続・七姫物語 三井編

01

まだ日が昇りきらないうちから起きだした寿は、のろのろと身支度をして部屋を出る。暗い廊下を進み、ささくれだった木のドアを押し開けると、明け方の冷たい空気がすうっと入り込んでくる。静かにドアを閉め、大あくびをしながら木戸を出ると、石畳の道をゆく。

ほんの数分も歩くと町の広場に出る。真ん中にこじんまりとした噴水があって、小鳥が水を突っついている。寿はその広場を左に曲がり、薄っすらと明かりの灯る1件の店に向かう。

「おはようございます」
「おお、親方んとこの、今日も早いね。はいよ、毎日ご苦労さん」
「どもっす」

寿は店主らしき男からきつく巻いた紙を受け取ると元来た道を戻る。今の店は新聞の取次店である。新聞と言っても紙一枚をくるくると巻いただけの代物で、細かい文字がびっしり書き込まれている。寿はほぼ毎朝こうして新聞を受け取りに来る。そして、次にいい匂いを撒き散らしているパン屋へと向かう。

「あらおはよう。いつものでいいかい」
「はい、それとチャミが柔らかいのがいいって言うんで、そっちを追加してください」
「あの子はまたそんなわがまま言ってるのかい。自分で買いに来ればいいだろうに」
「ははは、新聞もありますから」

パン屋の女将さんはちょっと面白くなさそうな顔をしながらも、「いつもの」である固くて大きなパンと手のひらサイズで柔らかいパンを両方包んでくれた。その上おまけだよと言って一口サイズのクルミ入りのパンを寿の口に押し込んだ。寝起きでモタつく口の中に乾いたパンが張り付くが、寿は礼を言って店を出る。

元来た道を歩きながら、寿はきつく巻いてある新聞を剣のように振り回す。横に払い、下からすくい上げ、上から振り下ろす。それをひょいひょいと繰り返しつつ、さきほど出てきた家に入る。木戸を閉じると煙突から薄っすらと煙が出ているのが見える。

ささくれだった木のドアではなく、赤茶色に塗ってあるガラスの嵌ったドアの方を押し開けると、そこはぼんやりと明るい居間になっている。暖炉に火が入り、台所のコンロではお湯が沸いている。

「おはようございます」
「おう、おはよう。お湯は沸いてるから後は頼む」
「はい」

寿は暖炉の前に立っていた縦にも横にも巨大な禿頭の男に新聞を手渡すと、台所に入る。禿頭の男は新聞を解いてソファにどっかりと腰を下ろし、大きな顔にちっちゃなメガネを乗せて読み始める。彼は毎朝こうして1番に新聞を全て読まねば1日が始まらないのである。

「あ、親方、すみませんミルクを切らしてました。買ってきます」
「ミルク1回くらい飲み損ねたって死にゃしねえよ。後でいいからさっさと支度してくれ」
「わかりました。コーヒーにします」
「おう、クリームなら少し残ってるはずだから、それ入れてくれ」

新聞から目を離さない「親方」は寿に指示をすると、また新聞を熟読し始める。寿は鍋を片付け、コーヒーの支度をする。こうして親方が新聞を読んでいる間に朝食の支度をするのも彼の毎日の役目だった。毎朝内容は同じ。パンとミルクと前日の残りのスープ、それからチーズを少しだけ。

それらを3セット用意してテーブルに並べる。今日はミルクの代わりにコーヒー。だが、温かい飲み物をテーブルに出すのは親方が新聞をひっくり返してからだ。表面を読み終わるまでには時間がかかるし、裏面を流し読みする間に淹れれば冷めすぎず熱すぎずのちょうどいいところになる。

いつものようにあとは飲み物を用意するだけになった寿は台所を片付けていた。親方は起きてまず暖炉に火を入れ、新聞を読み、朝食を済ませたらすぐに仕事の人なので時間がある間に何でも済ませておく方がいい。ところが、親方は珍しく表面を読み終わったところで新聞を畳み、すっくと立ち上がって寿に歩み寄った。

「親方?」
「とうとう終わるぞ」
「終わ……本当ですか」
「いやはや、大したもんじゃないか、お前の『殿下』は」

親方はふたつに畳んだ新聞をバサッと寿の胸に押し付けると、感慨深そうにため息を付いた。

「本当にこのくだらねえ諍いが終われば、オレも故郷ってやつに帰れるかもしんねえなあ」

寿は新聞を開いて表面に目を落とす。荒い印刷の新聞だが、確かにそこには「殿下」がいた。今は殿下ではなく陛下なのだが、少し前まで殿下だったので、親方の意識化ではまだ切り替わってないらしい。甲国の国王である。乙国の国王と握手を交わしていて、見出しには紛争決着の文字が踊る。

「これでお前もお役御免か?」
……そうかもしれません」
「しかし、諍いが片付くとそれはそれで食いっぱぐれるやつが増えそうだなあ」

寿の耳には親方の言葉が入ってこなかった。荒くてところどころ虫食いがある印刷でも間違いない、甲国の国王の後ろに彼の娘である王女が小さく写り込んでいるのが見えたからだ。飾り気のないドレスに身を包み、きっちりと髪を結い上げた王女は手に分厚い資料を持ち、厳しい目をしている。

つい唇が緩みそうになった寿は慌てて拳を添えて咳払いをする。親方が目の前にいるというのに、王女の名を呼びそうになってしまったからだ。王女の名は、今となっては甲国唯一の王女で、現在は父親である国王の補佐を務めている。お城育ちの王女にしてはなかなか優秀と評判だそうだ。

姫、彼女は寿がこの世で一番大切に思っている女性である。

「さてさて、この国の女将軍さんはどうするんだろうな。とんだ負け戦だ」

親方は楽しそうに声を弾ませると、余程気分がいいのか自分でコーヒーを淹れ、クリームを垂らしてテーブルに付いた。寿はそれすら意識に入らないほど写真を凝視していた。

と離れて2年、彼女のことを思い出さない日はなかった。この2年間はのために働いてきた。彼女とまた手を取り合えることだけを願い、そのために自分ができることならなんでもした。自身の過去に全て決着をつけた今、寿の生きる目的はしかなかったから。

「おい、それは後で読め。さっさと済ませて仕事にかかるぞ」
「えっ、あ、はい、すみません」
「てかチャミはまだ起きて来ねえのか。今日は忙しいっていうのに」
「オレ、起こしてきます」
「おう、頼むわ。女将軍さんのとこに行かにゃならん、まったく嫌な仕事だがな」

寿は新聞を丁寧に畳んでポケットに差し込み、のことを頭から締め出した。紛争は終わるかもしれないが、寿の仕事はまだまだ終わらない。のため、陛下のためを思えば、今この親方のもとでの仕事をしっかりこなすことが肝要である。寿はキッチンを出て細い廊下へ入っていった。

それが親方の養女である娘を起こしに行くことでも、それがとの未来に繋がるのなら。

「チャミ、まだ寝てんのか。時間なくなるぞ」
「う~まだ眠い~」
「朝飯できてるから、早く起きないと親方の雷が落ちるぞ」
「起きられないよ~抱っこして~」
「パパにしてもらえ」

ベッドでもぞもぞしている親方の娘、チャミは唸り声を上げている。寿はドアを閉め、ポケットに手を添えた。

、本当に終わるのか? 終わったら会えるのか?

胸がざわめく。いつも心にあったとはいえ、そればかりに囚われていては仕事もままならない。自分の中にいるを遠ざけたこともあった。今もそうだ。大事な仕事の前だというのに、締め出したはずのが脳裏に蘇って愛しさが募る。ああダメだ、こんなことじゃ仕事をしくじってしまう――

寿は深呼吸をしてからリビングに戻る。彼は、甲国のスパイである。

自分の家族が受けた事実無根の疑いが晴れ、何もかもが丸く収まった、ほんの数日間はそう思っていた。短い間に心を通わせるようになった王女はすぐそばにいるし、当時第一王子だったの父親は寿が望むなら部下として召し抱えてもいいとまで言ってくれた。

だが、の部屋に寝起きし、ふたりきりになると彼女にべったりとくっついて幸せを享受していた寿は、やがてその幸せに疑問を感じるようになった。甲国に捕虜として戻ってきた時は傭兵であり、13歳から戦場で戦うことを生業としてきた寿は当然他人の命を奪うことに関わってきた。その記憶が重くのしかかってきた。

幸いにもまだ年齢が若かったので、直接人を殺めたわけではない。そういう仕事を任されるまでには至らなかった。けれど、仮にも傭兵集団の一員として働いてきたのだから、関わってきたことにはなる。そういうことをしてきた自分がこうして王女の腕の中で安寧としていていいのだろうか、と不安になってきた。

家族3人で突然甲国を追放され、あてもなく旅をする中で両親は息絶えた。父親は元々甲国では死の象徴的存在である「北の塔」に収監されられていたせいで衰弱しており、甲国から丙国に入ってひと月もしない間にろうそくの炎が消えていくようにして亡くなった。母親はその翌年、さらに離れた国で病没した。

父親は丙国の東にある工業都市に近い森の中にひとりで眠っている。母親は遠く離れた国の教会の敷地の片隅に眠っている。それを思うと、ひとりだけ王子に召し抱えられて王女と恋仲なんかになっていいのだろうか、とどんどん気持ちが下向きになってしまった。

そんな中、寿の父親に罪を着せた犯人が第二王子であったことに激怒した国王が少々常軌を逸した状態に陥り、まともに政が執り行えなくなってしまった。だが、まだその頃は甲国と乙国は境界線で紛争真っ最中、王子が反体制派で国王がちょっとオカシイなんてことは絶対に漏らせない。というわけで、第一王子は遷都を強行。

自分の行いを悔い改め、両親に疑いが晴れたことを報告するのは今しかないと寿は決意した。

当然一緒に来てくれるものと思っていた姫に別れを告げ、寿がひとり乙国に戻ったのは2年と数ヶ月前だ。乙国と契約していた傭兵集団のひとりだったが単独行動中に捕虜になり、しかし傭兵ゆえ乙国軍とは無関係、何も不利益なことを漏らさずに釈放までこぎつけたことは殿下からの書状ですぐに確認された。

そのため寿は少しばかりの金を握らされてその場で「契約解除」となった。事情はわかったので入国は認められるが、元傭兵に対して軍が何かしてくれるわけじゃない。だがそれでいい。何も傭兵に戻りたくての元を去ったわけじゃない。傭兵時代の知人に遭遇しないように寿はさっさと国境沿いの詰め所を後にした。

そのための猶予は予めもらってきたので、寿はまずはその足で丙国に入る方法を探しだした。かなり遠回りをすることになったが、丙国にも入国できて、父親が眠る場所もちゃんと見つかったし、形ばかりの墓石はちゃんと残っていて、幼い自分が刻みつけた墓碑銘を指でなぞってきた。

父さんは本当に無罪だった。ただ真面目だったというだけで濡れ衣を着せられて、北の塔にも入れられて、弱って絶望してそのまま擦り切れるようにして死んじゃったけど、無実は証明されたよ。第二王子とその愛人が仕組んだことだった。だけど、第二王子は近く処刑される。愛人の方はオレが破滅に追い込んでやる。

そういう決意を新たにして次に母親の眠る遠い某国にも向かった寿は、協会の片隅にある小さな墓の前で、今度はのことを報告した。信じられるか? 本物のお姫様なんだ。元々資産なんか平民と変わらないような地方貴族だっていうのに、オレの恋人はお姫様なんだ。彼女がオレたちを助けてくれたんだ。

母さん、彼女、って言うんだ――

3つある目的のうち、両親への報告が済んだことで、ふたつは達せられた。残るはひとつ。ワルキューレを追い詰めることである。乙国に戻る時は「本当は収容所が満員だったので解放された」と付け加えておいた寿だったが、遷都先では国王代理という名の国王になるの父親に諜報活動を約束してきた。

当時の「殿下」の目的は、紛争を終わらせること。そしてたくさんの無関係な人を苦しめてきた「ワルキューレ」こと乙国の女将軍を送還させること。ワルキューレは第二王子と事実上の夫婦であり、杜撰な法により結婚できなくなったことを逆恨みして紛争を招いた、甲国においては重罪人の頂点にいる女だ。自国で裁きたい。

そのために出来ることを探して、寿はさらに数ヶ月間乙国を放浪し続けた。軍からの手切れ金と陛下からの援助があったとはいえ、ひもじい旅だった。それでもともう一度一緒にいられるようになりたい、それだけを拠り所に手がかりを探していた。そんなわけで、親方の出した求人広告を目にした寿はすぐに押しかけ、どうしても雇って欲しいと頭を下げた。親方の生業は物流業、特にこの頃は軍の作戦本部への物資の取次をしていた。

ところが、話はここで妙な方向に曲がる。親方が甲国出身だというのだ。寿は甲国で言うところの「山の方」出身、親方は「森の方」出身。寿は慎重に身の上話をしていたのだが、親方はそれをほとんど聞いておらず、自身の過去を話しだした。いわく、彼もこの紛争で帰れなくなり、やむなく乙国で商売をしているのだという。

元々は甲国乙国だけでなく諸国を渡り歩く行商人だった親方は、12年ほど前に養女のチャミを拾ったことでしばらく乙国で商売をしようと考えた。だが、それから2年後に紛争が勃発してしまい、以来乙国から動けなくなってしまった。生来ひとところにいるのが苦痛なたちだったから行商人になったのに、と親方は憤慨していた。

正直、勝算のない賭けではあったのだが、寿はこの親方に「甲国の第一王子から密命を受けて乙国に来ている、目的は紛争を終わらせること」とかなり端折った事情を打ち明けた。そのためにしばし放浪していたが、食うに困っていたので職を求めているのだと言ってみた。

親方はしばらく黙っていたが、やがてバチンと力強く膝を打ち、握手を求めてきた。商売の邪魔になる紛争はさっさと終わって欲しいと常々思っていたし、乙国を倒すことが目的ではないようだし、それなら協力しようと言ってくれた。寿はこの時の親方の分厚い手のひらの感触を生涯忘れないのではと思った。

そんなわけで寿は無事に職にありつき、泊まりこみでいいというので寝食の心配もなく、おまけに軍に出入りできる立場をも手に入れた。親方はぶっきらぼうだが熱い男で、厳しい言葉も多かったが、寿を可愛がってくれたし、彼が「殿下」のために働くことについては何も口出ししなかった。

おかげで寿は乙国の、主にワルキューレに関する情報を得ては殿下から指示された方法でそれを甲国に報せ、微力ながらも諜報活動を頑張ってきた。その甲斐あってか、10年に及んだ甲国と乙国の紛争は決着を見ようとしている。寿の見る限りでは、争いを扇動したワルキューレの預かり知らぬところで話がついたようだ。

寿は直接ワルキューレと会話をしたことはないけれど、親方にくっついて様々な物資を軍の作戦本部に搬入している間に何度か遭遇したことがある。現在「女将軍」とあだ名されるワルキューレは美しいけれど恐ろしい顔をしていて、いつでも硬い踵の靴をカンカン鳴らして歩いていた。

親方が嫌うように、ワルキューレは激しやすく、気に入らないことがあるとその足で蹴り飛ばしたりと暴力的で、しかし使えると思ったものは瞬時に見抜いて利用する狡猾さを持っていた。甲国においても反体制派を率いていただけのことはある。が、彼女は私怨のために何万という人民を犠牲にした罪人である。

寿の両親もそうして非業の死を遂げたことになるので、慣れるまでは彼もつい湧き上がってくる激しい怒りの衝動を堪えなければならなかった。乙国で諜報活動をする対価として殿下から贈られた一振りの剣は小ぶりなもので、いつも腰に差し渡していた。それを抜いて斬りかかってしまいたかった。

だが、その度に殿下の言葉を思い出した。

――それでお前の復讐が成って心が晴れるなら斬れ。だけど迷うならやめておけ、断罪はする

旅立つ前にも殿下は、目的はあくまでもワルキューレを甲国に戻して処刑することだと念を押していた。貧しくなるばかりで争いはもうたくさん、しかしその原因たるワルキューレには当然の報いを受けさせねばならない。それを行使するのは我々の仕事だ、お前ではない。いずれの元に帰るのだということを忘れるな。

ワルキューレの靴の音が響く度にそれを思って耐えた。オレは自分の仕事をするだけ、彼女に酷い目にあわされたのは自分だけじゃない、彼女を裁くのはオレじゃない。いくらでも偉そうに威張り散らせばいい、どうせお前の行き先は北の塔だ。きっと殿下が裁いてくださる。

目的はあくまでも全てを精算しての元に戻ることだ。しかし、その過程にあっては「殿下のために働く」のであり、そのためには「親方のもとでしっかり働く」ことが肝要で、きっと亡くなった父親もそれを喜んでくれるはずだと思っていた。いわば3人の父親、そのために粉骨砕身働かなければ――