エンド・オブ・ザ・ワールド supplement

リリー・ローズ編1

(1年後、自宅、帰宅したばかりの鉄男の腕を掴んで振り回すミライ)
「ね~1回くらいいいじゃーん」
「はると行ってくればいいだろ」
「はると行ってもしょうがないでしょー」
「勘弁してくれよ」
「誰も気にしないって~」
「そういう問題かよ」
「春に誰だかが亡くなった時のイベントみたいなの付き合ったじゃーん」
「尾崎な。あれは別にオレが行きたくて行ったわけじゃない。ただの付き合い」
「だからそれに私も付き合ったでしょ~。聞いたことないアーティストの曲延々2時間聞いたでしょ~」
「だからってお前、ディズニーアニメは勘弁しろよ」
「てっちゃん、美女と野獣。美女と野獣だよ!? 私たちが見に行かないでどうするの!」
……オレたちは何の関係も」
「美女! 野獣!」
「指差すな」
「遅い時間の上映あったよ。きっとカップルいっぱいいるって!」
「エイリアン3なら行ってもいい」
「やだー! ねーお願いーてっちゃんとふたりで美女と野獣見たいー」
(涙目でぐずりだすミライ)
「あのなあ」
「だって、ずっと忙しくて、デートとか、旅行も行こうねって言ってたのに、全然行けてないじゃん」
……それは貯金が」
「貯金に響くほどのことじゃないじゃん……普段私わがまま言わないよね? 映画の1回くらい、2時間くらい、お願い聞いてくれたっていいじゃん……たまには手繋いでお出かけしたいってだけじゃん……
「こんなことで泣くなよ……しょうがねえなもう」
(抱っこして頭を撫でる鉄男)
……行ってくれるの?」
「オレはお前に甘すぎると思う……なんでこんなわざとらしい泣き落としに引っかかってんだよ……
「な、泣き落としじゃないもん、私は――
「そういやもうずっと出かけてなかったよな。それは悪かったよ」
「美女と野獣見に行ってくれるの?」
「レイトショーで頼む」
「そ、そのあと」
「レイトショーの後なら、ちょっと飲んで帰ろうか。イワさんの勧める店は厳しいけど」
(イワさん=岩田さん=春美の夫)
「そんなの、そんなの。駅前の居酒屋だっていいよ。コンビニで買って公園でもいいよ」
「わかったわかった。レイトなら休みの日か……時間とか調べとけよ」
「てっちゃんありがとう……! チューしてあげる、チュー」
「はいはい、ちょ、わかった、チューはいいけど、おま、待て、オレ飯もまだ」
「てっちゃーん! 好きいいい」
「ちょ、わかった、わかったから!!! せめて風呂くらい入らせろ!!!」

(後日、映画鑑賞後)
「すまん……ナメてた……
「そ、そうだよね? 面白かったよね?」
「なんかこう、もっと子供っぽいのかと……
「私もそう思ってたんだけど、今回のはすごいから見てみなって友達が勧めてくれてさ」
……たまにはいいな、こういうのも」
「えっ、ほ、ほんと?」
「イワさんにもはるにも散々根詰めるなって怒られてて、だけどオレはそのうち嫌でも休まなきゃいけなくなるし、それまではと思ってたんだけど、ガス抜きも必要だよな」
「うんうん、そう思うそう思う!」
「じゃ、ちょっと飲んで帰るか」
「うん!」
(ミライの手を繋ぎ直す鉄男、はしゃぐミライ、その前方に人が立ちはだかっている)
「こんばんわ」
「えっ?」
(古めかしいロングスカート姿、背中の真ん中まで髪を垂らし、一房の三つ編みをカチューシャのように頭に巻き付けている女性が佇んでいる)
……何か」
(ミライを後ろに庇って一歩進み出る鉄男、それを無視して体を傾ける女性)
「私をご存知ですよね?」
「おい」
(鉄男の背中にしがみついてガタガタ震えてるミライ)
「ちょっと待て、何の用だ」
「あなたには聞いてないわ。そちらの彼女に聞いてるの。――ねえ、まだバラの花びらは残っているかしら?」
(にっこり笑う女性、目眩を起こして倒れそうになるミライ)

(ひとまず威圧して女性を追い返した鉄男、ミライを連れて自宅に戻る)
「えっ? あのタイムマシンの?」
「間違いない、私、私って言っても未来の私だけど、地元の駅の近くにアンティークショップがあって、たまたま店の中に入って、そこであの腕時計を見つけたんだけど、あの人、そのお店にいた、あの人の店だったの」
「どういうことだよ、その『未来』って、ええと、23年後の話だろ」
「だけど同じ人だよ。髪型がちょっと違うだけで、ほとんど変わってない。ていうか、そうだよ、私がと寿くっつけようとして走り回ってた頃、ええと3年前、あの時は店主はおじいさんだった。あの女の人はいなかった。だから今あの人が私を知るはずないのに!」
「待て待て、だからつまり、あの女もタイムマシンを持ってるとかそういうことじゃないのか」
「それにしては言い方がおかしくない!? なんであんな遠回しな……それに、なんであの場所だったの? 私の地元じゃないし、今住んでる町でもないし、たまたま、本当にたまたまてっちゃんがその気になってくれたから初めて出かけた映画館の帰りだよ?」
「映画館入る前にすれ違ったから待ってた……とか」
「だけど何がしたいのあの人、私がここに残ってもう2年になるっていうのに、自分でもタイムマシン持ってるなら私に花びら残ってる? って聞きに来る必要、ないのに」
(怯えるミライ、抱き寄せて背中を撫でる鉄男)
……しばらく仕事終わってオレが家にいない時だったら、店に来い。事務所にいればいいし、何ならクミさんとかはるのところでも」
「こわい、てっちゃん、こわい」
「大丈夫、あの魔女が杖振り回して魔法使うってんならともかく、お前のことはオレが守るから」
「てっちゃん、私ここにいたい、帰りたくない」
「大丈夫だから落ち着け。息吸って、吐いて。そんなことにはならないから……絶対に」

(社長夫婦や岩田夫婦に悟られない程度に警戒を続けて10日ほど経過、仕事が終わって帰ろうとしていた鉄男のもとにあの女性が現れる)
「こんばんわ」
……何の用だ」
「私、彼女に会いたいのだけど、うまく避けられちゃってるみたいだから、あなたにお願いしようと思って」
「だから何の用だ」
「だから、彼女に会いたいのよ」
「用件はなんだ」
「私と彼女のプライベートなことよ」
「話にならねえな」
「お話するだけよ。あなたから彼女に言ってくれない? 彼女、彼氏の言うことなら何でも聞きそうだもの」
「オレは夫だ」
「あら、まあ! やだ、何言ってるの、いい年しておままごと?」
……何?」
「だってそうでしょ、どうやって戸籍のない女と結婚するのよ」
「なっ……
(にっこり笑う女性、青ざめる鉄男)
「ていうかあなたまだ私のこと思い出さないの? 案外記憶力ないのね」
……オレはあんたのことなんか」
「私、百合よ。樹の、妹」
…………そんな」
「思い出した?」
「せ、先輩は」
「まさかあの事件まで忘れたとは言わせないわよ。あの女と肉体関係まであったんだものね?」
……何の用だ。その事件と、あんたと、うちのやつとは、無関係だろ」
「確かに彼女と事件は直接関わりないわ。だけど、話したいことがあるのよ。どうしても」
(スッと片手を上げる百合、手には臙脂のベルトにバラの細工がいくつもついた腕時計)
「見覚え、あるわよね? あなたの『奥様』に懐いちゃってこんな時代に残った、あの腕時計よ。時間を見る以外に使いみちがあることは――ご存知のようね? お役に立てたかしら、私の作った、時間移動できる腕時計は」

(スタンドの近く、騒がしいファミリーレストランの一角、真っ青な顔した鉄男と向かい合い、にこにこしている百合)
「バラの花びらは全部で40くらい付けたかしらね。何に使ったの?」
……オレの、過去を、調べに」
「あらそう。訳ありなのね。だけど腕時計がよく言うことを聞いたこと」
……ふたりで」
「なんですって!? 信じられないわ、あの子の何がそんなにいいのよ、私の言うことは何ひとつ聞かないくせに。どういうことよ」
「その、腕時計」
「最近作ったばっかりなの。だけどどうしても私には使えなくて、そしたら彼女、奥様、ミライさん? のところへ案内してくれるって言うから」
……ちょっと待ってくれ、作るだの使うだの言うこと聞かないだの、何言ってるんだあんた」
「何よその汚いものでも見るような目は。使ったんでしょう? この腕時計。ああそう、過去に戻って自分の子供の頃を見に行ったのね。だったら何の不思議もないでしょう。時間移動はOKだけど他のことは全部信じられないっていうの?」
「そうは言ってねえだろ。こっちは嫁も含めてその辺の事情は知らないから混乱してるだけだ。あんたは何もかもわかってるのかもしれねえけど、こっちは手探りで必死に生きてんだよ。簡潔に説明しろ」
「言い方は気に入らないけど、いいわ、この時間移動できる腕時計は、私が作ったものよ」
「作った、って……
「もしかしてこれのこと『タイムマシン』だと思ってる?」
「思ってる、ってか、そうだろ」
「違うわよ。この時計自体は100年くらい前のヨーロッパで作られたアンティーク。それに時間移動の『能力』を私が与えたの。私は『マシン』、機械なんて作ってないわ。時間移動するんだし時計でいいか、って安易に選んだだけの話」
……結局同じじゃないか。過去と未来に、行ける」
「概念が違うということは本質から異なるということでもあるんだけど……難しい話はまあいいわ。つまり、これは科学の産物ではないということ」
「だったら何なんだ」
「なんとでも。魔法でもいいわよ。私の執念が生み出した呪いでもいいし」
「執念?」
……私は、過去に戻って、兄と、あの女を別れさせたいの」
「なっ……
「私もまさかこんな魔女みたいな能力が現れるとは思ってなかったけど、でも出来ちゃったんだもの。これで過去に戻って兄を説得してあの女と別れてくれれば……と思ってたのよ。だけど、『能力』はちゃんと働いているのに、私がいくら操作しても過去にも未来にも行かれないの。別にこの腕時計が喋ったりするわけじゃないけど、なんとなく伝わるのよね、意志みたいなものが。言葉を発しなくても家族なら伝わったりする――あんな風にね。どうも、この腕時計、人を選ぶらしくて」
「先輩、体調は……
「何も変わらないわよ。60年先の未来にでも行ければ治せるんじゃないかとも思ったけど、そしたら兄は87歳、20代の体で現れて何が出来るっていうの。治すのは現状無理よ」
「だから過去を」
「そう。兄を健康体に戻すためには過去を変えるしか手がないの」
……だけど、当時もあんたは先輩に別れろって散々言ってただろ」
「あら、兄が話したの?」
……いや」
「あの女が話したのね? そんなことまでペラペラと、本当に下品な女」
「そういうことじゃ……妹さんが反対してるらしい、反対されて当然だと思う、それはわかってるけどって」
「だけど自分から決別を選ばなかったのよ。あんなに喧嘩ばっかりで、いつもギスギスしてばかりだったのに、それでも結局あのふたりは6年も付き合ってて、あの女なんかその最中にあなたと浮気までしてたっていうのに」
「浮気ってことじゃ……
「あれが浮気でなかったら何だって言うのよ」
……八つ当たり」
「それをまだ子供のあなたにぶつけるって、あの頃あの女は成人してたはずよ、とんだあばずれだわ」
「あんたがルイさんをよく思ってないのはわかったよ」
「ちょっと違うわね。私はよく思ってないのではなくて、憎んでるのよ。私の兄から片足の自由と視力を奪い、生きる気力を奪い、そこは何の異常もないのに言葉すら話さなくなって、実際に手を下したのはハデスたちよ、だけどあの女に関わらなかったら白鬼母と関わることはなかったわ」
……じゃあ訂正するよ、あんたが樹先輩を異常に愛してるのは、改めてよくわかったよ」
「それは間違ってないわ。だからこうしてあなたに会いに来たのよ。奥様に会わせて」
……断る、と言ったら?」
「この腕時計を壊すわ」
「あいつも持ってるぞ」
「混乱してるんでしょうから丁寧に教えて差し上げるけど、奥様が持っているのは、23年後の、この腕時計なのよ? 私が今この腕時計を壊したら、23年後に奥様が腕時計を手に入れることはなく、時間移動をすることもなく、あなたと出会うこともない」
…………そっちこそ隠せてると思ってんなら大間違いだ。過去に戻って先輩とルイさんを別れさせることに成功したら、先輩はハデスにやられることもなく、あんたは時間移動できる腕時計なんか、作らない。どっちみち同じ結果じゃねえか」
……ふん、思ったよりバカじゃなかったのね。高校中退のチンピラだと思ってたけど、見直したわ」
「間違ってねえよ。誤魔化すな。協力してもしなくても、いずれその腕時計は消えることになるんだろう」
「そしたらどうするの?」
「壊すって、どうやるんだ」
「そりゃまあ、物理的に壊すしかないから、店の工房で潰すとか、そういうことよ」
「それならよかった。オレはあんたから無理矢理腕時計を奪ってそのままあいつを連れてあんたの知らない土地に行く」
「あら、まあ……奥様のためならなんでもやるのね」
「そうだ」
「私が兄にかける愛情と覚悟はそれと全く同じよ。今ここで腕時計を奪われたら私はまた同じものを作り、そして23年待つわ。そして私の店に現れた奥様を……わかったわね? あなたが今ここで私を殺さない限り、あなたたちの運命は私に握られてるのよ。わかったらさっさと協力しなさい」
……だから、そうしたらそこで腕時計は消えるだろうが」
「ひとつだけ逃げ道はあるわ」
「逃げ道?」
「過去に戻ってふたりを別れさせる、その時過去の私にも接触して事情を全て話し、兄の身の安全を引き換えに絶対時間移動できる腕時計を作らせることを約束させるのよ。ふたりを別れさせるためと知れば私は絶対頷くし、約束は守るわ」
「そんな保証は……
「あるわよ。私も……兄のためならなんでもするの」

(自宅にて)
「ちょっと待って、順番に話してくれる? いつ、誰に、何があったの」
……樹さんてのは、スタンドでバイトしてた5コ上の先輩で」
「OK、で、あのお姉さん、百合さんがその妹」
「そう。異常なブラコン……で片付けていいかどうかも怪しいくらい兄貴のことを溺愛してる」
「で、てっちゃんはスタンドでバイト始めた16歳の時に樹さんと知り合って、百合さんとも知り合った?」
「いや、それはかなり後の話。先輩と知り合ってすぐに……ルイさんという人と」
「ああ、てっちゃんの筆下ろしした人ね」
…………まあ、そう」
「あのね、てっちゃん。私たちの存亡の危機に『昔の女なんて!キーッ!』なんて言ってる場合じゃないでしょ。てか私最初の夜にその話聞いたじゃない! そのルイさん、樹さんとうまくいってなくて、ヤケになっててっちゃんをホテルに連れ込んだ人だよね?」
「お、おう」
「あれっ? てかそのルイさんとは1回きりの関係だっけ?」
……そう。その時点で先輩と彼女は5年も付き合ってて、よくいるだろ、なんか喧嘩ばっかりしてるのに別れないカップルって。まさにあれで、オレとルイさんは個人的に連絡を取るのやめたけど、そもそもふたりで出かけたりしてたなんてこと先輩には話してなかったから、先輩とルイさんがしょっちゅう揉めながら、それでも付き合ってるのはずっと見てた」
「先輩はまだスタンドで働いてたのね?」
「そう。で、これは……直接本人から聞いたわけではないんだけど、樹さんと百合は、どうやらだいぶ『いいとこの子』だったらしいんだ」
「えっ? あのアンティークショップって家業じゃないの?」
「だろうな。オレはふたりの家は見たことないけど、樹さんも百合も金持ちが集まるような学校に通ってたって話だけは聞いたことある。けど、樹さんは高校入ってからグレて、オレみたいにバイト始めて学校行かなくなって辞めたクチで、その頃にルイさんと知り合って付き合いだした」
「ルイさんはふつーの人?」
「いんや、普通にレディース」
「普通」
「その縁で知り合ったのが、ハデス」
「あー……知り合っちゃった」
「ハデスがホワイトをオープンさせたのは……ええと確か6年前くらいで、オレがバイト始めた頃だったはずだ。樹さんに『知り合いが喫茶店開いたから連れてってやる』って言われて行ったのが最初だった。オレはその頃はそんなに頻繁に通ってなかったけど、ホワイトはすぐにあの辺りの群れるのが嫌いなヤンキーの溜まり場になって、なのにどうしてか、誰も彼も仲間じゃなくて、後輩を連れてくるようになったんだよな」
「ハデスの入れ知恵だったんじゃないのお」
「まあそうだろうな。そういうのが続いたもんで、気付いたらハデスが裏ボスみたいになってて、グループ組んでるわけでもないのに妙な序列が出来上がってて」
「まあ、おクスリ流しちゃうくらいだから、従っちゃう人もいたろうけど」
「それもあっただろうな。けど、先輩って、そういう風によくいる高校中退ヤンキーなんだけど、やっぱり育ちがいいからなのか、悪くなりきれなくて」
「あー、寿みたいなのね」
「ゴフッ」
「悪かった。続けて」
「ええとだから、これはオレの推測だけど、そのクスリ関係を先輩に嗅ぎつけられたんじゃないかと」
「先輩はそれを見過ごせなかった」
「年もあんまり変わらねえしな。先輩の方にはハデスがボスだって意識はなかったかもしれん」
「それでボコられたの?」
「ボコられたなんてもんじゃない。片目失明、もう片方の目もほとんど見えない、左足の神経が切れてて動かなくなって、全身にナイフで引っ掻いたような傷が何百とあって、そのショックからかほとんど喋らなくなったらしい」
……殺人未遂レベルじゃないですか」
「けど、誰がやったかって証拠はなくて、先輩も喋らないもんだから、事件は未だに闇の中。どう考えてもハデスが主導したとしか考えられないけど、それでも血まみれで白鬼母の工場の近くで倒れてた先輩が見つかって、少し離れた公園でうずくまってたルイさんが保護された……というだけの事件で終わってる」
「ルイさんはどうしたの?」
「詳しくは聞いてないけど、乱暴されたらしい、とだけ。オレはもうその頃は個人的に連絡は取ってなくて、実は事件前からどうしてたかとかは知らない。事件後もオレたちには接触なかったし、ここであの百合が出てくるんだが、オレみたいななんとなく関係者っていうやつ全員にルイさんと連絡取れないかって聞いてまわってたんだよな。彼女とはそれだけで」
「でも、見つかってないわけね」
「オレの知る限りではな。そういう事件があった、て話を聞いただけで、以来、先輩本人とも全く会ってない」
……ねえてっちゃん、そのナイフで引っ掻いたような傷って、こう、尖ったものを刺してぎゅーっと引っ張ったような傷のこと?」
「現物は見てねえから……そこは何とも。何だそれ」
「前に話したよね、私が過去に介入したことで、寿とが離婚しちゃう世界が出来たことがあるって」
「ああ、家に戻ったらセイトがいたとか言う」
「そうそう。でね、その世界でも一応寿はちゃんと更生してて、ヤンキーから足洗ってバスケ部に戻るのは同じなんだけど、それをホワイトでは裏切り者みたいに扱われたらしくて、寿に危害が加わることを恐れた徳男のおっさんが代わりに制裁を受けに行ったんだよね」
……ありそうなことだな」
「その時のおっさんが、脇腹からお腹にかけて、そういうぎゅーっと引っ張ったような傷跡を3本持ってて……
……先輩は、拷問されたんじゃないかっていうのが、当時のオレらの見解で」
「あのー、ていうか何でそーいう世界に平然と……確かてっちゃん寿がヤンキーやめるまでホワイトに通ってたよね? 怖くなかったの?」
「怖いとかは別に……。てかお前と知り合う前のオレなんか、むしろ同類と言うかなんというか」
「でもてっちゃんてそーいうリンチみたいなのには手を貸さなかったって」
「オレは喧嘩は好きだけどそういう一方的なのは肌に合わねえんだよ」
「やだー惚れ直すー」
「はいはい」
「というか直後ではあるけども、てっちゃんたちもホワイトから足が遠のいててよく無事だったね?」
「うーん、それはおそらく、もうオレが行き場をなくした不貞腐れたヤンキーではなかったからだと」
「どういう意味?」
「本来、ホワイトに溜まってる連中ってのは高校生とか未成年が殆どで、家にいられない、学校も行きたくないっていうやつが時間潰してる場所なんだよな。だけどあの頃オレはもうハタチになってたし、普通に自分で稼いだ金で自活してただろ。ハデスの考える手下というには大人になりすぎてたかもしれん」
「てっちゃんが通ってたのは寿とか仲間がいたから?」
「まあそれもあるけど、事務所の2階にいると暇なら手伝えとか言われることも多かったし、それが条件で家賃タダだったわけだし、でも今日は仕事したくねえって日もあるからな」
「まあ、家にいられない、という点では高校生と変わらなかったわけだね……階下にいるのは社長だし」
……それに、たぶん先輩のケースが一番酷かっただけで、似たようなことは何度も繰り返されてたと思うんだよな。オレや三井がホワイトに通いつめててもあの倉庫の存在は知らされてなかったように、ハデスの『シマ』は案外広くて、たくさんの『アジト』をもってたかもしれないし、そういう意味ではホワイトは一番明るくてクリーンな場所だったのかも」
……で、その樹さんを救いたいので、ルイさんと別れさせる手伝いをしろ、と」
「そう」
「そもそもは自分がタイムマシンで過去に戻ろうとしたのに、この子動いてくれなかった、と」
「本人はそう言ってる」
「でも過去の百合にこれを作ることを約束させなければ、全てが巻き戻る」
「ということになるよな」
……まあ、多少のトラブルは覚悟の上だったけど、まさかこの生活が根底から脅かされるようになるとはね。もし百合が腕時計を壊したらどうなるんだろう。今巻き戻るって言ったけど、どこまで戻るんだろう」
「ミライ」
「でも……リセット、だよねえ、どう考えても」
「リセット?」
「えーとつまり、腕時計が壊れたら、未来の私が友達待ってる間にフラフラと百合の店に入っても、腕時計はないわけでしょ」
「そうなるな」
「私は店の中をちらっと見てそのまま出ていく。それだけ。つまり、私がタイムスリップして色々やらかしたこととか、今の私たちとか、全部なかったことに。てっちゃんはミライに出会うこともないので、いずれ仕事で愛知へ移住、そこで一回り以上年下の女と結婚」
「その話はやめろ」
「だけど私たちが百合に協力して過去の百合を説得できなければ、そうなるよ。この2年間は消える」
……また過去に行くのかよ」
……てっちゃん、私、ひとりで行くよ」
「えっ?」
「過去に戻るのは、私がやる。てっちゃんはここに残って」
「バカ、何言ってんだ――
「待った待った、そうじゃないの、てっちゃんには残ってもらわなきゃならないの」
「どういう意味だ」
「先輩とルイさんが別れられてもハデスは変わらないと思うから、私とてっちゃんの出会いは邪魔されないと思う。私が百合の頼みで過去に飛んでることは、覚えていられると思う。てっちゃんの過去も影響は受けないと思う。だけど、百合は信用ならない。気付いたら百合の手から腕時計が消えてて、そんなもの作ってないと言い出すかもしれない。そしたら私は過去に取り残されたままここに戻る前に巻き戻されてしまうかもしれない」
……魔女の監視か」
「そう。それに、てっちゃんとふたりで飛ぶと、滞在費やなんかでものすごくお金がかかると思う。これは百合に聞いてみないことにはどうにもならないけど、百合の家に泊まれれば一番話が早い。その時は私ひとりの方が都合もいいから」
「それはそうだけど……
「この間……百合が目の前に現れた時は、怖くて仕方なかった。自分が未来からやって来た人間なんだな、なんて実感することも少なくなってて、すっかりこの時代に馴染んじゃってるのに、まだ振り回されるのかって思って怖くなったんだけど、今てっちゃんと話しながら考えて、だけどこれはやっぱり私たちが安全に生きていくための試練なんじゃないかって、そんな気がして」
「試練?」
「もしこのミッションを成功させたら、私たち、百合の恩人だよね? 先輩は何も知らずに健康体の人生を歩んでるかもしれないけど、百合は違う。私たちがどんな状況にあるのかもわかってるし、この先私たちが生きていくのに困った時、すぐに手を貸せって言える人になると思うんだよ」
「まあ、そうか……恩を売る」
「そう。どっちみち逃げられないんだし、てっちゃん、やってみない?」
……オレは、正直、怖いよ。巻き戻って、この生活が消えるのが」
(鉄男に抱きつくミライ)
「私も怖い。だけど、何もしなければ百合は腹立ち紛れに腕時計を壊すと思う。それを回避するには、やるしかない。てっちゃんとの生活を守るために、私はやりたいと思う」
……お前のそういう勇気、尊敬するよ」
「そんなカッコイイものじゃないけどなあ」
「オレは……おそらく記憶がないことを無意識に感じてて、それが鬱陶しくなるから頭を空っぽにするのが好きだったし、体の大きさに寄りかかって喧嘩でも何でもやって来たけど、それは勇敢さでは、ないからな」
「記憶が戻ってからのてっちゃんはずいぶん丸くなったもんねえ」
「あの頃の破壊衝動みたいなものがほとんどなくなったからな」
「空白になってた記憶が、埋まったからね……
「それを埋めてくれたのはお前だ。だから、一生離さねえと思ったのに……
「てっちゃん、大丈夫。私たちならうまくやれるよ。私を信じて」
……ああ」