ゆきのよる

花形編 1

「何も考えずに申し込んじゃったけど、なんで3年生も参加できるの?」

早朝に神奈川を出発したバスの中で、は隣でそっぽを向いている花形に声をかけた。花形の方は狭いバスのシートで足を組み、片手にスマホのから逃げるように窓にへばりついている。そして返事はしない。

「去年参加しなかったから3年生もOKなんて知らなかった」

その3年生であるはちらりと後方を振り返ると声を潜めた。このバスは「2年生の春スキー行事」のために北上しており、後輩たちは早くもはしゃいで大騒ぎしている。は思わず声を潜めたけれど、普通に喋っていても聞こえそうにない。しかもと花形の後ろのシートは空いている。

……オレみたいなのが引率してるから、手が足りないんだろ」
「そういう理由!? えっじゃあ何、私って先生たちのお手伝いなの?」
「先輩なんだから、そのくらいいいじゃないか」

そっぽを向いたまま、組んだ足に肘を付いて口元を手のひらで隠している花形は一応先生だ。2年前からこの翔陽高校で理系の授業を受け持っている常勤講師。本年度はほぼ数学担当だったが、やろうと思えば地理歴史も出来ないことはない。

事前の説明では泊りがけの行事の引率はやらない、という話だった。だが、花形先生はそもそもこの翔陽高校の卒業生であり、名門と謳われたバスケットボール部の出身であり、在学中は主席経験もあり、なおかつ卒業してから10年も経っていないせいで1年次と3年次の担任がまだ在籍していて、突然「今年はスキー教室頼むね」と言われてしまった。聞いてない。

しかも現在受験シーズン、教諭の先生方は3年生の受験にかかりきり、1年生は翔陽高校自体の受験のお手伝いをする習慣になっているので、いつも3学期の半ばから後半は2年生が暇。なのでいつの頃からか2年生を雪山に連れ出す行事が行われるようになった。

というわけで暇な2年生が2年目の講師に引率されてバス移動中、である。

いや、もちろん2年生の担当教師は全員いるが、花形が言うように暇な2年生は泊りがけで遊びに来ているだけなのでテンション高め、それをまとめる手はいくらあっても足りない。

なので既に進路が決定していて自由登校中の3年生も参加してよいことになっている。それが引率の先生たちのアシスタントだということを知るのは通常、現地に到着してからである。参加費を払って先生のお手伝いなので、毎年3年生は雪山で「騙された!」と喚く羽目になる。

だが、このの場合は騙されても問題ないので、花形は早々に種明かしをしてしまった。というかの場合は種明かしをしておかないと逆に面倒になりそうだ。

去年、2年生の時にスキー教室に参加しなかったは、その間登校して自習を選んだ。居残り希望者の自習担当が花形だったからだ。1限から6限まで全時間花形先生監視の中でお勉強。

「ねえ先生、イヤホン半分ずつにして音楽聞かない? カップルみたいでよくない?」

そう、は花形が講師として翔陽にやってきて以来、先生に片思いまっしぐらなのである。

なのでむしろ先生のアシスタントと聞いて気分は上向き、後ろで騒ぐ2年生と同じくらいはしゃいでイヤホンを差し出してきた。が参加してくることまでは予想済みだった花形だったが、まさか自分が担当のクラスに振り分けられてくるとは。イヤホンのコードは短い。耳に入れたら頭を寄せなくてはならない。却下。

「でも3年生、私を入れて10人もいなかったよね?」
「毎年そんなもんだよ」
「先生は3年の時参加したの?」
「いや、忙しかったから。2年の時も参加してない」
「えっ、なんで?」
「練習」
「じゃあバスケ部は全員残留?」
「そう」
「バスケ部、友達いなかったんじゃないの……?」

余計なお世話だ。花形は返事をせずにため息で済ませた。翔陽で過ごした3年間のほぼ全てが部活のための日々だった。目指すものは次の勝利だけ、そのためなら何でもやった。こんな乱痴気騒ぎのスキー教室なんかどうでもよかった。仲間たちと練習している方がよほど充足感を得られた。

それがまさか20代後半になって引率で参加する羽目になるとは。

しかも、学校を出てから到着までの3時間超を自分に恋をしているらしい生徒と隣の席。気が重い。その上肩のあたりでプラプラしているイヤホンの片方からはなんとなくスマッシュ・イントゥ・ピーシズが聞こえてきている。ちくしょう、スマッシュ・イントゥ・ピーシズは結構好きなのに。

いや、がどこかで聞きつけたのかもしれないと考えて花形は気持ちを宥める。スマッシュ・イントゥ・ピーシズが好きだなんて生徒に言った覚えはないが、忘れているだけでポロッとこぼしたのかもしれない。別にと音楽の好みが近いわけじゃない。そうに決まってる。

花形が講師として翔陽に戻ってきたのは2年前、が2年生のときだ。そのまま花形は2年生の、というかのクラスの数学を受け持った。花形は身長が197センチもあるし、にこにこと愛想がいいわけでもないので、本人としては理系が苦手な文系クラスの生徒が少しでも楽に数学と向き合えるように授業を進めていかれれば……と考えていた。

しかしそのクラスのど真ん中で女子生徒が目を輝かせていることに気付いたのは初夏のことだった。

あ、まずい。そう思ったときにはもう手遅れ、今年の数学の先生は「講師」で、新任の先生レベルで若いと知る生徒たちは最初から馴れ馴れしく、花形もそれを叱りつけたいとは思わなかったので、もしばらくすると敬語も使わずに纏わりついてくるようになった。

中学から大学までをそこそこ「規格外」で過ごしてきた花形から見ると、平均的な女子に見えた。目立ちすぎず、地味すぎず、勉強の方の意欲もクラスで言えば真ん中くらい――に見えた。

なので、思春期の少女にありがちな大人の男に対する憧れが恋に変わってしまって、またそれが若い先生という特殊な状況に加速して陶酔しているんだろうから、ほっとけばいい。そう思っていた。自分は彼女の想いに応えることはないし、たまたま教科担当になっただけだし、関係発展の可能性はゼロ。

だが、花形の浅はかな読みは完全に外れ。は何もかも平均的な顔をして、恋をした先生への攻撃だけは執拗で諦めることを知らず、また苛烈でもあった。とにかくしつこい。

花形は本年度もまた2年生に数学を教えているのだが、はしれっとした顔で「先生、わからないところがあるんですけど」とやってくる。花形は毎回担当の先生のところへ行けと返していた。しかしは毎回花形のところにやってくる。しまいには別の先生にどうして花形のところに聞きに来るのかと問われて「花形先生の説明が1番頭に入りやすいんです。私文系だから理系の先生の説明は追いつけないことが多くて」と真顔で答えた。他の先生方は「そうだよなあ、花形先生はどっちもいけるからねえ」と大いに納得。

以来、勉強熱心なさんは堂々と花形先生に数学を教わりに来る。

だが、花形の見る限りでは、の数学はやはり「平均的」。週に何回も先生に教えて下さいとやってくるほど苦手な様子ではなかった。しかも受験に備えていますという顔をしていたは縁故のある大学へ推薦入学を決め、早々に自由の身。なのに花形への攻撃の手は緩めることがなかった。

それでもは既に3年生、どれだけ攻撃をされてもかわし続けていれば必ず卒業していく。それを待てばいい。高校教師と女子高生なんて、古いドラマじゃあるまいし。

花形はそう繰り返し自分に言い聞かせるのだが、何しろ今日は朝からずっと隣に、現地に到着しても宿に入っても、ずっと隣にである。2泊3日のスキー教室全てとセット。

ホテルの部屋はもちろん別だが、残念なことに隣。というかどうしてもが嫌ならアシスタントなしである。実際にスキー教室に参加したことがない花形だったけれど、バス後方の2年生の騒ぎ声を聞いていると、2泊3日くらい我慢する方がいいという気にはなっていた。

気を緩めず何とかうまくスルーして乗り切れば、はすぐに卒業していく。3月が終わり4月になれば、5月になれば、はきっと面白いくらい簡単に自分のことを忘れるはずだ。身近な同世代の友達同士の方が楽しいと気付くはずだ。

だからまともに相手をしてはいけない。うまく使わねば。

「ていうか先生てスキー出来るの? ここだけの話、私1回もやったことないんだよね」

上等だ。オレもスキーやったことない。遊びに来たんじゃない、仕事しに来たんだ。覚悟しろ。

花形は返事もせず、の手にぶら下がったままのイヤホンを取り上げると、両耳にねじ込んだ。

ああクソ、「boulevard of broken dreams」とか名曲じゃないか。子供のくせに。

スキー教室は2泊3日、初日と翌日滑り放題で、初心者にはきちんとレッスンコースもあり、宿はゲレンデ徒歩圏内の天然温泉のあるホテル、ディナーはビュッフェスタイルで食べ放題というなかなかの内容であった。なので、花形のようなケースを除くと参加率は高い。

長時間のバス移動もなんのその、2年生はゲレンデに飛び散り、引率の先生と一緒に残った3年生が「騙された!」と呻いている傍らでは口元を抑えてニヤニヤしていた。先生とバディとか、改めてご褒美ですよねえ。

「でも先生、みんな滑りに行っちゃってるし、何かやることあるの?」
「先生はスノーモービルのレッスン行ってくる」
「私は?」
「今のところ仕事なし。滑ってくれば?」

今度は花形がニヤニヤと口元を歪めた。は花形の腕をボフッと叩いてそっぽを向く。初心者教室は2年生だけだし、そもそも3年生参加者はを除いて全員滑る目的で参加してるので、は花形に放り出されるとやることがない。

というかその3年生のアシスタントが必要になってくるのはホテルへの移動時だったり、ホテル内での2年生たちの管理であったりが中心で、一応日中は好きに滑っていい。

開き直ったのか、はスノーモービル講習に向かう花形のあとを付いてくる。

「スノーモービルって何か免許とかいるの?」
「私有地の中なら免許はなくても大丈夫」
「私でも?」
「まあ、理屈としては。私有地の中なら無免許で車乗っても大丈夫だぞ」
「そうなの!?」

私有地と公道の境が曖昧な場所では違反となるケースもあるが、まあ一応そういうことになっている。それを聞くやは花形を追い越してスノーモービル講習担当と思しきスタッフに突撃、未成年の場合は保護者の同意があれば参加が可能ということなので、早速神奈川の親にビデオ通話に出てもらって許可を取り付けた。なおかつ引率の先生が一緒ということで、はスノーモービル講習への参加が認められた。

「私自転車しか乗らないんだけどね……
「免許取らなかったのか」
「取ったけど、取っただけ。そもそも親も車乗らないし」
「別に無理に参加することないぞ。滑ってくればいいのに」
「先生が事故ったら私が助けに行かなきゃならないんだから、いいの」

は支給されたヘルメットを被るとふんと鼻を鳴らした。見れば彼女の鼻の頭と頬は赤く染まっていて、ちょっとかわいい。花形は鼻で笑うと、のヘルメットをポンポンと叩く。まったく、これでオレに片思いなんかしてなければ、もっと楽しめたかもしれないのにな。

スノーモービル講習は最初こそおっかなびっくりだった花形とだったが、慣れてくると楽しくなってきた。寒いけれど白銀の世界を駆け抜けるのは爽快だ。

車体が大きいので戸惑っていただったけれど、よほどスピードを出さなければコントロールに力が必要なわけでもないし、スキーは出来なくても雪山が楽しくなってきた。インストラクターの指示にはきちんと従い慎重に練習するので、最後に練習コースを一周したときにはかなり上達していた。

「先生よりさんの方が見込みありますねえ。スノーモービルは競技もあるんですよ」
「えっ、ほんとですか!?」
「見込みないんすか……

はインストラクターに褒められてぴょんぴょん飛び跳ねている。そして肩を落とす花形は苦笑いのインストラクターから「先生は手足が長すぎるので操作しづらいんじゃないかと……」と返されて余計にガッカリしていた。バスケットでは有利でも、日常の中で197センチは不便なことの方が多い。

「まあまあ、先生はバスケ上手かったんだからいいじゃん」
「今はしがない講師でしかないからな……
「だからバスケ部の顧問とかやればって前から言われてるのに」
「そんな簡単な話じゃないっつってんだろ」

2時間ほどのスノーモービル講習を終えたふたりはのんびり歩いてレストハウスへ向かっていた。もうとっくに昼を過ぎているし、スノーモービルに乗ってただけなのに結構消耗してしまった。

ホテルでの朝食と夕食はビュッフェだが、昼は指定のレストハウスの食事券が配布されているので、基本的にはそれで済ますルールだ。どうしても足りないようなら自腹で飲み食いしても構わないけれど、指定のレストハウス以外の利用は禁止。

腹が減って喉も乾いていたので、花形はを遠ざける気力もなく、並んで席についた。

「なんでスノーモービルの講習だったの?」
「万が一の救助用」
「そういうのってゲレンデのスタッフがやってくれるんじゃないの?」
「そこまでじゃない程度の時のためだよ。オレはスキーやったことないし、スノーモービルの方が早い」

と花形のふたりもそうだが、翔陽の生徒は雪山より海の方が近い生まれ育ち、ウィンタースポーツよりマリンスポーツの方が身近なので未経験者も多い。それがゆえに深刻な怪我やトラブルでなくとも先生が出動しなければならないケースがないとも限らない。

しかも今年は引率の先生はそのほとんどが40~50代で、なおかつ体育科の先生がひとりしかおらず、まだ20代な上に体の大きな花形は「そういう時はよろしく!」と肩を叩かれていた。

「そこまでじゃない時って、どういう……
「例えば他の利用客とトラブったとか、女子がナンパされたとか」
「あー、そっか。なるほどね」
「怪我はしてないけど転んで泣き出す子がいたりとか、あるらしいし」

花形と一緒にカレーを突っついていたは手を止めてスプーンを咥えた。なんだ、滑れなくても滑りに行って転んで救援を求めれば花形が颯爽と駆けつけてくれたかもしれないのか。そしたら花形に抱き上げてもらってスノーモービルの上で抱きついたりとか出来たのか。

――が妄想で眉間にシワを寄せているのが分かるので、花形は鼻でため息を付きながらペットボトルの水を流し込む。バスケットをやっていた頃の習慣で、水分補給にならないお茶やコーヒーはたまにしか飲まない。そして冬こそ水分補給である。

――、それ紅茶か?」
「えっ、うんそう。レモンティー」
「あとでちゃんと水飲んどけよ。スノーモービル意外と汗かいただろ」
「紅茶じゃダメなの?」
「ダメ」

運動部歴10年以上の花形からすると常識なのだが、は知らなかったようでちょっと目を丸くしつつ、レモンティーを片手ににやーっと目を細めた。花形はしまった、と思ったが後の祭りだ。

「えへへ、先生、私のこと心配してるんだ~」
「先生が生徒のこと心配しなくなったらマズいだろうが」
「正直に私が心配だって言えばいいのに」
「アシスタントが倒れるとオレが疲れるしな」

花形がなんと返そうとはニヤニヤ顔をしたまま、またカレーをぱくつき始めた。水分補給は大事な自己管理と思うあまり余計なことを口走った花形もカレーを口に運ぶ。今更だがふたり並んで同じものを食べていることが気恥ずかしくなってきた。

今日のゲレンデは翔陽の生徒以外にもたくさんのスキー客が来ている。きっとそういう人の目にはカップルとしか映らないに違いない。しつこい片思い女子から逃げ回っている高校講師だなんて、誰も思ってくれないだろう。

男の方が26歳で、女の方が18歳だなんて、誰が見て取るだろう。

ふたりの間に「大人と子供」という高い壁があることなど、誰も。