ノエル

02

年の瀬も押し迫った12月27日、プロジェクト「Noel」でも忘年会をすることになった。メインが未成年だがそこはあまり気にしていないようだ。プロデューサーが懇意にしているという店での席だったが、これはほぼプロジェクトを動かしている大人たちの忘年会であり、西村と川瀬は店の端っこで黙々と鍋を突っついていた。

「お前がメインなのに、いいのかよこんなんで」
「まーほら、私は商品だから。売り物にお疲れ様と言うには稼ぎがないよ」
「まったくとんだアナソフィア女子だよな」

この数ヶ月で、川瀬から物静かなアナソフィア合唱部の部長というイメージは跡形もなく消え去った。川瀬は何より歌うことが好きで、多くを語らないだけで内面には強烈な闘争心と向上心を持ち、多忙を極める中でも安定したメンタルを維持できる強い人間であった。

「ほとんどの翔陽くんがそうだろうけど、アナソフィア女子に抱くイメージなんか全部幻想だよ」
「出来れば在校生の時に知りたかったね」
「ふたりともなんだよ、鍋おいしくないか?」

西村と川瀬が地元話でぶつぶつ言っている所に千葉さんが乱入してきた。だいぶ酒も進んでいるようだが、千葉さんは面倒見がいいので、あまり参加できていない10代ふたりを気遣って顔を出してくれたのだろう。

「おいしいですよ? 千葉さん、顔真っ赤~!」
「タダ酒だからねー飲まなきゃ損だからねー」
「千葉さんなるべくチャンポンにしないようにして下さいね。奥さんに怒られるのオレなんで」
「だからお前は今日は22時で帰りなさい」
「えっ、大丈夫なんですか」

酒をチャンポンにすると余計に二日酔いがひどい千葉さんを自宅まで送り届けるのは西村の役目だが、その度に奥さんに怒られるのも西村の役目だ。なので帰っていいのであればそれに越したことはない。この忘年会も大して面白くないし、それなら弟でも呼び出して飲み直した方がいい。

「この店22時までなんだって。その後は土橋さんとこに行くらしいからね」
「それじゃあ私も帰っていいのかな」
「桐明さんは一応挨拶させるつもりでいるみたいだから、それが済めばいいんじゃない?」

土橋さんは西村の父親の世代の人で、業界では有名な変名使いの作曲家だ。その傍らで大変な酒飲みでもあり、自分の店も持っている。プロデューサーの師匠筋にあたるので川瀬を連れては行くのだろうが、そこで飲ませる気はない場所だ。

とはいえ日付が変わる前に解放されそうなので、ふたりは気が楽になった。疲れてもいるし、いわば上司たちがどっぷりと飲んでいるのに付き合うのは苦痛だ。そうして西村は店じまいと共に夜の街へ出た。年末の冷たい空気が鍋で温まった頬に気持ちいい。

浮ついた年末の街の空気に気分が良くなって、弟を呼び出そうとしたら彼女と一緒だった。バンド仲間だった北島と山田は、方やバイト方や実家に帰っていた。浮ついた気持ちが一気にぺしゃんこになった西村は薄暗いカフェにのろのろと入ると、ソファ席に崩れ落ちた。

急に面白くなくなった。でも、それが少し面白い。大抵の同世代たちが学生や地味な仕事を頑張っている中、自分は音楽業界の忘年会を終えて都心のカフェでコーヒーなど片手に黄昏ている。この面白くない薄暗い世界の片隅にいる自分がたまらなく愛しくなる。

そんな西村の視線の先で、携帯が音を立てた。ちらりと覗き込むと、川瀬からの着信だった。

「どうした?」
「もう帰った?」
「いや、弟に振られてへこんでた」
「いまどこ?」

西村が場所を告げると、川瀬は今から来るという。何事だ。

「どうせ誰もつかまらなくて寂しくなってるんでしょ。付き合いなよ」
「何に?」
「忘年会の仕切りなおし」

そう言うと通話は一方的に切れた。そして15分ほどで川瀬が現れた。薄暗い店内で見ても作り物のような黒髪に派手な赤いチェックのコートが目に痛い。「ノエル」になってからの川瀬はどんどん攻撃的になってきている。もうアナソフィアの制服は似合いそうもない。

……珍しいな、なんか怒ってる?」
「まあね。偉そうなおっさんに体触られて嫌味言われてきたから」
「え、まさか土橋さんに?」

川瀬が頷く。親の関係で昔の土橋さんを知る西村は少し疑問を感じたが、時が過ぎれば人は変わりもしよう。それが良い変化だけで済めば誰も苦労はしない。川瀬には気の毒だが、土橋さんたちから見れば生意気な小娘というくらいが関の山だ。

「キリさんも誰も助けてくれなかった。商品かもしれないけど私はキャバ嬢じゃない」

一気に飲み干したアイスティーのカップを川瀬は握り潰した。川瀬の主張はもっともなのだが、西村はなぜだかそんな川瀬に少し苛立ちを覚えて、ついにたりと笑った。

「プライド高いんだな」
「そういう問題? アイドルにさせるつもりなら、話が違う。私は歌いたいだけで――
「オレだってドラム叩きたかっただけだよ。だけど、高校生の時の方が練習してた」

業界の中に入るのを急がずに、弟たちのように専門に行けばよかったのかもしれない。それは就職して1週間で得た後悔だった。お前だけが期待はずれじゃないんだと言いたくて口を出した西村だったが、川瀬もにたりと笑うと真っ赤な爪を突き出して指を差す。

「一緒にしないでくれる? 私はメインボーカル、西村くんはローディー、そんなの当たり前でしょ」

西村は答えに詰まって口を閉ざした。そうだった。これでも川瀬はプロジェクトの中心で顔で商品そのもの。だけど自分はスタッフのスタッフみたいなもので、例えばツアーパンフのクレジットでも後半に一まとめにされて名前が載ればいい方というくらいの立場だ。

……帰るか。こんな年末になってまで喧嘩したくないんだよ」
「喧嘩、っていうの、これ」

川瀬に構わず席を立った西村だったが、川瀬も黙って着いてきた。年末の街は日付が変わりそうな時間になってなお沸き返っている。喧騒の中で仏頂面のふたりはなんとなく駅の方に歩きながら、白い息を吐いていた。

「うまくいかないよな、本当に。オレもお前も自分に自信があるから余計につらい」
「また一緒にされた」
「違うの? オレもお前も自分が大好きで、になりたい者同士だ」

誰からも愛されて誰からも頼りにされて、何をやっても誰よりも上手く出来る、のようになりたい。プロジェクトやバンドなんていう狭い世界じゃなくて、もっともっと大きなものの真ん中になりたい。全ての中心でスポットライトを浴びて輝くオンリーワンでスペシャルワンになりたい。

今のところそんな風になれそうもないから、余計に焦がれる。

もう不機嫌そうな顔を隠そうともしない川瀬の手を取ると、西村は駅に続く横断歩道を渡る。細くて今にも折れそうな手だった。冷たくて硬くてアクセサリーのせいで握り心地は最悪。だけど、これは自分の手だと思うと、それだけで悲しくも愛しい可愛い手だった。

「西村くんて、今どこに住んでるの」
「えーとここからだと……

近くの駅から1本で帰れない西村は路線をふたつばかり挙げた。すると川瀬は西村の手を引いて駅を通り過ぎ、タクシー乗り場までやってきた。忘年会帰りのラッシュで乗り場は混雑しているが、続々とタクシーが入ってくる。

「おい、どうし――
「私もう電車ないから、泊めて」
「何言ってんだよ。桐明さんに殺されるよ」
「キリさんはそんなこと気にしないし、誰もこのことは知りようがないけど」
「あのな、女の子のお友達のおうちにお泊りっていうんじゃないんだぞ」
「わかってるけど」

太めに引かれた黒いアイラインと共に、川瀬の真っ黒な瞳が西村を見上げていた。真っ直ぐに西村を睨むその目には、孤独も寂しさも甘えもなかった。それに気付くと、西村は小さく息を吐いて川瀬の体を抱き寄せた。それならそれでいい。どうせ一緒にいてくれる人はいないんだし、この際構うもんか。

タクシーで西村の部屋に帰ってきたふたりは、シャワーも浴びずにベッドに倒れこんだ。高校生の間に彼女が出来なかった西村にとっては初めての女の子ということになるが、感慨などは一切なかった。しかも、川瀬は処女ではなかった。それに気付くと遠慮する気も起こらなかった。

川瀬はきれいな足をしていたが、体はがりがりに痩せていて、胸の上下にはあばらが、腰には骨盤が浮き出ていた。ぴったりした衣装の上からでもわかるの柔らかそうな体が好きだった西村の好みではない。でも、そんなことはもうどうでもよかった。

のこと、考えてるんでしょ」
「うん。一度でいいからあの子とこうなりたかった」

目の前にいて自分の腕に組み敷かれているのが川瀬だというのはわかっている。だけど、頭の中はきらきらと金色に輝くでいっぱいだった。なめらかなくびれに金髪のウィッグが揺れる後姿しか思い出せなかった。

「そっちも違う男のこと考えてるんだろ」
……お互い様ってことか」

元々用意もなかったが、川瀬が多忙すぎるから管理のためにピルを飲んでいるというので、西村はゴムもつけずに何度も川瀬を抱いた。後で思い返しても、川瀬を好きだとか可愛いなどとは欠片も思っていなかった。ただ記憶の中にいるの面影に欲情して、それを川瀬にぶつけただけだった。

川瀬は12月30日になるまで帰ろうとせず、ふたりは昼夜問わずにベッドの中で絡み合っていた。食事もろくに取らず、外にも出ず、セックスしては疲れて眠るの繰り返し。そして12月30日になると、川瀬はスイッチを入れたように起き上がって、西村を気遣うことも礼をいうこともなく、ひとりでさっさと帰った。

弟は彼女と過ごすというが、何も予定のない西村は大晦日に実家に帰り、母親と祖父母と地味に過ごした。

年が明け、プロジェクト「Noel」のファーストアルバムのレコーディングは2月を待たずに終了。今度ばかりは多少のプロモーションをするようだが、春からのマンスリーに向けて、また川瀬は忙しく過ごしている。それをローディーとして遠くから見ている西村は妙に心が落ち着いていて、後悔も不安も孤独も、全部川瀬の中に置いてきてしまったような気持ちになっていた。

専門も1年が終わり卒業後を考え始めた弟や仲間たちに偉そうに話をしてやる余裕も出てきて、少なくとも西村は全ての中心になりたいなどとは思わなくなってきた。仕事とプライベートの線引きも出来るようになってきて、自分でドラムを叩く時間も増やせるようになってきた。改めて、音楽のとりこなのだと再確認していた。

プロジェクト「Noel」は西村が思っていたより好調で、春からのマンスリーもデビューライヴよりは規模が縮小したものの、計6公演全てがソールドアウトした。川瀬本人が管理しているSNSもうまく回っているし、ソロアーティストにつきもののサポートメンバーのファンも増えてきた。千葉さんは楽しそうだ。

そうなるとプロジェクト側もサポートメンバーだけでなくスタッフの露出を厭わなくなってくる。となれば、川瀬と同い年な上に普通にイケメンである西村の出番だ。突然川瀬のプロモーションの中で取り上げられるようになり、結果として彼はおっかけまでついてしまう身になった。

気分は悪くないし、おっかけの中には可愛い子もいたけれど、しかしそこはたかが翔陽でもヒエラルキーのトップに君臨していた経験があるだけに、軽率な真似はしなかった。そういう冷静さが出てきたところで、西村に一応生まれて初めての彼女が出来た。

父親も翔陽もアナソフィアもプロジェクト「Noel」も関係ない、自宅アパート近くの弁当屋でアルバイトをしている1歳年下の学生だった。地方都市出身で進学のために上京、や川瀬に比べたらカラーとモノクロというくらいに地味な子だった。けれど、優しくて可愛くて西村のことを真面目に愛してくれる子だった。

そんな中、ローディーになって2年目、川瀬のマンスリー6回が終わる頃のことだ。思い返せばその傾向はずっと前からあったのだが、どうやら川瀬がプロデューサーの桐明と付き合っているらしいという話が急浮上してきた。西村は驚かなかった。きっと自分に抱かれながら川瀬が考えていたのは彼のことだったのだろう。

プロデューサーとは言っても桐明はまだ30代だし、元々自分のバンドでデビュー経験もあるし、大変ありがちなことだが20代といっても通りそうなくらい若々しくて美形だった。ふたりは噂がひとり歩きし始めると、関係を隠そうともしなくなり、スタジオやファンの目がないところでは思うままイチャついていた。

千葉さんは呆れていて、ちょうど契約更改の時期だから、向こうが色よい待遇を提示してこなければ辞めてもいいと言い出した。だいたい千葉さんはサポートメンバーの中では最年長でバンマスで、メインのファン層の女の子たちからもお父さん的慕われ方をしているに過ぎない。どうしても引き止めたい人材ではない。

もしかしたらプロジェクト「Noel」を離れるかもしれないけどそれでもいいかと千葉さんが聞くので、西村はすぐに頷いた。川瀬とは確かに高校時代に交流があって年も同じだけれど、何も川瀬のサポートをしたくてこの業界に入ったわけじゃない。目的はあくまでドラマーとして仕事が出来るようになりたい、それだけだ。

それに、プロジェクトを離れられるのは少し嬉しかった。もうプロジェクト「Noel」はある程度形が出来上がっていて、川瀬は学業と両立してはいるものの、すっかり「芸能人」然としてきた。きっともう川瀬にもという足枷はないのではないか。にすごいと言われなくても、プロデューサーがいればいいんだろう。

そう考えた西村は、川瀬を気持ち悪いと思ってしまった。離れられるなら、その方がいい。

一気に肩の力が抜けてホッとした西村は、オフの時間は可愛い彼女と過ごし、就職したての頃が嘘のように穏やかに毎日を過ごしていた。そんなある日のこと、朝から丸一日オフの西村は、午後になったら彼女を大学まで迎えに行くことになっていて、それまでの時間潰しに街をぶらついていた。

そこで西村は目の前を通り過ぎた人物に気付くと、慌てて足を止め、次の瞬間には走って追いかけていた。

「あのっ、すみません! ごめんなさい、もしかして、さんの……

の愛しの幼馴染、木暮だった。

西村が名乗ると、木暮はサッと顔を青くして体をふたつに折り曲げて頭を下げた。意味がわからなくて慌てた西村だったが、木暮は後夜祭侵入事件のことを未だに申し訳なく思っているらしかった。木暮も午後から学校だというので、西村はごく自然に彼を誘ってカフェに入った。

もう羨む気持ちなどはないけれど、あのの関心を一手に受けている木暮に興味がわいたのだ。

「本当にあの時は自分もどうかしていたとしか……
「いえもうやめて下さい。どっちにしろ首謀者は藤真さんなんですから」

その藤真を止められなくて、また侵入トリオのうちのひとりはチームメイトだったのに、阻止できなかった上に自分まで乗ってしまって済まなかったと木暮は頭を下げ続けた。今の自分の彼女のような、や藤真に比べたら、カラーとセピアほど差がある、穏やかで優しい人だなと西村は思った。

さんお元気ですか」
「えっ、連絡取ってないの? そうか、いや、全然変わりないよ。いたって元気」

彼女が自分以外の男と連絡を取り合っていないことに驚くというのもおかしな話だと思うが、西村は突っ込まない。幼馴染というだけあって、彼氏彼女恋人という以前にとても近しい存在なのだろうということが伝わってくる。

大学でもバスケットをしているという木暮は、もうそろそろ戦力にならなくなってきて、部の中でどういう立ち位置でいればいいか考えているところだと困った顔をして笑った。そう言われてみると、西村は藤真のその後すら知らなかったことに気付いた。既に仕事をしている彼には学生の世界のことなど知りようがない。

「藤真? まあ、想像通りで合ってると思うよ」
「高校時代と変わらないってことですか」
「うーん、じゃあ、それ以上、かな」
「なるほど、でもそれが藤真さんとしては正しいような気もします」

西村の淡々とした声に木暮は笑う。オーバルのメガネの奥の目は優しくて、柔らかく垂れた前髪と長い腕がそれに輪をかける。バスケットの世界では普通なのかもしれないが、西村よりも背は高いし、改めて見ると地味でも整った人物であった。なるほどな、と西村は心の中で大きく頷いた。

もはやギラギラと強い光を放つ川瀬など少しも魅力を感じないが、今の自分の彼女には胸がときめくし、ずっとそばにいて欲しいと思うし、何しろ飾り気のない素肌がたまらなく心地よい。きっとそれと同じなのだと思った。藤真や自分のようなわかりやすいビビッドな色はないけれど、飽きの来ないアースカラーなのだ。

自分の近況を川瀬の件も含めて話すと、木暮は目を丸くして聞いていた。

「へええ、もうオレみたいな一般人には、芸能界、って感じにしか」
「でもまあ、そんなようなものです。高尚ぶったって、所詮はショウビズなんですから」

西村は口をついて出た言葉に自分で驚いた。遠い昔に父親が言った言葉そのままだったからだ。驚くあまり、西村の意識の中に両親と弟が雪崩れ込んできた。自分たちを妊娠した母を、父は認めなかった。自分の子供ではないと言い張ったそうだ。だが、そっくりな顔がふたつも出てきた。

もちろん父と母は結婚せず、母はシングルマザーになったのだが、子供ふたりがあまりに父親に似ているので、何を恐れたのか、父は養育費として毎月大金を母に振り込み続けた。元はといえば母は父のファンであり、それはふたりを生んだ後も変わらなかったので、西村ツインズは幼い頃から父親の映像を見て育った。

母は父を悪く言うようなことはなかった。むしろ崇拝しているようですらあった。それなのに、双子は思春期に差し掛かると、父親に嫌悪感を抱くようになった。こんな大きな子供がいるのに、テレビで陶酔気味にチャラついたラブソングを歌っているその姿が気持ち悪くなってきたのだ。

しかし、それに反してこの頃になると急に父親が母の元に顔を出すようになり、自分とまったく同じ顔をした息子ふたりにも父親ぶった振る舞いをするようになった。本能なのか、音楽に興味を持ち始めてしまったふたりに楽器を与え、祖父母と母と双子が暮らす家に小さいながらも防音のスタジオを作ってくれた。

父親に恭順するつもりはなかったのだが、音楽をやりたいという欲求には逆らえなくて、兄弟は自宅のスタジオに篭って音の世界に没頭する日々を過ごしていた。

いい年してチャラついた父親、そんな父親がいつか自分を認めてくれるんじゃないかと今でも待っている母親、孫ふたりを認知しなかったくせに金払いのいい父親を無下に出来ない祖父母。兄弟はますます音楽にのめりこんだ。ふたりにとって、父親は父親ではなく、よく言って音楽の師匠でしかない。

ろくでもねえ父親。自分たちの父親のことは今でもそんな風に思っている。それを思い返しながら木暮を見ていると、ああ、この人はきっと優しいお父さんになるんだろうなという気がした。自分にもこんな父親がいたら、と思わずにいられなかった。だからはこの人を選んだのだと、身に染みてわかった。

自分は父のようになりたくない。人としても音楽家としても、なにひとつ敬える要素がない。それならば、今目の前にいる木暮のようになりたい。のようになりたい。それは全ての中心にいたいからじゃない、木暮のような人と手を取り合って生きていく決断が出来る、そういう人間になりたい。

「オレ、高校時代、さんのこと好きでした」

きっと木暮はそんなことを聞かされても揺るがない。西村はその記憶を愛しむように、呟いた。

「藤真さんもそうだし、そういう男、いっぱいいたんじゃないですか」
……うん。オレが知らないだけで、いっぱいいたんだろうね。たぶん、今でも」
「あの、そういうのって、どういう気持ちになるんですか?」

強烈な光を放つという人間のすぐ隣にいて、それを虎視眈々と狙う男たちが山のようにいて、一見して地味に見えるようなあなたは、どんな気がするものなんですか。西村が今は自分にもちゃんと彼女がいますと付け足すと、木暮はまた優しく微笑んだ。

「まだ歩けない頃から一緒なもんで、他の誰と比べても立場が同等じゃないんだ。だから、勝つとか負けるとか選ぶ選ばないとか、そういう意識はなかったんだ。ただオレとがどういう選択をするかで、その他のことは全部騒がしい外野だっていう意識しかなくて」

木暮はマグを両手で包んで、目を細めた。

「だから、正直言って相手が藤真でも嫉妬なんかしなかったよ。だけど、あの後夜祭に侵入したうちのひとりが、同じ湘北のチームメイトだったんだ。やっぱりのことが好きで、それも、横取りしてやろうとかそういうんじゃなくて、真剣に好きで、それがわかった時は本当に後悔したんだ。オレは甘かったって」

西村は藤真を含めた侵入トリオの顔を記憶の中から引っ張り出す。ロン毛のやかましいのではないだろう。とすれば、少々目つきの悪い方か。顔はいいがガラが悪いといった感じで、西村はあまり関わりあいになりたくないと思ったことを思い出した。

「だらだらと迷ってる暇はないと思って、それでプロポーズしたんだ」
「へえ、そうなんで――は!? もうですか!?」
「もうっていうか、3年前になるけど」
「3年前!?」

西村は開いた口を手で無理矢理閉じた。3年前といえば自分たちが高校2年生の時だ。例の後夜祭の前年に当たる。つまり西村も藤真も、当人同士の口約束とはいえ、婚約中のに懸想してあれだけのことをしでかしたというわけだ。なんてバカバカしい。というか何で言わないんだよさん!

「てことは木暮さん高3ですよね? よかったんですか、そんなに早く決めちゃって……
「それはそうなんだけど、逆なんだ。お互いがいなくなってしまうってことがもう、耐えられなくなってて」

誰か他の人でなくてもいいのかというより、木暮にはが、には木暮が、それぞれ生きていくのに欠くべからざる第一要素になってしまっていて、それを失うことが出来なくなってしまっていた。

「付き合うっていうことになったのはその頃くらいからなんだけど、その時点で17年、それだけ一緒にいたから、ひとり暮らしするのだって、親よりもがいないのが変な感じで」

自分にとっての双子の弟と同じだ。そう思うと、この相手でいいかどうかという問題じゃないことがよくわかる。一緒にいたからどうだというのではなくて、いないというのがつらい。ただそこにいないだけで、体調まで崩れる。

「じゃあ、その内ご結婚されるんですか」
「うん、たぶんが卒業したら」

年齢的に早いと思うかもしれないが、交際期間22年以上ということか。

「あの、バカにしてるわけじゃないんですけど、もったいないような気がしますね」
「本当にね。それはもうずーっと誰にでも言われてるんだけど、本人が譲らないから」
さんらしいけど……

木暮は本当に困ってますという顔をしたが、が木暮の嫁になって家庭に入るのだと譲らない様は容易に想像がついた。川瀬が嫉妬心を起こすその「お嫁さん」という選択肢に似つかわしくない能力を持っているのもまた、にとっては不運なことなのかもしれない。

「たぶん……そういうところも含めて、オレはさんに憧れたんだろうと思います。川瀬もオレも、ずっと頭のどこかにさんのことがあって、何をしてもさんには適わないんじゃないかって、そんな気ばかりして」

だけどもう、少なくとも西村にという足枷はない。木暮も素敵な人だった。

「今となっては、そういう高みの存在がいてくれてよかったと思ってます」

木暮はまた優しく微笑んで頷く。西村はこの時のことを一生忘れないと思った。