存在証明

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未だ強い日差しが衰えない9月、体育館からは相変わらず罵声というか怒声というか、とにかく運動部が練習に励んでいるとは思えないような荒っぽい声が聞こえていた。

体育館を怒鳴り声でいっぱいにしているのはバスケット部で、前任の部長副部長が引退してからは余計に喧嘩腰の声ばかりが聞こえるようになっていた。が、この湘北高校のバスケット部としてはこれが割と普通で、声は怒鳴り声でもちゃんと練習している。

しかも月末から始まる国体に部員が参加する予定になっており、練習は加熱するばかり。

そんな中、2学期になっても引退せずに残留していた3年生である三井寿はこの日、試合経験のない1年生を指導していた。少々規格外の1年生が2名ほどいるおかげで戦力にはならない状態が続いているが、ずっとそのままでいいわけではない。本人たちも意欲はある。

「じゃあ三井さんは推薦が決まったら、引退しても時間あるんですよね」
「まあ、そうだな。教習所とかそういうのはあるけど……
「じゃあ引退してもご指導お願いします!!!」
「え」

どうあがいても年末で引退な三井だが、その推薦は別に確定事項ではないし、国体や冬の大会でその足がかりを掴めなければ進路不確定のまま年を越すことになってしまう。それは大変よろしくないので、揃って頭を下げる1年生に苦笑いしか返せるものがなかった。

一応進路に関しては監督が相談に乗ると言ってくれたが、今のところ続報はなし、三井本人もぼんやりとした不安を抱え続けているが、彼の親も気が気でない日々を過ごしている。受験では到底間に合いそうもないので余計に。

それに、懸命に練習に取り組む1年生を見ていると、かつての自分を思い出して少しだけ胸が痛む。小学生中学生、オレもこんな風に毎日一生懸命練習してたなあ。

なので余計に怪我が元でグレて浪費してしまった2年という時間には後悔があるし、取り戻せない時間があることは長く尾を引きずる傷になるような気がしている。自分で望んでグレていたのだし、ヤンキー堕ちしていた時期の全てを憎んでいるわけではないのだが、あの2年間があれば、と思ってしまってはため息をついてきた。

自分の腕には自信もあるし、プレイヤー、選手としての素質や適性は信じているが、それだけでは未来は見通すことが出来なくて、自身への強い信頼はあっても、いつも足元はゆらゆらと揺れていた。だからこそ失ってしまった2年間が惜しかった。もう1年でいい、1年時間があれば立て直せるのに。

取り戻せない時間を思う時にはいつも15歳の自分も思い出す。あの頃の三井の足元は揺れるどころか、安定した道がいくつも広く長く伸びていて、どこでも好きな道を選ぶことが出来た。道はどれも明るく照らされていて、きれいに掃き清められていて、先を行く人々が案内をしてくれる。

だが、今の三井の目の前に広がっているのは、濃い霧に覆われて途切れ、先が見えない薄暗い道でしかなかった。案内してくれる人もいない。先に進みたくとも、道がない。

新たに部長に就任した後輩の怒鳴り声を背中に聞きながら、三井はこっそりため息をついた。目の前にいる1年生にはまだ2年時間があると思うと、それを羨ましく感じてしまったからだ。そんな感情を持ってしまったこと自体が不愉快だ。いつまでもそんなことでグズグズと。

すると、1年生がひとり、少し肩を落として怒鳴り声ばかりのコートに顔を向けた。

……僕らも、頑張ればあの中に、入れますよね」

彼らと同じ1年生だった時、三井は既に「特別枠」の中にいた。こんな風に不安と羨望と希望を一緒に抱えてコートを見つめたことはなかった。だから彼らの気持ちは分かるようで理解できない気がした。

「何言ってるんだ。入ってもらわなきゃ困るだろ」
「で、ですよね」

期待の現れと受け取ったか、彼は少し照れたような顔で笑った。と、その時である。もうずっと怒鳴ってばかりのコートの方から、現在部内で1番体の大きな1年生が飛んできた。比喩ではなくて、本当に弾き飛ばされてコートから飛び出してきた。

コートに背を向けていた三井はまるで気付かず、まともに体当たりを食らった彼も吹き飛んだ。しかも体育館のドアは全開、近くに立っていた三井はそのまま外へと転がり落ちた。

1年生の声と、女子マネージャーの声が響く中、三井は何も考えられないまま意識を失った。

「誰だって?」
さん。さん、3年生」
「オレは知らないけど……
「アタシだって名前と顔を知ってるくらいで、面識はないわよ」

1時間後、保健室の片隅でバスケット部の現部長とマネージャーは腕組みで難しい顔をしていた。

「3年生ならダンナに……
「もう帰ってるでしょ」
「だったらそのナントカって人もいないんじゃないの」
「誰か連絡取れないかしら。1番話が早そうなのに」

体育館から弾き出された三井は、この年の春にも喧嘩が原因で意識を失っていた。当時は一応脳に問題が見られなかったのだが、頭部の「2度目」は死に直結する看過できない事態なので、部員たちは一瞬で全員が青ざめた。だが、その意識を失った三井はほんの数秒で目を覚まし、むくりと起き上がった。

慌てて駆け寄ったマネージャーふたりが様子を確認したのだが、頭に痛みはなくて、ぶつけた感じもしないという。なのでホッと胸を撫で下ろしたのだが、地面にあぐらでぼんやりしている三井はとんでもないことを言い出した。

「お姉さん、誰?」

最初こそ笑ったマネージャーふたりだったが、よく考えると三井はこんな時にこんなつまらない冗談を言う人物ではない。また青ざめたふたりは恐る恐る、「名前と、学校と学年言える?」と聞いた。

返ってきた答えは「三井寿、武石中学、3年」だった。

そんなわけで三井は保健室に担ぎ込まれたのだが、本人が「自分は15歳で中学3年生」だと言い張っている他は異常も見られず、しかし保護者に連絡を取ろうにも平日の16時台ということで確認が遅れていた。なのでマネージャーは三井と同じ中学だったという3年生の女子と連絡が取れないかと考えていた。

「幼馴染ってやつ?」
「その辺はなんとも……ただ、中学が同じで、1年の頃はかなり親しかったらしいの」

三井寿は高校入学以降に3度、その「キャラクター」を激変させてきた。しかしその殆どの時間が「ヤンキー」であり、今の「元ヤンバスケ部員」はまだ4ヶ月目、1年生の頃の「期待の新人MVP」に至ってはほんの1ヶ月程度、プライベートを含め彼自身のことをよく知る人物は少ない。

「どういう関係なのかは知らないけど、でもそういう人だったんなら、どんな先輩でも狼狽えたりしないと思うし、15歳の先輩もよく知ってるだろうし。確か三井さんとこはご両親とも仕事が遅いって言ってた気がするし、私たちがいつまでもくっついてるよりいいと思うのよね」

するとマネージャーの手の中の携帯が震え、彼女は廊下に出た。部長もついていく。

「やった! さんに連絡取れたみたい」
「誰か中継してくれたの?」
さんの話を聞いたの木暮さんだった気がして、聞いてみたの」
「来てくれるって?」
「えーと、うん、今向かってるって」

妙な異変が起こってしまった先輩を気遣う気持ちがないわけではないのだが、こんな特殊な状態では手に負えないし、もうひとりのマネージャーに動揺の残る体育館を丸投げしてしまったので、そっちも心配だ。三井をよく知る先輩が来てくれるなら助かる。

それでも一応ふたりは先輩の到着を待ち、10分ほどでそれらしき女子がやってくるとやっと安堵に長く息を吐いた。急いで駆けつけてくれたのか、という先輩はずいぶん息が上がっていた。

さん、ですよね」
「ええと、確かマネージャーさんと、新しい部長くん」
「急にお呼び立てしてすみません」
「木暮の説明よく分からなかったんだけど、寿は無事なの?」
「無事は無事なんですけど……それが……

マネージャーからの説明を受けると、は意味のわからないギャグを目の前で披露されたような、笑う理由もないし笑いたくもないけど笑った方がいいのかな……という顔をしていた。無理もない。

「中学が同じだったとお聞きしたことがあったので、先輩なら覚えてるかも、と」
「そんなこと本当にあるの……
「ひとまず話してみてもらえませんか」

ふたりに促されたが怖々保健室に足を踏み入れた瞬間、長椅子に足を投げ出して座っていた三井は「!」と声を上げた。心なしか表情も明るい。

「よかった、知ってるやついたよ。ここどこ? オレなんでここにいるのか知ってる?」
「えっ、えーと、ここに来たことは、覚えてない、の?」
「いやよく分かんねえけど……て、、お前なんか変じゃね?」

また三井の表情が曇る。よく見ればは見慣れない制服を着ているし、中学3年生のはずの女の子は高校3年生の姿をしているので違和感もあるだろう。

「あのさ寿、今、中3なの?」
「そりゃそうだろ。お前だって中3じゃん」
「それがさ、私たち今、高3のはずなんだよね」
「はあ? お前大丈夫か? 頭打った?」

それは君なのでは……という言葉をぐっと我慢して飲み込んだは、後ろを振り返ると、現部長とマネージャーに頷いてみせた。

「じゃあ寿の親に連絡つくまで私が預かるね」
「よろしくお願いします」

ホッとした表情で出ていくふたりを見送ったは、養護の先生とも話して、ひとまず三井の親が引き取りに来るまで付き添っていることになった。何しろ三井本人は中学3年生だと主張しているし、そんな彼がせめて認識できるのがしかいなかったからだ。彼にとっては以外の全員が見ず知らずの他人であり、見たこともない学校にいるわけだ。

「オレが高3て意味分かんねえんだけど、何、オレがおかしいの?」
「おかしいってわけじゃないよ、まあ、そういうこともあるんだなって話で」
「余計わかんねえんだけど。じゃあオレは今、18歳ってこと?」
「そう。誕生日過ぎてるし、18歳。高校生」
「今えーと、9月……じゃあインターハイ優勝したか!?」
「え」

長椅子に並んで腰掛けていたは三井のキラキラした目にすくみ上がった。なんて答えればいいんだこれ。これが記憶の混乱とかそういうものの類なら、三井の頭の中には実際のインターハイの記憶が存在しているわけだが、あくまでも15歳までの記憶しか持たない彼に真実を告げていいものなのかどうか。首筋に伝う汗は暑いからではなくて、冷や汗だった。

「ええと、それは、ほら、未来のことは知らない方が、いいんじゃないかな」
「それってタイムマシンを使った時の話だろ」
「だとしても、寿の頭の中にはちゃんとその記憶があるわけだし」
「だから思い出せないだけ的なことなんだろ。教えてくれれば戻るかもしれないぞ」
「そんな簡単に戻ればいいけど、戻らなかったらどうすんの」
「てかなに、インターハイ優勝したかどうか、言えない結果ってことかよ。あーあ」

はハーッと息を吐いて髪をかきあげた。現在18歳の三井は普段であれば割と落ち着いた高校3年生になっている。部活では後輩たちと楽しそうにはしゃいでいることもあるけれど、それを離れればヤンキー時代を忘れそうになるほど静かな人物になってしまっている。

だが、15歳、中学3年生の三井寿は厄介だ。

校内では押しも押されもしない人気者、バスケット部の絶対的リーダーでありエースであり、快活な性格で男女の別なく生徒たちから慕われ、ちょっと勉強は苦手だけど努力は怠らず、その上ルックスまで良いという人物だった。

だから、が「インターハイの優勝」について言葉を濁すのは言えないような結果だったからなのかと、あっさりと気付く。三井はそういう15歳だった。知っていたはずなのに、もう3年も前のことだから忘れてたよ……は肩を落とした。

「あのね、じゃあ今私が『優勝してない』と言うとするでしょ。そしたら君はショックを受けて、記憶を戻せなくなっちゃうかもしれない。逆に『優勝したよ』って言うとする。そしたら記憶が戻った時に私に嘘をつかれたって思うじゃん。どっちもつらいの。それくらいわかれ!」

頭の中は15歳なのかもしれないが、外見はいつもの18歳なのでついは語気を強めた。最近、部活外では静かにしていることが多い三井が子供っぽい表情と仕草で活き活きと話しているのも無性に心に刺さる。この3年間、にも色々なことがあった。

だが、三井が本当に厄介なのは、ここからだ。

「まあ、そうだよな。お前は医者じゃないんだし、悪かったよ。ごめんな」

優しげな表情で微笑んだ彼は、言いながらの頭を撫でた。

「てか、お前ちっちゃくなったな。オレが大きくなってるのか? 身長いくつだろ」

は「測ってくれば……」と身長計を指差すと、ぴょんと飛び跳ねる三井の背中を見送りながらがっくりと姿勢を崩し、制服の胸元をギュッと掴んだ。

寿の、18歳の外見に、15歳の中身は、やばい。

中学の頃の三井、それを嫌っていた生徒がいるとしたら、同様に校内では目立つ存在でありながら三井のせいでトップに立てないような男子くらいしかいなかったはずだ。それくらい三井はみんなに好かれ、慕われ、本人もそれに相応しい人物だった。

かと思えば、現在18歳の三井はグレていた頃の影をほんの少し残した見栄えのする青年に育っており、それが合わさった状態で頭を撫でられたは心臓が飛び出しそうだった。

身長を測っていた三井は184センチでは足りないと文句を言いつつ、またの隣に腰を下ろすと、今度はいたずらっぽい目つきで顔を寄せて声を潜めた。

「でもさ、これだけは教えてよ」
「な、なにを」

距離が近くなったのでつい身を引いたに、三井は遠慮せず首を伸ばしてくる。

「彼女は? オレ彼女いないの? 18歳ならもう童貞じゃないよな?」

今度こそはがっくりと頭を落としてため息をついた。15歳の男子か……

そこに養護の先生が戻ってきたので三井は離れてくれたが、はこめかみのあたりがズキズキと痛み始めた。こいつ本当に元に戻れるのかな。早く元に戻ってもらわないと、私こんなのにいつまでも付き合ってられないんだけど。しんどすぎる。

それに、言えるわけないでしょ、今彼女いないって。

じゃなんでいないのって、この3年の間に私と2回付き合って2回別れたからだなんて、言えるわけないでしょ! ていうかお前は童貞のはずだ! なぜなら去年3回目の失敗で結局完遂出来てない!

なんてことを、この子に言えるわけがないじゃん!!!