恋、綴りて百

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『たぶん、私は恋をしたんだと思う』

表紙に何も書かれておらず、使った記憶もないリングノートを開いてみた牧は、そんな書き出しのページについ足を止めた。朝から部屋中を片付けている最中のことで、中身を確かめようとしただけなのだが、どうやらの日記か何かだったらしい。

普段の牧なら他人のプライベートな手記を覗き見したいとは思わない。だが、それが長い付き合いののものであるなら話は別だ。好奇心は否定しないが、それよりも不安や嫉妬心の方が勝る。まさかとは思うがオレと付き合いながら誰かに恋してたのか……などという疑心暗鬼が顔を出す。

床は片付け途中の雑多なものでゴチャゴチャしているが、牧はそのまま腰を下ろして辺りをキョロキョロと見回す。はいない。というかいないのは分かっているが、つい確認してしまう。誰もいない誰も見てない、はしばらく帰ってこない。

いつ頃の日記なんだろうと表紙裏表紙を改めてみるが、プラスチックの表紙にステンレスのリングは真新しいようにも使い古したようにも見えない。牧は細くため息をつく。というのも、『たぶん、私は恋をしたんだと思う』という書き出しの1ページ目には日付がなく、しかし手記の部分とは別の筆記具で書かれたであろう濃い色のナンバーが振ってあるだけ。

1ページ目には『001』とある。

急いで書いたのか、少し乱れた文字は書き出しから少し隙間を開けて続く。

『まだ確信はないけど、予感はある。たぶん私は「あの人」を好きになった
確信がないのは、これまで恋だと思っていたものが実は恋じゃなかったからだと思う
あれは恋にも届かないような、憧れとか、そのくらいのものだった
だって全然違う。これまで恋だと思ってきたものとは全然違う
私の初恋は小2の時のユウくんだと思ってたけど、あれは彼が漫画を貸してくれる子だったからだ』

「漫画て」

牧はつい声に出して突っ込んでいた。確かに今でもは漫画が好きで、漫画喫茶に籠もりに行くこともある。の親御さんは娘をオタクにしたくないという主義から漫画やアニメには厳しかったそうで、そりゃあユウくんが素敵な男の子に見えたに違いない。

1ページ目はそんな「これは恋、今までのものは違う」という自己を振り返る内容に終止して終わった。ページをめくる。やはりページの肩に『002』と番号が振られていて、日付や、いつ頃記されたのかが分かる手がかりはない。

2ページ目もが抱いた感情が恋なのかどうかということに悩む様子が綴られている。1ページ分の分量が少ないので、牧はそのままページをめくっていくが、その「恋問答」は数ページに渡って続いていて、それを見るに、どうやらはそれほど親しくもなければ出会って間もないような相手にときめいてしまったらしい。牧はまたフッと鼻から息を吐いて笑った。

あいつ、普段から買い物してても「あっやば、これキュンと来た」とか言ってよく悩んでるもんなあ。

やはり数日前にもは雑貨店でマグカップにときめいてしまい、「実際マグカップはふたつもいらないんだよ。重ねられないから場所も取るし、巨大な豪邸住みじゃないんだし」と悩みまくっていた。

の悩みは実に5ページ目まで続き、そして6ページ目で突然文字色が変わった。メタリックピンクのきらきら輝くインクで、それまでよりも大きな文字でページのど真ん中に勢いよく書かれていた。

『牧先輩 好き!!!!!!』

それを見た瞬間、牧は真顔で床にばったり倒れた。

密やかな浮気ではなかったことに安堵したのは一瞬。それよりも照れや恥ずかしさや嬉しさや何だか色んなものが入り混じって牧の思考を圧迫、そのまま床の上でぐねぐねと悶えた。

てことはこれ、が高校生の頃の日記というかそういうものじゃないか。日付とか何も書いてないけどいつ頃のことだよ。ていうかオレがと認識したのって、たぶんオレが高2の秋くらいの話だったと思うけど、お前いつからオレのこと気になってたんだよ……

死ぬほど恥ずかしいが続きが気になる牧は床に這いつくばったままページをめくった。続く2ページほどは何故牧が好きなのかという問答に終止していて、また床の上でのたうち回った。こんなの本人からも聞いたことないぞ。なんだよこの「腕の筋肉が理想的過ぎる。あの形の抱き枕ほしい」て。

牧とは1学年差。なので当時1年生のは「牧先輩」で、牧の方は「さん」と呼んでいた。部活の後輩ならともかく、それとは関係のない後輩に対してまで威圧的に出る必要性も感じなかった牧は後輩の女子でも「さん」をつけて呼んでいた。それも早速書かれていた。

『名は体を表すっていうけど、先輩マジ紳士。私のことさん付けで呼ぶとか紳士。紳一だけに』

お前未だにそのネタ言うよな……

『やばい
紳一とか書いちゃったよ彼女みたいじゃんやばい無理
牧先輩って言うのですら緊張するのに』

お前そんなにオレのこと好きだったの……

これは明らかにの片思い時代の手記なので、牧の知らないの心の動きだ。嬉しさと一緒に、ほんの数日前に靴下を裏返したまま洗濯機に突っ込んで怒られたことを思い出す。たまたま間違えただけだったのにチクチク怒られたんだよな……この頃のちょっと戻ってこいよ……

その辺りからは直接牧と会話したことや、実際に遭遇した牧にまつわる出来事を綴るページが続く。ということは、この辺がオレがと認識した高2の秋ってことになるのか。

1年生のと2年生の牧は、と同じクラスで牧の後輩である神を介して面識ができた。部活が忙しいので全員参加の委員会活動にかけられる時間のない神がと一緒に文化祭クラス委員になっていたからだ。文化祭クラス委員は5人で構成されていたので神が不在がちでも大丈夫。

というわけで文化祭の行われる秋、は伝達事項が多いのでよく部活中の神のところに顔を出していた。その都合で牧とも面識ができていたのだが、この手記を読む限りでは、それ以前からは牧に心を奪われていた様子だ。何がきっかけだったんだよ、そういえばちゃんと聞いてないぞ。

ページをめくると、今日はクリスマスだけど家族と一緒、牧とふたりで過ごせたらどんなにいいか、と愚痴がびっしり書き込まれていた。これで時期が確定した。この時点では高1、牧は高2の12月だ。付き合うまでにはまだ時間がかかる。あいつ片思い長かったんだな……

だが、手記は決まった日に書かれているわけではないようで、主に牧に対する恋心が溢れてしまった時だけ綴られていたようだ。だから日付はなくて、通し番号だけだったのか。まあ、何なら日付なんか記さなくても印象の強い事柄なら記憶も鮮明だろうしな。

以後も牧への思慕をしっかりと自覚したはイベントが来れば延々愚痴り、牧と直接会話をすれば喜び、少しでも自分以外の女子と親しげにしている牧を見ようものなら落ち込み、しかしどう頑張っても面識のある後輩の域を出ない自分が告白なんか出来るものだろうかと悩み始めた。

牧も体を起こして座り直す。そうだ、確かにこの頃「さん」は本当に名前と顔が一致しているだけの「バスケット部の後輩のクラスメイト」でしかなかった。女の子だという意識もあまりなかった気がする。バレンタインくらいくれたっていいのにと今なら思うが、勇気が出なかったのはわかる。

何しろ自分はこの時点でも校内トップクラスの有名人、はそうではなかった。

だが、このあと高2牧高3、それぞれ学年が上がったところで話は曲がり始める。その時――5月のことだが、手記にもちゃんと記されていた。は春の校外学習と言う名の遠足をきっかけに、同じクラスの男子に付き合わないかと誘われた。

『今年同じクラスになるまで顔も知らなかった、話したこともなかった、ほんの1日一緒に遊んだみたいな遠足だけで付き合いたいとか思うものなのかな。男子と女子だとそんなに違うもの? 先輩もそうなのかな。私が先輩のこと好きって知らないまま、たった1日遊んだだけの女の子に相手いないなら付き合わない? とか言うのかな』

の不安はもっともなのだが、実際オレはこの頃そんな余裕はなかったよ……と牧はまた細くため息を付いた。3年生、高校最後のインターハイ、どうしても優勝が欲しかった。可愛い彼女も欲しくないと言えば嘘になるけど、高3の夏に彼女かインターハイの優勝を選べと言われたら、確実にインターハイを選んでいた。その時の気持ちは今も忘れていない。

だが、これを機にの手記は牧に対する思いがもう少し具体的になり始める。

接点がないことに関してはどうにもならないし、1年生の文化祭が終わった時点で神とも疎遠になっていたし、実際学年が上がってからは会っていなかったはずだ。が牧に直接会って話すような用が何もない。思いを捨てる気がないなら「用」は作るしかない。

手記は26ページになっていた。は予選を突破した牧に、贈り物を決意する。

牧はリングノートを膝に落とし、背中をだらりと丸めて顔を上げた。この時のことはよく覚えている。さんしばらく見ない間に大人っぽくなったな、と驚き、それが突然インターハイ頑張って下さい、応援してますとプレゼントを差し出してきたのでもっと驚いた。

というか、この時のほど直接的に応援していると態度に示してもらったのは、実は初めてだった。誰も彼もが牧を応援していたけれど、この頃の海南には「牧は勝って当たり前」という思い込みもあったし、それだけに真剣味もなくなっていた。

それに、多くの人が個人的に牧を応援しようと思わない理由が26ページに記してあった。

『あまりにも先輩は特別製だから、みんなきっとどこかで思ってると思う
別に応援したところで、先輩は覚えてないだろうし、自分がわざわざやらなくてもいいや、って
高校は先輩の長いバスケット人生の、ほんの3年間の踏み台なんじゃないかって』

牧も実際に何度か感じた疎外感だった。バスケットで上を目指すことにはなんの疑問もなかったし、そのために努力することは一切苦にならなかったし、それは今でも変わっていないけれど、それでも「内部進学か外部か、専門て選択も……」なんて話をしている同級生たちの会話には入れなかった。

実際牧は小学校から中学、中学から高校、そして大学へと、一度も受験をすることなく、バスケットだけで10代の学び舎を転々としてきた。それが同じ教室で机を並べて学んでいる彼ら彼女らとは異質なものだという自覚はあった。それに執着を残すことは次のステップに進む足を重くさせるだけだと分かっていても、多くの同級生たちの中に溶け込めていないのではと感じることもあった。

部活ばかりやってないで、もっと高校生活を満喫すればよかった――とは今も思っていない。様々な理由で学生スポーツとしてのバスケットを続けていかれなくて脱落していった人を何人も知っている。競技を続けていかれるということは、それだけで運が良かったし、だからこそ後悔もない。

それでもこの時、がひとりで「応援してます」と言いながら差し入れのプレゼントをくれたことは、牧にとってはちょっとした転機だった。は多くを語らなかったけれど、なぜか「さんはオレだけを応援してくれるのか」と思ってしまい、それがやけに嬉しかった。

差し入れはフェイスタオルと塩飴とカフェのギフトカード。小さなメッセージカードには小さな字で「広島までは行かれないけど、神奈川から応援してます」と書かれていた。さん、インターハイの開催場所も知ってるのか。本当に試合の頃に神奈川から応援してくれるんだろうか。

迫る高校最後のインターハイに向かって脇目もふらずに練習をしていた時期のことなのだが、どうしてかのメッセージと贈り物は牧にぴったりとまとわりついてしまい、タオルと飴は現地までお供をしてインターハイのトーナメントを戦い抜いてきた。

そして28ページ、はやたらと小さい字で大量の「やばい」を書き殴っていた。

遠い日の高校生だった自分に立ち返っていた牧はそれを見てまた倒れ、声を殺して笑った。牧がインターハイから帰ってきて数日後のことで、これもよく覚えている。自宅で疲れを取りつつ、課題を片付けなければと机に向かったら、机の上にからもらったカフェのギフトカードが置いてあった。結果は準優勝だったけど、お礼がしたいと思った――ので、つい会わないかと誘ってしまったのだ。

ちょっと気恥ずかしかったが、神に取り次いでもらって連絡を取った。誘いの電話の時はいつもの「さん」だと思っていたけれど、実際はノートに呪詛のごとく「やばい」を書き殴るほど動揺していた模様。まあそりゃそうか、デートみたいなもんだもんな。

「やばい」を書きまくって気が済んだか、それとも記念と思ったのか、ページの下の方には待ち合わせ場所や時間や、牧との約束についてが強い筆圧で記してあった。

さらに、次のページでは今度は、奇跡的にふたりで会えることになったけれどどうしたらいいんだ、と違う混乱が発生。服に迷い、何を話せばいいかで迷い、どのくらい親しげにすればいいのか、どのくらい先輩と後輩の立場を守ればいいのかに悩み、最終的には「好きですって言ったら迷惑かな」に到達し、その結論は出ないままデート当日に突入したらしい。

29ページには、弱々しい字で短い文章が綴られていた。

『楽しかったけど、告白なんか出来なかった
先輩のこれからの話を聞けば聞くほど、私とは住む世界が違う
先輩の隣にいるだけで幸せだったけど、手は届かないと思う
手を伸ばしてみても、もっと苦しい思いをするだけなんだと思う』

ページの片隅がゴワついて丸く盛り上がっていた。、泣いたのか……

会話の内容を一言一句覚えているほどではないけれど、それでも牧の記憶の中には楽しそうなしかいなかった。カフェで話したり、そのままお昼を一緒に食べたり、午後は街をぶらついてからを最寄り駅まで送って行った。は一度も沈んだ顔など見せなかった。

涙の滲む29ページ、しかし下の方には一言書き添えてある。

『でも、先輩が好きなのは変わらない。やめようと思っても無理』

もう、1年以上の片思いになる。牧はつい当時のを思って胸が痛んだ。遠い日のがこんな風に思い煩って涙を流していたなんて、知らなかったとは言え、今すぐタイムスリップして抱き締めてあげたくなる。そうとは知らずに「さんずいぶん可愛くなったな~」なんて思いながら帰宅していた当時の自分を鉄拳制裁したい衝動にも駆られる。

そう、牧はこれをきっかけにに対して好意らしきものを抱き始めた。デート中に突然好きだと思い始めたわけではなかったけれど、それこそ「さんいい子だな、可愛いし」程度のふんわりした感触が浮き上がってきていた。

そして牧は、こんな風にが泣くほど恋に悩んでいたとは知らずにまた誘うのである。今度はデートではなく、国体の試合。デートからは1ヶ月半以上が過ぎていたが、インターハイ前のことがまだ鮮明な印象を残していた牧は、今度は東京で試合があるから見に来てみる? と声をかけてみた。

30ページ、は正直に『いや、試合見たことないわけじゃないんだけどね』とツッコミを入れていた。牧はまた起き上がり、片手で口元を覆った。続けては『そりゃ広島は行かれないけど、近所で見られる試合は全部見てるっつーの』と記していた。

知らなかった。

というか何でそんなこと今まで黙ってたんだ。牧は口元を覆ったまま首を傾げる。

読み進めていくと、どうやら「今まで近所の試合は全部見てます!」とは言えなくて、初めて見ると嘘をついてしまった様子だ。その上牧に「初めて見てもらう試合が負け試合にならないように頑張る」と言われてしまったようで、嘘を突き通すしかないと開き直っている。

だが、結局はこの国体観戦がふたりの関係を一気に推し進めることになる。

ひとりでコソコソと観戦に出かけたは、トーナメントが終わってから牧に連絡を寄越して労いと称賛を送ったのち、西東京なんて行ったことがなかったけどひとりでカフェだの雑貨店だのをうろついてしまい楽しんでしまったとして、礼を述べてきた。

その返事として牧もまた礼を返し、「試合で訪れたことがあっても街に出ることはないから、そういうのもいいかもしれない」と興味があることを付け加えてみた。はどう思ったのか、それについてはノートに記されていないけれど、「たまにはそういう日があってもいいんじゃないですか?」と返信が来た気がする。

だから「よかったら一緒に行かないか」と誘ったのだから。

言い訳としては、自分は遊び慣れていないからひとりでは勝手がわからない、付き合ってもらえないか、という体裁だった気がする。けれど本音はまた夏休みのときのようにと遊びに行きたいと思ったからだ。遠い街なら誰も見ていないし、学校や地元を気にせず自然体でいられるとも思った。

そうしてまたは服どうしようだの食事はどこがいいかだののリサーチに悩み、今度は『気を遣いすぎて疲れた』と感想を残している。が、が気遣いで疲れていたこのデートで牧の方はへの気持ちを固めるに至るのである。

徹底した気遣いをされている感覚はなかったけれど、ガチガチの敬語に「先輩」と「さん」ではなく、学年や学校内の知名度とは無関係な時間が無自覚のうちに閉じ込めていた自分を解放し、そんな自然体でいられるともっと一緒にいたいと思った。

国体が終わると、全国大会はひとつしか残されていない。それが実感を伴ってきて初めて、牧もこの3年間だけの学び舎に未練らしきものを感じてきた。それがだった。3度目がないままとの縁を断てば、いつまたこんな風に自分を解放できる女の子に出会えるかわからない。最初はそんな程度の自分本意な好意だったけれど、それでも久しぶりに芽生えた恋心だった。

33ページ、3度目のデートの前にはもう服や会話や遊びに行く場所に悩んだりはしていなかった。

というか悩む暇もなかったはずだ。県内の高校と練習試合の予定だった秋の祝日、部員の半分以上が寮生という対戦校が集団食中毒で話が飛んでしまった。出発しようとしてバスを待っていたら中止、バスケット部はいないと思っていたので体育館は別の部が占有中、急遽休みになってしまった。

牧は学校を出たところで迷わずに連絡をして、2時間後には最初にデートをした街で会っていた。そしてその20分後には「よかったら付き合ってくれないかな」と言っていた。

33ページはほんの4行。

『今日から紳一って呼ぶことになった
嬉しくて死にそう
好き
紳一 大好き』

がこんなにも思ってくれていたなんて、知らなかった。

ちょっといい感じの後輩の女の子に自分から告白してカップルになったと思っていた。

そうじゃなかった。にはこれだけの長く密やかな片思いがあった。

34ページ目はたったひとこと。

『夢じゃなかった』