湘北が勝利したということは、来る決勝リーグにて海南と湘北が対戦するということだ。湘北対翔陽の試合が終わってからというもの、はそのことを出来るだけ意識しないように努めていたが、ブロック最終戦から決勝リーグまでは3週間かかる。部活を離れるとはため息ばかりつくようになった。
それなのに、時期的な問題で伴走が始まる。ただし、三井が何らかの理由で更生してバスケット部に戻ったということは、あのレストランとバイクショップにはもう用がないはずだ。が浜で休憩していても、遭遇してしまうようなことはないだろう。
「まあそうだよな。変なのが来たなと思ったらすぐに移動しろよ」
「うん、そうする」
浜には下ろせないし備品を多く積んでいるので、休憩するなら自転車の近くで休みたい。それが伴走マネージャーが浜ダッシュから離れている理由である。今日も自転車の前カゴには万が一の救急用品や水、タオルなどが積まれている。牧に釘を差されたはよくよく警戒しつつ休憩を取る。
梅雨入りの報が聞こえてこない、ただ湿気が強くなってムッとした空気の中、は打ち寄せる波をぼんやり眺めている。湘北と試合、三井のいる湘北と対戦、自分はコートに下りないけれど、ずっと一緒に頑張ってきた部員たちと三井が戦うことになってしまった。
今でもコテンパンにやっつけて欲しいという気持ちは変わっていない。完膚なきまでに叩き潰し、16年間も神奈川の頂点であり続けた海南の強さというものを思い知らせて欲しい。
それでなくとも県ベスト4のリーグ戦、そこからIH出場の権利を得られるのは2校だけ。海南だけじゃない、陵南と武里もいる。それらを全て押さえつけてIHに行かれるとでも? 去年までずっと1回戦負けでブロック突破すら初めてなのに。そんなに甘い世界じゃないのに。急ごしらえのチームは、ワンマンチームは脆いのに。
は伴走に出るたびにそんなことを延々と考えていた。
もしこのまま湘北が決勝リーグを勝ち抜けてしまったら、またいつかのようにものすごく腹が立つ気がしたのだ。こちとら2年間休まずに毎日努力してきたのに、不貞腐れてグレてたやつがなんでIHなんかに行かれるものか。みんな血反吐吐く思いで練習して、それでも届かないのがIHなのに。
もしこれで湘北がIHに出場してしまったら……? どんどん勝ち進んでしまったら……?
汗をかいた背中がぞくりと震える。自分が正しかったはずなのに、間違っていたのは三井の方だったはずなのに、何でこんなことになったんだろう。海南が負けるはずはない、大丈夫。いくら監督がすごい人でも、三井がいても、勢いのある新人がいたのだとしても、神奈川の絶対王者は海南、それだけは絶対に覆るものか。
が湘北戦を控えてナーバスになっていることは、部員の誰もが気付いていた。特にスタメン周辺は湘北の三井が中学MVPで、が同じ中学出身だということはもう知っていたし、牧はある程度事情をわかっているし、清田は翔陽戦で泣いていたを見ている。
彼らが全て話せと言わないのは、を信頼しているからだ。もちろんの方もちゃんとマネージャーを務めているから問題はないし、傷をこじ開けるようなことはしたくなかった。はつらい思いをしているのかもしれないけれど、そのままで、いつものままで、日常を保ちたい。
しかし、湘北戦の前日、は練習終わりに牧に引き止められた。部員たちが帰ってしまった部室の真ん中、ミーティング用のテーブルには牧だけでなく、高砂と神が残っていた。
「どしたの、456揃って」
この3人は背番号が並んでいるので、はついふざけてそんなことを言った。だが、牧に手招かれ神に椅子を勧められたはにやついた顔を引っ込めて素早く席についた。
「何か問題?」
「いや、そうじゃない。、三井のことを話して欲しいんだ」
「は!?」
牧が淡々とそんなことを言うものだから、は座ったままがたりと飛び上がった。だが、反応しない高砂と神に構わずに牧は片手を上げてまあまあとを宥め、声を落とした。
「そうじゃなくて、どういうプレイヤーなのか、教えて欲しい」
「どういうって……」
「……監督は、取るに足らないと思ってるっぽいんだ」
制服に着替えた牧は、腕組みでため息をついた。高砂も同意するように息を吐く。
「もちろん負ける気はしない。だけど、どうにもあのチームは奇っ怪というか正体が見えないというか、読みきれない。読んでるつもりになっている気がするんだ。だから翔陽は敗れた。その轍は踏みたくない」
確かに、監督は湘北よりも陵南対策に熱心な様子だ。向こうの監督がかつては自身のライバルであったせいもあって、陵南ならともかく、突然沸いて出てきた湘北は警戒しなくても大丈夫、そんな風に考えているのが見て取れた。も頷く。
「赤木、宮城、流川、桜木、三井――流川は知ってる奴も多いし、清田が中学の頃よく対戦したって話だったからそこはいい。だけどあとはどんなプレイヤーだったか知ってる奴がひとりもいないんだ。お前はチームメイトでもなんでもないけど、どういうタイプのプレイヤーなのかくらい、わかるだろ」
高砂と神が一切口を挟まないので居心地は悪いが、はまた頷いて牧をひたと見つめた。
「私が知ってるのは中3の時の話だけど、それでいいの」
「2年のブランクだろ、そのままかもしれない」
「あ、そうか。そうだね……」
プレイヤーとしての彼は、あの日のまま止まってしまっていたのか――。は言われて初めてそれに気付き、過ぎ去った時間の中の三井の姿を思い出して喉が詰まった。あの空白の時間、一体あいつはどんな気持ちで何をやってたんだろう。それを思うと胸が苦しい。
だが、情けをかけてやる道理はない。
「シュートはものすごく正確で、当時は機械みたいってよく言われてた。だけどそれ以外に何も出来ないわけじゃなくて、そこそこオールラウンダーというか、要するに『上手い』タイプで、それはどっちかっていうと苦手だったものを努力して無理やりくっつけたというよりは、天性のものという感じで――」
は自分でも驚くほどすらすらと話し始めた。あの頃、15歳の三井寿はそういう人だった。
「だけど一番厄介なのはそこじゃなくて、あの人は、本来なら主将の器の人だから――」
が翔陽の試合を見る限りでも、湘北の中心は主将の赤木だ。けれど、三井は3年前に既にその中心的役割を経験して、やり遂げている。リーダーの座についても気負わないメンタル、コートの中を正確に把握して戦況を見極める感性、初対面の対戦相手の技量を見抜く目、度胸、根性、カリスマ性。三井は何でも持っていた。
「湘北の大黒柱は赤木なんだろうし、頼りにされてる感じもしないけど、でも……」
「その立場に耐えうるのがもうひとりいる、ってわけだな」
の後を拾った牧がふうと息を吐く。
「……それに、逆境に置かれた時に真価を発揮するタイプ」
「一番嫌なタイプだな」
苦笑いの牧に、高砂と神もようやく笑った。は愛想笑いをしつつ、付け加える。
「だけど2年のブランクでしょ、また途中でヘバるんじゃないかなあ」
「先輩も容赦ないですねえ」
「……途中で投げ出した人に同情する気はないから」
これは取りも直さずの決意でもあった。三井にどんな理由があったのかわからない。しかし、たとえどんな事情があったとしても、あんな風に不貞腐れてグレる理由にはならないと思っている。三井に情けをかけてやることは、今目の前にいる牧や高砂、神たちの日々の努力を否定してしまうことになるからだ。
しんと静まり返った部室の中、やがて牧が頷き、パンと手を叩いた。
「よし、もういいだろう。、話してくれてありがとう。助かったよ」
「すまんな遅くまで。参考にさせてもらうよ」
「ありがとうございました。明日ちゃんと勝ちますからね」
牧はともかく、高砂と神は緊張が緩んだらしい。交互にの肩を叩くと、すぐに席を立つ。元々帰り支度は終わっていたし、4人はぞろぞろと学校を出た。自転車通学の神と別れた3人は真っ暗な校舎を出て、駅へと向かう。学校の前の通りも真っ暗で人通りもなくて、3人の足音だけが響いている。
「疲れてるところ悪かったな」
「いやいいよ。確かに気味の悪いチームだから……何かの参考になれば」
改めて礼を言う牧に、は真顔で手をパタパタと振った。自分と三井が付き合ってたなどという話をしたわけでなし、出身校のスター選手がどんな選手だったかを話すくらい何でもない。も自分で話しながら改めて見えてきたものもあった。
そう、確かに三井は誰にでも好かれるカリスマ性と「口だけ」にならない実力を兼ね備えていたし、中学生の時はいつでも周りに人がいっぱいいて、まさに将の器だったのだ。少々調子に乗りやすいところもあったけれど、それがまた彼の集中力を研ぎ澄まし、ここぞという時に実力以上の力を発揮してきた。
言われてみれば、そういうプレイヤーってうちにはいないなあ――
並んで歩いている牧と高砂をちらりと見たは、部員たちの顔を思い浮かべながら、あの日三井が海南を選ばなくてよかったのかもしれないと思い始めていた。あいつはあいつなりに自分にとって一番いい選択をしていたのかもしれない。だが、そう考えたは慌ててそれを否定した。
それとこれとは話が別じゃないか、裏切ったことには変わりないんだから。絆されるようなこと自分で考えてどうするんだ。あいつが自分のバスケットを出来ようが出来まいが、そんなことは関係ないじゃないか。
もし三井が今年になって復帰したのなら、高校での試合経験はどう頑張っても片手くらいじゃないだろうか。そう考えたは牧と高砂の大きな背中をちらりと見て大きく息を吸い込んだ。
海南の恐ろしさを肌で感じればいい。そして私が正しかったのだと後悔すればいい。
翌日曜日、県内のアリーナにて神奈川県高校総体バスケット男子決勝リーグ1日目が始まろうとしていた。
試合前の控室はいつでもしんと静まり返って空気がピリピリしている。当日のはほとんど用がないので、試合開始時間が近くなると控室を出るのが習慣になっていた。控室に近い場所で待機していたり、早々と観客席に移動してみたり。この日のは観客席にいた。
試合開始まではまだ少し時間があるけれど、既に客席は人で埋まっている。決勝リーグは人気も高いし必ず土日に行われるので、客席がガラガラということはない。しかしそれを差し引いても今日は人の出が多い。が通路に立ってぼんやりと観客席を眺めていると、また目の前を湘北の制服が通り過ぎていった。
「どうしよ、また緊張してきた~」
「してもしょうがないのに」
「だって、相手は海南大附属なんだよ~! お兄ちゃんもピリピリしてたし、何だか怖くて」
好きな子の応援に来たんじゃなくて、部員の妹なのか。はまた彼女たちを微笑ましく思いながらその後姿を目で追っていた。もしあの時自分が折れて湘北に着いて行ったら、あの制服を着ていたのか。痛々しいカップルのままバスケット部に突撃していたら、一体どうなっていたんだろう。
――もし、自分が三井のそばを離れなかったら、彼はグレなかっただろうか。
ふっ、と浮き出てきたそんな疑問をは髪をかき回して振り払った。また何をバカなことを! 私がいたからどうだって言うの、私との約束を簡単に放り出すような人なんだから、私がいたくらいで道を踏み外さなかったなんてことはない。何があったか知らないけれど、私はそれを止められなかったに決まってる。
ぼんやりしていると余計なことばかり考える。も観客席に下りて、ベンチ入り出来ない部員たちの並びに腰を下ろす。海南は学年が上がるほど部員が少ないのが普通なので、場合によっては2・3年生は全員ベンチ入りということもあり得るが、1年生はだいたい入れないので観客席になる。
もう翔陽戦の時のように泣いてしまうようなことはないはずだ。無言で着席したはしかし、また胃のあたりが軋むのを感じていた。丸2年以上共に戦ってきた仲間たちと三井が戦うと思うだけで、不安の波が押し寄せる。
いくら翔陽に勝ったからって、海南が負けるわけない。それは疑っていない。それでも怖かったのだ。
ひとり顔色が悪くなるばかりのの眼下で、やがて試合開始のホイッスルが鳴り響いた。
この日の試合のことを、後のは「あまりよく覚えていない」と回想することになる。最終的には勝利したけれど、海南は湘北にペースを乱されて、何度も熱くなってしまったり大量に点を取られたりと、疲れる試合だった。見ているだけのでもぐったりしてしまったほどだ。
三井がシュートを打とうとするたびに動悸が激しくなったり、それを牧がブロックすると「よし!」と思う傍らでちくりと胸が痛んだし、感情の揺れが激しいので余計に疲れた。
その上、学校に戻ってからは監督が延々「去年一回戦負けにこの点差はマズいだろ」と説教じみた愚痴を繰り返し、1年生ふたりに翻弄されてしまったことも反省せいと言ってきた。この辺りは監督に言われるまでもないといったところか。主力選手は多かれ少なかれ、みんな不貞腐れていた。
は部室を出て鍵を閉めたところでまた牧と高砂に捕まった。ふたりも顔が疲れている。
「お疲れ。大変だったね、今日」
「あいつら、精神的に疲れる」
「だろうね。見てるだけの私も疲れたよ」
ふたりは改めて前日の礼を言いつつ、と並んで歩き出した。
「昨日の私の話、みんなにしたの?」
「いや、してないけど……何かあったか」
「ううん、最後清田が脇目もふらずにあいつのところにカットしに行ったから」
桜木の外したフリースローを取った赤木は、逆転するには三井の3Pしかないと判断してパスをした。三井は例によって機械のように整ったフォームでシュートを打ったわけだが、桜木が外した直後に駆け出した清田の手を掠めたために、軌道がそれてシュートは外れた。
その時点で残り19秒、90対88で海南も崖っぷちに立たされていた。そういう場面での三井の勝負強さは脅威なのだとはよく知っていたので、血の気が引きすぎて息が止まるかと思った。清田が止めに行ってくれなかったら、あのシュートが入って逆転負けしていたかもしれないのだ。
「あれは野生の勘だな。あいつには何も話してないよ」
「だけど、昨日お前の言ってたことの意味がよくわかったよ」
「陵南あたりにいたら嫌なプレイヤーに育ってただろうな」
ヘラヘラと笑うふたりに、は気持ちが緩んで一緒に笑った。
勝った。あいつに勝ったんだ。偉そうなこと言ってたくせに、強い選手の寄せ集めにはやっぱり勝てなかったじゃん。やっと実感が湧いてきたは束の間、浜辺で長い髪をなびかせていた三井を忘れた。思い出すのは、中学の頃の彼だけ。大口を叩いてを裏切り湘北を受験した、三井だけだった。
これでの復讐は全て成し遂げられたはずだった。三井は海南に勝てなかったし、この調子なら今年も海南の神奈川制覇は問題なさそうだし、地元の対戦相手に手こずってる場合じゃない。IHで優勝するためには、倒さねばならない相手が山のようにいるのだ。決勝リーグは前哨戦に過ぎないのだ。
そんな風に気持ちを切り替えてから1週間、再度はショックのあまり意識が飛びそうになった。
湘北が陵南に辛勝、三井はIHへの出場権を手に入れてしまった。