キアロスクーロ

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が本来の地元・神奈川に帰り、社会人となって早数ヶ月、長く遠恋状態だった信長とは時間が許す限り一緒に過ごすようにしているが、それぞれの新生活が始まってすぐは、まずは新生活に体を慣らすことが大事と由香里にしつこく言われたせいもあり、わざと接触を断つこともしばしばだった。

学生時代を丸々寮で過ごした信長は節約になるからと実家住まいに戻り、は清田家から徒歩でも行かれる距離にアパートを借りていた。学生時代実家住まいであり、神奈川から越してすぐは一人部屋すらなかったの城である。

そこにしょっちゅう通っていた信長はの始業を境に大人しく実家のねぐらに戻るようになり、彼は彼でプロ選手1年目を真面目に過ごしていた。が神奈川に戻ってからと言うもの、ベッタリ引っつきっぱなしだったのが一転、ふたりはしっかりと新しい日々を送っている。

やがて夏になり、シーズン開幕が近付いてきた頃、ふたりは春から月イチ程度で通っている店へと顔を出した。清田家から車で30分ほどの距離にある店、「永源」である。

ここはかつて、元はのクラスメイトである水戸がアルバイトをしていた店だ。水戸はのクラスメイトという繋がりしかなかったけれど、いくつかのきっかけが重なってふたりの関係をよく知るようになり、またふたりが夜の街でヤンキーに絡まれていたところを助けてくれた人でもある。

が神奈川に戻ってすぐは中々時間が取れず、結局久しぶりに永源に顔を出せることになったのはゴールデンウィークも間近の頃のことだった。だが、店内に水戸の姿はなく、店長らしき人物を捕まえて聞いてみると、現在数駅先に支店をオープンさせたばかりだそうで、そっちに行ってしまっているという。

でも向こうに行きっぱなしってわけじゃないし、こっちにいる時もあるよ、と店長さんは言う。が高校時代の友人なのだと説明すると、友達が来たってことは伝えておいてあげると言ってくれた。が、そこまでだ。店長さんに連絡先を預けるのは図々しい気がしたし、それを受けてすぐ水戸が連絡をくれるとは思えない。

そんなわけでと信長は月に1回程度の割合で永源に顔を出していた。どうしても必要があって連絡を取りたいわけじゃない。だけどは戻ってきたし、挨拶くらいはしておきたかったから。

というところの、5回目の永源、と信長はやっと店内に水戸の姿を見つけて歓声を上げた。

「うわ、まじか! 店長が高校の友達が来てたって言ってたけど、お前らだったのか」
「連絡先置いて帰るほどじゃなかったし、いずれはこっちに戻るって聞いてたからさ」
「えっ、あれ? もしかして帰ってきたのか…?」
「そうだよ! もうこっちでひとり暮らししてるよ!」

驚いた様子の水戸はしかし、気が緩んだように息をひとつ吐くと、を抱き寄せて感慨深そうにハグをし、「おかえり」と何度も繰り返した。そして信長の肩を掴むと、「よく頑張ったな、ありがとう」とこぼした。

「そりゃ別に3日に1回思い出すほど心配なんかしてないけど、気にはなってたんだよ」
「直後は信長がここで愚痴ってたらしいしね」
「まだその話引っ張るか」
「そうそう、そんなこともあったな。てかもう何年になる? よく乗り越えられたな~」

永源の座敷は仕切りとのれんで半個室のようになっている。水戸は座敷の上がり框に腰を下ろして腕を組み、目を丸くした。と最後に会ったのは18の頃。現在23歳、水戸は髪型以外はそれほど変わってないように見えた。髪は年々緩んできたようで、幾筋か前髪を垂らしたただのオールバックになっていた。

「私が神奈川を出た頃からで言えばもう6年前になるよ」
「そんなになるのか……20代の速度って恐ろしいなマジで」
「怖いこと言わないでくれるかな」

イヒヒ、と笑う水戸はしかし、通りすがったスタッフに声をかけられてのれんの外へ顔を出した。もっと話したいけれど水戸は仕事中。は信長に目配せをすると、顔を戻してきた水戸に向かって身を乗り出した。

「どうしても話さなきゃいけないことがあるわけじゃないけどさ、一度飲まない? 3人で」
「おお、いいよ。店は行ったり来たりしてるけど、休みがないわけじゃないし」
「そしたらこれ、連絡先ね。開いてる時間教えて」

そうは言っても、6年前にクラスメイトだっただけの間柄、忙しいとやんわり断られてしまうかと思ったと信長だったが、水戸は思った以上に快くOKしてくれた。

それから数日後、実は信長のシーズン開幕がそう遠くないのだと知った水戸は休みを調節してまで時間を作ってくれた。は色々考えた挙句、アパートに来てもらうことにしてしまった。これならどんな話でも心置きなく出来るし、時間も財布も気にしなくていい。

もちろん信長も一緒なので、女の子のひとり住まいに……という点も問題なし。というか宅飲みにするか、と言い出したのは信長の方だった。なんとなれば現在ふたりは少ない収入の中から結婚資金をちまちま貯めており、いくら相手が水戸でも散財は気が進まなかったからだ。

そんなわけで永源での再会から数日後、信長が駅まで迎えに行って、水戸をアパートまで連れ帰ってきた。

「ごめんね、宅飲みで」
「いやいや、気にすんな。気楽でいいじゃん。ほいこれ、土産」
「うわ、わざわざごめん」
「何言ってんだよ、外ならワリカンで済んだってのに、こんなに用意させて悪かったな」

テーブルの上にはの手料理や地元の人気惣菜が並んでいる。水戸は本当に申し訳なさそうだが、信長は笑ってしまいそうになるのを頑張って堪えていた。いやー、この人オレん家で料理覚えたもんだからウチの母親流のもてなししか知らなくてな~。うちの由香里さん大量に用意するタイプだからさ~。

しかし宅飲みだと聞かされた段階である程度予想していたのか、水戸の手土産は酒とケーキであった。

「てか同棲にしちゃちょっと狭くないか?」
「いや、同棲はしてない」
「この人が入り浸ってるだけ」
「え? あれ? 確か実家近いよな?」

あまりにも信長が馴染んでいるので水戸はきょとんとした顔をしている。たちは苦笑いだ。

は就職して、お前は地元でプロか。ふふん、きれいに丸く収まったな」
「そういう水戸はどうなの。最後に会った時は高校出てすぐの頃でしょ」
「そういやそうだな。まだ春休みの頃じゃなかったか?」

高校を卒業したばかりのが母親と喧嘩をし、その勢いで神奈川にやって来たのは5年前の3月のことだ。急にやって来たので到着は遅く、ほぼ飲まず食わずで来てしまったは信長と連れ立って永源に来た。その頃の水戸は毎日閉店まで永源にいた。

「別に春休みったってやることねえしな。仕事始まるまで毎日バイトしてた」
「仕事、って就職したの?」
……一応な。永源でもよかったんだけど、学校がいい顔しなくて」

その頃の永源は支店を出すほどではなく、古いスタイルだった店内をやっと半個室のある居酒屋に改装したばかり、毎日客足が途絶えなくても個人経営の飲食店でしかなかった。バイトからそのまま居酒屋の従業員てどうなの、と何度も渋られた水戸は、永源の店長にも勧められて地元の企業に就職をした。

「店長が『お前がいなくても大丈夫だ』なんていうから、いらねえって言われてるように聞こえてさ」
「気にしないでいいよって言いたかった、ってやつか」
「そう。だけど職場が合わなくてな。結局半年くらいで永源に戻った」

店長は何も言わずに戻してくれたそうだ。わかっていたのかもしれない。

「それからずっと永源にいるの?」
……戻ってすぐに、店長がいつか支店を出したいんだって言い出して」

永源は駅から続く大きな通りに面した割と老舗の居酒屋で、立地が良いのはもちろんだが、人を選ばないメニューと店長の徹底した親切接客で地元民に愛されている店である。現在では本店であるこの店はがランチに通っていた頃からいつでも賑わっていた。支店を考えたくなるのは当然のことだっただろう。

「もしかしてその支店を水戸に?」
「その時はそこまで具体的な話じゃなかったけど、任せられる人材になって欲しいって言われてさ」
「まあまだ18だもんな。いきなりは無理か」

永源はいわゆる神奈川のヤンキーが一念発起して興した店である。店名の「永源」も「矢沢永吉」の「永」から来ているので、まあそういう店だ。その店長は気骨があり面倒見がよく、という頼れるアニキタイプ。男性のバイトは皆店長を慕っていた。なので彼も、バイトたちをしっかり働かせてやれる場所がほしいと思ったかもしれない。

「それでみんなで食品衛生責任者の資格取りに行って、よっしゃ金貯めるべってなったんだよな」
「みんなで貯めてたの?」
「いや、貯めてたのは個人でだし、支店なんだから店長が出すんだけど、なんとなくな」

そうして働いては金を貯めて……という生活をしていた水戸だったが、23歳現在、彼は永源の支店長ではない。

「貯めてた金、騙し取られたんだ」
「え!?」
「すげえいい立地の店が居抜きで空いたから、今すぐにでも押さえないとって言い出したヤツがいてさ」

永源のバイト仲間の間では最年長で最長老だったという。店長から直接言われたわけでもないのに、バイト男子縦社会にすっかり馴染んでいた水戸たちは手付金が必要だという彼の言葉に急いで金を用意、全て預けてしまった。彼はそのまま行方不明。水戸が20歳の頃のことだったという。

「まー、オレらもバカだけどな~。店長がいない時にバイトがそんなことするわけねえのにさ」
「そんな……
「見つかってねえのか、その犯人」
「もちろん。てか履歴書もほとんど嘘で、もう6年くらいバイトしてたっていうのに、誰も気付かなくて」

当時の永源は、店長も含め全員顔が死んでいたと水戸は振り返る。長年仲間だと思っていた人が豹変、しかも仲間だと思っていたのは自分たちだけで、最初から嘘を顔に貼り付けていたとは。だがしかし、何しろ店長は元々「気合い」とか「根性」とかいう言葉が好きなタイプだ。丸い火傷跡も9つ持っている。

「店長がさ、持ち逃げされたヤツだけ集めて、言うんだよな。『コロッと騙されて金を出したお前らを世の中は〈一番恐ろしいのは有能な敵より無能な味方〉とか言い出すだろうけど、オレはそうは思わない。味方が無能なのはそいつらを正しく使えてないリーダーがクソなだけだ。だから、今回のことはオレに責任がある。辞めたかったら辞めてもいい。だけど、オレがリーダーでもいいってんなら、今ここにいる全員で必ず支店を出そうぜ』ってな。その時集まってたのは全員ハタチそこそこって感じで、そんなん火がつくだろ?」

は真剣に聞いていたが、信長は腕を組んで大きく何度も頷いている。熱め男子には響く言葉なんだろうか。水戸はちょっと笑ってグラスを傾け、ゆるゆるのオールバック――というかもう、かきあげているだけのこめかみをほりほりと掻いた。

「そういうの本当は嫌だったらしいんだけど、以来店長がバイトの中でも特別なグループを作ってな。それが持ち逃げされた6人で、個人的に新店舗資金を貯めたりはしなかったけど、今年オープンした支店は店長と合わせて7人で出したようなものでな」

しかし店長はその6人の中からひとりを選んで支店を任せるということが出来なかった。結果、支店の店長は店長の嫁。水戸たち特別なグループの6人はそれぞれアルバイトではなく社員になったけれど、働き方は変わっていない。そう聞かされたはひょいと首を傾げた。

「どうして? みんなで頑張ったのに奥さんを店長にしちゃうの?」
……その6人てのは、支店を任せられる人材になろうって思った6人だったんだ」
「まだダメだったの?」
「いや、そういう意欲のあるバイトだったんだ。資格取ったり、金貯めたり」
……なるほどな」
……ちょっと、何男だけで納得してんの、説明してよ」

すぐに察した信長に水戸が頷き返すので、はムッとして柿の種をポイポイと投げた。それを摘んで皿に戻した信長はちらりと水戸の方を見てから言う。

「つまり、自分の店を出したいと思った時に、足枷にならないようにってことだろ」
「そう」
「じゃあそう言いなよ!」

男ふたりは苦笑いだ。

「そっか、じゃあ水戸は今のところ永源の正社員、て感じなのか」
「まーそんなところ。他は変わり映えしねえよ」
「でもいつか自分の店出したいんでしょ?」
「んー、ハタチの頃ほどアツくなってねえけど、まあそういうイメージはある、てとこか」

しかも一度貯金を全て失っている。信頼していた人に裏切られたダメージと重なって、慎重になってしまうのは仕方あるまい。話が一段落したので、は料理が少なくなった皿を下げ、新たに惣菜やらを補充する。水戸がそんなに食えねえと言うので、信長はとうとう音を立てて吹き出した。

「へえ、野猿のおっかさん仕込み」
「野猿って言うな」
「お父さんはどっちかっていうと熊だよ」
「なんかもう嫁みたいじゃねーか」
「それは否定しない」
「こっちが同居希望だからなー」
「嫁が同居希望なんて初めて聞いた」

水戸は声を殺して笑っている。まあ、と清田家の間にある5年間のあれやこれやは特殊な事例だ。

「水戸はどうなのよー。私が湘北にいる頃も彼女とかいなかったんじゃないの」
「いたとしてもお前に紹介しねえだろ」
「それはそうだけど、いつもバスケ部にひっついててさ」
「それは否定しない」

だが、今度は信長の方がひょいと首を傾げた。

「でも、お前モテそうだけど」
「それも否定しないけど、高校時代なんかただのヤンキーだぜ。それはそれなり」
「特定の女に縛られるのが嫌とかそういうアレか?」
「ははは、そういうことにしといて――
「あれ? でも確かあんたたちって、赤木さんとかと仲良かったんじゃないの」

適当に誤魔化そうとしたらしい水戸だったが、が何やら思い出したらしく、ジン・リッキーを作りつつ首をにゅっと伸ばした。すると、ずっと焼酎をロックで飲んでいる水戸がぎくりと肩を強張らせた。

「あれ? 赤木ってあの赤木? ゴリラの?」
「ううん、私が言ってるのは妹の方」
「へ、へえ~あのゴリラの妹……
「妹の方は凄まじい美少女だけど」
「お、おう……そういや湘北って妙に女多かったよなマネージャーとか」
「お前もよく覚えてんなそんなこと」
「何その赤木さんの妹と付き合ってたん?」
「いやいや、違うよ」

この3人は関係が微妙に噛み合っていないので話がややこしい。当時湘北でバスケット部の部長をしていた赤木、これは信長がよく知っている。対戦したこともあるし、国体では同じ代表チームの一員だったし、信長もその頃はただの無礼者だったので普通に怒られたことがある。

が、同じ湘北でも兄の方の赤木となるとはほとんど知らない。国体の試合を水戸と一緒に見に行ったけれど、見下ろしたコートの中にいたであろう、というくらいの認識だ。だが、その妹の方は湘北で同じ学年だったので、一応知っている。のちのちバスケット部のマネージャーになり、一気に知られるようにもなったからだ。

そして水戸はというと、バスケット部の試合とあらばこの赤木妹の方といつも一緒だった。と国体の試合を見に行った時は赤木妹が既にマネージャーになっていたので、それで一緒ではなかっただけだ。

「だって赤木さんて確か流川のこと好きだったんじゃなかった?」
「はは、あの子もまあ、色々あったんだよ」

酒も入って誤魔化しきれなくなったのだろうか。水戸は言いながら疲れた顔をした。

「赤木とか流川とか懐かしい名前ばっかりだな」
「細かいこと言えば桜木も出てくるよ」
「その辺はいいよ適当で……
「あ、だけどそうそう、赤木さんていつも3人くらいのグループでいたんじゃなかった?」

出来たばかりのジン・リッキーをぐいっと飲むにそう言われると、水戸はため息をついた。

……藤井と松井」
「名前はちょっと……赤木さんが有名だったからそれと一緒にいる子、ってくらいしか」
「まあ、そういう子たちだったよ。松井の方はあんまり積極的じゃなかったし」

ぼそぼそと言う水戸に、こちらも少し顔が赤くなってきた信長が遠慮なく突っ込む。

「じゃあその藤井の方?」
「まあ、そうだな」
「うーん、思い出せないけど、あんまり派手な子ではなかったような」
「全然地味だったよ。隣に晴子ちゃんだろ。おとなしい子だったし」

詳しいことを話すつもりはなかった様子の水戸だが、顔を上げれば既に夫婦状態のふたりが赤い顔をして「それで?」という目をしている。つい吹き出してしまった水戸はグラスに焼酎を注ぐと、テーブルに肘をついて呆れたようにゆったりと微笑んだ。まったくしょうがねえなあ、という顔だ。

「リセ……藤井理世、花道なんかとうとう卒業まで名前を覚えなかった」
「付き合ってたのか?」
「いや、付き合ってはない」
「じゃあ好きだったとか?」
「うーん、それもどうなんだろうな」
「どういうこと?」

顔の赤い夫婦(予定)が揃って首を傾げるので、水戸はブハッと吹き出した。ちらりと腕を上げてみれば、まだ21時にもなっていない。明日は永源本店の勤務だが、遅入りなので昼ごろまでは寝ていられる。まあいいか。水戸はまたこめかみを掻くと、少しだけ目を細めた。

「お前らみたいにはいかないよ。リセは本当に普通の家の子、オレはそうじゃない」