マネージャーであるは試合の最中は何もすることがない。ので、ベンチに入れない1・2年生と一緒にスタンドで観戦していることが殆どで、本戦トーナメントも毎日会場に来てはいたけれど、ずっとスタンドでコートを眺めていた。勝ち続ける海南、より一層集中して隙のない牧、海南は夏同様決勝まで上り詰めた。
この年のIHは広島だったのでかなり距離があったが、冬の選抜の会場は東京渋谷。そんなわけで気楽に行かれる神奈川勢がゾロゾロとやって来ていた。夏に続き冬でも決勝まで行った海南というものをじっくり見てみようと思ったのだろう。それに、海南が本戦に出場している以上、3年生は全員引退している。
というところで監督のパシリでウロウロしていたはさっそく神奈川の引退3年生にとっ捕まった。国体の面倒を見ていたことが裏目に出て「マネージャー久しぶり!」てなわけだ。
しかし、いくらパシリでものんびりお相手とはいかないし、マネージャーはコンパニオンではない。が、挨拶だけして引き下がろうとしたの手を三井が掴む。いや確かに久し振りだけどみんなのいるところでやるなバカ!
「何」
「これ。この間渡すの忘れてたから。じゃあな」
手の中にかさりと音を立てて紙らしきものを掴まされたはそれを制服のポケットに押し込むと、ゾロゾロとスタンドへ向かっていく三井たちに背を向けて席に戻った。そこでやっとポケットから紙を取り出すと、三井の連絡先がポツンと書かれていた。
の喉がグッと詰まる。癖のあるあまりきれいではない、けれど3年前までは何度も見てそのヘタクソな筆致ですら愛しかった字だ。大きく深呼吸をして動揺を飲み込むと、携帯にすばやくコピーしてまたポケットに捩じ込んだ。そんなことに惑わされてる場合じゃないでしょ!
1・2年生が神奈川の引退3年生に気付いてざわついている。その片隅では三井のことを頭から締め出し、この3年間の日々のことを思い出していた。復讐から始まった3年間、家族のような仲間たち、先輩マネージャー、監督、練習の日々、もう二度と戻らない日々のことを。
結果として海南は優勝に輝くことはなく、夏と同じ順位でこの年を終えることになった。
それについてはもう騒ぐようなことはなかった。試合が終わり、閉会式に出席し、支度をして全員で学校に帰る。そして年に一度の緩みきった監督から労いの言葉をかけてもらい、お疲れと言い合っていつものように帰っていく。そこに大袈裟な涙や感動的なスピーチはない。そういう習慣だからだ。
そして数日後、改めて3年生の引退と新主将の就任の挨拶が行われ、これをもって3年生は完全に引退する。
牧が長い時間をかけて心を離すようにさせてきたせいか、引退式でもは泣かなかったし、部員たちとは笑顔でお疲れと言い合えた。むしろ初めて先輩を送り出す1年生の方が涙目になっていた。
もう練習はないので制服姿の3年生は部室でワイワイと喋って、そして適当なところで帰っていく。冬休みを挟み、1月をのんびり過ごしたら寮生は実家に帰るし、県内組も神の言うように教習所に通い詰め始める。時間がないのでさっさと取ってしまわなければならない。
というわけで、とりあえず免許を取る予定もないはポツンと取り残された。ひとりだけ暇。クリスマスもカウントダウンも冬休みの間も全く予定なし。もう終業式が迫っているくらいなので、友達も予定が入っているだろう。彼氏持ちの子もいるので、そこは迂闊に声をかけられない。
三井に連絡をしなければならないことはわかっている。だが、いざ後がなくなると途端に怖くなってきた。
携帯の画面をぼんやりと眺めながら、神が新主将になって初めての練習の音を遠くに聞いていた。時間が巻き戻ればいいのに。約3年戻って、またみんなで日本一目指したい。辞めていってしまった誰も彼も戻ってきて、今度こそ支えてあげたい。そうやってみんなでずっとこの海南バスケット部にいたい。
そう思ったら涙が溢れてきて、止まらなくなってしまった。誰もいないので我慢もできない。
こうして涙が出るのは海南での3年間が充実していて楽しかったからだ。もしここでの日々が辛くて苦しくて悲しいものだったら涙なんか出ない。自分なりに全力で頑張ったからなんだ――と言い聞かせるが、止まらない。ズビズビ鼻を鳴らしながら泣いていたは、突然背後でドアが開いたので、悲鳴を上げて飛び上がった。
「ひゃあああ!」
「うおお、何だよまだいたのか……っておい、どうした大丈夫か」
牧だった。の顔を見るなり焦って部室の中に入ってきた。無理もない。涙と鼻水で大惨事だ。
「牧~私引退したくない~」
「……女子マネージャーってのはどうしてもこうなるんだな」
牧は吹き出し、くつくつと笑った。確かに去年も先輩マネージャーがこうしてズビズビ泣いていた。
「だってみんなこの間からずっと素っ気ないし、寂しいの私だけみたいだし」
「そういうの残したらつらいの、わかってるからだろ」
「私だってわかってるよそんなのー!」
「どっちだよ」
牧はの背を押して椅子に座らせ、冷蔵庫から水を取ってきてくれた。今日も外は寒風が吹いているが、日当たりの良いこの部室はぽかぽかと暖かい。冷蔵庫で冷やされていた水をはぐいぐいと流し込む。
「そういや今年はお前と同じ所に行くヤツ、いなかったんだよな」
「もう11年続いた習慣だとか言ってたくせに」
「それでもお前を取ってくれたんだからいいじゃないか」
「せめてひとりでもいれば気が楽だったんたけどなあ」
無事に推薦を突破しただが、毎年海南からバスケット部員を取っているはずの大学が、今年は該当者なしになってしまった。というかそもそもの3年生の人数がものすごく少ないし、今年は他にもいい選手を獲得できたとかで、先方があまり熱心でなかったという話だ。
水を飲みつつ、ズビズビが取れなくてしゃくり上げているの背をさすりつつ、牧は咳払いを挟む。
「そういえば、三井の方はもういいのか。あいつ、進路どうなったんだろうな」
「……この間、決勝の時に連絡先もらった」
はテーブルの上に置きっぱなしだった携帯を引き寄せて牧に見せた。連絡先を貰って数日が経過しているが、からは何もしていない。これが私の連絡先だよとも返していない。
「牧、聞いてくれる?」
「いいよ」
「この間……国体の合同練習の時、やっぱり好きだって言われた」
「だろうな」
「だろうなとか言うな!」
凄まじい真顔で牧が言うので、はペットボトルでバシバシと叩く。
「それで、どう思ってるのかって聞かれたんだけど、その頃は本当にどっちでもないとしか考えられなくて」
「まあ、そんなことしてる暇もなかったしな」
「それで、考える時間がほしい、だけど私が見たいのは、中学の頃より本気のあんただって、言って……」
それは口からでまかせや一時の気の迷いではなかった。そういう彼を見て自分の心を決めたかったのだ。けれど、それをわかっていてなお、三井は中学の頃の自分に縋りつくような真似はせず、怪我を経て道を踏み外した末に得た自分自身を「本気」としてに見せつけてきた。
「それがちょっと……今になると少し恥ずかしくて。だけどどうしても3年前に悲しい思いをしたことへの恨みが消えなくて、あの時の記憶をチャラに出来るくらいのこと、私にしてよ、ってどうしてもそう思っちゃって――」
それが未だに後を引いての気持ちは靄の向こう、輪郭は見えても表情は見えない。
「それ、言ってみたらよかったじゃないか」
「どういう意味?」
「3年前のことを忘れられるくらいのことをしてくれなきゃ嫌だ、って言えばよかったのに」
「それはどうなの……」
「だけどそう思ってたんだろ。それが嫌なら三井だってすぐに引き下がったよ」
足を組み替えた牧は頬を撫でながら少し首を傾げた。
「3年前の事情とか、高校入ってからとかそりゃあ色々あるだろうけど、結局好きなのかどうかだろ」
「ま、まあそうなんだけど……」
「それもまだわかんないのかよ」
がサッと俯くので、牧は手を伸ばしておでこを掴み顔を上げさせた。心なしか赤い。
「ほら、お前もやっぱり好きだったんだろ」
「そんなの、おかしくない……?」
「何で」
「3年も前に1回別れてるのに、今までの間に何度かしか会ってないし、ずっと腹立ってたのに」
「んー、だから何なんだとしか」
牧がまた清々しいほどの真顔なので、はペットボトル攻撃を繰り返す。
「そこは男と女の差もあるかもな。好きなら別にそんな細かいことどうでもいいだろと思うけど」
「だってじゃあまた付き合うの? バカップルやって別れて喧嘩ばっかりしてまたそういう関係になれるの?」
ペットボトルをテーブルに叩きつけてリズムを取りながら、はグズる。牧はそれを聞きながら、ふうとため息を付き、まあまあとの腕を宥める。母で姉で妹のは大事に思っている。だからそっけない態度を取り続けてきた。感謝しているから、前を向いて海南を去って行かれるようにと。
三井とのことに関しては、助けてやるつもりはなかった。そういう話が当たり前になり、プライベートをよく知る付き合いをしてしまうと、「お友達」になってしまうから。また感情が尾を引いて、湿っぽいたちのを苦しませるだけだから。3年の部員とそんな話をして、ある種の境界線を守ってきた。
けれどもうや牧たち3年生のバスケット部は終わったのだ。1度くらい、いいだろう。
「、怖いんだろう」
「……うん」
「またどこかでお前らのことを覚えてる人がいるかもしれない、また喧嘩するかも、また別れるかも、傷付くかも」
同じ人と何度も恋焦がれることと離別の苦しみを繰り返すことになるかもしれないという不安、それならいっそ手など取り合わなければいい。そういう逃げの気持ちでいっぱいになっている。
「そういうのを取り越し苦労っていうんだ。お前海南で3年間もマネージャーやってて、そんなことも学べなかったのか。ちょっと情けないぞ。遠い未来の話なんかに怯えて目の前の低い壁を乗り越えられないなんて、海南の部員のすることじゃない。ああだこうだ言う前に飛び越える、オレたちはずっとそうやってきただろ」
がそれと自身の恋愛は一緒にならないと言いたげな顔をしているので、牧は椅子ごと半回転させて正面を向かせる。そしての両手を取り、しっかりと握り締めた。
「、ク カ マケマケ エ ヘレ マイ、ヘレ ノ メ カ マロ エロ・エ」
「は?」
「バスケと波乗りばっかりで生活の記憶はろくにないんだけど、オレが覚えてる数少ないハワイの言葉」
ずっと真顔だった牧がふっと相好を崩し、目を細めている。3年間も一緒にいて初めて見る笑顔だった。
「行きたいのなら、自信を持って行きなさい。自分が望んだことなら、怖がらずに自分を信じて立ち向かっていけ、って、そういう意味の言葉だ。必要なのはの意志であって、起こりうるかもしれない可能性を挙げ連ねて無駄な不安を生むのは無意味だ」
牧だけじゃない、海南の部員たちはみんなそういう決意とともに日々戦い、そしていつしか袂を分かって巣立っていく。誰かに決められたわけではない、自分で選んだ道を行く、それなら自信だけを抱いていけばいい。
「牧は……怖くないの」
「そりゃあ怖いこともあるさ。だけど、前にも言ったろ。バスケをずーっとやってたいんだ」
最初のバスケットの師匠であった祖父を亡くしたショックでボールが触れなかった。だけどボールに触らない日々もとんでもなくつらかった。牧少年は祖父を思い出して半泣きになりながらボールを触っていた。けれど結局そうやってボールに触れていることで落ち着きを取り戻した。しないではいられなかった。
「バスケがしたい、それがオレの意志なんだ。だから、それを失う方が怖い」
「……失敗しても?」
「そんなのもう何度だってやってるからな。慣れたよ」
牧にしてはへらへらした笑顔だ。はぼんやりとそれを見上げている。
「……、オレたちだって海南を去るのは寂しい。海南は本当にいいチームだった。最高のメンバーだったと思う。離れたくないよ。またもう1年か2年くらい高校があればいいのになって思う。日本一にだってなれなかったし、不完全燃焼なところもある。だけど、そんなの無理だろ」
こんな感傷的なことを牧が言い出すなど、絶対にあり得ないことだった。は目を丸くしている。
「にも感謝してるよ。3年間ほんとに何でも助けてもらったし、お前がいてくれてよかった」
「ちょ、そ、そんなこと言わないでよ」
「みんな本心からそう思ってるんだ。だから、ここに思いを残してほしくない」
牧はしっかりと握って揺らしていた手を解き、指先での頬に触れ、軽くつまむ。
「三井が好きなら、飛び込んでいけよ。中学のことも、海南も、もう過去になんか囚われてないで、が思うままの道を行って欲しいんだ。オレたちはそれを願ってる」
つまんだ頬を少し揺らして、牧はにっこりと笑った。やっぱり日本人のすることじゃない。もやっと表情が緩み、鼻をこすりながら何度も頷いた。
「ありがとう牧、怖くなったら、みんなのこと思い出す」
「そんなこともいつか忘れるよ」
「それはやっぱり冷たくない?」
にやりと頬を歪めた牧は去年卒業していった先輩マネージャーを思い出せ、あれが普通だと言う。彼女の話を出されると笑わずにいられない。は吹き出し、声を立てて笑った。そして、少しの沈黙ののち、は両腕を掲げて牧に抱きついた。ややあってから牧もポンポンとハグを返す。
「……行ってきます」
「大丈夫、自信持って行ってこい。お前は海南の一員なんだからな。それだけは忘れるなよ」
しっかりと頷いたは、荷物を取り上げて走り出した。
耳に波の音が聞こえる。吹き付ける12月の冷たい風の中に潮の匂いを嗅いだような気がして、は走る速度を上げた。電車に飛び乗り、貰った連絡先にメッセージを送る。話したいことがある、答えを見つけたから会いたい。あの浜で待ってる――