「見た目は古いんだけど、機材とかは普通に最近のもあって、ていうかおじいちゃんパソコン3台も使ってて、デジタル写真の補正とかもやってて、A3までのプリントも引き受けてて、未だに地域のイベントとか式典の撮影も依頼来るみたいだし、途中でお客さん来たんだけど、履歴書とかパスポート用の写真がきれいなんで人気のお店なんだって」
駅まで藤真を迎えに行ったは片手にアイスカフェラテを持ち、手を繋いで歩いていた。超展開に見舞われたので頭が興奮していて、ゆっくり休めなかったし、自分では整理しきれなくなったので早く話したかった。
「ざっと聞いた限りでは悪い話じゃなさそうだけど。しかも古いけど住める場所付き」
まあちょっと見てみてくださいよ、とおじいちゃんは店の奥も全部案内してくれて、10年ほど前まではここに住んでたんだよ、と2階も見せてくれた。建物はやや細長い作りになっていて、店舗の奥はキッチンと風呂トイレ、そして6畳ほどのダイニングになっていた。2階は意外ときれいなフローリングの部屋が2間。ベランダもちゃんとある。
「てかその10年前くらいに家を移ったのは奥さんが足を悪くして階段登れなくなっちゃったからだったみたいで、また戻る気でいたらしいんだけど、奥さんそのまま認知症になって亡くなっちゃったとかで、近くのお孫さんの家の離れに住んでるんだって」
なので実はそのあたりで少しリフォームしてあって、だけど使わないままになっている、という。
「住めそう?」
「今すぐ直さなきゃ使えない……っていうところはなさそうだった」
「うーん、これだけならいい話じゃないかなと思うところだけど」
今の藤真のマンションからも遠くなく、の相棒のポンコツを停められるスペースもあった。条件だけならとてもいい。おじいちゃんの言うように、ショーウィンドウのフォトクロームに引っ掛かった出会いには運命も感じてしまう。
「冒険とか、イチかバチかの賭けみたいなの、は経験ないから怖いよな」
「安牌の中で生きるのが最善の道だと思ってたから」
「それは別に悪いことじゃないけど、こういうことがあると余計に悩むよな」
「健司くんだったらどうしてたと思う?」
カフェラテを啜った藤真は少し顔を落として声を潜めた。
「のツッコミとか、オレのばあちゃんと同じことを言ってもいい?」
「ツッコミ?」
「、本心ではやりたいと思ってるけど、勇気が出ないだけだよね?」
または息を止めた。
「しかも、自分でそれを分かってる。90歳のおじいちゃんを信用して本当に大丈夫なのか、今どき写真館なんかで食っていけるんだろうか、親はなんて言うだろう、面白くなくてもきちんと稼げる仕事に就くべきなのでは、それに、自分に『人』を撮る仕事が出来るんだろうか」
心の全てを言い当てられてしまい、も俯いた。おじいちゃんの言葉に全身を焼かれるような感激を覚えてしまった。67年間も町の写真屋さんとして生きてきた先輩と私は同じ心を持っている。それが誇らしかった。だから余計に藤真の言う「不安」が重くのしかかってきた。
「最後の『人を撮る』ってとこはちょっと措いとこう。それは自身の問題で、が自分で解決するしかない問題だから、それは口を出さない。だけどね、その他のことは、失敗を恐れてるだけで、の本当の気持ちの足を引っ張ってる悪魔みたいなもんだよ」
そりゃあ精神論ではそうだろうけど……と言おうとしたを、藤真のにこやかな表情が遮る。
「水臭いよ。何のためにオレがいるんだよ。もし失敗したって、オレがいるじゃん。写真館やってみて、ダメだったらまたオレの部屋に居候しながら就活すればいいじゃん。何回失敗したって、オレがいるなら何回だって挑戦できるだろ。がオレの立場だったらどうする? 普通に働いてて、オレがバスケの仕事は儲からないって、悩んでたら」
バスケの仕事なんか金持ちになれないんだからやめなよ、そんなことを健司くんに――言うわけない!
「オレはバスケ、は写真、どっちも夢見がちな仕事かもしれないけど、ハラスメント社会に迎合して還暦まで酒飲むだけの人生と比べたら、オレは多少生活が苦しくたってバスケを取るし、それで将来困っても、少なくとも自分では納得できるよ」
物質主義と夢はごくごく稀にしか混ざり合わない。多くの場合、どちらかを取ればどちらかを諦めることになる。あるいは分不相応に無理を重ねれば、どちらも手に入らず、もっと大事なものまで失う。
藤真はプロを引退した時にある程度線引をした。芸能界は合わないらしいし、まったく異業種の世界で生きていかれる気はしなかったし、監督業だって半永久的に続けていかれるかどうかもわからない。突き詰めればリスクは同じだと思った。だとしたら、バスケットに携われる選択肢を取る。
もしかしたら大儲け出来るかもしれないがハイリスクの芸能界、安定は手に入るかもしれないが過剰なストレスも付いてくる異業種――だったら多少不安定でも監督業をやるべきだ。それが本心だから。
「オレと同じ選択をするべきだとは思ってないけど、今が迷って不安を感じてることと、オレが考えてたことは近いんじゃないかな。気持ちに正直になるか、安全を取るか。ただ、もし気持ちに正直になったとしても、オレは出来る限りを支えたいと思ってる、って話」
繋いだ手をギュッと握ると、藤真は足を止めて言った。
「だから、の気持ちで決めていいんだからな」
9月末、は脚立によじ登って釘を咥えていた。写真を飾るためのウォールシェルフを打ち付けているのだが、慣れない作業で手際が悪く、かれこれ1時間以上格闘している。何しろ全部で12個もつけなければならないので。
だがそろそろ昼でお腹が鳴ってきた。最近は朝練に出る藤真と同じ時間に起きているので朝食も早く、午前中はずっと動いているので空腹になりやすい。釘を咥えたまま脚立を降りたは、ランチボックスを手に床に腰を下ろした。夜間撮影の時に買ったクッションシートが敷いてある。
お昼は今日もたまごサンド。まあそれだけでは午後がもたないので他にも用意してあるが、だいたい週に3~4回のペースでたまごサンドを作ってしまう。さしもの藤真も「よく飽きないな」と呆れていたが、たまごサンドはにとって「幸せの食べ物」なので、つい繰り返してしまう。
は藤真が合宿で不在の間に店を譲り受ける決断をした。おじいちゃんは大喜び――という程でもなく、そんならさっさとやりましょう、と話をどんどん進めていった。
蓋を開けてみればこの店は地域最後の写真店、閉店されるとそれはそれでちょっと困る……という最後の砦だったそうで、新装開店やらの準備用途も含めあっさりと融資がおりてしまい、なおかつおじいちゃんのコネですぐにリフォームに入ってもらうことが出来たので、細々とした準備ができ次第開店の運びになる。
だがまだ店舗内が完成していないことと、住居部分の手直しが完全に終わっていないので、の居候は継続中。藤真が学校を出るのはだいたい19時半頃なので、はそれまでここで作業をし、バスでやってくる藤真を待ち、実家から引き取ってきたポンコツ号でマンションに帰る日々だ。
そろそろ藤真と再会してから1年が経つが、人生が激変した目まぐるしい1年だった。黙々と作業をしているとたまに現実感がゲシュタルト崩壊して、今ここで自分の写真店を持っているのは本当に自分なのか……と虚脱感に襲われることがある。おかしいな、ここで何やってんだろう。早くアパートに帰って明日の支度して、酒でも飲んで寝て、またポンコツ号に乗って編集部に出勤しなきゃ、という焦りのようなものを感じて戸惑う。
しかしそれも店のドアをカラリと開けて藤真が戻ると消える。どうしても気持ちが不安定になってしまった時は、静かに抱き締めてもらうともっと楽になる。そんな甘ったれた自分は好きではなかったけれど、が頼ると藤真は待ってましたとばかりに喜んで甘やかしてくるので問題はなさそうだ。
たまごサンドを補給したはまた作業に戻り、この日もあれこれと店内を直したり整えたりしていた。そこにいつものカラリという店のドアを開ける音がして、「ただいま~」という声が聞こえてきた。時計を見るとまだ17時にもなっておらず、外は明るい。
「おかえり。ずいぶん早かったね」
「今日は18時から体育館のメンテナンスが入ってたから」
「じゃあもう帰ろうか」
「たまには外で食べて帰る?」
「人生初の借金をしたばっかりで後ろめたいけど行きたい」
「オレは別に借金ないんだからたまに外食するくらいいいだろ。普段は節約してんだし」
おじいちゃんが揃えた機材を全て譲り受けているし、の融資額は一般的な新規事業のためのものとしてはそれほど多くない。が、の収入を出来る限り抑えたとしても完済までは数年かかる。数千万の新築一戸建てを買うよりは全然少ないじゃん、と藤真は気楽なものだが、の緊張はなかなか取れない。ひとりで店を経営していくということもド素人、その方面も勉強し続ける日々である。
だが、地元の銀行からの融資だけで家と店を手に入れると聞いて、の親は大喜び。昔から人付き合いが苦手だったことを誰よりもよく知る両親は「肩の荷が下りた」と言って、生活に必要なものなどをよく届けてくれる。ついでに藤真も紹介したが、の母親は「あんなモテそうな顔した男でいいの、性格悪くない?」と耳打ちしてきた。似たもの親子だった。
「たまの外食なんだから食べたいものないの。好きなのでいいよ」
「焼き肉食べ放題」
「いつもそれじゃん」
「だって、健司くんとの思い出の味だから」
「……それで毎回絆されるオレもオレだよな」
藤真と再会して1年、付き合い始めてからも10ヶ月、は藤真の心をくすぐる方法を覚え始めていた。藤真いわく「ツン99%の子の1%のデレは破壊力が違う」だそうで、ここぞという時にちょっとデレて見せるだけで毎回絆される。
「そういえば健司くん、ここからでもフォーマルハウトが見えることあるみたいだよ」
「えっ、嘘!」
「今朝おじいちゃんが来てさ、屋根の上登れるようになってるから、探してみたらって」
「屋根……そうだっけ」
「明日ベランダだから、その時本当に登っても大丈夫か聞いてみるけど」
ふたりは店の奥から階段を登り、2階に上がる。いずれはここに住むことになっているので、実家に置いていた私物などは既に運び込まれている。2階は昔ながらの2間だが、おじいちゃんの知り合いの工務店さんが手直しをしてくれたので、引き戸で仕切れる寝室とリビングになっている。
ベランダはそこそこ傷んでいたので8月から何度も補修工事が入り、明日で終わる予定。屋根に登れるなんて聞いていなかったけれど、改めて確かめてみたら梯子がついていた。プロに見てもらって安全なら実物のフォーマルハウトを探してみるのもいいかもしれない。
「ほんとだ、梯子だ。なんか面白い家だよな、ここ」
「建て替えたのは40年くらい前みたいだけど、リフォームのたびにいじくり回したんだろうね」
古い店なので安全性についても見てもらったが、直近のリフォームでかなり直していたようで、問題ないとのことだった。藤真はベランダに乗り出していた体を戻すと、床にぺたりと座り、毎日の作業でくたびれる一方のオーバーオールを着たを抱き寄せた。
「寮とかオレも点々としたけど、ここ、不思議と落ち着くんだよな」
「わかる。実家とも長く住んでたアパートとも違うんだけど、なんか落ち着くんだよね」
も藤真に寄り添い、ベランダの向こうの空を見上げた。藤真のマンションも寛げるのだが、この家の方がリラックス出来るので、つい長居してしまう。
「そうそう、地球の月みたいに、フォーマルハウトの周りを回る星があるかもしれないんだって」
「えっ、そうなの」
「おじいちゃんのカメラ仲間にやっぱり天体撮影マニアがいるみたいで」
は笑いつつ、藤真を見上げる。
「私たちにはひとりぼっちに見えるけど、フォーマルハウト、ひとりじゃないのかも」
藤真の腕がするりと絡まり、何も置かれていないリビング予定の床に影がひとつになる。
「、愛してる」
「え……」
「結婚、してくれませんか」
初めて見るような真剣な表情だった。は喉が詰まって声が出ない。
「ひとりでも強く光る星に憧れてたけど、もうをひとりにしたくないし、ふたりで毎日過ごしてるの楽しいし、ここで、この家でと家族になりたい。おじいちゃんみたいに、ずっとここで」
震える手をギュッと握り締め、は目を閉じた。
どうしてこの人は私なんかがいいんだろうと何度も自問した。そのせいで17歳の時は拒絶するしかなかった藤真、不思議な巡り合わせはふたりをまた結びつけ、過去の悶着など存在しなかったかのような世界が開いた。そんなもの、自分の一生には存在しないと思っていた。
だが、は強く思った。私も同じ気持ちだ、と。
「健司くん、ありがとう」
は窓辺に三脚を立て、編集部時代に唯一自分のために買ったカメラをセットし、自分たちの方に向ける。背後のベランダの窓からはまだ優しい色の夕日が差し込んでいて、まだ暖かい日が続いているけれど、日が落ちると涼やかな風が吹くようになってきた。
ひと巡りして、また藤真と一緒の秋がやって来る。
リモコンを手に藤真の隣に戻ったは、彼の腕を取って体に絡ませ、寄りかかる。
「自撮り、嫌いなんじゃなかったの」
家具もほとんどない部屋にシャッター音が響く。2回、3回。
「これは特別な瞬間を切り取ったものだから」
暗闇からファインダーを覗いて時を止める魔法、その中に取り込まれてみたくなった。
「健司くんと私っていう家族が、生まれたところを、いつまでも忘れないように」
そんな瞬間をこれから何枚も切り取っていかれるように。
それを願う証に、写真はその時を永遠に閉じ込めるから。
END