「おばあちゃん、どう?」
「もう寝た。もうこんな時間だし、これなら朝まで起きないんじゃないかな」
「お疲れ様。はもう帰ってもいいよ」
12月も半ばのある日曜の深夜のこと。車なら15分ほど、自転車でも狭い住宅街の通りを行けば20分ほどの場所に住む祖母宅ではホッとして息を吐いた。
隣の家の住人から「まだ電気が付けっぱなしになってる」と連絡をもらったのは22時頃のことだった。古くから親しい仲であるお隣さんは、普段なら夜20時には真っ暗になってしまう隣家の明かりが煌々と灯っていることに気付き、慌てて連絡をくれた。
急いでたちが駆けつけると、彼女の祖母は廊下で転倒して動けなくなっていた。彼女は元々要介護認定を受けているのだが、それは歩行機能や聴覚などが理由で、認知症の兆候は認められず、自身が老いた体であることは充分に自覚があり、慎重な性格であることもあってひとり暮らしを続けていた。
廊下で転倒したのも、そろそろ床に就こうとしていた19時頃に覚えのない宅配が来たことで焦ってしまったためだった。転倒した時に腹を強く打ってしまい、嘔吐したまま22時半頃に娘一家が飛んできてくれるまでその場を動けなかった。
幸いたちは全員自宅で寛いでおり、とその母親はどちらが先に風呂に入るかで喧嘩になりかけていた。なのでひとまず両親は車で、は自転車で後から追いかけた。
そのまま病院に担ぎ込まれた祖母はしかし、腹から落ちたようで捻挫や骨折の心配もなく、意識もはっきりしていて頭は打たなかったと自己申告していた。救急の担当医は今のところ急を要する症状は見られないが、数日は変調に気をつけて異変があればすぐに受診を、とのアドバイスだけで帰してくれた。
その間は祖母が転倒した際の嘔吐を片付け、覚えのない宅配を確認して、それが遠方の親戚からのものであるとわかると、改めて再配達の手配をした。独居の祖母を気遣っているのだろうが、毎回何の予告もなく送りつけてくるので正直持て余している。事前に連絡してくれと何度も言うのだが、なぜそれが必要なのか理解できないらしい。
途中母親から連絡が来て、入院はなしだとわかると、今度は着替えや風呂の準備をして待ち、戻った祖母をシャワーに入れて休ませたところだ。だが、いつ異変が起きないとも限らないので、の父と母は今夜この家に泊まると言い出した。
しかしそれは珍しいことでもないので、は父と母の布団の用意も手伝って、やっと一息ついた。
「明日どうするの、お父さん仕事は?」
「ここから直接行くよ」
「私は明日1日ここにいるよ。、暇なら学校終わったらこっち来れば」
「暇ってこともないけど……」
「それより、テスト終わったからって寝坊するんじゃないぞ」
「わーいお父さんとお母さんいないからサボろー、とかだめよ」
「そんなことしたことないでしょ!」
現在高校2年生のは2学期の期末テストが終わったばかり、あとは終業式を待つのみである。なので正直母親の言うように1日くらいサボったところで問題はないはずなのだが、が通う県立高校は荒れた生徒が多く、学年が上がっても突然道を踏み外すことがあると保護者説明会で聞かされて以来、特に母親はサボりなどに過敏になっている。
だが、スヤスヤ眠っている祖母の夫、の祖父、そしてサボりはダメよが口癖の母親の父は、まあ言ってみればヤンキーだった。常にリーゼントと尖った靴でバイクと車が大好き、という御仁だったので、祖母の家には未だにハーレーダビッドソンのグッズがいくつも転がっている。
母いわく、「隔世が一番遺伝が出やすいって言うでしょ」だそうで、そんなヤンチャな祖父を持つは余程気を付けなければならない、というのが彼女の理屈だ。
コンビニで好きなもの買って明日の朝ごはんにしなさい、と1000円札を手渡されたはふたりに見送られて祖母宅を後にした。もと来た道にはコンビニがないので少し遠回りをする。12月の深夜は空から冷えた空気が降りてくるようで、は首をすくめて自転車を漕ぐ。
祖母宅に残る祖父のヤンチャグッズを見ていたら、1年生の時に同じクラスだった男子を思い出した。
母はが道を踏み外すことを警戒しているようだが、どちらかと言えば自身はヤンチャな祖父を手のひらで転がしていた祖母似で、両親が心配しない程度の「遊び」は要領よくこなせるタイプだった。決して深追いはしないし、危険には鼻が利くし、どんな誘いでも行きたくなければ断ることが出来た。その男子とは、初めて夜遊びをした仲だった。
高校に入って2週間足らず、クラスの中でも人見知りしない数人で盛り上がり、土曜日の夜に街へ繰り出した。予算は厳しかったのでファストフード店で喋ったり、その後はただウロウロと街を歩いただけだったけれど、最終的に真っ暗で広大な公園で子供のようにはしゃぎ、ただそれだけで終わった。
その時に特別な感情を抱いたとか、そんなことはなかったけれど、ただ公園に行ってから少しだけふたりきりになった。彼は中学の時にバスケットで有名な選手だったそうなのだが、運動部に縁のないは「ああ、だからこの子イキって見えるのか」と納得した。
女の子と暗いところでふたりきり、彼は慣れている様子も緊張している様子もなかった。だが、話は何かと言うと自分がちょっとばかり優秀な選手なのだということを話したくて仕方ないようだった。というより、それしか話すことがない、といったところか。
それを見ていたの中には、呆れる気持ちと同時に、彼を可愛いなと思う気持ちがあった。
オレは優秀なバスケ選手なんだぜ、って言えば女の子がみんなうっとりすると思ってるんだろうなあ。
確かに彼は顔の造作もよく、バスケットをやっているせいか背も高く、そういう粋がったところを除けば明るくて元気で付き合いやすそうな人に見えた。でもこの子、面倒くさいんじゃないかなあ。は彼をちょっとだけ疑いつつ、それは顔には出さずに内心ほくそ笑んだ。
おばあちゃんの気持ち、ちょっとわかる。こういう男の子って、可愛いんだろうなあ。
の祖母は4つ年上の姉さん女房だった。ヤンチャな祖父をいいように手の上で転がし、本人いわく「おばあちゃんが結婚してくれなかったらオレは30になる前に死んでた」というほど、祖父は困った子であったらしい。
だから余計に思い出す。祖父の残した物を見ていると、彼を思い出す。
私のことなんか何とも思ってないんだろうけど、自分のことはかっこいいって思ってほしいんだろうなあ。今日はいないけど、普段クラスでは取り巻きの男子に囲まれてて、でも実は男子の取り巻きより、女子の取り巻きの方が欲しいんじゃないかな。
プライドが高くて、自信家で、自惚れも強くて、だけどきっと彼の心を虜にしているのはバスケットで間違いなくて、そう、ちょっとチャラチャラして見えるけど、男の子にはすごく好かれてたくさん友達がいそうな、そんな人なんだろうな。
女の子にモテるのは嬉しくても、きっとそう簡単に本気になったりしない、そういう人だ。
今の彼にとってバスケットと同じくらい夢中になれる女の子なんかいない。女の子の黄色い声が彼を気持ちよくさせるだけで、特定の女の子との付き合いは邪魔になるだけのはずだ。
なのでは何をどう話しても彼のバスケット武勇伝になってしまう会話をさらりと流し、方々に散らばっている友人たちと合流すべく歩きながら言った。
「もっとかっこよくなったら応援しに行ってあげるよ」
我ながらずいぶんな上から目線だったなあ。はLEDの白っぽい明かりの下で、カップスープとサンドイッチを手にレジ待ちをしていた。駅から住宅街に抜ける道の途中にあるコンビニは深夜でも混雑していて、日曜の夜だが仕事帰りといった雰囲気のスーツ姿の男性がひしめいていた。
1000円あればそこそこ好きなものが買えるな、と考えていたけれど、そういうわけで棚はスカスカ、のふたり前に並んでいるお姉さんに最後のプリンを取られてしまい、かと言ってこの寒いのにアイスは食べたくなかったし、面倒になったは明日の朝食になるものだけを手に並んでいる。
期末直後だからなのか、SNSは軒並み閑散としていて暇を潰せそうにない。レジ待ちの列はお弁当の温めが続くので遅々として進まず、レジの中のスタッフはてきぱきと働いているがひとつの会計に数分を要している。
携帯を見てもつまらないはふと壁にかかる時計を見上げた。充分に深夜だが、高校生になってからはその「深夜」という感覚が薄れてきた気がする。日が落ちて暗くなることを夜というなら今の時期19時ですでに真っ暗、その真っ暗が明けるのは早朝というほどでもない6時半頃。夜と昼と深夜の境目は曖昧、そして幼い頃には未知の世界だった「深夜」はただの夜だった。
小学生の頃までは眠っていて当たり前の時間にも電車は動き、働き疲れた帰途で弁当を買い求める人々はいる。その中でひとり佇んでいることに特別な感じがしたのも遠い話だ。
だけど私、終電って乗ったことないな。
はまた記憶の中にさまよい出る。初めての夜遊びをしたたちは帰宅が遅くなっても親が怒らないという家に泊まる手配をしていた。というかその手配ができたから深夜まで遊ぼうなどという話になったのだ。は一家全員サーファーという女の子の家にお泊まりに行くことなっていた。
その時も、さすがに終電はマズいよねという判断から23時半くらいには解散になり、は日焼け肌に茶金の髪の友達の家に0時到着、しかし友人の経営するバーに行っているとかで両親は不在、ふたりはまた用もないのにコンビニにでかけたものだった。
あれっ、だけどまだ終電て時間じゃないんじゃない……?
確か最寄り駅の終電は1時を過ぎていたはずだ。まだ0時半くらいなんだけど。そう考えたところでは今日が日曜であることを思い出した。そうか、平日より終電が少し早いんだ。
15分ほどかかってコンビニを出たは途端に12月の夜風に晒されて震え上がった。祖母の家まで行くときは気持ちが逸っていたので気にならなかったけれど、もう心配ないので余計に寒い。初めての夜遊びは今よりよっぽど温かい季節だった。あのときならもし終電をなくしても一晩中お喋りしていられた気がするが、これは無理だ。
また、中途半端にコンビニで暖を取ってしまったので、自転車を漕ぎ出すときにより冷たい風を浴びるのだと思ったら乗りたくなくなってしまった。熱いお風呂に浸かりたいけれど、もうほとんど水であろう湯が沸くのを待っていられない。ていうか何か温かい飲み物でも買ってくるんだった。
自転車を押す手は不用意にも手袋がなく、下がる一方の気温に白くなるばかり。自転車を押しながら、また漕ぎながらホットドリンクで手を暖められないのはわかるが、限界だ。はキョロキョロと辺りを見回すと、遠くに煌々と灯る自販の明かりに気付くと自転車に飛び乗って漕ぎ出した。
それだけでも手が余計に冷たくなって感覚がなくなりそうだ。自販機の前で急停車して飛び降りたは暖かそうな色合いの缶のコーンポタージュを買うために財布を引っ張り出そうとしたのだが、手がかじかんでうまくいかない。早く、早くコンポタを! と思うほどに焦る。
すると不意に苛ついた男性の声が聞こえてきては背筋まで震わせた。この通りは駅から直接繋がる道なので、いかな日曜の深夜と言えど多少の人通りがある。けれどそれはほとんどが仕事で疲れた終電間際の大人たちなので、イライラして吐き出すように喋る男性の声は警戒のサインだ。
焦る気持ちを飲み込み、かじかむ手をギュッと握り締める。わざとらしくない程度に顔を上げて左右を確認。苛ついた声の主以外にも人はいるだろうか。何でもいい、万が一の時には逃げ込める営業中の店舗はあるだろうか。だが、右を向いたは「あ」と大きな声を上げて目を丸くした。
苛ついた声の主は誰であろう、例の初めての夜遊びで一緒だったバスケット少年くんだった。
向こうもの声に気付くと顔を上げ、不機嫌そうな表情が一瞬緩んだ。どうやら電話で誰だかと喧嘩腰に話をしていたらしいが、彼は慌てた様子で通話を切って携帯をポケットに突っ込んでしまった。
はまた内心少し呆れた。誰かと話してたんならそのまま喋りながら通り過ぎればいいのに、この距離感で通話切られたら話しかけるしかないじゃん。お互い用なんかないし、話すこともないし、てか何でそんなしかめっ面で鼻真っ赤にして黙ってんの、私の方が話しかけなきゃいけないわけ?
まだ面倒くさいのかこの人、と思ったはしかし、自分が黙っていても帰りが遅くなるだけだと考えて口を開いた。自販機の明かりの中に真っ白な息がふんわりと漂う。
「どしたの、こんな時間に。家、この辺じゃなかったよね」
イキったバスケ少年だった男子、三井寿は鼻をすすると余計に顔をしかめた。夜遊びした時の記憶では、この三井とは駅がふたつほど離れていたはずだ。友達と連れ立って歩いているならともかく、ひとりでどうした。すると三井は渋々、といった様子で白い息を吐く。
「……そっちこそ」
「私はおばあちゃんの家からの帰り。そもそも地元だし」
「……そうだっけ」
「……あ、そっか、堀田んちか!」
何が面白くないのか仏頂面の三井だったが、は思いついて高い声を上げた。三井が学校でよく一緒にいる堀田という男子は隣の中学出身、とは地元が同じだ。それならこの辺りをウロついていても不思議ではない。だが――
「ちげーよ」
「あ、そう? まあいいけど。じゃね」
友達の家からの帰りか、これから行くところか、その程度のことでこんなに睨まれる筋合いはない。三井の鋭い目に見下されたは途端に興味をなくして財布に目を落とした。こんなわけのわかんないのに構ってないで早くコンポタ買って帰ろう。
だが、100円玉をつまみ出したは傍らの三井が立ち去る気配がないのでまた顔を上げた。
「……何?」
すると三井は渋面のままぐっと身を引き、言いたくないけど言うしかないという顔で低い声を出した。
「しゅ、終電、なくした」
「……はあ?」
例えば堀田のように地元が同じで同じ高校に通う同級生も多いので、は三井の言う「終電なくした」が一瞬頭に入って来ず、自転車で帰ればいいのに、とトンチンカンなことを考えた。
「別に二駅くらい歩い――無理か」
なので、バスケット少年よ二駅くらいでめげてどうする、と思ってしまったのだが、今の至るまでの彼を思い出してそっとため息を付いた。彼は足の怪我が元で夢中になっていたバスケットを放棄、そのままヤンキーに転落、誰彼構わず睨みつけ怒鳴りつけるような人になっていたのだった。
足の怪我は手術を要して入院もしてたから……こんな寒い夜に長く歩くのはしんどいのかも。は遠い記憶を手繰り寄せる。だが、彼が終電をなくしたからといって何だというのだ。ただ通う高校が同じというだけの間柄、友達ですらないのに私にはどうにも出来ない。
しかしはたっぷりと時間をかけて祖父母のことを思い出していた自分の心の隅にある選択肢に内心盛大にため息をつき、大いに呆れた。
はいはい、確かに私今日は家に誰もいなくて、明日もどんなに早くても夕方にならないとお母さん帰ってこないよね。だからこの死ぬほど不貞腐れたヤンキーひとり連れて帰ったところでバレないし、うちは思いっきり住宅街にあるけど、登校時間の頃はたまに車が通り過ぎる程度でご近所の目も少ない。
そしてちらりちらりと心の端っこを突付いてくる、ささやかな感情。
このグレたしかめっ面を連れて帰ったら、終電をなくして鼻真っ赤にして凍えている彼を助けてやったら、こいつ、どんなことを言うんだろう。この不機嫌なしかめっ面は取れるんだろうか。礼のひとつでも言うんだろうか。というかその仏頂面を違う表情に変えてみたい。
その欲求に気付いたの目には、険しい顔をした三井が何だか可愛らしく見えてきてしまった。
だから、ほら、私はおじいちゃんよりおばあちゃんに似てると思うんだよ。
はそれを理由にすれば少なくとも自分では理に適ったことなのだと考えることにした。行き場をなくして困ってるくせに素直に助けてほしいと言えない男の子を連れて帰ってみよう。
「どこか行くとこあるの?」
「……いや」
「タクシー代貸せるほど持ち合わせ、ないんだよね」
「……借りても返せねえし」
「じゃあ、うち来る?」
「……は?」
は? じゃないだろ、お前それ私が言い出さないかなって思ってそこに立ち尽くしてたくせに、何を思いがけない言葉に驚いてますみたいな顔してんだよ。はそう言いたいのを堪えて首を傾げてみる。
「必要ないならいいけど。30分くらい歩けば24時間のマックがあるよ」
「……親」
「おばあちゃん具合悪くて泊まり込んでるから。てか無理強いしてないでしょ」
が天の助けだと充分わかっているはずなのに素直になれない三井はしかし、このままでは歩いて帰るかファストフードで始発を待つしかないことと天秤にかけて、怖いヤンキーの看板をちょっとだけ下ろすことにしたらしい。いきなり眉間のシワが取れた。
「…………すまん、頼む。始発までで、いいから」
眉間にシワがないだけでずいぶん可愛い顔になるのに。ニタリと笑ってしまいそうな頬を引き締めると、はコーンポタージュをふたつ買い、ひとつ差し出した。三井はもう形振りかまっていられないのか、その場で一気に飲み干す。
三井が缶をゴミ箱に捨てるのを確かめたは、今度は自転車をちょいちょいと指差した。
「……何」
「寒いから早く帰ろ。コンポタでちょっと温まったでしょ。よろしく」
泊めてやるんだからお前が漕げ、という意味だ。だが方や身長が180をゆうに越えていそうな体なのだし、そのくらいは仕方あるまい。三井はちょっとだけしかめっ面が戻りそうになったようだったが、黙ってストッパーを外してサドルに跨る。
「パトカーいたらすぐ止まってね~」
はそう言いながら荷台に横座りになり、三井の背中に寄りかかる。そしてコーンポタージュの缶に手を温めつつ、ゆっくりと漕ぎ出す三井の後頭部に向かって声をかけた。
「次の信号、右でよろしく~」
返事はなかった。その代りに自転車は速度を上げ、と三井の混ざりあった白い息が12月の真夜中に長く尾を引いては、かき消えていった。