存在証明

2

記憶の認識が退行しているのか、または抜け落ちた部分を失ってしまったのか、それは判断のしようがなかった。よくよく確かめたところ、三井の「現在」は中学3年生の秋頃のようだった。県大会で優勝、MVPを獲得、引退、来賓の監督に憧れて受験生になっていた時期らしい。

しかし本人はけろっとしたもので、「だいたいのことはに聞いた。頭ん中がタイムスリップしたみたいだけど湘北に入ってバスケ部にいるんだから目標通り、別に問題ない」と深刻に受け止めていなかった。いやまあ確かにそうなんだけど……

このことでひどく戸惑ったのは当然ごく身近な人々である。確かに志望校に入学して憧れの指導者に師事したのは間違いないんだけど、君、そのあとしばらく悲惨な状態で2年以上なんだけどね……と言っていいものかどうか。

ひとまず検査結果では異常なし、怪我による挫折やヤンキーやってたなんてことはわざわざ伝えない方針が立てられ、数日間は目を離さずに様子を見ることになった。本人もそれでいいという。授業に出ても内容などさっぱりわからないけれど、部活はやりたいから学校も休まない。

「別に病気じゃないんだから、休むこともないだろ。記憶が戻ったらちゃんと勉強すればいいし」

挫折からのヤンキー堕ちに2年間悩まされた彼の母親は複雑な感情を抱えながらも涙ぐんでいた。そういえば息子こんな感じのいい子だった。

「だけどあんまりウロウロしないでよ……
「だからそれも何でよ。別にいいじゃん。高校どんな感じなのか見たいし」
「見るのはいいけど、ヤンキーっぽいのには近付かないでよ」
「大丈夫だって。ヤンキーったって同い年だろ。無関係だし」

無関係じゃないんだよバカタレ……と思うが言えないは久しぶりに一緒に登校しながらまたため息をついていた。と三井が中学の頃からの腐れ縁なのは両方の親も知っているので、学校にいる間のことを任された。というか家まで迎えに行った。通学路がわからない。

三井は普段だらしなく着崩している制服をきっちりと着込み、靴の踵も潰しておらず、その上玄関に現れたに向かって片手を挙げながら「おはよー!」とにっこり笑った。嫌な予感しかしない。

「鏡見てびっくりしなかったの?」
「親にも言われたけど、別にそれは」
「部屋の中も変わってたでしょ」
「ああそうそう、ポスターが減ってたな」

は返事をせずに心の中で突っ込む。それは私が外したんだよ! グラビアアイドルの水着のポスターだったから! 彼女来るのに他の女の水着ポスター貼りっぱっておかしいだろ!

しかしそう憤慨してポスターを引き剥がしたにも、三井は「そうだよな、悪かった」と言って頭を撫で、優しくキスをしてくれたものだった。懐かしいのと恥ずかしいのと隣りにいるミックス三井がごちゃ混ぜになって泣きたくなってきた。

2度目に別れて以来、長く話したことはなかった。ヤンキーをやめて部に復帰した時には連絡が来たけれど、何しろ三井の方が持てる時間の全てをバスケットに捧げていたので、ゆっくり話す暇もなかった。それがいきなり15歳ってなんなの。しかも――

の嫌な予感は的中、普段教室では眠そうにしているだけの三井が突然にっこり笑顔で「おはー!」と現れた衝撃と言ったら、一番最初にそれを間近に食らった隣のクラスの女子が真っ赤になって逃げ出したほどだ。

簡単に事情を説明されたクラスメイトたちに囲まれた三井は笑顔のまま、何を聞かれてもにこやかに答えているし、女子にさりげなく褒められたりしようものなら、握手を求めて礼を言い出す始末。

ああそういえばこいつ、高校入学直後くらいはこうやってみんなに取り囲まれてチヤホヤされるのが普通だったな……てかあの時の取り巻きどこ行ったんだろう。は高1の頃のことを思い出しつつ、ため息をつくしかなかった。

なので授業の内容がさっぱり分からないことを除けば、三井は楽しいようだった。15歳当時はすぐ調子に乗る癖があったがそれも健在。気を良くした女子がおだててくるので、「おねーさんもかわいいよ!」などと言い出し始めた。

さらに放課後、部活に行くと「最近は勉強ばっかりだから、バスケ出来るの嬉しい!」とはしゃぎ、後輩たちに向かって「おにーさんたち手加減しないでよ。オレも本気でやるから!」とブチ上げた。

「頭痛くなってきた……
「私もまだ痛い」

その様子を眺めながら文字通り頭を抱えたのは、昨日に連絡を取ってくれた木暮だ。既に引退した身だが、たまに顔を出しては受験勉強の息抜きにしている。彼もまた高校入学直後の快活な三井が記憶にある人物なので、外見と中身のギャップに頭痛がしてきたらしい。

「まあ確かに薬飲んだら治りますよってことではないんだろうけど……
「本人よりうちらの方が参ってるよね」

当の三井は楽しそうにプレイ中。「おにーさん」と言われてしまった後輩たちが可哀想なくらい困った顔をしている。というか、記憶が15歳のままなのだとしたらバスケットの能力も15歳に退行するのか……という疑念を瞬時に吹き飛ばす鮮やかなプレイだったので、後輩たちは顔色が悪いままだ。

「まあ実際入部直後もあんな感じだったからなあ」
……こんなことになったのって、本当に転倒だけのせいだと思う?」
「どういう……意味?」

腕組みでコートを眺めているの低い声に、木暮は首を傾げた。

「病院でも急いで検査したけど、本人が言うように強く頭を打った痕跡はなくて、昨日は私も22時くらいまで一緒にいたんだけど異変はなくて、だとしたら本当に転倒したショックだけが原因なのかなって。他に何か……例えば15歳の頃に戻りたいとか、そういう感情があったりしたのかなって」

それほど15歳に戻ってしまった三井は楽しそうで、活き活きとしていて、まるでそれからの3年間などいらないと捨ててしまったかのように見えた。ともども、三井の記憶の中ではその3年間の中に住んでいる木暮は首を傾げたまま小さく頷いた。

「はっきり聞いたことはないんだけど……進路、決まってないだろ。冬の大会まで残ると決めてるらしいけど、そしたら監督がどうにかして推薦を取り付けてくるしか、道がないんだよな、今のところ。国体はいいチャンスだけど、それだって別にスカウト確定ってわけじゃない」

木暮の心当たりはその程度だが、18歳の三井にそういう不安が存在していたことは確かだった。

「なんか……15歳のあの頃から、今まで、そんなに忘れたいのかなって、思っちゃって」

特に三井にとっての「」はその「今まで」の中にいる。志望校が同じだったから親しくなったのは三井の「現在」にあたる中3の秋も過ぎ、冬になってからだ。三井は彼の中にが存在していた時間を全て消してしまったみたいに見えて……

「後悔は、あるみたいだけど」
「でなかったら復帰なんかしなかったよね」
「でも、三井ってそんなやつかな」
「えっ? どういう……

今度はが横を向いて首を傾げた。すると木暮はほんの少しだけ微笑んでいた。

「今は部に戻れたからグレてた時間をもったいないと思うと思うんだけど、その間に存在していたもの――友達とか、思い出とかまで忌み嫌って捨てたいと思うようなやつかなって。あいつの後悔は自分がしてきた『選択』なんじゃないかと、オレは思うけど」

いまいち確信が持てないだったが、木暮の考えも一理あるな、と考えていると、急に影が差した。顔を上げると三井だ。汗を滴らせながらボールを小脇に抱えている。それがちょっと怖い顔をしているように見えたと木暮はつい一歩下がった。

「184じゃ足りないと思ってたけど、高さ全然違うのな」
「そ、そうだよね、15歳の時っていくつあったんだっけ」
「この間測った時は174だった」
「入学した時は確か、176あったはずだよ」

木暮がにこやかに優しく付け加えてくれたのだが、三井はちらりと彼を見ただけで視線を戻し、の腕を掴むと体育館の隅まで引っ張ってきた。

「なに、どうしたの」
「オレ、ひとりで大丈夫だから帰っていいよ」
……それはダメ。今朝お母さんに言われたでしょ、私と一緒にいてって」

急なことで三井の両親はまとまった休みも取れず、自分たちが帰宅する時間までどうか頼むとにペコペコ頭を下げていた。本人がなんと言おうと、もそれは曲げるつもりはない。すると三井はボールを持っていない方の手を壁に突っ張って顔を寄せてきた。いや、ちょ、壁ドンて……

「だったらちゃんと目を離さないで見てろよ」
「えっ、見てるじゃん」
「見てなかっただろ。あのメガネと楽しそうに喋ってたじゃん」
「寿の話をしてたんだよ! 心配してたの、私も、木暮も」
「別にあいつ関係ないだろ」
「ちょっと待って本人に言わないでよそんなこと……! どれだけ世話になってきたと思っ――

とんでもないことを言い出した三井を押し返そうとしたは、今度は大きな手で口を塞がれてしまった。ボールの匂いがする。

「あんなやつ知らない。高校生のオレがどうだったのか誰も言わないし、オレも興味ない。でもたぶん、3年も頭が巻き戻るなんて、いいことなかったんだろ。だから消したんだ」

はカッとなって手を跳ね除け、三井の鼻先に指を突きつけた。

「その消した3年間の中に私もいるの。それもゴミみたいに捨てるっていうの」
「何があったか、知らねえもん」
「思い出そうとも、してないくせに」
「思い出したい~って念じれば戻るのかよ。戻らないだろ!」
「もうほんとにやめてよ! 私たちだって混乱してるの!」
……私たち、ね」

息が切れてしまったは壁に寄りかかって大きく息を吸い込んだ。こんな特殊で異常な状況、まともに相手をしてはダメだ。専門家ではないのだし、危険がないよう、異変を見逃さないよう、目を離さずに見守るだけにしなければ。

……ほら、部長呼んでるよ。私はここで待ってるから、行きなよ」
「ここにいるなら、オレをちゃんと見てろよ」
「わかったから、ほら早く」

頭の中だけ15歳に戻って明るく快活な人物になっていたはずの三井だったけれど、どうしてかやけに冷たい目をしていて、は少し怖くなった。15歳の三井は単純で素直なスポーツ少年だとしか思っていなかったけれど、違うのだろうか。

というか「彼」は本当に本物の「15歳の三井寿」なのだろうか――

と三井が親しくなったのは、中学3年生の11月も末のことだった。

クラスと志望校が同じで自宅も同じ通学路を使うという共通点があり、突然よく喋るようになった。きっかけは曖昧で覚えていない。それまでも普通に会話をしていた気がするが、何を話していたのかも覚えていない。ただ、彼が優勝とMVPに輝いた県大会は、確か本人が見に来いよというので友達と観戦しにいった気がする。

そして受験勉強の真っ最中に付き合い始めた。中3の1月。揃って志望校に合格し、春休みの間に初めてのお泊りをした。けれど失敗した上に、高校に入った途端三井は練習中に怪我。彼はも寄せ付けないようになって、立ち直れないまま部を去り、関係は自然消滅。

そこからは一切連絡を取っていなかった。次に再会したのは、高2の初夏だった。

この頃三井は校内で数人の先輩とトラブルを抱えていて、学年内ではクラスが遠く離れた友人数人しか仲間がおらず、一匹狼になっていた。そんな時に地元でばったり出くわしたふたりは、気まずいながらも雑談に興じているうちに気持ちが再燃、ひっそりと逢瀬を重ねるようになった。

高2の夏休み、やけに荒れている三井を少し持て余していただったが、2度目3度目のお泊りでもやはり失敗に終わってしまい、再燃した恋心にうまくいかない関係が重くなり始めていた。

三井もそれを察知したのか、8月の終わり頃になると違う高校のヤンキーと群れるようになり、新学期を迎えたとはまた自然消滅した。ここから三井の生活は一気に悪化、も彼とのあれこれは忘れるように努めていた。

以後、が知っているのは喧嘩が元で大怪我をして入院したこと、暴力沙汰を起こしたらしいという噂、そして突然の更生。1度目2度目と合わせて半年くらいは恋愛関係にあったはずだが、バスケットの話はしなかった。1度目は受験、2度目はバスケットという言葉さえ口にするのは憚られた。

恋愛関係にあったって、バスケットに関わる寿のことは私、ほとんど何も知らないんだよなあ。

はすっかり日の暮れた校門で三井を待っていた。練習が終わって体育館が閉まり、三井は着替えているところだ。今日、いきなり豹変したことは三井の親に伝えるべきだろうか。けれどあれは異変と言うより、単に15歳の三井の思考による何らかの感情の爆発という気がした。

とはいえ違和感もある。15歳の三井はあんな風に威圧的に詰め寄ってくるような人だっただろうか。

だって付き合い始めた頃、あいつはすごく――そう、「いい子」で、同じ高校を目指して頑張ろうと言い合ってはきちんと努力できる人で、だけどやっぱり取り巻きが絶えなくて、なのに足を怪我した時は気持ちを立て直せなくて……

そこに来てははたと止まった。

私は、あの明るくて誰にでも好かれる寿を三井寿だと思ってたけど、それって本当?

改めて自分の記憶を掘り起こすと、同じく15歳のが付き合っていた三井寿は、教室で「おねーさんもかわいいよ」とか言ってしまうような、そういう男の子だった気がする。けれど、高2の時に妙に盛り上がって密会していた頃は不安定で気分屋で、しかしどこか脆さも感じていた。

先程の豹変には、高2の三井が混ざっているような気がした。それは元から持っていたものなのか、それとも彼の頭の中に存在するヤンキー時代の記憶なのか。

「お待たせー。なあ、腹減らねえ? オレ家まで我慢できそうにないんだけど」

背後から聞こえてきた声には振り返った。逆光に三井の顔は見えなくて、黒い人影が三井の声で喋っている。なんだか今私に見えている三井寿そのものって感じ。

「じゃあ何か……食べて帰ろうか」
「マジで! 何がいいかな、あーもうとにかく腹ペコだからガッツリ食いたい」

は黒っぽい影と並んで歩き出す。

本物の三井寿って、どこにいるんだろう――