恋、綴りて百

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の「手記」はどうやら、気持ちが高揚したり落ち込んだりしたときにだけ書くもので、かつ1日に1ページだけというルールがあるようだった。

しかしそれにしては愚痴が少ないなと思っていた牧は、ふたりが付き合いだしてから数ページ目に切り取った跡を見つけた。前後の内容を考えると、初めて喧嘩をした頃のような気がする。がまたそれほど親しくない同学年の男子に言い寄られたことを牧が聞きつけ、嫉妬心からちょっとした嫌味を言ってしまったからだ。

その時の気持ちは残したくなかったのだろうか。まるでそんな喧嘩など存在しなかったかのようにページは切り取られ、前後の幸せな記憶だけが綴られている。実際、皮肉にも喧嘩がふたりの感情を盛り上げた。というわけで切り取られたページから2ページ進むと、初めてのお泊りである。

ことがことなのであまり具体的には書かれていなかったけれど、緊張して怖くて不安でたまらなかったことが小さな字で詰め込まれていて、そこはむしろ具体的に感想書いとけよと思ってしまった牧は床に額を擦り付けて反省した。この時のはまだ17歳、ほんとにすいませんでした。

しかしということは牧が進学で都内に転居したばかりの頃のことであり、ちょっとした遠恋感覚で付き合っていた時期だ。しかもは、同じ大学まではいかなくとも近い場所がいい、と内部進学を放棄して受験の意志を固めていた頃。

なので手記の頻度は低下した。牧は大学1年目、は受験生、ごくたまに会うくらいで携帯でのやり取りだけが拠り所だったが、移り気の心配を疑う暇もなかったのは幸いだったかもしれない。ふたりはそれぞれに忙しくしている間に「プチ遠恋」を乗り切ってしまい、気付いたらふたりとも学生になっていて、付き合いは1年をとっくに過ぎていて、けれどまだお互いのことが好きだった。

牧の記憶でもこの「牧が大学2年目3年目でが1年目2年目」の時期は思うまま奔放に、けれど穏やかに付き合っていた時期だった。何しろ障害になるものが何もなく、関係に波風が立つほどの誘惑もなく、どちらも公私ともに順風満帆と言える日々を過ごしていた。

そういうわけで手記は数ヶ月に一度程度になり、しかしやがてその「順風満帆」には不安を覚えるようになっていた。これは「順風満帆」を羨む誰かの悪意ある入れ知恵だったのではと牧は疑っているが、その疑心暗鬼は62ページ目に唐突に現れた。

『私たち、仲がいいと思ってたけど倦怠期ってやつなのかな』

仲がいいのに倦怠期もクソもあるか、と牧は過去に向かって憤慨したが、とにかくはそんな言葉を刷り込まれてわけもなく不安を感じている。自身も成人を前にして様々なことに思考を巡らせていた頃だったのだろうが、余計なことを吹き込んでくれたものだと思う。

に吹いた疑心暗鬼の風は些細なことで膨れ上がり、内容から察するに1~2ヶ月に1度くらいの割合で「倦怠期」への不安をこぼすようになっていた。

は明るい子だったが、根拠のないことに一喜一憂するタイプでもなかった。それがこれだけ不安がっていたのは、やっぱり誰かに余計なことを言われたのでは……としか考えられない。牧の記憶では付き合って3年目を突破したカップルにしては充分ラブラブだったはずだ。

それは牧の一方的な思い込みではなくて、倦怠期への不安とともに添えられている「私は今でも紳一のことが1番好きなんだけど」という類の言葉からもわかる。

そりゃあ付き合いたてのような異様な盛り上がりはなかったけれど、実はこの頃に牧は2ヶ月ほど結婚というものが頭から離れなくて、もしこのままと将来を共にするなら……ということを考えてばかりいたことがある。きっかけはチームメイトの姉が妊娠をきっかけに結婚したことだった。

プライベートでも親しいチームメイトだったので、彼の姉ともだいぶ馴染みになっていた。それがある日突然「あいつ子供出来たから結婚するらしい」と聞かされ、友人の気さくなお姉ちゃんがお母さんになり人妻になるという現実に、ついを重ねてしまった。

体は充分大人でも心はまだ「半分子供」くらいの気持ちでいたことに気付き、遠いと思っていた「社会」と一緒ににも訪れるであろう結婚や妊娠というものが絵空事ではないのだと考え始めたら止まらなくなってしまった。

今思うと、それはつまりへの愛情から来る戸惑いであり、やがて来る覚悟への準備だったのではと思えて仕方ないのだが、が倦怠期についてこんなに悩んでいるとはつゆ知らず、こともあろうに牧はふたりの恋愛史上最も危険なミスを犯すのである。

友達のお姉ちゃんの妊娠を目の当たりにしたことで不安が生まれてしまい、に触れるのを躊躇うようになってしまった。当然手記にはインクの途切れるボールペンで走り書き。

『やっぱり倦怠期なのかな
紳一 最近キスしてくれなくなった
手も繋がない』

「ご、ごめ……!」

牧はまたつい声に出して謝ってしまった。いやいや手も繋がないのはおかしいだろオレ、これは勘違いするだろ何考えてんだよ、マジごめんこれはオレが悪い。てかこれは後で謝った気がするけど今見てもオレ最低だこれ。

だが、牧が急いでページをめくるととんでもないことが書いてあった。75ページ目。

『でも私はお母さんのアドバイスより自分の気持ちを信じたい』

倦怠期なんか刷り込んだのお母さんだったんですか!!!

の母親ならもうすっかりお馴染みである。それこそ気さくなお母さんだなと思っていたけれど、影で娘に「付き合いが長くなると倦怠期に気をつけなさいよ」とか何とか言ったりしてたのだろうか。これはちょっと今後も警戒すべきなのでは。

しかしは一転、これまでになく整った字で書き綴る。

『もし本当に紳一の気持ちが離れてしまったなら、それはしょうがない
だけどまだそこまでじゃないと思う
私はまだ好きだし、ふたりで仲良く過ごしてきた時間も信じたいし
紳一のことも信じてる
長い付き合いの彼女に「飽きた」なんて言い出すような人じゃないって信じてる』

この言葉は不覚にも牧の心にサクッと刺さり、ちょっと目頭が熱くなった。鮮やかで滑らかな発色のゲルインクがきらめき、の強い意志を感じた。彼女はさらに決意を新たにしている。

『付き合い始めの頃に比べたらのんびりした付き合いになってる、てのはわかる
そういうまったりした付き合いも私はいいと思うけど、それが別れに繋がるのは嫌だ
しつこくするのは違うと思うけど、少し紳一に対する「慣れ」を忘れたい』

具体的な記憶はないが、結果として牧はこの1ヶ月後くらいに結婚と妊娠という不慣れな事象への不安から解放される。今この手記を読みながら思い返すと、はおうちデートよりも外で遊んで過ごすことに積極的だった気がする。スポーツ施設や観光地で過ごし、お泊りはなしで帰り、寝る前にメッセージのやり取りをする。まるで実家住まいの高校生同士のような付き合い。

そうか、が少しずつ軌道修正してくれてたことだったのか。牧はちょっと感心して感嘆のため息をついた。結局この繰り返しが牧の無意味な不安を払拭し、また元の付き合いに戻っていくことになる。キスもセックスもちゃんと復活した。

だが、ふたりの関係が戻ったことについての詳細な記述はなかった。はイベントなどで牧に対してポジティブな感情を抱いたり、自分が嬉しかったりしたことを淡々と記録するようになっていき、文面から分かる範囲でもこのノートに書き込む機会はどんどん減っていった。

それもそのはず、牧は学生競技からとうとう卒業し、プロへの道を手に入れていた。も自身の選んだ道へ進み、社会人になった。付き合いは変わらず、ふたりの時間は少なくなったけれど、下らないことで喧嘩をしたり不安になったりということも少なくなっていった。

新社会人になってしばらくはも新生活に慣れるのに精一杯、このノートのことは忘れていたんだろう。誕生日やクリスマスやバレンタインは一緒に過ごしていたけれど、何も記されていない。

それがまた綴られるようになったのは、ごく最近のことらしい。

98ページ目、ほんの数ヶ月前のことだ。は25歳、牧は26歳の冬。

『今日、紳一にプロポーズされた』

すっかり大人びた文字を綴るブルーブラックのインクは、このところが好んで使っている万年筆のものだ。去年のバレンタインには牧も1本贈った。

『気の早い私は結婚するなら引っ越しか、と部屋をひっくり返し始め、このノートを見つけた
正直恥ずかしすぎて燃やしたいけど、でも、1ページ目の私に言ってあげたい
あなたはその人を大好きになって
その人もあなたのことを大好きになってくれて
いつか幸せな結婚をするんだよって言ってあげたい
だから彼を大事にしてね
仲良くしてね
思いを捨てないでくれてありがとう』

牧は静かにページをめくる。99ページ目。

『やっぱり夢じゃなかった』

続けてページをめくると、初めて空白のページが現れた。空白を挟み、次のページにはメタリックピンク以来となる薄紅色のインクが流れるような文字を綴っている。

『明日は新居に入居だっていうのに、ひと晩かけてノートを全部読み返してしまった』

つまりほんの数日前のことだ。入籍も挙式もこれからだが、牧がオフシーズンに入ったので引っ越しを優先した。新居は遅々として片付かず、が仕事の間は牧がひとりで片付けをしていた。今日は土曜でも在宅だが、昼食を買うついでに書店に立ち寄ると言っていたので時間がかかっている。

ゴチャゴチャと物の散らばる床の上、牧は窓から吹き込む暖かい風に目を細める。

『不覚にも泣いてしまった
私はいつでもこんなにも紳一に恋い焦がれていたんだって思い出した
それほど私にとって紳一という人は得難い存在だった』

いつしか牧はその文字ひとつひとつに指で触れながら読み進めていた。

『私は過去の私が選んできた決断を自分で褒めたい
牧紳一という人は、私の10年に渡る恋を捧げるに相応しい人だった
昔も今も、このノートに書き記したような思いを注ぎ込む価値のある人だ
もし教会式をするなら、今でも言うんだろうか、病める時も健やかなる時も、と
紳一はまさにそういう人だ
私が病んでいれば心配をし、気遣い、共に戦ってくれる人だ
健やかな時ならそれを共に喜び、健やかな時があることを感謝出来る人だ
私は紳一と一緒に生きていこうと決めた
同じ道を歩いていける人だと思ったから』

牧の頬にそっと、一筋の涙が伝う。しかし自然と微笑んでいた。

『頑張れ私
不安はあるけど紳一と協力しながら生きていこう
甘やかすだけじゃダメ
だけど優しさを忘れるのはもっとダメ
大丈夫、こんなに好きだった人と結婚できるんだから怖いことなんかないよ
気持ちが黒くなってしまったら何度でもこれを読み返そう
自分の恋がどれだけの思いを綴ってきたのか
もう100ページ
全部紳一と共にあったもの
大好きな牧先輩への思いの全て
ずっと忘れないでね』

、オレもずっと忘れないよ。ずっと一緒に生きていきたいから」

思わず出た言葉、柄にもなく頬に伝った涙を拭う左手に、きらりと銀色が光った。

「ただいま~って全然進んでないじゃ……ちょっと大丈夫? 紳一?」

片手に昼食、片手にゼクシィのが帰宅すると、新居のリビングは出かけたときと変化がないように見えて、彼女はつい声を上げた。だが、片付けをしているはずの「もうすぐ夫」は床の上に倒れていて、慌てて駆け寄ってきた。滅多に風邪も引かない人がどうした。

しかしその「もうすぐ夫」の手に見覚えのあるリングノートを見つけたは悲鳴を上げた。

「おかえり」
「ちょ、まさかそれ読んでないよね!?」
「ごめん、全部読んだ」

また悲鳴。ジーンズにパーカーのは頭を抱えて床にうずくまった。のそりと体を起こした牧はノートをそっとテーブルの上に置くと、唸りながらうごめいている「もうすぐ妻」の体を引き寄せてゆったりと抱き締めた。

「オレの知らないことがたくさんあって、驚いた」
「そういうことしない人だと思ってたのに……
「幻滅した?」
「そ、そうじゃないけど、でもだって、充分黒歴史でっ……!」

腕の中でぐねぐねと動いているの頭を撫でつつ、牧はまたゆったりと微笑む。

……オレも言ってあげたい。オレはいつか君のことが大好きになるから、勇気を出して踏み出して」
「え、ちょ、紳一……
「オレは何度も君を不安にさせるかもしれないけど、その度に何度でも叱りつけていいから」

同居初日から靴下を裏返したまま洗濯機に突っ込んだことは確かに「無意識の緩み」であり、それは反省している。は何も結婚を前にして夫婦間の主導権争いを仕掛けているわけではなかった。甘やかさずに、協力しながら、優しさを持って生きていこうと覚悟していた。

そういう君を誇りに思うから。

万感の思いが喉を詰まらせ、牧はそっとにキスをして、また抱き締めた。

「ううう、恥ずかしくて死にそう」
「でもまだ知りたいことがあるんだけど」
「あれだけ書いてあれば充分でしょ」
「最初のきっかけ書いてなかったし、お義母さんの件ちょっと詳しく」
「何でそんなこと気になんの~気になるならお母さんに聞いてよ~」
「あんなこと娘に刷り込んでた人だと思うと怖くてもう気軽に聞けない」

ため息交じりに乾いた声で笑った牧に、はつられて笑い、やっとぐねぐねするのをやめた。

「最初のきっかけなんて、それはほら、高1の頃だし」
「それはわかったけど、何だったんだ?」
「も~それ言わせるの~? 自分でも書けなかったのに」
「だから聞いてるんじゃないか」

また少し唸っていただったが、やがてため息交じりにそっと呟いた。

「そんなの、かっこよかったから、体育館で」
「なに? 聞こえない」
「もー! バスケやってる先輩がめっちゃかっこよかったからウワーってなった、それだけ!」

またぐねぐねし始めたに牧も大笑い、やたらと深刻そうな書き出しだったけれど、蓋を開けてみればよくありすぎる青春の一コマでしかなかった。ありふれていて面白みもなくて見栄えもしなくて。

と牧は倦むことなくその恋を大事に守ってきただけ。

テーブルの上に置かれたノートはその記録でもある。

牧はそれにちらりと目をやると声を潜めた。

「じゃあ今度は、オレがどう思ってきたか、全部聞いて」

100ページ分の恋をもう1度、今度はふたりで。次の100ページを思い描きながら。

END