夜やどり

三井編 2

高校入学当時の三井は、それはもう自信過剰な運動部の男子そのもの、という印象しかなかった。

教室では中学から引き連れてきた取り巻きに一日中意味もなく持ち上げられていて、それを楽しんでいるようにも、当然の称賛と受け取っているようにも見えた。幸い高校に入ってからのクラスメイトにまで同じ扱いを強要しなかったので、新たな友達はすぐに増えた。当時で言えばもそのひとりだ。

それに彼はちょっと濃い目の整った容貌をしていて、当時から充分に背が高く、同じクラスの女子は全員彼を「かっこいい男の子」と認識していたはずだ。本人もそれを望んでいたのだろうし、初夏に行われるインターハイの地区予選は応援に来てくれとよく言っていた。

だが彼は怪我で予選も出られず、そのまま治りきらない足を引きずって部活から遠ざかり、夏休みに入る頃にはすっかり「荒れた生徒」になっていた。対応が後手に回った周囲の大人たちの軌道修正が間に合わないまま夏休みに突入、2学期になる頃には三井は完全に「ヤンキー堕ち」していた。

は目の前でさらりと揺れる三井の長い髪に1年生の頃を思い出していた。あの頃はショートボブで、何かと言うと長い前髪をかきあげていた。運動部なんだから、視界を遮らない髪型の方がいいような気がするけど、かっこいいと思ってんのかな。サラサラすぎてかきあげる意味もないし。

そう言葉に起こして回想してみると、当時のは三井に対してあまり良い感情を持っていなかったらしい。しかもとどめにふたりきりだというのに武勇伝ばかり聞かされたので、三井という男子はにとってだいぶ面倒くさい男になっていた。

それから1年半以上が過ぎた。三井はほとんど話さない。それはもちろん寒すぎて口を開けるのもしんどいという理由もあるのだが、ペラペラと聞いてもいないことをまくしたてていたあの頃とは別人のようだ。人相も悪いし、ショートボブだった髪は肩に届くほど長くなってしまったし。

……次は?」
「まだまっすぐー。ドラッグストア見えてきたらもう少しだから頑張って」

また返事はない。だが、三井はそこそこの速度で自転車を飛ばしている。足はもういいんだろうか、とちらりと目を落としてみると、違和感なくちゃんと動くようだが、たまに思い出したように怪我をした左足を浮かせてふらふらと揺らしていた。治りきってないのかもしれない。

だが、それを殊更に気遣うのも逆に迷惑なような気もした。怪我をして一番夢中になっていたことが出来なくなってしまった、それがどれほどショックなのかはわからない。そんな経験はないので。

もしまだ三井があの頃みたいにプライドが高くてちやほやされることを望んでいたのだとしたら、何も褒められるべきものがない自分とのギャップで余計にストレスを貯めてしまうだろう。はまた彼の背中に寄りかかると、細く息を吐いた。

不貞腐れたヤンキーが笑うことなんかあるんだろうか。そんな興味本位で連れてきてしまったけれど、やっぱり面倒くさい気がしてきた。帰ったら部屋をガンガンに温めて、お風呂も急いで沸かして、私が先に入って、三井にも入らせて、その間に布団用意して、さっさと寝かしちゃおう。

もし眠れないようだったらお母さん特製10年ものの梅酒をブチ込もう。未成年だけどこの際構うもんか。てかこんだけグレまくってんだから酒くらい普段から飲んでるかもしれないけど。それにお母さんの梅酒はお湯で割ると睡眠薬入ってんのかと思うほどよく効くので、寝ちゃえるはずだ。

始発まででいいって言ってたし、何なら鍵はポストに入れておいてくれればいいから、勝手に起きて勝手に帰って。あとは何事もなかったように元通り。今はクラスも違うし、それまで。たぶんそれが一番いいと思う。三井のためにも、私のためにも。

ようやく自宅に到着しても、やっぱり三井はほとんど声を出さない。のあとに着いて家の中に入っても、静かな夜だと言うのに聞き取れないほどのか細い声で「お邪魔します」と言っただけ。

「眠い?」
「えっ? あ、いや、別に、それほどでも」
「じゃあひとまずお風呂沸くまで待機、それから私が先に入る、その後入る、OK?」

真顔の三井はカクカクと頷き、階段を上がるの後を追いかけてくる。

「三井が入ってる間に布団用意するから、そこで寝る。始発の頃に出ていってもいいし、私と一緒に出てもいいし。それはどっちでも。必要なものある? てかパジャマとかそーいうのないけどそのままでいいよね? 貸してあげたいけどあんたが入る服この家にないと思うし」

部屋の明かりをつけてエアコンをフル稼働させながら、は淡々と説明する。それを三井はドアの前で居心地悪そうに聞いていた。まあ親しいというほどでもない女子の部屋にいきなり通されれば仕方ないか。は背を向けたまま少しため息をつくと、笑顔を作る。

「終電なくして寒くて歩いて帰れないんだから、一晩くらい我慢しなよ」
「えっ、そういう意味じゃ……
「あんまりキョドられても私も困る。質問にはちゃんと答えて」
……寒いの、ダメなんだ」
「はい?」

三井は進められるままラグの上に腰を下ろすと、ダウンを着た自分の体を抱き締めるように腕を組んだ。はエアコンの温風を背にジャンパーを脱ぐ。そりゃまあ、寒いけど。12月だし。

「体脂肪が、ないから」
「脂肪があったって寒いもんは寒いんだけどね」
「いや、そういう意味でもねえよ」
「ま、要するに寒がりなわけね。堀田の家にいればよかったのに」
「だからそれも違う」
「別にどっちでもいいからちゃんと話しなよ」

はペットボトルの水を引っ張り出すと、電気ケトルにドボドボと注いでスイッチを入れる。これから寝るけれど、温かいものを胃の中に入れないと血液が温まらない気がする。

「あんたが怪我して以来めんどくさいのは知ってる。近くで見てたんだから。でも今はとにかく寒くないようにして明日学校なり家なりちゃんと行かれるようにすればいいだけ。今ちょっとヤンキーとかそういうの忘れてよ。必要なものは? 明日どうする?」

にピシャリと言われた三井はやがて顔を上げると、小さく頷いた。

「出来れば何か食べるものがほしい。温かいもの。服はこのままでいい、風呂は借りたい、布団も助かる、出来ればギリギリまで寝かせてほしい。それから堀田の家じゃなくて別の仲間の家にいたけどそこんちの親に追い出されただけ。足が不安だったから助かった。恩に着る」

腹を括ったんだろうか、三井は一気にそう言ってペコリと頭を下げた。はそんなところもまた可愛くなってしまって、ついにっこりと笑った。それを見た三井はむず痒そうな照れくさそうな顔をしていたが、それもまた可愛らしい。

「食べ物ね、じゃあちょっと寒いけど何か探しに行こうか」

コンビニで買ってきたのは自分の朝食だけだ。部屋着を着込んだは三井を連れて部屋を出ると、まずは追い焚きのボタンを押した。追い焚きをするよりも一旦水を抜いてしまって、自動湯張りの方が遥かに早く済む……ということは、ふだん家の手伝いをあまりしないには思い至らなかった。

だがその間にはキッチンでインスタント麺とお菓子と冷凍食品を発掘、三井はまたペコッと頭を下げてそれらを全て平らげ、文句も言わずに片付けを手伝い、また部屋に戻った。エアコンをフルパワーでかけっぱなしにしていたのでだいぶ温まっている。

「えっ、まだ寒い? ラーメン食べたのに?」
「腹の中は温かいんだけど、手足が、冷たすぎる」
「ほんとに寒そうだね」

三井と一緒になって明日の朝のために買ったカップスープを食べてしまったはだいぶ寒さが取れてきた。だが三井はまだ小刻みに震えていて、顔色も白っぽい。よほど寒がりのようだ。はつい三井の手を取って温度を確かめてみた。

「お、おい……
「うわ、冷た! なにこれ末端冷え性?」
「いやよくわかんねえけど」
「こりゃしんどいわ……じゃ、ここ入ってなよ」
「え」

やや動揺しているらしい三井だったが、は自分のベッドの布団をばさりとめくりあげてポンポンと叩いた。暖かそうなブラウンとピンクベージュでまとめてあるの寝床だ。

「ここ電気敷毛布入ってるの。薄着になって温度マックスにしてるとかなり温かいから」
「えっ、いやそのおま」
「ほら早く脱いで、一晩我慢!」
「ちょ、脱が……自分でやるから! あとそういう意味じゃねえから!」

いつまで経っても緊張の取れない三井に業を煮やしたは黒のダウンに掴みかかってファスナーを下ろした。慌てた三井はを押し返す。何を思ったのか胸の前で両手をクロスさせていて、まるで狼に襲いかかられた少女のようだ。

「ていうかお前いいのかよ、その」
「だから非常事態だって言ってるでしょ」
「そうだけど!」
「そっちこそヤンキーのくせになんでそんなビビりなんだ」
「ビビりとかいう問題か! 気ィ遣ってるだけだろ!」
「いらん気遣いだよ!」

だが、そんな遠慮のない言い合いをしたおかげか、三井は一気に緊張が緩んだようだ。がまたファスナーを外そうとすると三井はさっさとダウンを脱ぎ、靴下も引き抜いて大人しくベッドに潜り込んだ。は三井がしっかり布団にくるまったところでベッドに寄りかかる。

「ていうかさ、ダウンの下何その薄着」
「しょ、しょうがねえだろ。てかヒートテック着てるから」
「この12月の深夜にヒートテックにロンTにペラペラのダウンだけで冷え性が何考えてんだ」
「だから追い出される予定じゃなかったんだよ」
「よかったね、私がいて」

少ししかめっ面が戻ってきていた三井だったが、そう言われるとウッと言葉に詰まって目を逸らした。

もそれに付き合って凝視はしないでやり、ゆったりとベッドにもたれて膝を立てた。一番夢中になっていたことから突然切り離される苦痛はよくわからないが、苦痛を逃れたいあまり道を逸れてしまう気持ちはちょっとわかる気がする。

自分に仮面と素顔の二面性があるとは思わないが、その体の中には羽目を外して夜遊びをしたい奔放なと、祖母が緊急事態とあらば飛んでいって嘔吐物でも掃除をする「いい子」なを同時に抱えていて、生活の中に「いい子」が増えてくると息苦しさを感じる時がある。

両親にバレないように夜遊びをするのがわけもないように、上手く立ち回るために進んで演じる「いい子」なのだが、どこに出しても恥ずかしくない自分を放り出して思う様バカをやってみたいという欲求が首をもたげてくる度に自分でげんなりしてきた。

自分と自分の間に挟まってしまって苦しい思いをしているという点では、三井とは何も違いがないと思った。本来の三井というものは、女の子とふたりきりなのに武勇伝かまして引かれるような、そういうちょっとデリカシーのない元気な少年だっただろうに、心の傷は彼を捻じ曲げたまま戻らない。

確かに非常事態だったとは言え、こうして付き合いの薄い三井を深夜に連れ帰ってしまったことも、ある意味ではその「羽目を外してみたい」欲求の一端ではないかと思えてきた。

そもそも今日は祖母の件で既にイレギュラーな夜だったのだ。毎日繰り返される安全で安定していて穏やかな夜ではなかった。三井もまた、そんな夜に突然現れた異分子だ。

時間はとっくに1時を過ぎていて、この現実味のない夜の期限はあとほんの数時間だ。冬至が迫る12月に夜がなかなか明けないのだとしても、それでもあと7時間もすれば空にはすっかり夜の面影はなくなって、それとともにこの非日常は終わる。

それは自分の日常を守るために結局は「いい子」を選んでしまう自分の「余白のなさ」を感じさせた。

クラスに何人もいるギャルの子たちみたいに髪染めて化粧してパンツ見えそうなスカート穿いてはしゃいでみたい。清楚ビッチの子たちみたいにきつい縮毛矯正をかけてすっぴんメイクに黒コン入れて甘ったるい声を出してみたい。キラキラ女子みたいにスタバにへばりついて萌え袖で映える写真のために遠くまで出かけたりしてみたい。

けれど、いつもが選んでしまうのは「いい子」だ。

祖父母は当時としては結婚が遅く、それは両親も同様で、そういうわけでは「遅い初孫」で「遅い子供」だった。最近では珍しくなくても、が生まれた頃ですら両親は友達の親に比べて歳を重ねていた。それを気恥ずかしく思ったことは1度や2度ではない。兄弟姉妹に間違われるほど若々しくて若者の価値観に柔軟な親がいいと何度思ったか知れない。

だが、逆にそういう環境に生まれたために、はとにかく可愛がられた。割と早逝だった祖父もそれは例外ではなく、少ない髪をぎゅっと整えたリーゼントを幼いが掴んでぐちゃぐちゃにしてしまっても、怒らないどころかむしろ喜んですらいた。

中学生の頃はそういう環境に育ったことを厭わしく思ったこともある。だが、ちょっと荒れ気味な地元の高校に入り、高齢の祖母に手がかかるようになってきて以来、そうした自身の育った環境に感じていた嫌悪感は急速に薄れてきてしまった。

が小学生の時に病に倒れた祖父は入院中でもやっぱり髪をビシッと整えていて、元気になったらまた遊ぼう、が大きくなったらバイクの免許を取って、おじいちゃんをその後ろに乗せてくれよと言い残して死んでしまった。

それを思うと、金髪でパンツ丸出しだとか、黒コンでアニメ声とか、SNSジャンキーとかになりたいわけじゃない、という結論にしかたどり着けないのである。

そういう自分になりたい人は好きにすればいいと思う。でもにとってはちらりと隣を横切る選択肢のひとつでしかなかった。本気で選びたい自分ではなかった。それを否定してもしょうがない。

だというのに、の中の「いい子」は疲れていて、こうして突飛な行動を起こしてしまった。

それに三井を付き合わせるのは悪いような気がした。ただ終電なくしただけなのに。もうお風呂沸くと思うから、順番に入って暗くして寝てしまえば終わる。いつもと違う日曜の夜はほんの1時間くらいの非日常を残して日常に戻る。

「じゃあそこで大人しくしてて。充電使っていいから」
……ああ」

はさっと立ち上がり、風呂の支度をして部屋を出る。

不思議と三井ひとりを部屋に残して階下に降りることには不安がなかった。屈託のない粋がった過去の三井と、不貞腐れるばかりの現在の三井という両極端な在りようがその存在を希薄に感じさせているのかもしれなかった。

というか本人はいきなり同じ高校の女子のベッドに潜り込まされて動揺の真っ最中である。暖かさには代えられないんだろうがいいんだろうか。そんな顔だ。

はもう何も言わずに階段を降り、寒いので急いで服を脱いで風呂に飛び込む。

私は特に親しくない男子を夜中に連れ帰り、同じ部屋で寝るのか。

そんなことばかりが頭の中を渦巻いている。温かい湯に体の緊張は解けていくけれど、その思いは消えない。親が知ったら説教どころでは済まされないだろう。

それに――三井はそういう私のこと、どう思うんだろう。

あの状況下では、この12月の深夜に現れた唯一の助けには違いないわけだが、それでも付き合いの浅い同級生で、しかも女子だ。三井は学校での過ごし方を見るに固めのグレ方をしていて、チャラチャラと女子にちょっかいを掛けるタイプのヤンキーではない。そんな彼はどう感じたのだろうか。

まさか明日学校でベラベラと言いふらしたりはしないだろうが、今夜のことは彼にとってどういう意味を持つんだろう。私という存在は彼にとってどんなものになるのだろう。

たっぷりの泡で体をきれいに洗い流しても、どうしてもその思いが拭えなかった。