんだよね」

自分で買いたいものと頼まれた土産の間で困っているが、とにかく今日はやっと買い物が楽しめる。女子は和小物、男子は食い物が目当てな傾向にあり、どちらも共通しては有名なお守りや寺社仏閣グッズを狙っている。

やがて彼らはバスにひとまとめにされて、所定のスタート位置に全員降ろされた。ここからは1日徒歩である。班行動プランが広範囲に設定されていれば公共交通機関を使うのも自由だが、交通費で小遣いを消費するのは嫌だ。なのでだいたいどこも狭い範囲内で回りきれるよう設定してある。

修学旅行先についてグダグダ文句を言っていた2年C組4班もバスを降りると、決まったルートをたどるために歩き出した。男女3人ずつの4班は、担任の先生の苦心が垣間見える班割りによるわりと穏やかで明るいメンバーで構成されていた。やや女子の方が強いのはどこでも同じだが、荒れそうにない班である。

6人はノルマをこなすため、後でレポートを作成するのに必要な情報は携帯で撮影しておくなどしつつ、予定のコースを回る。時間を短縮すればするだけ買い物に時間を充てられるので、6人とも大真面目だ。

この班行動と自由行動の2日間は昼食も自分たちで済ませることになっている。ケチりたければファストフードやコンビニを利用するもよし、予めリストアップされている低予算ランチを取れる店に入るもよし。ただし土産物をその場で食べるなどする際は絶対にゴミを放置しないこと、ときつく言い渡されている。

そんなわけで6人は早々にノルマをこなし、11時頃には予定のコースをすべて回りきり、レポートに必要な素材も充分に集めてスタート地点に戻ってきた。4班は事前に協議した結果、まずは男女に分かれて昼食を取ることにしていた。女子3人はどうしても抹茶スイーツが食べたい、男子はそんなもので腹が膨れなかったからだ。

女子3人は抹茶スイーツと軽食がある店で、男子はラーメン屋でガッツリ。それぞれ満足して合流したら、いよいよショッピングである。修学旅行、やっと楽しくなってきた!

「くっさ!!!」

個人でどうしても欲しいものは翌日の自由行動の日に買うことが出来る。まずは無難な土産物を買ってしまおうか、と品揃えが豊富な店舗に入ったところで、4班の中のふたりが同時に声を揃えてしかめっ面をした。と神宗一郎である。

「くっさ、って何が?」
「うわ、ちょ、近寄らないで臭い」
「失礼な」

と神は近寄ってきた班の女子から逃げるように後退していく。

「何だこの匂い……班長何食べたの」
「何って、八ツ橋。生の」
「あっ、八ツ橋! 試食の八つ橋! 私ダメ! ごめん班長口開けないで!」
「はあ?」

は片手で口元と鼻を覆って更に下がる。

「もしかして神もシナモンダメなの?」
「えっ、シナモン? オレ、ニッキがダメなんだけど」
「同じ同じ」

まあ、厳密に言えば少々異なるが、匂いに殆ど差異はない。嫌いな人間ならどっちも無理だ。

「なんだふたりともこの匂いダメなのか。八つ橋うまいのにな」
「お、お前、ニンニクとニッキが混ざって死ぬほど臭い、こっち来んな」
「もうちょっと言葉選べ」

神も先ほどニンニクの乗ったラーメンを食べてしまった男子から距離を取って片手で鼻を覆っている。シナモンの匂いが好きな彼らには理解しがたいかもしれないが、と神はとにかくこの匂いが苦手で、試食で八つ橋をパクパク食べてしまった班のメンバーたちから遠ざかっていく。臭すぎ。無理。

「やばい私頭痛くなってきた」
「オレは気持ち悪くなってきた」
「外出ようか」

匂いの感じ方、その良し悪しは人により様々、自分が好きな匂いが万人にとって好まれる匂いでは決してない。また嗅覚は他の感覚と違って大脳辺縁系に直接情報が伝達されるため刺激も強く、とにかく不快に感じる匂いというものは耐え難いのである。ふたりが不調を感じてしまうのも無理はない。

一応班長に声をかけて店を出たふたりは、シナモンの匂いのしない新鮮な空気を目一杯吸い込んで苦手な匂いを追い払った。苦手な匂いほど微量でも敏感に感じてしまうのが悲しいところだ。班のメンバーたちの近くにいると臭くてどうしようもない。

「はー、やっと臭わなくなってきたー」
「困ったな、これじゃ店の中入れない。オレ甘い感じの匂いダメなんだよな」
「わーかーるー! こもった感じっていうのかな、もったりした匂い。あ、マスクあげる」
「うわ、悪い、助かるありがとう。でも変だよな、カレーにも入ってるらしいけど、カレーは好き」

カレーの場合使用しているスパイスはものにより10や20ではきかない場合もあろう。また、カレーの香りはクミンによるところも大きく、他にも香り高いスパイスを使用するのが一般的であるゆえに、シナモン臭さという点では感じにくいはずだ。日本風カレーで動物性油脂が多く入ればまた匂いも変わる。

「マスクでどこまで防げるかは疑問だけどね……
「でもないよりは全然いいと思う。助かった。戻ってみる?」
「てか私親に生八つ橋頼まれてたんだよね。あんな臭いの食べるのかうちの家族……
「オレも頼まれてたけどやめようかな」

すっかりシナモンの匂いで不機嫌なふたりは、マスクをさらに手で押さえながら店内に戻った。

……てかそこまでするのは逆に失礼じゃね?」
「苦手なんだからしょうがないだろ。お前だってネギの匂いが嫌いだって言ってたじゃん」
「あんなものいい匂いとか言う方がおかしいんだよ」
「えー、私ネギ好きだけどなあ」
、残念だ、お前とは結婚できない運命、オレのことは諦めてくれ」
「オッケー、来世で待ってる」

また班メンバーたちのシナモン臭から距離を取りつつ、と神は八ツ橋以外の菓子類を見繕い、なんとか家族向けのお土産を手に入れた。おそらくふたりの家族は一般的なニッキをまぶした生八つ橋を期待しているだろうが、そんなものを家の中で食われたらたまったものじゃない。

「大袈裟だなあふたりとも」
「さっきからみんな自分が平気な匂いだからって軽く考えすぎだ」
「私あんまり嫌いな匂いとかってないからよくわかんない」
「班長、鼻詰まってんじゃないの」
、鼻ん中に生八ツ橋ねじ込むよ」

何しろ八つ橋生八ツ橋といえば遠方の地域の人間にとっては代表的な京都土産であり、それだけ長く愛されてきた「おいしいお菓子」なのである。それがマスクかけて遠ざかるほど臭いと言われてしまうと中々理解を示すに至らない。こんないい匂い、しかもそれほど強く匂わないのに。

しかし「臭いと感じる匂い」は理屈ではないのである。

「じゃ、どーいう匂いならいいの?」
「私はスッとした匂いの方が好きなんだよね。バニラとかクチナシみたいな甘い花の匂いも苦手」
「オレも甘い匂いダメだな。アイシングスプレーの匂いの方が好き」

こう見えて神奈川県で一番強いバスケット部の、しかも次期主将である神なので、スプレーやシップや痛み止めゲルに配合されているメントールの方が慣れているし、ツンとした刺激臭がむしろ心地良い。

「そういえばシソの匂いとか好きだよね」
「うん……シソは食べるより匂いの方が好き……爽やかで安らぐ香り」
「わかるわー、シソの匂いいいよな」
……お前ら付き合えば?」

そう男子に突っ込まれたと神はけたけた笑い、やっとみんなのシナモン臭が抜けてきたので、マスクを外してまたショッピングを楽しみ始めた。匂いの件がきっかけとなって男子女子の垣根がだいぶ緩み、6人は集合時間までの間に京都観光を存分に楽しんだ。

が、と神にはまだ地獄が待っていた。

基本的に全日班単位での行動や仕分けがなされているわけだが、これはホテルでの部屋割りも同様で、しかしもちろん男女一緒というわけには行かないので、班ふた組が同室という配置になっていた。つまり4班のと神は3班の同性と同じ部屋。6人であることには変わりなし。

また、前半のお勉強観光が面白くなかったのは3班も同じで、やっと今日開放されてショッピングが楽しかったのも全く同じだった。そういうわけでホテルに帰着後、どこもそうであるように、3班のメンバーは早速買ってきたお菓子を開けて食べ始めた。

「あああああ臭い!」

も神も、それぞれの部屋で再度鼻を手で押さえて壁にへばりついた。しかも今度は狭い密閉空間、秋の京都、夕方の風は中々に涼やかで、女子部屋に至っては窓を開けることすら拒否されている状態。

なおかつ不運なことに3班の女子に極端な「自分の常識は世の常識」というタイプの子がおり、つい臭いと言葉にしたは凄まじい反撃を食らった。「人が好きなものを直接disるとか性格悪い」と怒鳴られ、なおかつ「みんながいい匂いだと思ってるものなんだから空気を読んで我慢すべき、のせいで雰囲気が悪くなっている、それをよく考えて」とたいそう怒られてしまった。

だったらお前は悪臭を放つゴミのすぐ隣でゆっくり眠れるのかと反論したいだったが、腹立たしいのと不愉快なのに加えて、強烈なシナモン臭がもう限界に達していた。彼女は部屋を飛び出し、男女の部屋の境目となるエレベーターホールに駆け込んだ。

男女の部屋が近いのは不安視されるところだが、深夜は引率の先生の巡回があるし、行き来が露見した生徒は翌日クラス全員が揃ったところで晒し者、と事前に言い渡されている。京都なだけに。そういうわけで、海南の修学旅行ではこの手の問題行動は滅多に発生しないらしい。

2基あるエレベーターに向かい合うようにソファが2つ、その間にドリンクの自動販売機があり、鈍い音を立てていた。はソファに崩れ落ちると体を丸めて膝を抱いた。

ダメな匂いなんて我慢できるものじゃないのに、なんでそれをあんな風に言われなきゃならないんだろう。別にシナモンの匂いが好きなことを文句言ってるわけじゃないのに、せめて窓を開けるとか、食べ終わったら口をゆすぐとか、ゴミはきっちり密封して換気の出来るトイレに置くとか、そういうことをしてもらいたいだけなのに。

そういえばあの子、普段から柔軟剤の匂いがきつかったな、きっと班長みたいに鼻詰まりで匂いがわからないに違いない。そう納得するしかないだったが、八ツ橋パーティが繰り広げられている部屋で一晩過ごすことなど出来そうにない。誰かと部屋を代わってもらえないだろうか。

いやいや待て待て、もはやショッピングくらいしか楽しみがないのなんてみんな同じ、今晩はどの部屋でもシナモン臭が充満してるんじゃないだろうか? ああ、どこか物置でもいいからひとりで寝かせてもらえないだろうか、先生もみんな「いい匂いなんだから我慢しろ」って言うのかな、つらい、つらすぎる、そして臭すぎる。

あまりに踏んだり蹴ったりで心が折れたの目にじわじわと涙が滲んできた。すると、

「あああ、やっぱりいた! 、どうしよう、臭すぎて死ぬ!」

男子の部屋の方から、神が転がり出てきての隣に崩れ落ちた。

「部屋に入ったらみんな八つ橋食いだして……我慢できなくて隣の部屋に逃げたらそこも八つ橋!」

の悪い予感は的中、そして神も似たような目に遭ってほうほうの体で逃げ出してきたというわけだ。は同士がいたことに安堵し、そのせいで気が緩んでポタリと涙をこぼした。

どうする、あんな臭いところで――ってどうした!?」
「ほんと、どうしよう、あんな臭い中で寝られないよ~」
「泣くほど臭かったのか」
「違うけどなんかもうやだー」

神がそっと背中をさすってくれるので、は余計に泣き出した。ああ同士よ、我々に安息の地はあるのか。

「どしたんだよ、どっか痛い?」
「ううん、そうじゃなくて、ごめん、ちょっと同じ部屋の子と」
……まさかと思うけど臭いの件?」

涙を拭いながら頷くに、神はがっくりと肩を落としてため息を付いた。

きっとこれほどシナモンの匂いが苦手、という人は多くないだろう。しかしこれは食わず嫌いとかいうわけでなし、が憤慨したように、誰でも臭いと感じる匂いとは長く一緒にいられないものだというのに……

、このままどこか遠くへ逃げようか……
「駆け落ちみたいだね……
「シナモンの匂いのしないところならどこでもいいんだけど」
「右に同じ……頭痛くなったり気持ち悪くなったりしないところに連れてって」

ふたりはヘラヘラ笑いながらそんなことを言い合い、しかし何の解決にもならないので、また揃ってがっくりと肩を落とし、ハァーッとため息をついた。なんならこのままこのソファの上で一晩も已む無しか。

そしてまた明日も自由行動日、そして一泊、新幹線にて帰還。嫌な予感しかしない。