藤井理世、彼女は湘北バスケット部の立場から言うと、マネージャーである赤木晴子の親友だった。同じ中学からの進学で、中1の時に同じクラスになって以来ずっとふたり一組状態だった。
水戸の言うようにリセは万事控えめで大人しく、真面目で地味な女の子だった。が記憶していた3人組のもうひとり、松井という女子は割と何でもズケズケと言う思い切りの良いタイプだったが、リセは自分からあれこれと喋るようなタイプでもなかった。
その3人組の中心にいた赤木晴子は1年生の2学期から学年でもよく知られた生徒になった。その年の夏、目覚ましい活躍をしたバスケット部のマネージャーに就任したからだ。
これは、中学時代3年間をバスケット部で過ごしていること、前主将の妹で部内の事情をよく知っているということ、現行マネージャーに是非にと請われたことなどが理由となっているが、さらに中心的存在の部員・桜木が彼女の言うことなら何でも聞く、という最強のアビリティを持っていた。
目覚ましいという言葉では少々足らないほどに躍進したバスケット部、それまで興味のなかった生徒たちからも注目が集まり、なおかつ流川が全日本U17強化選手に選出されたことで、バスケット部は突然近寄りがたい存在になった。そこに是非にと請われて入部したのが晴子だ。
そもそもその流川は、校内数十人に及ぶファンが親衛隊を結成するなど、非常に女子人気の高い部員であった。晴子もこの流川に恋心を抱いていたひとりである。しかし、彼女はそういう理由で仲間に入り、なおかつ流川と同じくらい目立つ桜木から想いを寄せられているということが一気に知れ渡った。
「それは……僻まれちゃうよね」
「よね、ってお前まだその頃は湘北にいたろうが。知らなかったのかよ」
「ええとその、その頃私はお兄ちゃんに勉強教えてもらいながら、みこっさんとデートしてた」
つまり、清田家に入り浸っていた。嫌そうな顔をした信長にまた水戸が吹き出す。
「そこはバスケ部の練習がハードなのが幸いしたんだよ」
「そうか、いくら僻まれてても練習に出てたらそんなことは」
「オレたちも目を光らせてたし、正直それからのバスケ部はそんなこと気にしてる暇もなかった」
ひと夏の躍進を奇跡で終わらせてはならない。あれは偶然の幸運ではなくて自分たちの実力なのだと証明してゆかねばならない。年末にはまたひとり引退を出す予定だったバスケット部は余計に練習に夢中になっていた。晴子はそれにかかりきり。1年生の2学期は一時成績も落ちたという。
「ま、オレらもそこんとこは元々ひどかったわけだけど、そうも言ってられなくなった」
「そっか、確か桜木、追試で赤点回避しないとインターハイ出られないって宣告されてたね」
「マジか湘北……」
神奈川のバスケット名門校出身の信長は呆れるが、湘北はそもそもがヤンキーも多いわ喧嘩は絶えないわ……という学校であった。水戸も1年生の時に喧嘩が原因で数日間の停学処分を食らっている。
疲労で2学期の中間が振るわなかった晴子、そして元々ギリギリの点数しか取れない水戸たちは当然リセも交えて桜木の成績を維持すべく、こまめに勉強をするようになった。全てバスケット部のためだった。
「それはわかったけど……それがそのリセちゃんとどう関わってくるの」
「それが最初ってだけの話。晴子ちゃんが自己管理できるようになってきてからはそういうのも減った」
晴子がバスケット部のハードな練習と学業のバランスを取れるようになってきたのは1年生の3学期頃だったという。その頃は大きな大会もなければ2学年体制、ひたすら練習と、監督が組んできてくれる練習試合の日々であった。春から即戦力になりそうな新人の噂も聞こえてきていた、そんな頃だった。
「元々松井はバスケが好きとかいうわけじゃなかった。中学も違ったらしいし、晴子ちゃんにくっついてきてただけで、徐々に試合とか練習の見学とか、来なくなって。教室では仲良くしてたみたいだけど、それを離れると晴子ちゃんが忙しいもんだから、それだけの付き合いになっていったんだよな」
3人組が、ひとり、そしてまたひとり外れていく。その上、2年生になると3人組は完全にクラスが分かれた。
「それは……リセちゃん」
「……そうなんだよな」
「おいおい今度は湘北だけで納得してんじゃねえよ。リセちゃんどうしたんだ」
今度は信長がアーモンドをぽいぽい放り投げる。酔っ払ってきているので把握が遅い。
「その頃私はあんたと付き合い始めたばっかりで学校のことはそんなに覚えてないけど……だけどバスケ部は新入部員がたくさん入って、今年もすごいことになりそうだな、って騒がれてた気がする。部員が増えたし、マネージャーやりたいっていう子も多かったんじゃなかった?」
水戸は頷くだけで返事をしない。
「リセちゃん、取り残されちゃったんじゃないの」
「取り残……えっ、なんで」
「だってその流れで言うとリセちゃんはマネージャーにならなかったんでしょ。だけど赤木さんはずっと忙しい」
その年の湘北バスケット部については信長もよく知るところだ。前年の成績のおかげで強力な新入部員も入ったし、県内では充分に強いチームだったし、全国でもよく知られる存在に変わりはなかった。活動全てに随伴していたら相当忙しかったことは想像に難くない。
「松井と同じ。リセもずっと練習見学してたけど、ぽつりぽつりと来ないようになって」
「元々リセちゃん自身がバスケ好きだったわけじゃないんだもんね」
「それでも試合はオレらと一緒に全部見に来てた。バスケ部のことは本当に応援してた」
しかしそれと晴子との距離が開いてしまうのとは別の話だ。
「今にして思えば、まったくのお門違いだし、すげえ上から目線な感じもするんだけど、なんとなくリセから晴子ちゃんを奪ったような感じがしたんだよな。花道のためには晴子ちゃんがバスケ部にいてくれた方がいい、だけどリセと晴子ちゃんとの時間はどんどんなくなってく。それが可哀想な気がして」
すっかり話が見えた信長もペコッと頭を落とした。難しいところだ。
「だもんでつい、オレがフォローするか、とか余計なこと考えて、それでたまに遊ぶようになって」
「遊ぶ……ふたりで?」
「そう」
「それデートだろ」
「まあ状況的にはそうなるよなあ」
「なんだその他人事みたいなの」
仕方あるまい、水戸にはそのつもりがまったくなかったからだ。自己管理はあんまり得意じゃないと言いつつ、週に3日ほどアルバイトを始めたとリセが言うので、じゃあバイト代入ったら遊びに行くか? とフォローのつもりで言ってみたら、喜ばれてしまったという。
最初は買い物だった。水戸も靴が欲しかったし、リセは携帯ケースを探していた。1番近くて1番大きな街、かつて信長がの手を引いて駆け抜けた街、そして永源のある街に出かけて、買い物をして食事をして、あれこれと寄り道をして帰った。そういうことが2年生の1学期に何度か繰り返された。
「いつだったかな、やっぱり誰かに『それデートだろ』って言われたんだよな」
「だろうね」
「それでたぶん意識しちゃったんだよな、お互い」
だが、さらなる転機は夏休みに訪れた。
バスケット部が合宿に出ている間、水戸たちは夏休みの宿題を全部終わらせようと頑張っていた。だが、普段からお勉強は苦手で通してきている。そんなに簡単に終わるわけがない。それを正直に話したところ、リセが手伝ってくれると言い出した。場所は水戸の家。
「ふたりで?」
「ふたりで」
「意識しちゃってたところに?」
「そう」
「それは……盛り上がるよな」
信長に言われるまでもなく、水戸とリセはふたりきりで身を寄せ合って宿題を片付けている間に気持ちが盛り上がってきて、半ば勢いでキスしてしまった。
「……えっ? 付き合ってなかったって言ってなかった?」
「付き合ってない」
「リセちゃんが可哀想になってきた」
今度はがアーモンドを水戸にビシバシ投げつける。
「でも別にあいつも何も言わなかったし」
「それはほら、わかるでしょ!」
「いやわかんねーし」
「オレもわかんねえ」
「お前ら……」
は憤慨するが、リセはキスしてしまっても何も言わなかったし、もちろん水戸も何も言わなかったし、ただそういうハプニングが起こってしまっただけ、という状態のまま、付き合おうか、なんていう取り決めはなかった。だが、以後もそうしてふたりで会っていた。会えばキスもしていた。さすがに信長の眉間にもしわが寄る。
「それはどうなのよ」
「だってしてほしそうな顔してたから」
「そういうことじゃない」
夫婦(予定)に揃って突っ込まれた水戸はヘラヘラと笑うばかり。
水戸の回想によれば、3年生の時に告白らしきものをされたそうだが、それも水戸ははぐらかして誤魔化して済ませてしまった。リセもそれ以上は何も言ってこなかった。その後晴子は慌ただしくバスケット部を引退し、そのまま受験になだれ込んだ。兄がいることだし、と彼女は都内の私大を目指していた。
「リセちゃんは?」
「確かちょっと遠めの短大だった気がする。専門じゃなくて。松井は就職だったな確か」
そうしてリセも晴子も無事に合格、進路別れした。松井さんは卒業して職につき、高校時代男っ気がなかった彼女だが、早々に彼氏ができたとかで、水戸も以後の消息は知らないという。の言うように、リセは取り残された。おとなしくて真面目で地味な彼女は、淡々と生きていた。
「……でも水戸はまだリセちゃんと付き合いがあるんでしょ?」
「……まあな」
「でも付き合ってないんだよね?」
水戸は返事をしない。ただ穏やかな顔でグラスを傾けながら、言うだけだった。
「お前らみたいにはいかないよ。リセは本当に普通の家の子で、オレはそうじゃないからな」
日付が変わる頃までの部屋で飲んでいた水戸だったが、信長が船を漕ぎだしたのでそのまま退去してきた。がタクシーを呼ぶと言ってくれたのだが、酔い覚ましに少し歩きたいんだと言って断った。
もう6年が経つとはいえ、あいつら、すっかり落ち着いちゃって――
自分のことは棚に上げて水戸はひとりほくそ笑む。遠い日の夜、ヤンキー3人に囲まれて暴行されそうになっていた信長を見た瞬間、走り出していた。は彼の兄たちと揉めているようだったが、本当にのことを想っているのは信長だという確信があったからだ。また、湘北のライバルとしても、消えてほしくなかった。
案の定ふたりは一緒で、信長はを背中に庇って腕を締め上げられていた。バスケット選手として何より大事な腕を折られそうになっても、彼はを背にしたまま微動だにしていなかった。真横からヤンキーたちに蹴り込みながら、それでも安心したのを覚えている。こいつら、もう大丈夫だな。
だが運命のいたずらはふたりを引き離した。夏休みにバイト先にやって来たから遠方に引っ越すと聞かされた時は「可哀想に」と思った。だが、は何やら決意に満ちた顔をしていたし、瞬間、こいつ戻ってくる気だなとわかった。なので、しっかりやってこいと送り出した。
それから6年、自分はなんとなく変わり映えしない毎日を過ごしてきてしまったけれど、は望み通り神奈川に帰還、信長もそういうと一緒にいるために地元でプロになった。この様子じゃあいつらそのまま結婚だろうな、と思うと少し嬉しかった。丸く収まるのはいいことだ。
リセとは、未だに妙な関係のままズルズルと付き合いがある。もっと詳細に話したらは怒るのではないだろうかと思うと、少し可笑しい。だが、そういう6年間を過ごしてきてしまったのだ。今更過去は変えられない。
彼女のことはずっと「藤井さん」と呼んでいた。晴子は兄もいることだし、自然と「晴子ちゃん」と呼ぶようになったけれど、リセと松井さんはずっと苗字で呼んでいた。それが名前呼びになったのは、キスをしてしまってからだ。
勢いというか、その場の雰囲気に流されて盛り上がった末のキスだった。少なくとも水戸にとってはその程度。隣に並んで宿題を片付けていて、肩が触れて、手が触れて、目が合ってしまったら離せなくなってしまった。少し顔を近付けてみたらリセが目を閉じたので、そのまま。
それだけでポーッとなるほどリセが好きになってきた……という感触はなかった。目を開けてみても、目の前にいるのはいつもの「藤井さん」だった。それでもなんとなく口元が疼いたので、「リセ」と呼んでみた。
今でもその時のリセを鮮明に覚えている。顔を上げたリセは薄っすらと赤く染まった頬をしていて、だけど苦しそうな表情をしていた。そして掠れてか細い声で「洋平くん」と言うなり、するりと抱きついてきた。水戸もそのまま抱き締め返した。水戸の携帯が着信で騒ぐまで、何も言わずに抱き合っていた。
たちには告白らしきもの、なんて曖昧な言い方をしたけれど、あれは告白というより、自分たちは恋人ではないのかという確認だった。俯いて、途切れ途切れに問いかけてくるリセにキスしたいと思った。だけど、彼氏彼女になりたいとは思わなかった。
桜木がバスケット部で活躍すればするほど、水戸たち桜木軍団も喧嘩や軽犯罪に当たるようなことは極力避けてきた。だけどゼロにはならなかった。最後にダメ押しで「私たちって付き合ってるの?」とリセが確認してきた時も、水戸の手の甲は固く盛り上がった傷があった。
リセは本当に穏やかな普通の家に育ったおとなしい子だった。水戸はそうじゃなかった。
だからリセの顔も見ずに「付き合ってはいないだろ」と返した。リセは「そっか」と言ったきり、もう二度とその手の話題を口にしなくなった。ちょうど秋の頃で、リセも受験生だったし、水戸は水戸で卒業後はひとり暮らしがしたいと考えていて、それぞれに忙しくしている間にうやむやになってしまった。
こんなこと言ったらに酒の瓶で殴られそうだな。
誰もいない夜道、水戸は声も立てずに鼻で笑った。そんな風にうやむやになったと言うのに、取り残されたリセと地元に残った水戸は、やっぱりたまにデートしてはキスする、という関係を続けてきた。というか、続いている。今でも。でも付き合ってはいない。
一応体の関係はない。水戸の方がそこまで踏み込む気にならなかったからだ。リセも何も言わないし、水戸も何も言わない。ただお互いの都合のいい時に出かけて食事をしたり、買い物をしたり、近場の観光地に行ってみたり、それだけの関係で、だけどたまにふたりきりになると、キスだけはしていた。
リセは何度キスをしても、手慣れた女のような、求め合うような唇にならなかった。何度しても初めてのキスを思い出せるような初々しさをいつまでも唇に留めていた。それが余計に水戸を頑なにさせていた。
リセは無垢だ。今でもそう思っている。バスケット部のマネージャーを頑張るうちに、どんどん緩さがなくなっていってしまった晴子、いわゆる就職デビューだった松井さん。だけどリセは今でもあの頃のままだ。真っ黒な髪、少し短めの前髪、化粧は薄く、淡い色の服を好み、よく笑うけれどバカ騒ぎはしない。
そりゃ、オレだってだいぶ「いい子ちゃん」になっちゃったけどよ、そう考えた水戸はまた鼻で笑う。
にゃ話せねえな、と思いながら、自分の過去をほじくり返す。モテることは否定しないと言ったけれど、あれは冗談ではなく事実だ。桜木軍団の中でも水戸はひとりだけずいぶんモテた。もちろん眉が少ないリーゼントのヤンキーとわかっていて寄ってくるのだからそれなりの女だったけれど、それでも相手に困ったことはない。
実を言えば、半年で辞めてしまった仕事を始めるまで、リセ以外にも何人か女がいた。誰とも付き合ってはいなかったけれど、リセとは出来ない関わり方をしていて、年下から年上まで数人と関係があった。仕事を始めたので面倒になって全員と関わりを絶ったけれど、そういう過去がある。
もうそういう風にだらしなく女と遊んだりはしてない。金を貯め始めた頃にギャンブルからも遠のいて、それっきり。ノーヘルで原付に乗ることもない。喧嘩も、もう3年ばかりしていない。
最後の喧嘩は金を騙し取られた直後のことだった。桜木軍団の野間と飲んだ帰り、自分たちと似たような酔っ払いに絡まれたのでつい手が出た。金を騙し取られたことで気持ちはささくれ立っていたし、相手もヤンキー崩れのようだったし、心置きなくボコボコにした。
が、生傷だらけの水戸を見た店長は「これを最後に喧嘩から足を洗わなかったらクビにする」と言ってきた。自分だって湘南を騒音バイクで走り抜けてきたくせに何言ってるんだ、と反論した水戸だったが、店長はこともなげに言った。
「お前の場合パンピーに手を出したりはしねえから、それでも10代のガキだと思えば喧嘩も大目に見てもらえてるってだけの話だ。オレは18で足洗った。お前今いくつだよ。とっくにハタチ越えてんだろうが。ガキの喧嘩で通る年じゃねえんだよ。そんな無責任な野郎に店なんか任せられねえからな」
毒気を抜かれるってああいうことを言うんだろうな……と水戸は思い出す。喧嘩したいけど出来ない、ではなくて、喧嘩というものに対する意欲やこだわりのようなものが水に溶けて消えるようにしてなくなってしまった。ま、別に喧嘩したくて生きてるわけじゃねーしな……と妙な納得をした。
しかしリセと並べた時に、真っ白でまっさらな彼女とは違って、水戸の過去は少々血の匂いがする。
一応高校はちゃんと卒業したけれど、今だって一応は正社員だけれど、過去は消えない。消したいとも思わない。自分自身を否定する気持ちはこれっぽっちもない。自分には自信もあるし愛着もあるし、「どうせオレなんか」なんて生まれてこの方一度も考えたこともない。
だけどリセは、彼女はあまりに真っ白だから。
携帯のスケジュール表にはリセと会う予定が既にいくつか入っている。大したことをするわけじゃない。食事をして、買い物をして、喋って、たまには映画なんか見てみたりして、それで送って帰るだけ。水戸が気が向けば、去り際にキスをする、それだけ。そんなだらしねえ付き合いやめた方がいいんだろうな、と思うこともある。
だけどどうしても、出来なかった。もう、6年も。