ノエル

01

特に彼の場合、双子の弟とは片時も離れたことがなかったので、寂しいを通り越して体調すら崩しがちだった。ひとり暮らしも東京も仕事も初めてで、だけどいつでも頼りになった弟はいない。

高校を卒業後、軽音楽部でバンドを組んでいた弟とその仲間、北島と山田は3人揃って専門学校に入学してしまった。いくら音楽業界だからとて、さっさと就職の道を選んでしまったことを西村は1ヶ月ばかり後悔していた。

自分でも自覚があるくらい、彼は顔もよく愛想もよく人付き合いは得意で、高3の1年間は見栄えのする部活であることも手伝って、大変なモテようであった。だが、高1の時にひとりの少女に恋をしてしまって、また律儀にもそれを貫いてしまい、とんだハイスペックなのに高校3年間彼女なしという結果に終わった。

後悔は募る。

しかも高3の秋には片思いの相手と共に後夜祭のステージに立つというチャンスが巡って来たにも関わらず、片思い相手には相思相愛の幼馴染がいたのだということを目の前で見せ付けられる羽目になった。

後悔というか、もうバカバカしくなって、いっぺんに気力を失った。

確かに好きだった。見た目も可愛いし、性格も好みだった。何をやっても器用にこなして友達にも好かれてる、完璧な女の子に思えた。だけどこんなことになるなら、告白してきた何人もの女の子の中の誰かひとりくらい、付き合っておけばよかった。

男子校から専門に進学した仲間3人は学校やバイト先で早々に彼女が出来たというが、自分は就職してしまい、職場には基本的におじさんしかいないという劣悪な環境であった。夢は夢として今もブレずに持っているけれど、急激な環境の変化と共に、彼は孤独に苛まれていた。

「チバさん、チバさんて奥さんとどこで知り合ったんすか」

彼の師匠となったのは父親の知り合いでもある千葉というドラマーだった。今のところ、西村はこの千葉さんのローディとなっている。千葉さんはほぼ専業でサポートメンバー、バックバンドをやっている人で、プライベートでは奥さんとふたりの子供がいる。

「はあ? なんだいきなり」
「昨日親から電話来て、いとこだかはとこだかが結婚するっていうんで」
「うちのは幼馴染だよ。幼稚園から一緒」

一番聞きたくない答えが返ってきた。西村はドラムセットの傍らでこっそりため息をついた。

「ははーん、お前、彼女欲しくなったんだろう」
「そりゃそうっすよ。でもどこにも女の子がいない」
「この間までは客席にも女の子はいなかったもんなあ」

春に就職してすぐ西村はとある俳優のコンサートツアーに同行することになった。俳優は既に40代後半、昔のヒット曲を歌う間に新譜を挟む程度の全国13箇所のツアーだったが、ツアースタッフにも客席にも同世代の女の子はいなかった。その上、西村はまだ18歳なので、どんなに年が近いスタッフでも20代後半という状態。

「よかったじゃないか、今日やっと女の子だ」
「バカ言わないでくださいよ。対象外です」

むくれる西村に、千葉さんはにやにやと笑った。

ツアーが終わって1ヶ月、千葉さんは今度は新人の女性シンガーのプロジェクトに参加することになった。アイドル路線ではなく歌唱力の高さを前面に出し、最初から大掛かりなプロモーションを仕掛けずに育てるプロジェクトだということだ。秋に都内でデビューライヴ予定。今日は顔合わせ兼リハーサルというわけだ。

「まあ確かにこれから売り出していこうっていう女の子がお手つきじゃ――っていう時代じゃないだろ、もう」
「そういう問題じゃないと思いますけど」
「だいたい、このプロジェクトのターゲットは女の子だ。彼氏がいて怒るような客は求めてない」

そのせいもあって、このプロジェクトでは少々ハードめな曲をラインナップしている。歌詞も少し攻撃的、男の子に媚びるような表現は使用せず、女の子のアグレッシヴさをかき立てるようなものになっている。正直言って、男の子である西村は興味を引かれなかった。プロデューサーの手腕は見事だ。

「資料写真見た限りじゃ相当可愛い子だったけどなあ。見てないの?」
「見てませんよ。てか、それって逆効果なんじゃないですか」
「そんなこともないよ。同じ美人でも同性に好かれる美人とそうでないのがいるから」

千葉さんの言葉に西村はアナソフィア女子たちを思い出す。とにかく見栄えがすると言ったら、に岡崎に緒方、そして川瀬と古川。中でも一番男好きしそうなのは演劇部の看板女優だった古川だが、その分女性にはあまり好かれそうではなかった。緒方はその逆。男にも好まれるだろうが、女子人気がハンパなかった。

どちらにも均等に人気があったのはに岡崎だ。このふたりは性格も癖がなくてとにかく誰にでも好かれた。川瀬はそれにはやや劣るが、お人形さんのような美少女だった割には女子好きされそうな顔をしていた。

「じゃあこの子は女の子に好かれるタイプだってことですか」
「桐明さんはそう判断したんじゃないか」

桐明さんはプロデューサーだ。西村は千葉さんのバッグに貼られたこのプロジェクトのステッカーにちらりと視線を落とす。濃い灰色に暗い赤のグランジフォントが何とも強気だ。そこには「Noel」とある。

「じゃあやっぱり対象外じゃないですか」
「顔がいいやつは贅沢だなほんとに」

西村はまたため息をついて、千葉さんの後ろの椅子にどさりと腰を落とした。

この音楽不況のご時世に女の子相手に女の子を売り出すという危なっかしいプロジェクトには、何も興味を引かれなかった。やる気もどんどん減っていく。千葉さんのローディーをしているのは何も苦ではないのだが、とにかく心が削り取られていくみたいで、思い出すのはのことばかり。

金色に輝くの背中を見ながら無心でドラムを叩いたあの数十分間の記憶があまりにも色鮮やかで、その分今見えている世界がどんよりと曇っている。ダンス部と合唱部が入らなかった1曲は今でも宝物のように思っている。揺れる金髪のウィッグがちらついては、余計に切なくなる。

さん、なんであんなのと付き合ってんだよ。あれだったら藤真先輩の方がまだマシだろ。なんでみんな幼馴染を好きになるんだよ、幼馴染のいないオレらはどうすりゃいいってんだよ。なんでオレじゃだめだったんだよ。もうひとつ同じ顔があるから? そんなの大したことじゃないのに。

西村は黙って携帯を操作しながら目一杯不貞腐れた。の彼氏は見るからに人のよさそうな、穏やかな好青年に見えた。携帯の画面に後夜祭の時のの写真を表示する。濃いメイクを施してなお、輝くような美しさだ。けばけばしさは微塵も感じない。

悪天候でプロジェクトの主役が遅れているとかで、スタジオはだらだらし始めている。西村はそんなことを話している千葉さんとベースの佐野さんの会話をなんとなく聞きつつ、の画像をじっと眺めた。このプロジェクト、その中心である「Noel」、それが君だったらいいのに――

きっとどんな女の子が来ても、には適わない気がした。

「大変遅くなりました、ノエルさん到着です」

西村が不貞腐れ始めて20分ほどした頃、このプロジェクトを進めている事務所のスタッフがそう言いながらスタジオに入ってきた。一介のローディーである西村は一応立ち上がると、千葉さんの後ろに立ち、ペットボトルの水を流し込む。気に入らないが、これも仕事だ。

「お待たせして申し訳ありません。本日はよろしくお願いいたします」

そう言いながら「ノエル」が入ってきた。ぺこりと頭を下げ、また顔を上げる。その瞬間、西村は口に含んでいた水を千葉さんの背中に向かって勢いよく吹き出した。飛び上がって悲鳴を上げる千葉さん、それと同時に大声を上げて西村を指差す「ノエル」。

「西村くん!?」
「川瀬さん!?」

プロジェクト「Noel」、その主人公は18歳の現役大学生、川瀬ノエル、その人であった。

「はあ、学校同士がねえ」
「あの、オレ、これ外されるんですかね」
「別にローディーひとり外したってなあ。今すぐツアー出るわけでもないし」

西村から川瀬との関係を聞かされた千葉さんはぽかんとしている。そもそもは大物ミュージャンの隠し子である西村を預かっただけの千葉さんは、アナソフィアだの翔陽だのなんていう話をされてしまうとよくわからなくなってしまった。だからなんだという気がする。知り合いならそれはそれでいいじゃないか。

そこへ当の川瀬が小走りでやってきた。スタジオのラウンジである。

「千葉さん、お疲れ様です。西村くんも」
「おー、ノエルちゃんお疲れ。君、本当に歌うまいねえ」
「いえいえ、まだまだです」

真っ黒なストレートヘアの川瀬は真っ白い肌をしていて、パンク風のファッションが映える。濃い目のチークと口紅が色気をまったく演出していないという奇跡のような仕上がりだ。しかも「ノエル」は本名だった。祖母がフランス人だという。その孫が日本人形みたいになるのが不思議だった。

「こいつと一緒にバンドやったことあるんだって?」
「というほどのものでもないんですけどね。私はコーラスだったので」
「メイン張れる子がコーラスって、目立ちたがりでもいたの?」
「いいえ、私よりよっぽどすごい子がいたんですよ。ね、西村くん」

急に話を振られた西村は丸めていた背中を伸ばす。

「元々はその子と西村くんたちだけのステージにするはずだったのにね。あんなに増えちゃって」
「全部で16人だったか」
「西村くん、ノエルがだったらよかったのにと思ったでしょう」

川瀬は楽しそうな笑顔で西村の心情を言い当ててしまい、それが図星だったことが顔に出た西村は千葉さんにパチンと背中を叩かれた。プロジェクトである以上は川瀬がメイン、西村はスタッフの中でもさらに下っ端、そんなことを顔に出してはならない。

「でも本当にすごい子だったんですよ、千葉さん。私もそのせいでずっと話を断ってきたので」

大学に進学した途端にこのプロジェクトへの誘いを受けた川瀬は、という妙な器用貧乏の存在があったが故に「自分などメインにはならない」という意識ばかりが先立って、イエスともノーとも言えないまま決断を保留してきたという。

「だけど、歌がお仕事になるっていうのはまさに夢のような話で」

川瀬は迷いまくった。幸い家族は本人の判断を優先していいという結論に至っており、自宅から私大に通っている身の川瀬は、夏休みに入るまで延々と悩み続けた。だが、テスト明けの頃にを見かけたのだという。

「例のあの彼氏と歩いてたの。それで思い出したんだけど、って異常なほどのハイスペックでしょう? でもあの子の夢ってあの彼氏のお嫁さんなの。幼稚園の頃からそう決めてたって今でも真剣にそう考えてたの」

千葉さんは面白そうに聞いているが、あまり穿り返されたくない話で、西村はつい顔を逸らす。

「だけど、私の夢は少なくとも誰かのお嫁さんじゃなかった。それでやってみようって気になって」
「いい決断だったねえ。まあ、いるよな、性能がよすぎる人に限って生き様は地味、っていうのが」
「仰る通りの子なんです。何もしなくても目立って派手だから、地味で充分だったのかも」

川瀬の言っていることはよくわかる。は確かにハイスペックで魅力溢れる人物だが、その反面何に対しても興味がなさそうに見えた。きっと彼女の興味は全てあのメガネの彼氏に向けられていたのだろう。それをいつまでもだらだらと引き摺っている自分の方が情けないことくらいは、西村もわかっている。

「素材としては劣るかもしれないけど、その分私はもっと成長できるだろうと思って」

生まれつきハイスペックのはもうそれ以上を望まないだろう。彼氏と結婚して子供を設けられればそれで充分幸せなのだ。だが、川瀬の言うように、自分を含めた殆どの同世代たちはもっと飛躍したいと望んでいるはずだ。成人前後で人生を決してしまうのなんて面白くない。

西村は川瀬の言葉に、自分との道が交わらなかった理由を見た気がした。

秋にファーストライヴを行ったプロジェクト「Noel」だったが、当の川瀬が地元でブランド化を起こしている女子校出身だということを計算に入れていなかった。どれだけ詰め込んでも500人が精一杯という規模のライヴハウスは満杯、しかし半数以上が高校時代の川瀬と面識があるという内輪受け状態になってしまった。

だが、その内輪受けも9割方女性客であり、一緒に合唱部を過ごした後輩と思しき女の子も含め、川瀬が女性受けすることの証明にはなった。現時点ではほとんどプロモーションに予算をかけていないので、これが口コミに転ずればまあ、内輪受けも致し方ない。

ただし、川瀬本人にはオンとオフの線引きをはっきりさせて、ライヴハウスを埋め尽くした客と馴れ合うようなことがないよう厳しく言い渡された。身内客というのは熱狂的になれば迷惑だし、そうでなければ気紛れでサポーターとしては弱い。その上、気を付けないと関係者待遇を求められるので油断はできない。

シンガーとしての一歩を踏み出した川瀬だったが、本業は学生である。現在の事務所と契約の際も学業を妨げないことが第一という条件で交わされたので、川瀬は急に多忙になった。ライヴの後はしばしレコーディング、来春からマンスリーライヴという予定になっているが、学生と2足の草鞋では時間がいくらあっても足りない。

一方で、顔見知りの同年代が職場に現れた西村はすっかり不安定さが取れてしまい、専門学生生活にも慣れた弟や仲間と会って遊ぶ機会も取れるようになってきた。弟たちもあの川瀬がデビューということに驚き、ならわかるけどと言うので、西村はつい笑ってしまった。川瀬はあんなに美しいのに、まるで男受けしない。

プロデューサーの桐明は自身もバンド出身なので生音にこだわりがあるらしく、そのため千葉さんがレコーディングにも参加しているので、都合西村もスタジオ通いが続いていた。だから時間に余裕があるとも言える。毎日ある程度は決まった時間に出勤して、夜はちゃんと自宅に帰っていた。

「西村くん、顔変わったね」
「え、そうかな」
「リハ初日なんか今にも死にそうな顔してたのに、最近ツヤツヤしてるよ」

そういう川瀬は顔色が悪い。疲れているのだ。

「ライヴは残念だったねぇ、一応にも連絡したんだけど」
「その話引っ張るのやめてくれる」
「私だってに見てもらいたかったんだもん。に褒めて欲しかった」

その川瀬の言葉に西村は後頭部を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。それだ。それが欲しかったんだ。

未だに残るへの執着への正体が見えた。そう、には後夜祭のステージの後、一切の賛辞はもらえなかった。最後の曲に勝手にアレンジを加えたので、それを粋なことしたねと言われただけで、他には何も。ちょっとしたトラブルがあったせいもあるが、それでも褒めてはもらえなかった。

川瀬の言う、に褒めてもらいたかったという気持ちがよくわかる。

「あれだけ何でも上手に出来るくせに、お嫁さんなんて道を選んだに一言、すごいって言わせたかった」
……なんか、わかるなそれ」
「でしょ。なのにどころか岡崎ちゃんも緒方も来てくれなかった」

その3人が特に川瀬に冷たいわけではなかったのだし、それぞれに事情があってのことだっただろうが、見た目も美しく歌だって破格に上手い川瀬ですら劣等感を抱くのがに岡崎に緒方だ。というかおしとやかな深窓のご令嬢に見えていた川瀬は、心の中にこれだけの闘争心を持っていた。

「川瀬がそんな風に思ってることも、知らないだろうからな」
「だからって、まんま知られるのは恥ずかしいけどね」
「いるんだよな、ああいうの」

まったくジャンル違いながら西村は藤真を思い出す。総合点で言えば劣るところなどないはずなのに、なぜか自分は藤真には勝てないという刷り込みがある。後夜祭に侵入する手伝いをさせられたが、特に礼もなかった。それに対して憤慨する気持ちも起こらなかった。どんだけ負け犬だよと思うが、無意識なのでどうにもならない。

レコーディングスタジオのラウンジで、西村と川瀬は揃ってため息をついた。なんで自分たちはこんなにもに縛られたままなんだろう。もうは近くにいないのに。どこかで学生をしながら、彼氏と結婚することだけを夢見ている志の低い人間なのに。

もっと高く羽ばたきたい自分たちがなぜ、その足枷を振りほどけないんだろう。