花形たちがインターハイに向けて出発してから数日。は穏やかにメルヘン母や航と過ごしていた。おかげで葉奈と航は夏休みの宿題が早々に片付き、店長とメルヘン母は上機嫌であった。
だが、ある日航が朝やってくるなりのエプロンを引っ張った。
「藤真のにーちゃん、向こうで怪我したんだって。で、負けたんで帰ってくるらしいよ、明日」
「えっ、怪我!? バスケで怪我って、あ、足とか!?」
「いや、詳しいことはオレも知らないんだけど」
さっと顔色が悪くなるだが、航はの背中をぽんぽんと叩いて笑った。
「でも本人が一番怒って暴れてるらしいから、大丈夫だよ」
「それならいいんだけど……」
怪我が大事ないならそれで構わないのだが、舞台がインターハイでは悔しかろう。はそっちの方が心配だった。花形はあまり部活のことは話さないのだが、藤真が優秀な選手で常に翔陽女子の憧れの的になっていることくらいはでもわかる。可哀想に、と思うが、どんな言葉をかければいいかわからない。
それからさらに数日経って、ようやく花形が顔を出した。
「いらっしゃいま……ああっ、花形くん、残念だったね……藤真くん大丈夫なの」
「航に聞きましたか。すみません。藤真ならピンピンしてます」
「花形くんおかえり! 藤真平気なの?」
店長のみならずまでが藤真藤真なので花形は少し面白くない。が、怪我をして帰ってくるということしか聞かされていないので止むを得まい。確かに藤真は怪我をしたが、体の傷より心の傷の方が深い。怪我以降、若干荒んでいる。バックヤードに通された花形は、店長とに説明する。
「ぬ、縫うほどの怪我なの!?」
「でも検査の結果、中身に異常はなかったし、目じゃなくてよかったってところ」
「あの藤真くんが顔に怪我かあ、これは女の子がうずうずしちゃうね」
「いえあの、顔っていうかこめかみですけど」
店長は楽しそうだ。
「一応傷が深いからひとりだけ別メニューで練習しなきゃならなくて、余計腐ってる。勝てた試合で負けちゃったから先輩たちもまだ引退しないっていうし、みんな今ちょっとつらい時期だな」
「よっし、お盆休みになったら小父さんが美味いもん食わしてやるから、連れておいで」
「店長はすぐそれなんだから。店長とご飯食べたって楽しくないよ」
「いや、連れてきます。家にいてもひとりだから、余計腐ると思うので」
商店街の喧騒を背中に、花形は力なく微笑んだ。
それからしばらくして、翔陽がお盆の学校閉鎖期間に入ると、まずは花形と長谷川がやってきた。律儀な長谷川は葉奈にお土産を用意していて、また藤真は差をつけられてしまった。花形も土産などはなかったのだが、その代わりにだけ、あさひ屋で夏季限定カキ氷のフルーツミルククリーム金時を奢っていた。
お盆といえば花屋は繁忙期であるが、この辺りは新盆の地域で、7月がお盆ということになる。そのため旧盆に当たるこの時期は、さほど忙しくない。むしろ夏休みのせいで帰省や行楽に出ている若年層の出が悪く、午前中の商店街はますますお年寄りストリートになっている。
「藤真も後で来るって。自主練してくるらしい」
「大丈夫なの?」
「傷だけだからな。しかもちょっと荒んでるからたぶん治りが悪いぞ」
そういう花形は少し楽しそうだ。
「ところで来い来い言ってた当人はどうしたよ」
「あ、うん、今日はちょっと、ね。父の方の親戚と」
先方がお盆時期で夏休みということか。自営業の店長は相手の都合に合わせているのだろう。
「オレらがいるからいいけど……店長最近緩んでないか」
「それだけお前が信用されてるんだろ」
「長谷川くんいいこと言うね~」
店長とて緩みたいときもある。つまりそんな思惑もあって、花形はターゲットにされていたというわけだ。ついでに客足も緩い商店街で、3人は藤真を待ちつつ、昼に何を食べるかだの、お盆休みの間にどこかに遊びに行きたいだのという話で盛り上がっていた。
花形が来ているので航は必然的に来ないのだが、この日は葉奈もいない。花形メルヘン母と出かけており、藤真同様昼頃に戻る予定となっている。葉奈や航の通う四中では2年生の夏休み中に林間学校があり、その買出しに付き合ってもらっているらしい。
さっぱり客が来ないので、もたまにバックヤードの上がり框に腰を下ろして雑談に興じたり、差し入れをくれるご近所さんにぺこぺこと頭を下げたりしていた。
「それでも昼近くなると人が増えるんだなあ」
「みんなお昼買いにくるからね。またお惣菜もらっちゃったけど、これだけじゃ足らないかな。何にしようか」
「葉奈ちゃんがいるとまた『もみじ屋』じゃないのか」
6畳間のバックヤードに体を押し込めていると伸ばしたくなってくる190cmオーバーふたりは店を出て、邪魔にならないようにフローリストと亀屋の間で伸びをしていた。そのときである。
店の入り口で腕組みをして昼のことを考えていたが、泣き出す直前の子供のように顔を歪めた。
「……どうした?」
両手を頭上で組んだまま伸ばしていた花形と、体を反らしていた長谷川は、その姿勢のままを見てきょとんとしていた。また具合でも悪くなったんだろうか。だが、そのふたりの斜め後からくぐもった低い声が響く。
「、、やっぱりここにいたのか」
「え?」
の喉がヒュッと音を立てる。膝から震えが登り、全身に広がっていく。花形と長谷川はと声の主を交互に見て、そして直感で全て理解した。現在指名手配中のの父親だ。
「、たすけて、」
着ているものはぼろぼろ、日焼けした肌は目一杯汚れている。髪もぼさぼさで、ゴミとホコリだらけ。しかもひどく臭う。そんな風体でずるりずるりと足を進めている。両手をゾンビのように掲げて、の方に近寄ってくる。助けてと言っているが、それはの台詞だ。
ここからのことは、ほんの短い時間の間に起こったことで、なおかつ直接的に関わった人数が多かったために、後々になって何が起こったのかをまとめるのに地元警察は大変苦労することになる。しかも当事者にも目撃者にも高齢者が多く、記憶は曖昧かつ都合よく脚色されていたりして、なかなか実態が見えてこなかった。
ともかく、数秒の後にまず動いたのは花形だった。
「!」
と父親の間に飛び込み、を抱きかかえて店の中に滑り込んだ。さらにその間に長谷川が割って入る。両腕を広げて立ちふさがる長谷川に、父は娘と同じように顔を歪めた。
「お前、誰だよ、お前も誰だよ、、オレだよ、こっち来いよ」
そんなことを言われても花形も長谷川も譲るつもりはない。だが、不幸なことに父はポケットからナイフを取り出してしまった。錆が出ていて、茶色く汚れている。事件の凶器は見つかっていなかった。
「邪魔するなよ、オレの娘だぞ」
「一志、気をつけろ」
「花形、に絶対見せるなよ」
素早く手を伸ばした長谷川は店長休憩用のパイプ椅子を引き寄せて畳み、盾のように構えた。椅子の足を持って水平に突き出せば充分な距離も出来るが、花形と長谷川は息が荒くなってきた。彼らとてまだ高校生なのである。この状態をどうすればいいかわからなくなっていると、隣から金切り声が響いた。亀屋の女将さんだ。
「あんた、よくもこんな所にまでえ!」
だが、亭主を差し置いて店を切り盛りしているだけのことはある。金切り声から立ち直ると、女将さんは店先に置いてあるポリバケツを掴んで抱え上げ、中身を父に向かってブチ撒けた。糠ミソなどを洗った水である。女将さんは火事場の馬鹿力で水の入ったポリバケツを持ち上げたのだった。
「そんなものこの子達に向けるんじゃないよ! あんた、交番行って!」
「女将さんオレが行く! 親父さん、気をつけろ!」
腰が抜けている亀屋の小父さんを残して走り出したのは、金切り声に飛び出してきたあさひ屋のハンドボール小父さんである。さすがに早い。のれんをかけてある棒を掴んだ奥さんがその後から飛び出してくる。
大量の糠ミソ水を被った父は足を滑らせて転んだが、ナイフをあらぬ方向へ何度も突き出しながらよろよろと立ち上がった。この頃になると、フローリスト周辺の事情を知る小父さんやら小母さんやらが武装して集まってきた。武装といっても、基本的には商売道具であったり、掃除用具であったり、とにかく日用品だ。
よろけながらナイフを振り回している父に、「練物店 えどや」の小父さんがなんと熱々のおでんの汁をひっかけた。うめき声を上げている父に、今度は「総菜屋 栃木屋」の小父さんがかたく絞った雑巾を何個も投げつける。これはけっこう痛い。父は、たまらず走り出した。
びちょびちょで臭って撃退され気味とは言え、ナイフはまだ手にある。父はアーケードを南に走り出した。駅の方向である。昼時で少し人出の戻っている中を刃物を持った男が走っていく。その後を長谷川が追いかけて走り出した。花形が叫ぶが、長谷川は止まろうとしない。
「一志、だめだ、やめろ!」
「お前はのそばから絶対離れるな!」
長谷川は走りながら叫んだ。危ないのでどいてください、近くのお店に避難してください! 商店街のアーケードの下は、悲鳴と怒鳴り声と、の父親だと気付いて、また商売物を投げつける人々で大混乱になった。すると、途中で父がぴたりと足を止めた。長谷川も慌てて止まる。その向こうには、
「藤真!」
往来のど真ん中で、仁王立ちになっていたのは藤真であった。こめかみ付近の髪をごっそりと削られ、傷に保護テープを貼り付けている藤真は、父が怯むほど凶悪な顔をしていた。ただでさえ虫の居所が悪い状態で、勘のいい藤真は長谷川が叫ぶ声に全てを察して待ち構えていた。
「藤真、やめろ! ナイフ持ってんだぞ、馬鹿なことするなよ!」
「本当にどいつもこいつも……怪我したら痛ェんだぞクソがァ!」
相当機嫌が悪かったらしい。平常時ならいくらなんでもこんな言葉遣いをしない藤真だが、そう叫ぶと、片手に持っていたバスケットボールを父めがけて投げつけた。藤真と父の間辺りにいた薬局の薬剤師の女性が後に「弾丸かと思った」ほど、ボールはまっすぐに、凄まじいスピードで飛んで、直撃した。
だが、残念ながら直撃したのは、腹。藤真は顔を狙ったつもりだったらしいが、普段顔など狙わない上に頭に血が昇っていたのが災いした。きれいに腹に直撃したのだが、父はよろけただけで転ぶこともなく、腹を押さえて呻くと、藤真から逃げるようにしてくるりと背を向けた。そして、来た道をまた走り出した。
よろよろしているのに、なぜこんな速度が出るのか理解出来ないスピードだった。横っ飛びに避けるしかなかった長谷川を追い越して、父は走る。藤真も走り出した。その様子を真横で見ていた煎餅屋のおばあちゃんが「弾丸かと思った」速度まで藤真は一気に加速する。前髪が翻り、憤怒の形相が露になる。
「待てコラァ! 大人しくしろ!」
「藤真、無茶するな!」
慌てて長谷川も追いかける。脚力には自信のあるバスケット選手が全速力で走っているのに、なかなか距離が縮まらない。父の方もそれなりに必死だったのだろう。亀屋の女将さんと同じ、火事場の馬鹿力だったに違いない。
その頃フローリストでは、ガタガタ震えているの背中を花形がずっとさすり続けていた。
「、大丈夫、、もうすぐ全部終わるよ」
しかし花形がなんと声をかけてもは歯の根が合わない程に震えていて、必死に花形の服を掴んでいた。亀屋の小父さんと小母さんが心配そうに顔を覗かせる。
「おい、透兄ちゃん、大丈夫か」
「ちょっとダメかもしれません、ここを離れた方がいいかも」
「その方がいいかもしれないね。岩間先生のところに行かせてもらったらどう?」
岩間先生は花形が額をぶつけて倒れたときに往診してくれた白髪の先生である。亀屋の女将さんによれば歩いて5分もかからないという。亀屋夫婦がいれば店はなんとかなるだろう。遠くからまだ悲鳴が聞こえてくるし、この騒ぎではしばらく商売どころではない。
「、先生のところ行こう。オレが連れて行ってやるから、怖くないからな」
花形は亀屋の小父さんに岩間医院の場所を聞くと、真っ青な顔をしているを抱き上げ、店を出た。あさひ屋の奥さんがまだ棒を握り締めながら、の背中を擦ってくれた。は震えが止まらない。
「うちの店、お客さんみんな帰っちゃったから、閉めてきちゃった。私がお店見てるからね」
「すみません、お願いします。一志が戻ったら連絡するよう伝えて下さい」
「……透兄ちゃんたちがいてよかった。ほんとに、ありがとうね」
亀屋の女将さんも花形に抱きかかえられているの肩を擦っては洟をぐずぐず言わせた。そうやってしんみりしていると、背後から甲高い声が飛んできた。
「、どうしたの!?」
葉奈とメルヘン母だった。北ゲート方面の路地から商店街に入ってきたらしい。
「葉奈ちゃん! ……来たんだ」
「来たって……まさか、嘘、そんな」
さすがの葉奈もさっと顔色が変わった。花形に抱かれているの背中に触れ、ガクガクと震えているのがわかると、葉奈にもそれが伝染った。そのときである。フローリストから見て左方向にあたる南ゲート方面から、藤真の叫び声が聞こえてきた。
「花形ァー! 隠せえ!! 葉奈ちゃんも!」
全員が藤真の声に顔を上げると、矢のような速度で走ってくる父と、それを追いかける藤真と長谷川の姿が見えた。今度はあさひ屋の奥さんが金切り声を上げた。それだけ距離が近かった。あと少しで父がやって来てしまう。
「貸して!」
この混乱のさなか、そう言ったのが一体誰だったか、この時点では誰もわかっていなかった。だが、数秒の後に道の真ん中であさひ屋ののれん棒を手に深呼吸をしていたのは、誰であろう、メルヘン母だった。コサージュのいっぱい付いたワンピースのメルヘン母は、のれん棒を構えて腰を落とし、真正面を睨んでいる。
またあさひ屋の奥さんが金切り声を上げた。藤真も怒鳴る。父はもう目の前であった。
一閃。
のれん棒が父に直撃する。
次の瞬間、父は地面にひっくり返って、白目を剥いていた。手からナイフが離れ、直後に追いついた長谷川がそれを踏みつけて遠ざけた。滑り込んできた藤真が汚れるのも厭わずに父に組み付き、ひっくり返して両手を背中でまとめた。雑貨屋のおじいさんが慌てて持ってきたガムテープでぐるぐる巻きにする。
藤真が地面にがっくりと膝を着き、大きく息を吐いたところで、全員がメルヘン母を振り返った。
「か、母さん、今のなんなんだよ」
「やだ、何言ってるの透ちゃん、お祖父ちゃんのお仕事忘れたの?」
今度は花形に視線が集中する。
「じ、祖父ちゃん? 機動隊だろ」
「……ああ、そういうことかあ!」
亀屋の小父さんが手のひらにこぶしを打つという古典的なリアクションで頷いた。
「ちょっとあんた、何のことよ?」
「ほらお前、オレの妹んところのヤツが特練員だって言ってただろ! それだろ、花形さん」
「はい。剣道の指導員をしておりました。それで私も」
要するに、厳格な花形祖父は警察で剣道を教えていたのだ。
「でも、困ったわ。私有段者なんだけど、これじゃ過剰防衛になっちゃうかしら」
しかもメルヘン母は有段者だったらしい。誰も言葉が出なかったが、しばらくすると藤真が笑い出した。
「いやいや、オレ、小母さんが何をしたのか何も覚えてないけど。これ捕まえたのは、オレ!」
「お、おう、そうだぜ、藤真くんと長谷川くんがとっ捕まえたんだ。オレは何も見てねえ」
「棒を使ったのは、あたしでいいわよ! あたしなんか運転免許も持ってないんだから」
藤真の言葉に亀屋夫婦が乗っかる。それを潮に、周囲からぱらぱらと拍手が沸いて出た。送られているのは主に藤真と長谷川である。この日を境に、藤真と長谷川は商店街の英雄になった。また、上は80代から下は未就学児まで、合計13人の女性が藤真に恋をした。
そのあたりでやっと駅前の交番から警察官が駆け付けて来た。往復を全速力で走ったあさひ屋のハンドボール小父さんも汗だくになっている。特に復路は警官の足が遅くてやきもきしたらしく、気持ち的にも疲れている。小父さんは藤真の近くにしゃがむと、にこにこと話しかけてきた。
「しかしなんだな、臭いな。藤真くん、銭湯おごってやるから行かねぇか」
「えっ、銭湯あるんですか!?」
「おうよ、この商店街の隠れたシンボルさ。長谷川くんも行こうぜ。オレらよく走ったわ」
人でごった返す中、状況がよくわからない警察官は犯人を捕獲したふたりが銭湯へ行ってしまうのに気付かず、誰かに事情を聞こうとしたら雑貨屋のおじいさんに捕まってしまい、そこからわらわらと善意の証言を始める野次馬に取り囲まれて身動きが取れなくなってしまった。
一方を抱きかかえたままの花形は、メルヘン母と葉奈に岩間医院に連れて行こうかと思っていることを説明していた。まだは震えが止まらず、花形や葉奈の言葉には頷いたりするが、いっこうに落ち着かない。
「アタシが案内するよ、先生のところ行こう」
「悪い、母さんも着いてきてくれるか」
「もちろん。私が棒でやっつけちゃったことを話しちゃう人がいるかもしれないしね」
こちらも大騒ぎの中をそそくさと抜け出して、路地を抜けて岩間医院まで急いだ。